ここ数年、月の半分近く、滞在してきた北茨城市。その散歩コースが五浦の長浜海岸。
殆ど誰も歩かないその散歩コースの途中に、ぽつんと碑が立っている(Google Map)。
「忘れじ平和の碑」。太平洋戦争末期、ここからアメリカに向けて風船爆弾が発射されたと書いてある。ふう~ん、そっか。一読して立ち去り、そしてすっかり忘れてしまっていた。
それが思い出されたのが先月観たドキュメンタリー映画「医の倫理と戦争」の冒頭、さりげなく紹介された、千葉県館山市の太平洋戦争中に作った防空壕の中に40年間暮らした人物が「七三一部隊の関係者」だったという事実に、監督だけでなく私も衝撃を受け、七三一部隊が当時のみならず後世に及ぼした影響という問題が俄然大きく立ちはだかってきたからだ。
しかし、北茨城市にある「忘れじ平和の碑」や風船爆弾についての文書・情報には細菌爆弾の記載はなかった。他方、風船爆弾に関する資料は敗戦時に陸軍省の指示によって湮滅されたとあった。既に世界的に知られている風船爆弾だけの資料だったら、わざわざ隠滅する必要はないんじゃないか。そこにはもっと別の理由があるのではないか。
そこから、この風船爆弾について、わざわざ風船をアメリカまで飛ばして爆弾を落としたのは何の爆弾だったのか。七三一部隊は既に中国で空からペスト菌などの細菌爆弾(生物兵器)をまいて多数の軍人民間人に殺傷したという実戦を積んでいた。だとしたら、風船爆弾でも細菌爆弾は有力な選択肢ではなかったのか。
ちょっと調べると、風船爆弾の爆弾の候補として細菌爆弾があったことは確実な事実のようだった。ウィキペディアには、こう書かれている。
《陸軍登戸研究所において研究されていた生物兵器(炭疽菌、ペスト等)の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造して使用可能な状態まで完成していた[16]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎陸軍参謀総長の上奏に際して、天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった》
この風船爆弾はアメリカとの戦争で劣勢に追い込まれていた日本が挽回するために陸軍参謀本部作戦課が42年8月に作成した「決戦兵器考案ニ関スル作戦上ノ要望」の中で打ち出された。そこでは、敵国民の戦意を喪失させるために石井部隊の拡充と「ノ」号の改良を図ることが挙げられていた。これ(「ノ」号)は第一章でも触れたとおり,731 部隊が開発したペストノミを利用した細菌兵器だと考えられる。この細菌兵器を米国本土に投下する方法として,風船爆弾が用いられようとしていた可能性がある。(塚本百合子第15回企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備―女の子たちの戦争―」記録展示41頁)
(4) 搭載されなかった生物化学兵器
前 (3) 項のとおり,細菌兵器については,ペストを媒介するノミが高度 10,000 mでは生存できないため搭載は断念された。また,牛疫ウイルス兵器は効果が期待できたものの,米国からの報復を恐れて搭載が中止された(同上45頁)。
以上のいくつかの理由によって、最終的に、細菌兵器は風船爆弾に使用するに至らなかったが、そのための研究・準備を熱心に行なっていたのは事実だった。だから、敗戦と同時に陸軍は風船爆弾の資料の焼却湮滅を厳命した。また、風船爆弾のための生物兵器開発とその人体実験を行なっていたのは七三一部隊だけではなくて、登戸研究所もそうだった。
かつて岡倉天心らが画業のため移り住み、今も平和の楽園のように見える五浦の地に、現代の医療・医学界を支配する水源として脈々と流れている七三一部隊の思想の紛れもない痕跡があることに、こんな辺鄙な田舎が現代社会の最先端と深くつながっていることに驚嘆を禁じえない。



















