2026年5月30日土曜日

【第130話】つぶやき(その6):世界感覚の重要性その続き(2026.5.30)

【第124話】つぶやき(その5)で記した、パスカルの、1654年11月23日のメモについての以下のコメント。

同感。
世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。
私も肌身離さず持とう。
それを思い知る。

その後、この世界感覚について、その重要性に対する認識は変わらないものの、
問題はこの感覚を「どう持つのか」「どう維持するのか」、
その中身を「神」という言葉だけでは足りない気がしてきた。
そこで、気づいたのは、世界には事実と理念という次元の異なる2つの世界が存在し、世界感覚はこの2つの世界が交わる境界線上を見つめ続けることであると。
つまり、事実にだけしがみつき、事実の中に埋没することは盲目であると同時に、
事実から遊離して理念にだけしがみつき、理念の中に埋没することもまた空虚である。
私の法律家としての最後の仕事もまた、この事実と理念(規範)の境界線上で何が出来るのかを問うことにあると合点した(この点を法律家として最初の仕事として成し遂げたのが我妻栄の「私法の方法論に関する一考察」。その最後のところで、カントの「純粋理性批判」の有名な一節をもじって、法律学に応用してみせた。尤も、カントの「純粋理性批判」は事実の認識のレベルで、直感(事実)と概念(思考)の関係について語ったのに対し、我妻はこれを拡張し、事実と理念(規範)の関係つまり認識と価値判断(道徳)の関係について、盲目と空虚を論じた)。

その結果、そこからまた新たに、では「境界線上をどのように見つけ続けるのか」という次の課題が現れる。
それはまた、次の課題として受け止めることにして、
今はまず、この認識の重要性をしかと胸に刻むのだ。



【第96話-2】昨秋から関西での3度目の311チェルノブイリ法日本版の学習会「父よ母よ」で一歩前に出れた気がした(25.3.15)

動画その1

 講師柳原敏夫の話

 

動画その2
 ・日本版の会の協同代表岡田俊子のお話。
 ・講師柳原敏夫のその1の続き。
 ・会場の参加者とのQ&A


この動画を観た或る人がこう言ったーー「深遠ですね」。
それは大塚久雄とヴェーバーの「神義論」のことを指しているらしい。
しかし、別に彼らの「神義論」が深遠なのではなくて、福島原発事故が深遠なのだ、あの事故発生当時、自分がこのあとたとえ数百年、千年生き永らえたとしても経験できないような出来事を体験したのだと言わしめるほどの事故だったのだ。その深遠さが大塚久雄らの「神義論」を私に呼び覚まさせた。
大塚久雄もヴェーバーもまた、第一次世界大戦と第二次世界大戦の危機の中で、「神義論」に呼び覚まされた。それと同様に、私も福島原発事故の危機の中で、「神義論」に呼び覚まされた。

2026年5月26日火曜日

【第129話】報告:終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」に代わる「脳化社会の塀の外に出た法律」への挑戦の2回目(26.5.26)

本日、終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」に代わる「脳化社会の塀の外に出た法律」への2回目の挑戦となる書面を書き上げた(私の担当部分>PDF)。
2年前の正月、58年間を振り返り、法律家として完全失格だったことを理解した(>雑文)。これは、それ以来2通目となる書面。

1、これまでの経緯
 2年前の2024年12月16日、《まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある》という表題で、次のようにつぶやいた。

    **************

とうとう見つかった。

何がさ? 

法律の終焉が。

海に沈む太陽のように。


そして、また見つかった。

何がさ? 

生成法の準備が。

大地から昇る太陽のように。

(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」のヴァリエーション)

2、その半年前、それまでボロ負けし続けてきた避難者追出し裁判の上告審で、最高裁に「脳化社会の塀の外に出た法律」を適用して正しい裁きをして欲しいと、それまで書いたことがなかった、この裁判のこの数年間の総決算の書面(上告〔受理申立〕の理由書)を作成し提出した(2024年4月17日の報告)。その直後に次のようにつぶやいた。

    **************
今回の書面の根底にある考えを一言で言うと‥‥
物理学者のアーネスト・スターングラスは
放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です
と言った。これは事実についてだった。だが、法についても同様のことがあるのではないかと気がついた。
放射能に関する法律もまた見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です」と。

そのことに気がつくのに311から随分時間がかかった。
それはひとつには次のような紆余曲折を経たためである。

高校時代、文学にかぶれた私は、文学を司法試験の答案にそのまま持ち込み、合格者から「これは司法試験の答案ではない。合格は永遠にあり得ない」と酷評された。
そこで合格後、文学臭を消すことが私の課題となった。
ようやく、それが実行できたと思えた最近に至り、今度はそれだけでは足りないのだということに再び気がつかされた。そのことを最も意識したのが今回の書面。どう意識したのか。

「未知の普遍的なものを見る」見者にならなければと考えた(ー>ランボーの手紙)18歳のランボーが書いた詩「地獄の季節」の一節。

見つかった。何が? 
永遠が。海と溶け合う太陽が。


私も知らないうちに「未知の普遍的なものを見」つけなければと考え、これと同様のことを試みていた。それが今回の上告理由書。(以下はのちに補足したもの)
ただし、それは事実の次元ではなく、あくまでも理念の次元でのこと。価値の相対性を信ずる者にとって、これは躓きの石、成功の見込みのない無茶無謀の企て。私も長い間、そう思ってきた。だが、価値相対性にもある種の価値優劣性、価値の構造があるのではないか、価値優劣性、価値の構造を見出すこともまた立派な「未知の普遍的なものを見つける」仕事のひとつなのではないか、否、私に残された殆ど唯一の仕事なのではないかと思えるようになった。

見つかった。何が? 
法の欠缺が。放射能と溶け合う法の欠缺が。


賢者ではなく、まず見者になる必要があった。ランボーの見者になる必要があった。
再び、文学のエッセンスを取り出し、それを法律の中で再構成する必要があった。
それを今までで最も意識的に追及したのが今回の上告理由書。 

3、つまり、これが「脳化社会の塀の外に出た法律」への初挑戦だった。すると、それから約1年9ヶ月後、裁判所から応答があった。それが避難者追出し裁判の上告審で、三浦守裁判官の私らからのこの呼びかけに100%応答する意見だった(その報告>こちら)。

そしたら、避難者追出し裁判の続編とも言うべき、東京地裁に避難者が提訴した住まいの権利裁判の一審の最終準備書面が、上と同じ挑戦の2回目だということに、書き上げてみて分かった。なぜなら、この書面は私らの「脳化社会の塀の外に出た法律」への初挑戦に100%応答した三浦意見の可能性を120%満載した書面、つまり「脳化社会の塀の外に出た法律」の必要性、重要性を改めて強調した書面だったから。

それは、理屈っぽく言うと、次元が異なる2つの世界、事実と法律が交わる境界線で、「未知の普遍的な理念」を見つけ出すことだった、しかも、それを一般論だけではなく、事件に即して具体的に展開することだった。それは大地と空が交わる境界線で「未知の普遍的な光」を見つけるような作業だった。

「言うは易き」のこの仕事を、今回、次のフレーズを手がかりにして「未知の普遍的な理念」を見つけ出そうとした。

・いやしくも区域外避難者の原発事故からの回復(命、健康の回復、生活再建)に対する「十分な配慮」を具体化しようとするならば、「応急仮設住宅の供与の打切りという県知事決定が区域外避難者に及ぼす現実の影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即してこれを行なうほかなく、もし、このような「生きた現実」に即した検討をしない限り、内堀決定は法律的に「空虚」なものにならざるを得ない。
長期間にわたる低線量・内部被ばくの影響から人々の生命、健康、暮らしを守るという日本の法体系のもとにおいてこれに優越する価値を他に見い出すことができない最も重要な人権の保障が十分に守られることを念頭において注意深く行うこと。

果たして、「未知の普遍的な理念」を見つけ出そうとする、この2回目の挑戦がどこまで成功したか。それは読者である市民の人々、そして死者も未だ生まれざる者も含めた歴史の審判で決まる。今回、私は、かつて「国敗れて三部あり(>その後)」と言われ、四半世紀前に書かれた藤山雅行裁判長(※1)の林試の森事件一審判決(>全文PDF)や三浦意見(>全文PDF)から、本当に汲めど尽きない泉のごとき珠玉の宝を授けて貰った。この恩は一生忘れ得ないほどのものである。

私のこの挑戦はまだ始まったばかりで続く。

※1)彼はこういう発言をしていて、それを文字通り実行した、これまで類例を見ない、ダントツに優秀な法律家だった。
「法律家の仕事は同時代のみならず歴史的な評価にも耐えうるものでなければならない」(藤山雅行編「新・裁判実務大系 第25巻 行政争訟」の「はしがき」

    左は私を悪の世界(法曹界)に引きづり込んだ学生時代のチンピラ悪友

以下は「裁判官Who's Who 首都圏編」(池添徳明 編著。2004/12/17現代人文社)より

以下は、2014年、彼が名古屋家裁所長になった時のインタビュー記事(愛知弁護士会)の抜粋。一言一言が、彼らしい含蓄の深いコトバ。まともな法律家になろうと思ったら必見の記事。

2026年5月14日木曜日

【第128話】(お知らせ)「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」ーー311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するための7月12日(日)の報告&対話集会(26.5.15)

「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」ーー311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するための7月12日(日)の報告&対話集会のチラシが出来ました(>PDF版)。


今年7月12日(日)12時から16時半まで、二部入替え制(正午開始と14時半開始)で、中野区東中野のSpace&Cafeポレポレ座で、311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するため、チェルノブイリ法日本版の条例制定の必要性・可能性についての対話集会を開きます。

それは、311原発事故の唯一無二、痛切な体験をした私たちが、311後に見えないゴミ屋敷と化した、にもかかわらず何一つ解決しないままネグレクト(放置)されている日本社会をどう再建するのかについて、人権の観点からチェルノブイリ法日本版の条例制定による再建の必要性、その可能性について報告と対話をするものです。

前半の2人の報告者(小川晃弘・柳原敏夫)は、ともに2年前、「政治・政策からの人権へシフト」という観点からブックレット「わたしたちは見ている」を編集・出版した者です。
また、柳原にとって、当日の報告は、5月23日のチェルノブイリから40年目の講演とパネルディスカッション「チェルノブイリと福島 何が問われているのか」で行なった以下の報告の続編です。
動画

プレゼン資料 全文>PDF

配布資料 全文>PDF

後半の対話で報告者に加えて登壇されるお二人は、新宿区議のさわいめぐみ(沢居 恵美)さん、学費値上げ問題や差別排外主義反対などに活発に取り組んでいる大学院生の金澤伶さんです。

参加方法は予約制ですが、当日の開始時間、予約方法などの詳細は>チラシ
また、この対話集会の伴走者のメッセージは>こちら
311後の日本社会の再建を「わたしたちは見ている」と感じておられる方々の参加をお待ちしています。





2026年5月10日日曜日

【第127話】311から15年目の2026年、私たちは今どこにいるのか(1):避難者追出し裁判1.9最高裁判決の出現とマグナ・カルタ(26.5.9)

                第23回新宿デモ

以下は、5月9日の脱被ばく実現ネット主催、第23回新宿デモで話した内容。

避難者追出し裁判1・9最高裁判決とマグナ・カルタ

      多数意見>


   三浦守少数意見>全文

       1月9日言渡しの最高裁判決全文>こちら

1、昨日、東京地方裁判所で、福島県が県外に自主避難した避難者に仮設住宅からの追い出しを求める裁判(>提訴時の報告)の最後の証拠調べがありました。証言台に立ったのは南相馬市から東京のしののめに避難した原告らの最年長のDさん。Dさんは311まで健康そのものだったご主人が311後に免疫不全の難病にかかり、長い闘病生活を看病した末、今年2月にご主人を看取りました。昨日、Dさんはその悲しみがいえない中をご主人の無念を代弁するかのように、311以来、国内避難民として経験せざるを得なかった苦難の理不尽な日々を涙ながらにひとつひとつ証言し、終わったあと、傍聴席から拍手が送られました。

2、ところで、311以来、原発事故の救済を求める訴訟は何度も起こされましたが、その都度惨敗し、連戦連敗を重ねてきました。昨日の裁判に先立って、6年前、福島県が福島地方裁判所で避難者に仮設住宅からの追出しを求めて起こした裁判もそうでした(>第1回弁論期日の報告)。裁判官が避難者の訴えに全く耳を傾けないので、一審と二審の裁判官の交代を求めた5回に及ぶ忌避の申立て(>報告1報告2報告3)はことごとく退けられ、まともな審理を受けられないまま一審、二審とも全面敗訴の判決が続きました(>その報告)。それは311後に人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会に相応しい暗黒裁判でした。この暗黒の闇から何とかして光を引き出すために、代理人を務めた私自身、態度を根本的に変更した上告の書面を作成し、最高裁に提出しました(>その報告1報告2)。それが「政治・政策問題から人権問題に全面的にシフトすること」その上で「ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させるための理論を作り上げること」でした(>その気づき――つまり、国家権力の重圧、プレッシャーの中にいる最高裁判事が勇気ある決断を下せるようにそっと背中を押したい、最高裁につばを吐くのではなく、花を盛ろうと思ったのです。だから、その書面の冒頭はこうでした。
本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは原発事故を救済する法律が存在しないという「真空地帯」で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して避難者らが最高裁に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。》(上告受理申立理由書6頁)

3、すると、原発事故の救済を求める事件をこれまで殆ど門前払いしてきた最高裁は、昨年暮れ、私たち避難者の上告を門前払いせず、避難者の上告理由(福島県知事の住宅提供の打切り、いわゆる内堀決定の違法性)について判断を示すと応答してきたのです(>その報告)。これは青天の霹靂でした、311以来、原発事故の救済について固く閉ざしていた司法がいま初めて扉を一歩開いた瞬間だったからです。1月9日、その判断を示されました。それがこの判決です。結論は上告棄却、避難者の負け。
しかし、問題はその理由づけです。最高裁が国家権力のイヌであるためには、権力者の行為が適法であるとお墨付きを与えることが求められるのです。しかし、この多数意見は「内堀決定が適法である」と内堀のやったことにお墨付きを与えることをしなかった。多数意見がやったことは、この裁判の解決にとって内堀決定は関係ないとして内堀決定の違法性の判断から逃げたのです。その結果、内掘決定は違法であると正面から認めた少数意見だけが最高裁判決に掲げられました。それが三浦少数意見です。しかもこの三浦意見は、内掘決定には本質的な欠陥があると明言しました。なぜなら、三浦意見は、私どもが声を大にして主張した次のこと、つまり
福島原発事故のあと政府が勝手に線引きした強制避難区域の網から漏れ、谷間に落ち、本人には何の責任もないのに、たまたま谷間に落ちてしまった。その結果、政府により救済されない中を、放射能のリスクから命をかけて「子どもを守る」或いは「自分や家族を守る」と決断して自主避難を選択し、仮設住宅の提供以外に国と相手方から真っ当な生活再建の支援もない中を、この間ずっと、慣れない都会の中、自力で努力し続けてきた人たちである。このように過去に経験したことのない「さ迷える市民」にされた彼らの過酷な現実を踏まえて、彼らの救済について真摯に向き合うべきである》(
上告受理申立理由書13~14頁
これに100%応答して、内掘決定は避難者の置かれた個々の具体的な事情を考慮せずに行なったものであり、そのような権力の行使は社会通念上著しく妥当性を欠き、断じて許されないと明言したからです。内掘決定の適法性については、最高裁判決にはこの判断だけが載ったのです。

4、しかし、これに対し次のように言う人が必ずいます――三浦意見がたとえどんな素晴らしくてもしょせん少数意見、負けたことには変わりないと。
その通りです。しかし、人権運動はいつも少数者の声から始まるのです。そして人権運動は少数者の声がその声をあげた瞬間にその声がどう評価されたかではなくて、その声に、たとえ時間がかかろうとも、その後、私たち市民がどう反応したかで決まり、さらにその評価も関が原の決戦みたいな一発勝負で決まるのはなくて、ビートルズのlong and winding roadの題名のように、ジグザグの、うまずたゆまず、一歩ずつ前に進むしかない、終わりのない漸進運動だからです。
この人権運動のリアルな展開に目を向けるとき、今回の少数者の声である三浦少数意見がどれほど重要であるか、多数意見に三浦少数意見が放った輝きを否定・批判するような反論がひとつも書けなかったことがその重要性を余すところなく示していますが、三浦少数意見は、311後の人権侵害のゴミ屋敷に化した日本社会を人権屋敷に再建する突破口となるような、原発事故の救済に関する人権宣言のスタートとなるような画期的な最高裁判決なのです。

5、人権宣言の原型は1215年にイギリスで作られたマグナ・カルタです。先日、イギリスの国王がアメリカ議会で、
マグナ・カルタが1789年以降、米連邦最高裁判所で160件の判決で引用されたとマグナ・カルタの重要性を強調しました(>BBC記事)。私もまた、1月9日の追い出し裁判最高裁の三浦少数意見に接したとき、マグナ・カルタを思い出しました(>その報告)。三浦少数意見こそ311後の日本社会のマグナ・カルタだからです。というのは、
マグナ・カルタの真の偉大さは、それが1215年の作者たちにとって何であったかにあるのではなくて、それが後に、後世の政治的指導者、裁判官や法律家、およびイギリスの全市民にとって何になったかにある」からです。
だから、三浦少数意見の真の偉大さは、それが作者の三浦裁判官にとって何であったかにあるのではなくて、それが今後、これからの政治的指導者、裁判官や法律家、および日本の全市民にとって何になるのかにあるのです。
もともと人権宣言とは、いまだ実現しない人権の実現を願っ て、「人権を発見」した人々から全世界の市民に向けて捧げられた愛の告白です。だから、三浦少数意見も、いまだ実現しない原発事故避難者の人権の実現を願って、「人権を発見」した三浦裁判官から私たち市民に向けて捧げられた愛の告白です。それはひとりの人間からまかれた一粒のタネです。そのタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかーーそれはひとえに私たち市民の手にかかっている。もともと人権を実現する道は人類全員の協同労働です、三浦裁判官が少数意見で成し遂げた人権の仕事は、このあと、彼のバトンを引き継いだ私たち市民の中の第2走者、第3走者、‥‥無数の走者たちが、人権の葉をつけ、人権の花を咲かせ、人権の豊かな実りをもたらすまでの仕事です。今度は私たち市民が一歩前に出る番です。一緒に頑張りましょう。

 当日の新宿デモのスピーチの動画

【第130話】つぶやき(その6):世界感覚の重要性その続き(2026.5.30)

【第124話】 つぶやき(その5) で記した、パスカルの、1654年11月23日のメモについての以下のコメント。 同感。 世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。 私も肌身離さず持とう。 それを思い知る。 その後、この世界感覚に...