1、10.25 郡山の対話集会のテーマはチェルノブイリ法日本版について次の2つの問い。
(1)、Why:チェルノブイリ法日本版の実現(制定)の必要性(なぜ必要なのか)
(2)、How:チェルノブイリ法日本版の実現へのロードマップ(どうやって実現するのか)
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これまで、チェルノブイリ法日本版の学習会で取り上げた一貫したテーマ
「戦争と平和」
も同様だった(>具体例〔8年前の郡山の学習会〕)。
なぜなら、今回の上記(1)が戦争(福島原発事故の現実)、上記(2)が平和(福島原発事故の救済)にほぼ対応するから。
その上で、10.25対話集会では主に、小出さんに(1)、柳原が(2)を担当と考えている。
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最大の問題は、このテーマをめぐってどうしたら対話が成立するか。そのためには対話成立の条件について吟味する必要がある。
2、対話集会の条件ーー人を見て法を説く。
10.25対話集会で取り上げるテーマについて、人々はどう考え、感じているのか、それを踏まえてこちらが語る必要がある。
この点、難しいのが(1)のチェルノブイリ法日本版の実現(制定)の必要性について。
なぜなら、
311直後なら、これについて人々がどう受け止めたかはほぼ直感的に理解できた(ように思う)。
だが、311から15年経過した現在、これについて人々がどのように受け止めているのか、率直なところ、よく分らない、見えない。
その結果、集会で、ただやみくもに語っても、人々の心に届かず、独りよがりの独演場で終わってしまうおそれが多いにある。実際、私はその失敗を過去にうんざりするくらい経験してきた。
3、過去の日本版学習会の振り返り(反省)
柳原は過去の学習会で、「人を見て法を説く」ことを殆どして来なかった。もっぱら、語る本人(柳原)の信じるところ、思うところを無我夢中に語ることしかしてこなかった。それ以上、自分の語ったことが、相手(参加者)にとってどのような意味を持ったのか、それをしっかり受け止める(対話する)ことを殆どしてこなかった。
その結果、たとえ語った内容が良かったとしても、相手(参加者)にとっては、精々「ああ、今日、いい話を聞かせてもらった」と知識がひとつまた増えたとか、原発事故について少しお利口になったかくらいで終わってしまった。それ以上、「一歩前に出て」チェルノブイリ法日本版の実現に向けて行動しようというアクションには(ごく一部の例外を除いて)結び付かなかった。
いわば、情報を一方的に伝達するだけの、閉鎖的なタコツボ型の集会(学習会)しかしてこなかった。
それが日本の市民運動の悪しき伝統であることを最近知って、改めて愕然としている。
その中で、60年安保のときに、岸首相が、国会に押しかけるデモについて「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べたことにリアクションして(いわば岸と対話をして)、だったら誰でも参加できる「声なき声」のネットワークを作ろうじゃないかと、ふたりの市民(小林トミと不破三雄)が「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた幕を掲げてデモの最後尾について歩き出した。最初、二人の後ろに誰もいなかったのに、その後、沿道の歩道にいた一般市民が徐々に列に加わり、解散時には300人以上にふくれ上がった。そこから「声なき声の会」「べ平連」という、新しいタイプの市民運動が誕生したことを知った。人を見て、誰もが参加できるデモを説いた、この対話型デモの試みである「声なき声」の取組みは今もなお振り返る価値がある。
4、その意味で、今の時点で必要だと思っていることは、
311直後ではなく、311から15年「も経った、或いは、しか経っていない」現時点において、原発事故について「声なき声」の人たちの中で、漠然と「福島原発事故はもう終わった」と考えている、或いは「福島原発事故は終わったと信じたい」と思っている、或いは「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんのように(※)放射能のことを心底嫌いだと思っている、そのように原発事故のことを気にしている人々の気持ちを意識して、このような人々に向けて、彼らの心に届くように、福島原発事故の救済の必要性(その具体化がチェルノブイリ法日本版)について語りかけること、対話を試みること。
言い換えれば、311から15年も経って「福島原発事故はもう終わった」「福島原発事故は終わったと信じたい」「放射能のことを心底嫌いだ」と思っている人々の頭の中がグジャグジャになるような認識の体験をしてもらうように、彼らに語りかけること。
以上、「言うは易き、行い難し」だが、スタンスとしては、これを基本にしたい。
(※)「自伝」より。
5、4の対話の可能性の中心
では、4の対話は言うは易きで、果たしてそんな対話が可能か?
困難だとしても可能だと思う。なぜなら、一方で、正直なところ311後からずっと、上記のような「人を見て法を説くような」対話にチャレンジしたことがなかったから対話が成立しないのは当然だし、成立しなくても何とも思わなかった。他方で、2年前の正月、そのような対話の必要性を痛感し(>その詳細)、そこから初めて、意識的になおかつ試行錯誤しながら、相手との対話の試みをスタートさせる中で、今年1月9日、そのような対話が成立するという初めての、得難い体験をしたから。それが避難者追出し裁判1.9最高裁三浦意見(>その詳細)。
法律家になって以来、最高裁は権力の犬であって、社会的な事件に対して最高裁にまともな判断を期待すること自体が幻想であり誤りであるとずっと思ってきた。だから、311後も最高裁に対し、いくつもの裁判で正しいと信ずる主張を出してきたが、その都度、いつもその主張を拒否されるか無視されるかの応答しかなかった目に遭ったとき、それはどうしようもないと思っていた。ところが、2年前の正月、一見、権力の犬のように思われている最高裁に対し、なお、「対話の通路」があるのだという思ってもみなかった未知の可能性を元最高裁判事の泉徳治さんの「一歩前へ出る司法」から教えられ、その秘密の通路は「政治政策から人権へシフト」する中で見えてくる通路だという説明は深い説得力を私に与え、その結果、ラクダが通る針の穴かもしれないが、その「対話の通路」に賭けてみる気持ちになった。それはまるで、天岩戸(あまのいわと)に引きこもったアマテラス(天照大御神)を岩戸から引きずり出すような難行の気持ちで、手さぐりの試行錯誤の連続だった。しかし、今年1月9日、最高裁に呼ばれ、じきじきに三浦裁判長(彼がこの事件の裁判長だった)と向き合って、彼の判決言い渡しを聞きながら、ラクダも針の穴を通ることがあるのだと思った。とはいえ、これは文字通り「司法が一歩前へ出た」小さな一歩。この三浦意見が告げることは、このささやかな対話の成功体験を、ひとり裁判官だけではなく、もっと沢山の人たちに向けて挑戦することだった。その本格的な第1歩が7月12日、東京でやったチェルノブイリ法日本版の最初の対話集会だった(>そのお知らせ)。
尤も、日本版について市民との対話の経験はこれが初めてで、どう取り組んでいったらよいのか皆目検討がつかず、文字通り、手さぐりだったが、フタを開けたら、発言者の小川さん、郷田さんも、参加者も熱い思いを語り、その会場でも、そのあとでも日本版の会への参加申込みがあり、とても充実した集会になったのではないかと思った(>その報告)。
6、日本版の2回目の対話集会に向けての準備
(1)、認識が「一歩前へ出る」ために
認識が「被害を受けてきた」から「人権侵害をされてきた」へ転換するために必要な手がかりを提供すること。
これは、7.12対話集会に参加し、その後正会員になった、双葉町から避難した人が会場で発言していた以下の内容に触発されたもの。
311で自分が被害に遭っているとは感じてきたけれど、それが人権侵害だとは知らなかった、それに今日、気がついた、と。
つまり、人はどんなに被害を受けても、くり返し被害に遭ったとしても、被害という事実をどんなに重ねたところで、そこから自然に、自動的に、「これは人権侵害だ」という認識には辿り着かない(正確には、辿り着けない)。つまりチェルノブイリ法日本版(の必要性)に辿り着けない。
そこに辿り着くためには被害を受けた人自身の判断・決断が必要だから。この点で、その決断が最も素直に、ストレートに出来るのは、子どもがいるときだと思う。子どもが、被ばくのためにいわれのない苦しみ、健康被害に遭っているとき、これは絶対「許せない」と思う人、その人は「これは人権侵害だ」という認識に立っている。
これに対し、7.12対話集会に参加し、その後正会員になった上記の人は子どもがいるわけではなかった。だとしたら、どのような契機がこの人に新たな認識をもたらしたのか、尋ねてみたいと思う。
(2)、「福島原発事故はもう終わった」と(無意識のうちに)信じたがっている人の認識を変えるために
菅谷さんがいつも言っているように「ひとたび原発事故が起きたらその修復には百年かかる」(「これから100年放射能と付き合うために」)。まず、この峻厳な認識を示す必要がある。ただし、これだけでは足りない。このような気が遠くなるような長期にわたる放射能災害の認識に普通の人はとうてい耐えられず、精神の正気を保てないだろうから。
だとしたら、この認識と向き合うためにはさらに何が必要だろうか。
その認識の格闘をしてきたひとりの人物として黒澤明がいる。彼はビギニ環礁の水爆実験に衝撃を受け、1955年に原爆の恐怖を正面から捉えた「生きものの記録」で挫折(大赤字)を経験し、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難(不可能)さを語ったこととつながっている。しかし、黒澤明はそれから35年後の1990年、「夢」の中で、再び放射能(原発事故)の現実と向き合う映画を撮り、さらに翌年の1991年、「八月の狂詩曲」でまたしても放射能(原爆)の現実と向き合う映画を撮った。そこから、彼が、人々は放射能(原爆・原発事故)の現実と向き合うことは困難(不可能)だと認めながらなおも、それを乗り越える道(可能性)をずっと模索していたことを、被ばく経験者の「日常生活」の中で放射能(原爆・原発事故)がどのように突き刺さっているのかを黒澤なりに描く中で、放射能の現実と向き合う道を示したように思った。
放射能の現実を、劇的な「非日常的な場面」として捉えるのではなく、「日常生活」の中で捉える黒澤の姿勢に深く学ぶものを感じた一方で、「八月の狂詩曲」での「日常生活」の中の捉え方に正直、とても不満を覚えた。なぜなら、放射能(原爆・原発事故)の時間的影響は、自ら広島で被爆した丸山真男の被爆体験のコトバ
「広島は単なる戦争の惨禍の一ページではない。毎日々々原爆が落ちている(※)。」
に示されている通り、途方もなく長い期間、健康被害の影響をもたらすものであるのに、その本質が抜けていて、過去の原爆投下の出来事であるかのように捉えられているから。
だとしたら、今、目の前に与えられたことはーー「日常生活」の中で、なおかつ「毎日々々原発が事故を起している」かのような現実とどのように向き合うことができるのかであり、 それが黒澤から託された私の課題だ。
(※)従来の災害の概念では、戦後24年の今日でもまだ新たな原爆症の患者が生まれ、長期の患者或いは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるという現実を理解できない。 まさに毎日々々原爆は落っこちている(>丸山の動画)。
7、柳原のチラシの呼びかけ文(>こちら)
以下の、7.12対話集会のチラシと同じ。
「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」
もし、今の日本で普通に生きられると思っている人がいたら、その人はおそらく311後の日本社会を「異常」だと思っていない。しかし、311後の日本社会は戦後経験したことのない「異常」さの中にある。その異常ぶりは数々あるが、その双璧は311直後の文科省20mSv通知と山下俊一氏発言。なぜならこの2つはその後に異常事態として是正されたのではなく、むしろ311後の日本社会を形成する母体となったから。そして、この異常さの増殖の果てに私たちに待ち受けているのは日本社会の崩壊である。
それと心中するのは――バカバカしい。
だからといって、これを食い止めることができるのか。できる。ではどうやって?
そのビジョンを報告し、その実現の可能性について対話するのが10.25郡山の対話集会。
2年前、ブックレット「わたしたちは見ている」を出版した。今、「私たちは行動する」。それが10.25郡山の対話集会。皆さんが「参加」することを心から願っている。
ここで呼びかけている対象は、311後に、原発事故の現実にずっと声を上げ続けている人でもなければ、311後も311前と意識が殆ど変わらない極楽トンボのような人でもなく、その中間にいる「声なき声の人たち」、内心は原発事故の現実にひどく不満、批判を抱きながら、もろもろの事情で自身の思いについて声を上げてこなかった(或いは2012年当時にあげたきり、上げるのをやめてしまった)人たちである。
この人たちは、或る種の閉塞状態に置かれている気分の中にいて、動きが取れず、がんじがらめになっている気分だと思う。しかし、その閉塞状態もがんじがらめも実は幻想でしかなく、「一歩前に出る」ことだけで、実はスッカリ光景は変わり得る。その「一歩前に出る」お誘いをこのチラシで「対話集会に来ませんか」とおこなった。
でも、その一歩を踏み出すのが大変? そんなことはない。311後の異常が進行する日本社会と心中するのは「バカバカしい」。単にそう思えば足りる。
そのことを伝えたくて、上記のようなメッセージを作成した。
以上、続く。















