2025年7月10日木曜日

【第112話(追加)】法律学(自己)批判の四歩目:ゆうちょ裁判が問うた本質的なテーマ、それは「たがために法律はあるのか」(25.7.12)

(注)昨日書いたものの最後に、大切な気づきを追加した。

6回の双方の攻防を経て2日前に審理を終結したゆうちょ裁判(>最新の報告)。その5日前に提出した原告主張を総整理・集大成した書面を提出した(>準備書面(3))。
あとは、傍聴に駆けつける人たちに向けて、この書面をより分かりやすく解説する要旨を作成して、弁論当日、法廷で陳述するばかりとなった。

しかし、いざこの解説書面の作成に取りかかるや、この作業は独りで勝手に暴走し始め、分かりやすい解説どころか、ひとまず総整理・集大成をしたと思っていた書面がまだ不完全・不徹底であることがハッキリし、その結果、要旨という名のもとで、主張書面の再整理・再集大成をおこなうという羽目になってしまった。それが>要旨原稿

その不首尾を詫び、改めて、傍聴に来た人たち向けに、本来の解説書面を作成し、これを「もう1つの要旨」として公開・朗読することにして、その作業に取り掛かった。ところがまたしても、この作業は勝手に暴走し、その結果、再整理・再集大成したと思っていた書面がまたしてもまだ不完全・不徹底であることが明らかとなり、頭を抱えてしまった。そこで、3度目の主張書面の再整理・再集大成をおこなうことになってしまった。それが>もう1つの要旨原稿

この3度目の主張の再整理を通じて明らかになったことは「そもそも法律とは何のためにあるのか」という法律の存在理由を問うこと、これがゆうちょ裁判の中心的なテーマだということだった。
そして、ひとたび、この「法律とはそもそも何のためにあるのか」という法の存在理由を本件に即して明確に掴むことができたなら、そのとき、法律は私たち市民団体がやっている活動をサポートすべきであると確信をもって言うことができる。
そこから、私たちの活動にとって必要不可欠な団体名義の口座開設も認められるべきであるという結論が確信をもって引き出されるのだ。

それに気がつくまでは、単に、法律にそう書いてあるからといった形式的、概念法学的な考えで主張してきたきらいがあったのに対し、今度はもはやそんな機械的なレベルのことではなく、私たち原告の行っている市民活動という現実を法の使命、ミッションに照らして評価したとき、この市民活動は保障されるに相応しい、ゆえに団体名義の口座開設の自由も保障されなければならないのだということを普遍的な法的判断にのっとって主張することができることに気がついた。今度は、このやり方が「たがために法律はあるのか」を踏まえた紛争の正しい法的な解決のやり方なのだと自信を持って言うことができる。

ところで、この気づきはゆうちょ裁判だけにとどまらない、もっと広い、もっと深い意味を持っている。
なぜなら、この気づきによって、私たちは日頃から具体的な法律問題と向き合うときに「なぜそのような法律が存在するのか」というその法律の存在理由について思いを馳せ、自覚的になることができるから。そして、この自覚が私たちが法律を正しく使いこなして紛争を適正に解決する上で最も重要な羅針盤になるから。
市民立法というのは、自分たちの市民社会の法秩序を一握りの職業的専門家の手にゆだねるのではなく、市民自らが積極的に関わることによって作り上げていくという意味。そのためには法律の存在理由について思いを馳せて自覚する体験を積むことがとても大切なのだと思う。
のみならず、「団体に関する法律の存在理由」について思いを馳せ、これを理解するとき、現代の「団体に関する法律の存在理由」()から、我々市民ひとりひとりが普段から市民団体を通じて行っている市民活動ーーただし、手放しに何でもいい訳ではなく、それが普遍的な価値を帯びることを条件とするーーを通じて、現代の市民社会の法秩序の骨格を形成するのだという、最も単純で深遠な、最も重要な真理に気づかされた。なぜなら、ここで我々市民の市民活動こそが「生きる法=生成法」の基盤(土台)となるものであることが明らかにされたから。「生きる法=生成法」とは日常の市民活動を通じて市民社会の法秩序が形成されることにそのエッセンスがある。そうだとしたら、市民主導で立法を実現するという「市民立法」の意義も、何も市民が法律の制定権者である立法機関の議員とコンタクトを取る際に市民がリーダーシップを取るといったことだけを指すのではなく、むしろ、日常の市民活動を通じて市民社会の法秩序が形成される中にこそ真骨頂を見出すことができる。
その意味で、私たちは、普段、知らずして、日常生活の市民活動を通じて、ひとかどの立派な「市民立法」を実現しているのだ、たとえそれが1ミリほどの小さな歩みだとしても、それは「生きる法=生成法」としての偉大な一歩である。市民が歴史を作る、というのはこういうことを言うのだ。
ただし、市民活動であれば、何でもかんでも「生きる法=生成法」の基盤になる訳ではない。それは「普遍的な価値」を帯びる必要がある。では、市民活動の何が「普遍的な価値」なのか?それは簡単には判定できない。しかし、少なくともポジティブで創造的な取組みを通じて「普遍的な価値」に近づけると信じている。そこから、ポジティブで創造的な取組みに励もうと改めて思う。

以上のことに思い至ったとき、最初、なぜこんな単純なことを今まで思いつかなかったのだろうかと思った。ひょっとして、自分の気づきは根本的に間違っているのではないかとすら思った。しかし、再考する中で間違っていないことが確認できた。してみると、自分が至らないだけのことなのだと思い直した。

「団体の生理的機能を助長するとともに、その病理的現象の防止につとめること」

以上のような貴重な気づきを与えてくれた、この「もう1つの要旨原稿」を以下に再掲する。
その冒頭でこう書いた。

法律の存在理由は一番当たり前で、なおかつ一番よく分からない問題、経済学でいう商品みたいな問題です。

このとき、私はマルクスが資本論の序文と本文(商品の第4節 商品の呪術的性格とその秘密)で、「商品」の正体をめぐって四苦八苦したことを素直に告白し、
商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちたきわめて奇怪なものであることがわかる。
と書いていたことを思い出し、そうだ、法律現象における「法律」とは経済現象における「商品」のようなものであり、それゆえ、人は紛争を法的に解こうとしたら「法律」の存在理由のところでつまづくのは当然なんだ、ということを思い出した。ましてや、本裁判は紛争を法的に解こうとするための「法律」が制定されていない(法の欠缺)のであり、その法的解決はますますマルクスの上記の告白みたいに複雑困難になる(その解決のためには、法の穴になっている「欠缺」を補充することから始める必要がある)。
 四半世紀前、「アマミノクロウサギは裁判の原告になれるか」という法律の難問の解決に直面したときに、たまたまマルクスの資本論の上記の「商品」論を手がかりにそれを解こうとした(>「価値形態論」(自然権の理論構成)に関するスケッチ)。それを思い出し、実はそのときと同じことをまたくり返しずっとやっているのだということに気がづいた。

原告準備書面(3)のもう1つ要旨>全文のPDF


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