2026年2月27日金曜日

【第126話】忘れ得ぬ人々:T君、シンドラー、オダネル(26.2.28)

以下の3人は私にとって忘れ得ぬ人たち。
ひとりは、息子の同級生で、1995年、秋田から埼玉県飯能の自由の森学園に入学したT君。マウンテン・バイクが大好きで、夢中になって青春を謳歌しているあっけらかんとした若者だった。
高校卒業後、ずっと音信不通が続いた。しかし、福島原発事故が再び私たちを結び付けた。彼と思いがけない場所で再会することになった。2012年冬、文科省前のふくしま集団疎開裁判の抗議アクションに、T君が座り込んでいたのだ。10数年ぶりに再会した彼は別人のように変貌し、福島原発事故の理不尽な救済について、彼のまなざしの中に怒りの炎がめらめらと燃え盛っていた。この思いがけない再会と思いがけない彼の変貌ぶりに私は驚愕し、しばらく声が出なかった。その彼と、ボソボソ話をした。そのときの彼の声、姿は忘れられない印象を残した。それは、彼が、私にとって「シンドラーのリスト」の主人公オスカー・シンドラーが忘れられない人になったのと同じことを意味したからである。

以下は、それについて書いた、先日のさいたま市のチェルノブイリ法日本版の学習会の補足。

      **********************

 【報告(その2)】2月23日、さいたま市でチェルノブイリ法日本版の学習会で話せなかったこと「311後のあべこべの時代を正す、その原動力はどこに見出せるか」(26.2.23)

   映画「ニューシネマパラダイス」


 2月23日にさいたま市でやったチェルノブイリ法日本版の学習会、そこで話したいと思いながら、準備不足と当日の時間不足で話せなかったことがあります。

それは「311後のあべこべの時代を正す、その原動力はどこに見出せるか」についてです。
以下、まだ草稿段階のメモですが、これについて話したいと思ったことを記します。
2つあって、
1つは、「シンドラのリスト」の主人公オスカー・シンドラーのような原動力
もう1つは友情という原動力

1、オスカー・シンドラのような原動力
(前置き)
昔、スピルバーグがアウシェビッツの生存者たちから、ホロコーストの悲劇を、生存者が生きているうちに映画にして欲しいと懇請されながらずっとそれを果たさず、いわば逃げ回っていた。とうとう痺れを切らした生存者たちが「生存者たちが死んでしまうぞ!」とねじ込んだ末に、出来上がった映画が「シンドラ
のリスト」だった。そのことを知ったとき、だったら、なんであんなごろつきみたいな奴を主人公にしたんだろうかと不思議でたまりませんでした。その訳は主人公シンドラーはスピルバーグ自身だったからなんだとあとになって合点しました。スピルバーグは高貴な英雄を主役にする映画は作りたくなかった、自分自身みたいに、楽しいことに夢中になるごく普通の市民を主役にした映画を作りたかった。けれど、そんな映画をどうやって作っていいか分からなかった。それで、ずっと悶々として製作に着手できなかった。しかし、或る時、自分のようなチャランポランな普通の市民でも主人公になれる映画があることに気がついた。それが超チャランポランなシンドラを主役にした映画だった。
私もまた、市民立法日本版を、高貴な英雄が主役になる市民運動にはしたくなかった。自分自身みたいに、楽しいことに夢中になるごく普通の市民が市民立法の主役になる市民運動にしたかった。けれど、そんな市民運動をどうやって作っていいか私も分からなかった。しかし、或る時、チャランポランな普通の市民でも主役になれる市民立法があるのではないかということに気がついた。それがシンドラーのようなチャランポランな普通の市民を主役にした市民運動だった。そしたら、これが311後のあべこべの時代を正す原動力のひとつになれるのではないかと思うになった。

ただし、今回、私が惹きつけられた直接のきっかけは、シンドラーではなくて、ジョー・オダネルという元米従軍カメラマンでした。

というのは、彼のことを書いた「神様のファインダー」を読み、20代で広島・長崎の被爆地を撮影した頃の彼の雰囲気から、彼がよきにつけあしきにつけ、典型的なヤンキーの若者にしか思えなかったからです。そうしたアッケラカンとして能天気風だった彼が、その後、晩年に至り、原爆の犯罪を正面から訴える求道者に変貌したことに、いったい、彼はどこで、どう変貌したのか、それにとても関心が沸きました。

その謎について、彼自身が本の58頁以下に正直に書いていましたーーそれは、何か高い道徳的な感情に導かれてとかいう高貴な出来事なのではなくて、むしろそれとは正反対の、原爆の犯罪という悲惨な現実からずっと目を背けてきた自分が、このままではやっていけないと悪夢にうなされる苦痛の末に、この苦しみは原爆と向かい合う中でしか克服できないと悟り、そこで、原爆の犯罪を正面から訴える生き方を選択する。それを読み、何というリアルな出来事なのだろう、これは「シンドラのリスト」の主人公のようだと思いました。そして、これがむしろ普通の市民が辿ることができる、リアルな変貌の姿ではないかと思うようになりました。
つまり、311後のゴミ屋敷の日本社会を再建する取組みは、普通の市民にとって、何か高い道徳的な感情に導かれて行なうものではなくて、むしろそれとは正反対の、原発事故の犯罪という悲惨な現実からずっと目を背けてきた自分が、このままではやっていけないと悪夢にうなされる苦痛の末に、この苦しみは原発事故と向かい合う中でしか克服できないと悟り、そこで、原発事故の犯罪を正面から訴え、その救済を正面から取り組む生き方を選択することなのではないかと(未完)。

2、友情という原動力
それは、映画「ニューシネマパラダイス」で描かれた友情のことです。は、この映画の中で、主人公の貧しいトトが失恋し失意の底にある時、親父代わりの映画技師アルフレッドからこう言われて、それで背中を押され、トトは自分の進むべき道を悟る、そして、それを一途に貫く。
最近、久々にこの映画を観たとき、この二人の友情は何と貴いものだろうか、本当に人生の最高の宝もの、糧だと思い、同様に、このような友情こそが日本版の原動力なんだと実感しました。
「日本版のために自分のすることを愛せ  
 子どもの時、映写室を愛したように」

アルフレッド「人生はお前が見た映画とはちがう。
       人生はもっと困難なものだ。
       行け
       ローマに戻れ
       お前は若い
       前途洋々だ          」
トトがローマに旅発つ日、駅で
アルフレッド「帰ってくるな 
       私たちを忘れろ   
       ノスタルジアに惑わされるな
       すべてを忘れろ
       ‥‥‥‥‥‥
       自分のすることを愛せ  
       子どもの時、映写室を愛したように」


【第125話】2月23日、さいたま市でチェルノブイリ法日本版の学習会『「What time is it ? 」その答えは「あべこべの時代」』(26.2.23)

 2月23日、さいたま市でチェルノブイリ法日本版の学習会をやった。

学習会に松戸から参加した人と終わったあと、2時間近く話し込む。翌日の住まいの権利裁判の原告本人尋問の傍聴を誘うと、参加、そのあと4時間話し込む。
私より10歳以上も若い人で、チェルノブイリ事故以来、チェルノブイリと福島原発事故のことを考えずには生きている意味がないことをひそかに確信している人だった。そんな人がいることを目の前で体験し、次の真理を実感した。
ーー311後のゴミ屋敷の日本社会に生きる私たちにとって、未来しかない子どもたちにとって、この脱ゴミ屋敷への執念以外に、外に何が残されているだろうか。原発事故の犯罪という猛烈な執念に対抗する術として、市民の連合の力を実現することへの執念のほか、この世に何があるだろうか。これが市民立法「日本版」の執念だと。

以下、そのレジメ(>PDF)と動画(前半が講師の話、後半が質疑応答)とプレゼン資料。

            チャップリンの「独裁者」の冒頭の飛行シーン 

What time is it ?――311後のゴミ屋敷を人権屋敷に再建する時代――

1、この質問はチャップリンの映画「独裁者」の冒頭に出てくるセリフです。戦場で、兵士チャップリンが上官と雲の中を飛行中、知らない間に飛行機がさかさに飛び、表題の質問に彼が懐から懐中時計を取り出すと時計の鎖がとび上がってビックリするシーンです。そのシーンが示すように、答えはあべこべの時代です。
このあべこべが現代でも続いている。しかも現代はそのあべこべが前例のないくらい極端なまでに進んだ時代です。なぜなら、現代は311後=原発事故後の社会だからです。原発事故とは何か。それは人類が推し進めてきた科学技術の最先端で登場した、最先端の科学技術がもたらした最先端のカタストロフィー(大惨事)だった。つまり、原発事故は私たちの科学技術の栄華の成れの果ての姿です。その結果、311後の日本社会は原発事故の救済を全面的にネグレクト(放置)する人権侵害のゴミ屋敷となった(日本政府がやったことは次の3つだけだった。①情報を隠す②事故を小さく見せる③基準値の引上げ)。そこでは、原発事故を起こした加害者たちは救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される、あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる、狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされるというあべこべが出現したからです。なぜ、311後の日本社会はこのようなあべこべの、そして人権侵害のゴミ屋敷社会になってしまったのか。

2、注意深く観察すると科学技術によって引き起こされた事故はいつも2つの顔を持っています。1つは「自然対人間」の関係で見せる顔。もう1つは「人間対人間」の関係で見せる顔。「自然対人間」の関係で原発事故が示す本質は空間的にも時間的にも前例のない「惨劇」です。40秒足らずの実験の暴走で欧州全土が人の住めなくなる寸前までいったチェルノブイリ事故。2号機に水が入らず、東日本全滅を覚悟した福島原発事故。時間的には「これから100年放射能と付き合うために」(菅谷昭前松本市長)という覚悟が問われる。さらに原発事故はそれだけでは済まない。もう1つの顔が存在する。それが原発事故が「人間対人間」の関係で示す顔、その本質は「犯罪」です。チェルノブイリ事故で欧州全土を救った物理学者のワシリー・ネステレンコ、その彼に与えられた恩賞は所長の地位解任とKGB(ソ連の諜報機関)による二度の暗殺計画でした。理由は、国から「パニックを煽るろくでなし」と警告されたにもかかわらず、放射能を感知する器官を持たない汚染地の住民たちが無防備なまま取り残されているのに対し彼らの保護を訴え続けたからです。

福島原発事故も、いくら健康被害が発生しても国は「私たちは何も知らない、語れない」。チェルノブイリですら認定された原発事故と小児甲状腺がんとの因果関係も今なお頑なに認めようとしない。にもかかわらず、敢えて健康被害を語ると、漫画「美味しんぼ」のように、「パニックを煽るろくでなし」(今日ではより洗練された言葉で「風評被害」)と罵られる。それは国の確固たる信念と世論操作に基づいたもので、もはや単なる事故ではなく、226事件、サリン事件のように事件・犯罪と呼ぶのがふさわしい。それが311事件です。その結果、出現したのが最先端の科学技術がもたらした最先端の大惨事である原発事故を前にして、その救済を全面的にネグレクト(放置)し、至る所が人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会。

3、ゴミ屋敷についてもまた、科学技術によって引き起こされた事故が持つ2つの顔が厄介さを倍加する。1つ目の顔が「自然対人間」の関係での厄介。それが「見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒」である放射能の特質がフルに反映した、見えない、臭わないゴミ屋敷。それは私たちの五感の通用しない「日常生活」と分断された被ばくがもたらす放射能汚染と健康被害の壮大なゴミ屋敷。もう1つの顔が「人間対人間」の関係での厄介。それが私たち市民が、単に今日の国や科学者の政策に翻弄されているばかりではなく、明治維新以来ずっと市民を支配してきた国や科学者の政策に今なお翻弄され続けているという事実。とりわけそれは、小児甲状腺がんだけでも明らかですが、放射能による健康影響に声をあげない医療関係者たちの中に顕著に現れている。それは七三一部隊の伝統が水面下で悪夢のように今も医療関係者たちをがんじがらめに押さえつけているからです。そこで日常的に行なわれた人体実験は重大な犯罪だった。しかし、この犯罪は戦後、裁かれなかった。米国と、人体実験のデータの提供を引換に戦争犯罪の免責という取引(密約)が成立したからです。その結果、免罪された七三一部隊はトップから総勢1万以上の隊員は、ひとにぎりの例外を除いて、戦後日本の医療・医学界・製薬業界に復権し、人体実験で得た研究データを活用して要職につき大きな力を持った。同時にそれは戦後日本の医療・医学界・製薬業界の水面下で、七三一部隊の思想・哲学・方法が伝統として生き延びることでした。お国のためなら「人体実験」に手を染めた思想が水脈のように受け継がれ、311の核戦争(福島原発事故)の発生で、再び戦争と「医の倫理」が衝突したとき、脈々と受け継がれてきた七三一部隊の思想・哲学・方法が原発事故の正しい救済をかつてないほど大きく歪曲していった。それが311後の日本社会を壮大なゴミ屋敷にしている歴史的、根本的な原因の1つなのです。

4、これらの異常事態を前にして、そこにネグレクト(放置)された真の被害者は、百年続く福島原発事故の健康被害で苦しむ人たち、今後の原発事故発生によって、福島原発事故と同じ苦しみを味わうことになる(未来しかない)子どもたちです。その人たちは「人間として扱われる」必要があります。そのためには、311事件でゴミ屋敷と化した日本社会を人権屋敷に再建する必要があります。

その最初の一歩が、原発事故の国家責任を正面から承認し、国家の義務として、原発を通常に運転する時における放射線防護の世界標準(年1mSv)を原発事故の時にも適用して年1mSv以上の汚染地域に住む住民に「避難の権利」を保障したチェルノブイリ法、それを市民主導の「市民立法」の方法で、日本で実現しようという市民運動「市民が育てるチェルノブイリ法日本版」です。いま、日本を戦争の国にさせないために最も貢献している法律は1999年に成立した情報公開法です。当時、この法律には与野党も大手労組も全て関心を示さなかったため、市民が主導して日本各地の自治体で情報公開条例を積み重ねた末に制定されました。その市民主導の成功体験をモデルにして、ゴミ屋敷に化した日本社会を人権屋敷に再建しようというのが市民立法「日本版」です。

311後に生きる私たちにとって、未来しかない子どもたちにとって、この脱ゴミ屋敷への執念以外に、外に何が残されているだろうか。原発事故の犯罪という猛烈な執念に対抗する術として、市民の連合の力を実現することへの執念のほか、この世に何があるだろうか。これが市民立法「日本版」の執念です。                        (2026.2.23)

 ◆動画
前半(講師の話)



後半(質疑応答)
 

◆プレゼン資料(>全文PDF


 

2026年2月7日土曜日

【第124話】つぶやき(その5):世界感覚の重要性(2026.2.8)

 パスカルは、1654年11月23日、次のようなメモを記し、そのメモを生涯、肌身離さず身に付けた。

一六五四年 十一月二三日 月曜日、
・・・夜十時半頃から十二時頃まで。
   火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。  
確実、確実、感情、歓喜、平和、  
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」
「あなたの神は、わたしの神です。」  
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、
見いだすことができない。
              「パンセ」中の覚書 

同感。
世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。
私も肌身離さず持とう。
それを思い知る。    

2026年2月6日金曜日

【第123話】つぶやき(その4):日本国民はなぜ「難治性悪性反復性健忘症」にかかるのか。その起源について(2026.2.7)

菅谷昭原発事故と甲状腺がん」


原発事故による放射能の危険性について、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかっていることの深刻さをくり返し語るのは、チェルノブイリで5年半、甲状腺がん手術のボランティア活動をしてきた前松本市長の菅谷昭さん(上の「原発事故と甲状腺がん」など)。

問題は、日本国民はなぜ深刻な「難治性悪性反復性健忘症」にかかるのか。それは日本国民の運命なのか。

運命ではない。その答えは、日本国民は「難治性悪性反復性健忘症」にかかるように仕向けられているからだ。

なら、いったい誰がそんなことを?

日本国民が健忘症にかかってくれることによって利益を得る人たちが。

例えば、大岡昇平は戦争について甘い考え、というより、戦争のことなど忘れても大丈夫なのではないかと、つまり健忘症でも構わないと思っていたという。

 「われわれの死に方は惨めだった。われわれをこんな下らない戦場に駆り立てた軍人共は全く悪党だった。芸妓相手にうまい酒を飲みながら、比島決戦なんて大きなことをいい、国民に必勝の信念を持てと言い、自分たちはいい加減なところで手を打とうと考えていた。‥‥
戦後25年、おれの俘虜の経験はほとんど死んだが、きみたちといっしょにした戦争の経験は生きている。それがおれを導いてここまで連れて来た。
もうだれも戦争なんてやる気はないだろう、同じことをやらないだろう、と思っていたが、これは甘い考えだった。戦後25年、おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じ一握りの悪党共は、まだおれたちの上にいて、うそやペテンで同じことをおれたちの子供にやらせようとしている。
」 (ミンドロ島ふたたび)

日本国民がこの「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを日本政府がひたすら励んでいることが、七三一部隊が行なった歴史的事実について、彼らがどう受け止めているかを知ることで鮮明になる。
そもそも、日本政府は七三一部隊が人体実験を行なった事実を今なお認めていない。日本政府が七三一部隊の存在を公に認めたのも戦後37年も経過した1982年4月になってからだ。しかも、このときの公式見解は「関東軍防疫給水部略歴」という数頁の文書。
その文書は1285名の兵士と1427名の市民が七三一部隊に関連したことを認めた。しかし、それで全てだった。犠牲者の数や国籍については何も明らかにしなかった。その文書を読んだ森村誠一『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントはこう書いている。

多くの日本人は自分たちの戦争を泥酔状態、つまり最悪の逸脱行為は翌朝には許され忘れられる状態とみなしている。健忘症を促進させるというこの日本政府の公式態度は、東アジアの国々を激怒させたが、その態度は日本における反戦精神の弱体化や軍事支出の拡大と軌を一にしている(「ハルビンの屠殺者ーー戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」(1983年)) 

つまり、七三一部隊の歴史は日本国民が運命的に「難治性悪性反復性健忘症」なのではなくて、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを促進させることにひたすら励み、作り出している連中が厳然としていることを誰でも分かるように示している。

だから、これに対し実行可能なことは、日本国民がかからされている「難治性悪性反復性健忘症」から目覚めることを促進することである。その最初の一歩はいつも少数者のアクションから始まる。
『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントもこう言っている。

しかし、歴史を書き直す努力は、実際に、数年前に始まったーー家永三郎が教科書の一部を書き直させる圧力に反対して起こした教科書裁判は1960年代にさかのぼる。 

これまで、家永教科書裁判は、教科書は誰のものかを問う教育の自由(子どもの教育を受ける権利)をめぐる人権裁判とばかり思ってきた。しかし、この裁判は、そればかりではなく、日本国民を「難治性悪性反復性健忘症」から治癒することを促進する壮大な意識改革の取組みだったことを知った。

私のかつての著作権の仕事、「壁の世紀」裁判の依頼者だった歴史家の大江志乃夫さんがなぜ家永教科書裁判に惜しまぬ支援を続けてきたのか、その訳を知ったような気がして、感慨を新たにした。

 

杉本判決検討会(1970年7月18日、肩書は当時)。
左から2人目が大江志乃夫さん(東京教育大学助教授)

 

     杉本判決を伝える当時の新聞

 「北山敏和の鉄道いまむかし」の「教科書裁判」より

 


【第122話】つぶやき(その3):311後の「あべこべ」はなぜ発生したのか:その起源は七三一部隊にある(2026.2.7)

311後の原発事故の救済の異様なありようを見てきて、ずっとこう思っていた。

原発事故を起こした加害者たちは、救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、
命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される、
あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を、演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる、狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされるという、まさに「あべこべ」の不条理な社会が出現した。

しかし、なぜ、このような「あべこべ」の世界が出現したのか、その訳はずっと霧の中だった。

311から15年経ってようやく、先月観たドキュメンタリー映画「医の倫理と戦争」で私をずっと覆っていた霧が晴れる1つの突破口を与えられた。それが「七三一部隊と戦後日本の関係」という問題提起だった。

 一言でいうと、「余りにグロテスクであり、それと比較するとアウシェビッツのガス室すら人間的にさえ見える」()と評された 七三一部隊の人体実験、その部隊のリーダーたちは、戦後、900名以上がBC級戦犯として捕虜への虐待、殺害、強制労働の罪で死刑になったのに対し、彼らはアメリカへ人体実験データを提供する見返りとして何のお咎めも受けず、引き続き戦後日本の医学界の重鎮の席を占めた(長崎大学長になった福見秀雄を典型として)。これこそ、加害者が救済者のつらをして、密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じる、安全を振りまくニセ科学が科学とされる「あべこべ」の不条理な社会の堂々たる出現であり、この出現がその後の、とりわけ311後の日本社会の「あべこべ」の起源だったという決定的な事実に合点した。

 ()ロバート・ウィマントによる森村誠一『続・悪魔の飽食』の書評「ハルビンの屠殺者ーー戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」(1983年)

2026年2月5日木曜日

【第121話】つぶやき(その2):足元の七三一部隊(いつも通り過ぎていた散歩コースが七三一部隊とつながっていた)(26.2.6)。

 ここ数年、月の半分近く、滞在してきた北茨城市。その散歩コースが五浦の長浜海岸。


 殆ど誰も歩かないその散歩コースの途中に、ぽつんと碑が立っている(Google Map)。

「忘れじ平和の碑」。太平洋戦争末期、ここからアメリカに向けて風船爆弾が発射されたと書いてある。ふう~ん、そっか。一読して立ち去り、そしてすっかり忘れてしまっていた。

それが思い出されたのが先月観たドキュメンタリー映画「医の倫理と戦争」の冒頭、さりげなく紹介された、千葉県館山市の太平洋戦争中に作った防空壕の中に40年間暮らした人物が「七三一部隊の関係者」だったという事実に、監督だけでなく私も衝撃を受け、七三一部隊が当時のみならず後世に及ぼした影響という問題が俄然大きく立ちはだかってきたからだ。
しかし、北茨城市にある「忘れじ平和の碑」や風船爆弾についての文書・情報には細菌爆弾の記載はなかった。他方、風船爆弾に関する資料は敗戦時に陸軍省の指示によって湮滅されたとあった。既に世界的に知られている風船爆弾だけの資料だったら、わざわざ隠滅する必要はないんじゃないか。そこにはもっと別の理由があるのではないか。
そこから、この風船爆弾について、わざわざ風船をアメリカまで飛ばして爆弾を落としたのは何の爆弾だったのか。七三一部隊は既に中国で空からペスト菌などの細菌爆弾(生物兵器)をまいて多数の軍人民間人に殺傷したという実戦を積んでいた。だとしたら、風船爆弾でも細菌爆弾は有力な選択肢ではなかったのか。

ちょっと調べると、風船爆弾の爆弾の候補として細菌爆弾があったことは確実な事実のようだった。ウィキペディアには、こう書かれている。
陸軍登戸研究所において研究されていた生物兵器炭疽菌ペスト等)の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造して使用可能な状態まで完成していた[16]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎陸軍参謀総長上奏に際して、天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった

また、別の資料にはこう書かれていた。
この風船爆弾はアメリカとの戦争で劣勢に追い込まれていた日本が挽回するために陸軍参謀本部作戦課が42年8月に作成した「決戦兵器考案ニ関スル作戦上ノ要望」の中で打ち出された。そこでは、敵国民の戦意を喪失させるために石井部隊の拡充と「ノ」号の改良を図ることが挙げられていた。これ(「ノ」号)は第一章でも触れたとおり,731 部隊が開発したペストノミを利用した細菌兵器だと考えられる。この細菌兵器を米国本土に投下する方法として,風船爆弾が用いられようとしていた可能性がある。
(塚本百合子第15回企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備―女の子たちの戦争―」記録展示41頁)

 (4) 搭載されなかった生物化学兵器
前 (3) 項のとおり,細菌兵器については,ペストを媒介するノミが高度 10,000 mでは生存できないため搭載は断念された。また,牛疫ウイルス兵器は効果が期待できたものの,米国からの報復を恐れて搭載が中止された
(同上45頁)。

以上のいくつかの理由によって、最終的に、細菌兵器は風船爆弾に使用するに至らなかったが、そのための研究・準備を熱心に行なっていたのは事実だった。だから、敗戦と同時に陸軍は風船爆弾の資料の焼却湮滅を厳命した。また、風船爆弾のための生物兵器開発とその人体実験を行なっていたのは七三一部隊だけではなくて、登戸研究所もそうだった。

かつて岡倉天心らが画業のため移り住み、今も平和の楽園のように見える五浦の地に、現代の医療・医学界を支配する水源として脈々と流れている七三一部隊の思想の紛れもない痕跡があることに、こんな辺鄙な田舎が現代社会の最先端と深くつながっていることに驚嘆を禁じえない。

【第120話】つぶやき(その1):なぜ七三一部隊に無関心、無知だったのか(26.2.5)。

1、最大の理由は、七三一部隊の人体実験は万死に値するほどの未曾有の残虐な犯罪だが、他方で、私にとってそれは、とりあえず、過去の終わってしまった出来事であり、現在の自分たちとは切り離された、関係がない出来事とばかり思っていた。だから、残虐な過去から目をそむけたる気持ちから、これはそむけてもよいのではないかと思っていた。

しかし、それはとんでもない思いちがい、無知の極みだった。七三一部隊の思想・哲学・方法は現在の日本社会の医療・医学界・製薬業界を支配する水源として脈々と流れている。今日の日本の医療・医学界・製薬業界の理不尽の源泉として七三一部隊の思想・哲学・方法は支配的な力を保持している。

2、第2の理由は、あのような途方もない人体実験をやった七三一部隊はきっとひそかにこっそりやったはずで、それは少人数の極秘部隊、数で言えば数十人、多くて数百人位じゃないか。だったら、そんな少人数のメンバーが戦後の医療・医学界で大きな影響力を及ぼしようもないんじゃないかと勝手に思い込んでいた。

しかし、数十、数百人なんていうのはとんでもない思いちがい。実際には七三一部隊を本部とする旧日本陸軍の細菌戦部隊の総勢は1万444名という途方もない数だった(2025年8月13日付北海道新聞「旧日本軍731部隊の関連名簿分析 総員1万444人、北海道関係者は154人」)。それゆえ、この大所帯は戦後日本の医療・医学界に圧倒的な影響を及ぼし得るだけの大集団だった。

3、第3の理由は、あのような人体実験を思いつくというのは狂気の沙汰で、七三一部隊というのは頭がおかしくなった連中だとばかり思っていた。

しかし、狂気だとしても彼らの狂気は本気だった。それはリーダーの石井四郎がそうだった。彼は、経済力で圧倒的に劣勢の日本がアメリカと戦うためには秘策が不可欠であり、その決め手が細菌戦だと大真面目に考え、心中深く確信していた。彼にとって細菌戦はもうひとつのゲリラ戦だった。 

4、第4の理由は、あのような人体実験にまともな科学者、医学者、いやんやいわゆる優秀な科学者、医学者が従事するはずがない、だから研究者不足が必至だとばかり思い込んでいた。

しかし、意外にも数多くの科学者、医学者が、長崎大学長になった福見秀雄をはじめとして戦後の医療・医学界でリーダー格となるような人材が七三一部隊に集まった。彼らは決して強制連行されたわけではなく、リクルートされたとしても自分の意思で参加した。なぜそんなことが起きたのか。それには次のような強力な理由があった(京大の先輩に誘われて七三一部隊に行ったA先生の体験談)。
「内地の医学部では戦時体制のために予算や人員が極度に不足し、満足な研究を遂行するのは難しい状況だった。しかし、満州の研究所(注:七三一部隊)に行けばふんだんに予算があり、プロジェクトに対し十分な資材も提供される。そのうえ、本人の地位に応じて陸軍技師となれば兵隊に就かなくてもよい‥‥これだけの条件を示されれば、多くの研究者が食指を動かしたのも無理なからぬことだった」(土山秀夫元長崎大学長「731部隊が医学に問いかけるもの」『メディカル朝日』1995年8月号)

【第126話】忘れ得ぬ人々:T君、シンドラー、オダネル(26.2.28)

以下の3人は私にとって忘れ得ぬ人たち。 ひとりは、息子の同級生で、1995年、秋田から埼玉県飯能の自由の森学園に入学したT君。マウンテン・バイクが大好きで、夢中になって青春を謳歌しているあっけらかんとした若者だった。 高校卒業後、ずっと音信不通が続いた。しかし、福島原発事故が再び...