2026年2月7日土曜日

【第124話】つぶやき(その5):世界感覚の重要性(2026.2.8)

 パスカルは、1654年11月23日、次のようなメモを記し、そのメモを生涯、肌身離さず身に付けた。

一六五四年 十一月二三日 月曜日、
・・・夜十時半頃から十二時頃まで。
   火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。  
確実、確実、感情、歓喜、平和、  
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」
「あなたの神は、わたしの神です。」  
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、
見いだすことができない。
              「パンセ」中の覚書 

同感。
世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。
それを思い知る。    

2026年2月6日金曜日

【第123話】つぶやき(その4):日本国民はなぜ「難治性悪性反復性健忘症」にかかるのか。その起源について(2026.2.7)

原発事故による放射能の危険性について、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかっていることの深刻さをくり返し語るのは、チェルノブイリで5年半、甲状腺がん手術のボランティア活動をしてきた前松本市長の菅谷昭さん(原発事故と甲状腺がん」など)。

問題は、日本国民はなぜ深刻な「難治性悪性反復性健忘症」にかかるのか。それは日本国民の運命なのか。
運命ではない。その答えは、日本国民は「難治性悪性反復性健忘症」にかかるように仕向けられているからだ。

なら、いったい誰がそんなことを?

日本国民が健忘症にかかってくれることによって利益を得る人たちが。

例えば、大岡昇平は戦争について甘い考え、というより、戦争のことなど忘れても大丈夫なのではないかと、つまり健忘症でも構わないと思っていたという。

 「われわれの死に方は惨めだった。われわれをこんな下らない戦場に駆り立てた軍人共は全く悪党だった。芸妓相手にうまい酒を飲みながら、比島決戦なんて大きなことをいい、国民に必勝の信念を持てと言い、自分たちはいい加減なところで手を打とうと考えていた。‥‥
戦後25年、おれの俘虜の経験はほとんど死んだが、きみたちといっしょにした戦争の経験は生きている。それがおれを導いてここまで連れて来た。
もうだれも戦争なんてやる気はないだろう、同じことをやらないだろう、と思っていたが、これは甘い考えだった。戦後25年、おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じ一握りの悪党共は、まだおれたちの上にいて、うそやペテンで同じことをおれたちの子供にやらせようとしている。
」 (ミンドロ島ふたたび)

日本国民がこの「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを日本政府がひたすら励んでいることが、七三一部隊が行なった歴史的事実について、彼らがどう受け止めているかを知ることで鮮明になる。
そもそも、日本政府は七三一部隊が人体実験を行なった事実を今なお認めていない。日本政府が七三一部隊の存在を公に認めたのも戦後37年も経過した1982年4月になってからだ。しかも、このときの公式見解は「関東軍防疫給水部略歴」という数頁の文書。
その文書は1285名の兵士と1427名の市民が七三一部隊に関連したことを認めた。しかし、それで全てだった。犠牲者の数や国籍については何も明らかにしなかった。その文書を読んだ森村誠一『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントはこう書いている。

多くの日本人は自分たちの戦争を泥酔状態、つまり最悪の逸脱行為は翌朝には許され忘れられる状態とみなしている。健忘症を促進させるというこの日本政府の公式態度は、東アジアの国々を激怒させたが、その態度は日本における反戦精神の弱体化や軍事支出の拡大と軌を一にしている(「ハルビンの屠殺者ーー戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」(1983年)) 

つまり、七三一部隊の歴史は日本国民が運命的に「難治性悪性反復性健忘症」なのではなくて、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを促進させることにひたすら励み、作り出している連中が厳然としていることを誰でも分かるように示している。

だから、これに対し実行可能なことは、日本国民がかからされている「難治性悪性反復性健忘症」から目覚めることを促進することである。その最初の一歩はいつも少数者のアクションから始まる。
『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントもこう言っている。

しかし、歴史を書き直す努力は、実際に、数年前に始まったーー家永三郎が教科書の一部を書き直させる圧力に反対して起こした教科書裁判は1960年代にさかのぼる。 

これまで、家永教科書裁判は、教科書は誰のものかを問う教育の自由(子どもの教育を受ける権利)をめぐる人権裁判とばかり思ってきた。しかし、この裁判は、そればかりではなく、日本国民を「難治性悪性反復性健忘症」から治癒することを促進する壮大な意識改革の取組みだったことを知った。

私のかつての著作権の仕事、「壁の世紀」裁判の依頼者だった歴史家の大江志乃夫さんがなぜ家永教科書裁判に惜しまぬ支援を続けてきたのか、その訳を知ったような気がして、感慨を新たにした。

 

杉本判決検討会(1970年7月18日、肩書は当時)。
左から2人目が大江志乃夫さん(東京教育大学助教授)

 

     杉本判決を伝える当時の新聞

 「北山敏和の鉄道いまむかし」の「教科書裁判」より

 


【第122話】つぶやき(その3):311後の「あべこべ」はなぜ発生したのか:その起源は七三一部隊にある(2026.2.7)

311後の原発事故の救済の異様なありようを見てきて、ずっとこう思っていた。

原発事故を起こした加害者たちは、救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、
命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される、
あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を、演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる、狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされるという、まさに「あべこべ」の不条理な社会が出現した。

しかし、なぜ、このような「あべこべ」の世界が出現したのか、その訳はずっと霧の中だった。

311から15年経ってようやく、先月観たドキュメンタリー映画「医の倫理と戦争」で私をずっと覆っていた霧が晴れる1つの突破口を与えられた。それが「七三一部隊と戦後日本の関係」という問題提起だった。

 一言でいうと、「余りにグロテスクであり、それと比較するとアウシェビッツのガス室すら人間的にさえ見える」()と評された 七三一部隊の人体実験、その部隊のリーダーたちは、戦後、900名以上がBC級戦犯として捕虜への虐待、殺害、強制労働の罪で死刑になったのに対し、彼らはアメリカへ人体実験データを提供する見返りとして何のお咎めも受けず、引き続き戦後日本の医学界の重鎮の席を占めた(長崎大学長になった福見秀雄を典型として)。これこそ、加害者が救済者のつらをして、密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じる、安全を振りまくニセ科学が科学とされる「あべこべ」の不条理な社会の堂々たる出現であり、この出現がその後の、とりわけ311後の日本社会の「あべこべ」の起源だったという決定的な事実に合点した。

 ()ロバート・ウィマントによる森村誠一『続・悪魔の飽食』の書評「ハルビンの屠殺者ーー戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」(1983年)

2026年2月5日木曜日

【第121話】つぶやき(その2):足元の七三一部隊(いつも通り過ぎていた散歩コースが七三一部隊とつながっていた)(26.2.6)。

 ここ数年、月の半分近く、滞在してきた北茨城市。その散歩コースが五浦の長浜海岸。


 殆ど誰も歩かないその散歩コースの途中に、ぽつんと碑が立っている(Google Map)。

「忘れじ平和の碑」。太平洋戦争末期、ここからアメリカに向けて風船爆弾が発射されたと書いてある。ふう~ん、そっか。一読して立ち去り、そしてすっかり忘れてしまっていた。

それが思い出されたのが先月観たドキュメンタリー映画「医の倫理と戦争」の冒頭、さりげなく紹介された、千葉県館山市の太平洋戦争中に作った防空壕の中に40年間暮らした人物が「七三一部隊の関係者」だったという事実に、監督だけでなく私も衝撃を受け、七三一部隊が当時のみならず後世に及ぼした影響という問題が俄然大きく立ちはだかってきたからだ。
しかし、北茨城市にある「忘れじ平和の碑」や風船爆弾についての文書・情報には細菌爆弾の記載はなかった。他方、風船爆弾に関する資料は敗戦時に陸軍省の指示によって湮滅されたとあった。既に世界的に知られている風船爆弾だけの資料だったら、わざわざ隠滅する必要はないんじゃないか。そこにはもっと別の理由があるのではないか。
そこから、この風船爆弾について、わざわざ風船をアメリカまで飛ばして爆弾を落としたのは何の爆弾だったのか。七三一部隊は既に中国で空からペスト菌などの細菌爆弾(生物兵器)をまいて多数の軍人民間人に殺傷したという実戦を積んでいた。だとしたら、風船爆弾でも細菌爆弾は有力な選択肢ではなかったのか。

ちょっと調べると、風船爆弾の爆弾の候補として細菌爆弾があったことは確実な事実のようだった。ウィキペディアには、こう書かれている。
陸軍登戸研究所において研究されていた生物兵器炭疽菌ペスト等)の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造して使用可能な状態まで完成していた[16]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎陸軍参謀総長上奏に際して、天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった

また、別の資料にはこう書かれていた。
この風船爆弾はアメリカとの戦争で劣勢に追い込まれていた日本が挽回するために陸軍参謀本部作戦課が42年8月に作成した「決戦兵器考案ニ関スル作戦上ノ要望」の中で打ち出された。そこでは、敵国民の戦意を喪失させるために石井部隊の拡充と「ノ」号の改良を図ることが挙げられていた。これ(「ノ」号)は第一章でも触れたとおり,731 部隊が開発したペストノミを利用した細菌兵器だと考えられる。この細菌兵器を米国本土に投下する方法として,風船爆弾が用いられようとしていた可能性がある。
(塚本百合子第15回企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備―女の子たちの戦争―」記録展示41頁)

 (4) 搭載されなかった生物化学兵器
前 (3) 項のとおり,細菌兵器については,ペストを媒介するノミが高度 10,000 mでは生存できないため搭載は断念された。また,牛疫ウイルス兵器は効果が期待できたものの,米国からの報復を恐れて搭載が中止された
(同上45頁)。

以上のいくつかの理由によって、最終的に、細菌兵器は風船爆弾に使用するに至らなかったが、そのための研究・準備を熱心に行なっていたのは事実だった。だから、敗戦と同時に陸軍は風船爆弾の資料の焼却湮滅を厳命した。また、風船爆弾のための生物兵器開発とその人体実験を行なっていたのは七三一部隊だけではなくて、登戸研究所もそうだった。

かつて岡倉天心らが画業のため移り住み、今も平和の楽園のように見える五浦の地に、現代の医療・医学界を支配する水源として脈々と流れている七三一部隊の思想の紛れもない痕跡があることに、こんな辺鄙な田舎が現代社会の最先端と深くつながっていることに驚嘆を禁じえない。

【第120話】つぶやき(その1):なぜ七三一部隊に無関心、無知だったのか(26.2.5)。

1、最大の理由は、七三一部隊の人体実験は万死に値するほどの未曾有の残虐な犯罪だが、他方で、私にとってそれは、とりあえず、過去の終わってしまった出来事であり、現在の自分たちとは切り離された、関係がない出来事とばかり思っていた。だから、残虐な過去から目をそむけたる気持ちから、これはそむけてもよいのではないかと思っていた。

しかし、それはとんでもない思いちがい、無知の極みだった。七三一部隊の思想・哲学・方法は現在の日本社会の医療・医学界・製薬業界を支配する水源として脈々と流れている。今日の日本の医療・医学界・製薬業界の理不尽の源泉として七三一部隊の思想・哲学・方法は支配的な力を保持している。

2、第2の理由は、あのような途方もない人体実験をやった七三一部隊はきっとひそかにこっそりやったはずで、それは少人数の極秘部隊、数で言えば数十人、多くて数百人位じゃないか。だったら、そんな少人数のメンバーが戦後の医療・医学界で大きな影響力を及ぼしようもないんじゃないかと勝手に思い込んでいた。

しかし、数十、数百人なんていうのはとんでもない思いちがい。実際には七三一部隊を本部とする旧日本陸軍の細菌戦部隊の総勢は1万444名という途方もない数だった(2025年8月13日付北海道新聞「旧日本軍731部隊の関連名簿分析 総員1万444人、北海道関係者は154人」)。それゆえ、この大所帯は戦後日本の医療・医学界に圧倒的な影響を及ぼし得るだけの大集団だった。

3、第3の理由は、あのような人体実験を思いつくというのは狂気の沙汰で、七三一部隊というのは頭がおかしくなった連中だとばかり思っていた。

しかし、狂気だとしても彼らの狂気は本気だった。それはリーダーの石井四郎がそうだった。彼は、経済力で圧倒的に劣勢の日本がアメリカと戦うためには秘策が不可欠であり、その決め手が細菌戦だと大真面目に考え、心中深く確信していた。彼にとって細菌戦はもうひとつのゲリラ戦だった。 

4、第4の理由は、あのような人体実験にまともな科学者、医学者、いやんやいわゆる優秀な科学者、医学者が従事するはずがない、だから研究者不足が必至だとばかり思い込んでいた。

しかし、意外にも数多くの科学者、医学者が、長崎大学長になった福見秀雄をはじめとして戦後の医療・医学界でリーダー格となるような人材が七三一部隊に集まった。彼らは決して強制連行されたわけではなく、リクルートされたとしても自分の意思で参加した。なぜそんなことが起きたのか。それには次のような強力な理由があった(京大の先輩に誘われて七三一部隊に行ったA先生の体験談)。
「内地の医学部では戦時体制のために予算や人員が極度に不足し、満足な研究を遂行するのは難しい状況だった。しかし、満州の研究所(注:七三一部隊)に行けばふんだんに予算があり、プロジェクトに対し十分な資材も提供される。そのうえ、本人の地位に応じて陸軍技師となれば兵隊に就かなくてもよい‥‥これだけの条件を示されれば、多くの研究者が食指を動かしたのも無理なからぬことだった」(土山秀夫元長崎大学長「731部隊が医学に問いかけるもの」『メディカル朝日』1995年8月号)

2026年2月4日水曜日

【第119話】どうして福島の小児甲状腺がん患者の人たちは裁判をしなくちゃいけないんだ?それは、311後の市民が、五感の通用しない「日常生活」と分断された被ばくの世界と闘わざるを得なかっただけでなく、市民を愚弄し続けてきた明治維新以来の戦争の歴史とも闘わざるを得なかったからだ。とりわけ七三一部隊の伝統が悪夢のように今も医療関係者たちをがんじがらめに押さえつけているからではないか(26.2.5)

1、はじめに 
この数年間、小児甲状腺がん裁判の関係で、元甲状腺外科医の菅谷昭さんを何度かお尋ねして意見交換する中で、彼が何度も口にした言葉があったーー甲状腺がんの手術についてなら現役の甲状腺外科医に聞けばよいのに、なんで30年以上前に引退した私のような者にお尋ねになるのでしょうか。
その答えは単純で、現役の甲状腺外科医は貝のように口が固く、本当のことを語ってもらえないからだった。
最初、その流儀が日本の現状で、もともとそういうものだとばかり思ってきた。
しかし、考え直しているうちに、それは別に自然現象でも、普遍的な現象でもない、どこかで誰かの手によって、その流儀が形作られてきた人工的な現象のはずだと気がついた(江戸時代の封建体制が人工的な産物であるのと同じこと)。この気づきは天啓だった。
そうだとしたら、次に「現役の甲状腺外科医が貝のように口が固く、本当のことを語らない」という流儀はどこから始まったのか、その起源を問うことができるし、その問いがものすごく重要ではないかと思うようになった。そう思うようになったのは、以前、柄谷行人と大岡昇平の次の言葉を思い出したことと、つい最近、1本のドキュメンタリー映画を観たからだった。

なぜ過去の歴史を学ぶのか。それについて柄谷行人はこう述べた。

小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。‥‥これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこから来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。(批評空間93NO.9編集後記)
これを原発事故の歴史に当てはめるとこうなる。
福島原発事故でわれわれがどこへ行くのかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。福島原発事故の未来は原発事故の過去にある(「6.24」提訴から一周年の思い――なぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか。疎開裁判から市民立法へ(2012.7.19一部追加))。

 戦争中の日本軍部の愚劣な作戦を省みて、大岡昇平はこう述べた。

兵士=歩兵は(敵のアメリカ軍や当時の軍部と闘っただけでなく)、明治維新以来の日本の軍部の歴史と闘ってきたようなものだ時代へ発言 第三回-39年目の夏に-」1984.8 NHK教養セミナーより

これを原発事故の救済について原子力ムラの愚劣極まりない対応を見て、命を救済するという当たり前のことがなぜできないのかという問いを当てはめるとこうなる。

私たちは市民は、単に放射能や原子力ムラと闘っているのではなく、明治維新以来の日本の歴史と闘っているようなものなのだ。

だとしたら、福島原発事故の未来を決める「原発事故の過去」とは何か、その過去である、私たち市民が闘わざるを得ない「明治維新以来の日本の歴史」とは何なのか。それを突き止める必要がある。そう思ったとき、私のかつての著作権の仕事、ドキュメンタリー「北の波濤」裁判で知り合った硬派のジャーナリスト吉永春子さん(>彼女の意見書)のライフワークが七三一部隊であったことが思い出され、自分の浅知恵のため、ついに吉永春子さんの生前中に、七三一部隊とは311後の日本社会に生きる全ての市民にとってのライフワークとも言うべき最も重要な問題なのだという「七三一部隊の今日的意義」に思い至ることが出来ず、七三一部隊について教えを請わないまま、吉永さんを見送ってしまったことに気がついた。
私の脳裏には今もなお、不屈の面構えをした吉永さんの顔と彼女の言葉が焼き付いている。

 


 


2、問題提起ーー医の倫理と核戦争の衝突ーー
 先日、川越市の映画館「スカラ座」で「医の倫理と戦争」を観た。私にとって、その題名は、福島原発事故後の日本社会が直面する課題「医の倫理と核戦争」のことだった。福島原発事故は従来の災害・人災の延長線上で考えることはできない。むしろ一種の核戦争というべきである。なぜなら、物理現象として、放射能の生物への攻撃は目に見えず、臭いもせず、痛みも感じない、私たちの日常感覚ではぜったい理解できない、人間的スケールを超えた、非日常的な、不可解、不条理な現象だから。そして、核戦争の兵器開発に突き進む人たちは、原発事故の健康被害をできる限り過小評価することが至上命題だったから、「医の倫理」との正面衝突は不可避だった。

かつて、第二次世界大戦で医の倫理と戦争との衝突を最も鮮やかに見せつけたのが七三一部隊だった。そこで日常的に行なわれた人体実験は二度と繰り返してはならない重大な戦争犯罪だった。しかし、不可解かつ不条理なことに、この重大戦争犯罪は戦後、裁かれなかった。石井四郎らは米国との間で、七三一部隊の生物実験のデータを提供することと引き換えに自分たちの戦争犯罪を免責するという取引(密約)が成立したから。その結果、七三一部隊は石井四郎をトップとして関連する細菌戦部隊7部隊の総勢1万444名の医療関係者たち(※1)の戦争責任はすでにソ連に逮捕され裁判にかけられた12名以外、すべて不問に付された。その結果、免罪された七三一部隊の大量の隊員は、ひとにぎりの例外(軍人だった石井らや自死したり(※2)40年間洞窟で隠遁生活を送ったりした者(※3))を除いて、戦後日本の医療・医学界・製薬業界に復権し、人体実験で得た研究データを活用したりして要職につき大きな力を持った(加藤哲郎「731部隊と戦後日本」134~135頁。在野民平「細菌戦部隊員の戦後」)。同時にそれは戦後日本の医療・医学界・製薬業界の水面下で、七三一部隊の思想・哲学・方法が伝統として生き延びることだった。お国のためなら「人体実験」に手を染めた思想が水脈のように受け継がれ、311後の核戦争(福島原発事故)の発生で、再び「医の倫理」と衝突したとき、脈々と受け継がれてきた七三一部隊の思想・哲学・方法が原発事故の正しい救済をかつてないほど大きく歪曲していったのではないか。それが、
なんで「現役の甲状腺外科医が貝のように口が固く、本当のことを語らない」のか、その謎を解くカギになるのではないか。それが、
原発事故を起こした加害者たちは、救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、
命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される、
あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を、演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる、狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされるという、なぜ、このようなあべこべの不条理な社会が出現したのか、その謎を解くカギになるのではないか。
以下、その仮説の検証作業のためのメモ(この投稿、続く)。

※1)七三一部隊を本部とする旧日本陸軍の細菌戦部隊の全容の名簿が2025年5月、国立公文書館で公開された職員名簿で明らかになった(以下、2025年8月13日付北海道新聞「旧日本軍731部隊の関連名簿分析 総員1万444人、北海道関係者は154人」より)。

※2)常石敬一・朝野富三「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」

※3)ドキュメンタリー「医の倫理と戦争」で、監督が映画製作の依頼を受けて最初訪れた千葉県館山にある海軍の地下壕を見学した時、その暗い地下壕の中で40年暮らした菌類研究者がいて、彼は死ぬまぎわに「自分が七三一部隊」の関係者だったと明かしたことが紹介されている。

【第118話】弓を引く時(26.2.4)

 以下は、本日の原電前抗議行動で喋ったスピーチの原稿です(時間切れで喋れなかった内容も盛り込んであります)。

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初めて、この場で話をします。
東海第二の運動について殆ど無知の私のような者がここに呼ばれたのは、私自身が10歳から35歳頃まで四半世紀の間、引きこもりで欝の人間だったからではないかと思います。
なぜ原発に反対するのか。その理由は人により様々だと思います。私にとって、それは311以来、原発事故の被災者の人たちとつきあって来て、思うことは、原発事故は人々の命、健康、暮らしを狂わせましたが、実はそればかりではなく、さらに、人々の心をこれでもかと思うほど傷つけ、苦しめるものだということです。
そのことを日本で最初に経験し、語ったのが、27年前、東海村のJCO事故で両親が被ばくした大泉実成さんでした。私がそれを最初に知ったのは22年前に読んだこの新聞記事です。


しかし、正直なところ、このとき私は、大泉さんのお母さんが苦しんできた訴えを理解できませんでした。しかし、なぜかこの記事が気になって、22年間、私の机に貼られていました。それが私自身、311を経験し、そこで被ばくした被災者の人たちとつきあうようになってから、被災した人たちの苦しみを身近に感じる経験をする中で、私の中で、再び、この新聞記事と向き合う機会にめぐり合ったのです。

直接のきっかけは、ここ数年、月の半分を過ごしている茨城県に滞在中に、昨秋、NHK茨城で、JCO事故の被害者の人が事故後体調不良になり、村役場に相談する中で不満を募らせ、事故から24年後に東海村と日立市の役所に車で突っ込んだという事件の判決があったというニュースが流れ、それで、JCO事故の被害者の人が24年も経ってからとうとうこういう形で心の傷が暴発したという事実にショックを受けたからです。
かつて、広島で自身が被爆した丸山真男は、原爆投下という放射能災害について、「
戦争の惨禍の単なる一頁ではない。もし、戦争の惨禍の単なる一だとすれば、まだ今日でも新たな原爆症の患者が生まれて、また長期の患者とか、あるいは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるという現実は理解できない。この現実は、あたかも毎日々々原爆は落っこちている。‥‥それは広島の二十何年前のある日、起こった出来事ではなくて、毎日々々新しく起こっている。新しくわれわれに向かって突きつけられている問題なんです。」(丸山真男話文集1「二十四年目に語る被爆体験」484~485頁))と語りました。このNHKニュースは、JCO事故という放射能災害についても、被災者の人たちにとっては「過去の或る一瞬の出来事ではなくて、毎日々々新しく起こっている。新しくわれわれに向かって突きつけられている問題」だということを私たちに生々しく伝えたように思えたのです。 

 そしたら、そのひと月前に届いた「ノーニュークス」という市民団体の通信に、この
NHKニュースのことを取り上げた一文が載っていました。それがJCO事故で両親が被ばくした大泉実成さんの報告「JCO事故から26年」でした。大泉さんは役所に車で突っ込んだ事件の当事者の人が他人事ではないことを、放射能災害の被害者はみんな同様の言い表わせない「心の傷」を負っていることを、自身のお母さんの苦しみについて語る中で表現していました。そしたら、机の脇に貼ってあった四半世紀前の新聞記事が思い出されたのです。

この記事や大泉さんの報告には、JCO事故以後、寝たきりになってJCOと聞くだけで動悸が激しく苦しむ母親のこと、PTSDと診断された彼女は5年後にようやく、事故直後に、敗戦で満州から命からがら引き揚げた幼少時の思い出が突然よみがえったと語り出したこと、それで息子の大泉さんは初めて母の「心の傷」に触れるきっかけを得た気がして、JCO事故が母に与えた傷は、母が苦難をくぐり抜けてきた全生涯に及ぶ深いものであるという認識を新たにしたことが書かれていました。
--22年ぶりにこの新聞記事を読み直し、私は原発事故の被害の意味を単に病気や生活苦と見ることはできない、その人がそれまで心にフタをしてきた過去の苦難の全歴史が一気に噴出し、その人を苦しめ直す、かつての心の傷が再発し暴走する。その苦しみは、私がこれまで関わってきた
ふくしま集団疎開裁判の親御さんたち、仮設住宅から追出しを迫られた追出し裁判の避難者の方たち、今回の
「ノーニュークス」の通信に載った甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんも同じではないかと思ったのです(以下、昨年暮れに、避難者追出し裁判で、最高裁が門前払いせず、門戸を開いて判断を示すという画期的な「受理決定」の連絡をしてきた時の、当事者のBさんの感想です。このとき、過去の苦しみがフラッシュバックして今もなお彼女を苦しめ続けていることしか書けなかったのです)。


この人たちは、
JCO事故や福島原発事故のあと、放射能の危険や自分の体調不良に対する自分の疑問、不安を感じても、それを率直に口にし、理解を深めることが許されない。そんなことをすれば、その人は周りから風評被害の加害者とされ、非国民扱いされる。そのようなものすごい同調圧力の中で、生きていくために彼らは結局、自分の素朴な疑問、不安を自分の心の中にしまい込んで、フタをせざるを得なかった。いわば「苦悩という避難場所」に逃げるしかなかった。けれど、そのフタの下で自分の素直な疑問・不安は依然マグマのように息づいているから、自身の疑問・不安を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめ続ける。大泉さんもお母さんも甲状腺がん裁判の原告8さんもそうだったのではないか。

そのようなとき、この苦しみを解き放つ唯一の方法は「苦悩という避難場所」に逃げ続ける中にはなく、心のフタを開け、フタの下に閉じ込めていたマグマの感情を正しく外に出すしかないのではないか。つまり「苦悩という避難場所」から「現実の避難場所」に向かうこと、苦悩から現実のアクションへ転化するしかないのではないか。それを実行したのが自らの意思で甲状腺がん裁判の原告となった8さん。彼女は原告になる中で元気を取り戻していった。行動が心を正していった。

そして、フタの下に閉じ込めていたこの苦悩をフタをはずして現実のアクションに転化した避難者追出し裁判で、避難者の訴えに初めて最高裁が応えた判決が先月9日で出ました。三浦守少数意見判決(>こちら)です。それは、以下のような私たちの心からの願いに正面から向き合う返答でした。そして、311後に人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会に、人権屋敷の再建の必要性を明快に述べた人権回復の第一歩となるものでした。
               最高裁に望むこと(>全文

 
とはいえ、この判決は避難者が負けました。
三浦意見は少数意見だったからです。
しかし、失望することはありません。人権の歴史はいつも少数者の声・行動から始まるからです。
そして、人権運動は少数者の声がその声をあげた瞬間にその声がどう評価されたかではなくて、その声に(たとえ時間がかかろうが)その後、周りの市民がどう反応したかで決まり、さらにその評価も関が原の決戦みたいな一発勝負ではなくて、long and winding roadのジグザグの漸進的なプロセスです。
この人権運動の実相に目を向けるとき、今回の少数者の声である三浦少数意見がどれほど重要なものであるか、それは多数意見(>こちら)の側に三浦少数意見が放った輝きを否定・批判するような反論がひとつも書けなかったことからして明らかです。この311後の人権侵害のゴミ屋敷に化した日本社会を人権屋敷に再建する突破口となるような、原発事故の救済に関する人権宣言のスタートとなるような画期的な最高裁判決がこの三浦少数意見なのです。

この三浦少数意見がまいた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかは、ひとえに死力を尽した三浦裁判官からバトンを受け取った私たち市民の手にかかっています。だから、私たちも、本当の力は少数意見の声の中にある、少数意見が社会を変える、この歴史の真理を胸に、311後のゴミ屋敷の日本社会を一歩ずつ人権屋敷に再建するため、「苦悩から現実のアクションに転化」する取組みを粘り強く続けていきましょう。

参考
311から15年目の今日、最高裁は「百年の悲劇」と決別するため、今まで書かれたことのなかった原発事故の救済のあり方を最高裁判決に書き込んだ。今日まかれた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかーーそれは私たちに掛かっている。人権への道は人類全員の協同労働なのだから(26.1.9) 

2、多数意見
(1)、避難者追出し裁判1​.​9最高裁判決は不当判決ではない。誤まった判決である。

(2)、避難者追出し裁判のふり返り:内掘決定が違法かどうかが福島県の仮設住宅明渡し請求の前提問題であることが判明した経過(26.1.16) 

3、三浦少数意見
(1)、「我ここに立つ。これ以外に仕方がない」の決断の中で書かれた三浦少数意見(26.1.20) 

(2)、三浦少数意見その可能性の中心(1)、国際人権法:原発事故の避難者等の人権(居住権等)について国際人権法(社会権規約、国内避難に関する指導原則)に基づいて保障されるべきことを初めて最高裁判決に書き込んだ。(2026.1.15←1.28加筆)
 
(3)、三浦少数意見その可能性の中心(2):避難者追出し裁判1​.​9最高裁判決の上告受理申立て理由書&多数意見&少数意見の対比表から見えてきたもの(26.1.27)

(4)、三浦少数意見その可能性の中心(3):内掘決定の違法性と建物明渡請求の可否についての具体的内容(2026.1.30)



 

【第124話】つぶやき(その5):世界感覚の重要性(2026.2.8)

 パスカルは、1654年11月23日、次のようなメモを記し、そのメモを生涯、肌身離さず身に付けた。 一六五四年 十一月二三日 月曜日、 ・・・夜十時半頃から十二時頃まで。    火 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」 哲学者や、学者の神ではない。   確実、確実...