2025年6月11日水曜日

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

はじめに
311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含めすべての人々がそれを黙認したのであり、(程度の差はあれ)我々全員に責任がある。だから、この問題を解決するのも機能不全の国家にすがるのではなく、我々市民主導でやるしかない。

本題
この法律問題は大別して2つある。
1つは日本の法体系が原発事故の救済に関して全面的な「法の欠缺」状態にあることを「正しく認識」すること。
もう1つは、この法の欠缺を「正しく補充」すること。
   ↑
ところで、これらは単にやればいいというものではなくて、ともに「正しくやる」必要があるところ、前者は法体系の「認識作用」であり、法哲学者の田中成明が言うように、「法の完全性(専門用語に言い直すと「「法秩序の論理的完足性」)」などという信仰・幻想・偏見を持たずに、法のありのままの現実を素直に直視すれば、ごく素直に法の欠缺の事態を承認することができる(「現代法理論」246頁)。

これに対し、後者はそうはいかない。それは単なる「認識作用」にとどまらず、法の穴を埋める「法の創造作用」という実践が求められるからである。シンプルなモーツアルトのピアノソナタに感動することは誰にでも出来るが、シンプルなピアノソナタを、それもモーツアルトのような曲を作曲することは誰にとっても至難の業である。それと比べられるだろうか。
何を言いたいかというと、この世にシンプルなピアノソナタはごまんとある。しかし、そのなかにあっても、モーツアルトのような研ぎ澄まされたピアノソナタは彼にしか作れない。これと同様で、原発事故の救済ひとつととっても、法の穴を埋めるやり方はおそらくごまんとあるのだ。しかし、そのなかにあって、実際に原発事故に直面して命懸けで避難した被災者にとって最もピッタリ来る法の穴を埋めるやり方というのが必ずあるはずで、その最適な解を発見するのがここで求められている。それがモーツアルトの作曲に比すべく「法の創造行為」である。

そして、私は避難者の住宅追出しの裁判の中で、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態を補充する際の指導原理として、以下の序列論をずっと主張してきた。
法の欠缺が発生している当該法律の上位規範に着目して、「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」(上位規範適合解釈)という法の基本原理を応用し、「当該法律は上位規範に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法で補充を実行することである。》(住まいの権利裁判原告準備書面(17)5頁)
        ↑
この序列論に従って本件の補充を具体的に検討すると、避難者は「国内避難民」となった瞬間から、「国内避難民」の地位に基づき国際人権法が保障する居住権が認められる、というふうに国際人権法の上位規範に適合するように災害救助法等の「欠缺」が補充されるべきである、という結論が導かれた。そう考えた。
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しかし、これがなお不完全、不十分であることは、今回、原発事故の救済に関する「損害の欠缺」をどう補充するのかという問題に直面した時に明らかになった。なぜなら、「損害の欠缺」の補充については、仮に指導原理として「序列論」=上位規範適合解釈を採用したとしても、そこから具体的な補充の結論を導くことは困難だから。なぜ困難かというと、「損害の欠缺」では避難者の居住権を裏付ける「国内避難に関する指導原則」のような具体的な上位規範がうまい具合に見つからなかったからである。
ズカッと言えば、避難者の居住権に関しては、先に「国内避難に関する指導原則」が見つかっていたから、直感的に、これでもって避難者の居住権問題は解決できると確信し、そのため、なぜ「国内避難に関する指導原則」がここで補充されるべき具体的な規範となる資格を有するのかについて、突き詰めることをしないままサボってしまった。その結果、今回、新たに「損害の欠缺」の補充という問題に直面したとき、初めて、
一般論として、たとえ「序列論」=上位規範適合解釈を採用したとしても、候補となる上位規範は星の数ほどある。その無数の上位規範の中からなぜ、或る規範をもって補充すべきであると特定できるのか、その具体化を正当化する根拠とはいったい何なのかという本質的な課題が目の前に迫ってきたのである。

つまり、このとき、私は欠缺の補充という、法律家が普段は殆ど経験することのない、しかし、社会が変動し、「新しい酒は新しい革袋に」盛ることが求められるとき、法律家として最も創造的な具体的作業--つまり、単に序列論といった一般論・抽象論ではダメで、生きた現実の紛争を解決するに足るだけの具体的な規範の発見--が求められる「法の創造行為」という制作現場にほおり込まれた。

以下、「法の創造行為」という制作現場に投げ込まれた中で、だらだらと考えたこと。

昔から、或る事が分かるとは、それをうまく別のものに置き換えることが出来た時だと思って来た。とはいえ、やみくもに置き換えればいいのではなく、つぼを得た置き換えでなければダメなのだが。
今回の「欠缺の補充」もこれと似ていないか。欠缺という穴をうまく別のものに置き換えられないか、という意味で。

そこで、これを以下の4つのことで置き換えられないかと思った。

1つ目は、丸山真男の「被ばく体験」
彼は言う、「従来の災害の概念では、広島・長崎の原爆投下の現実を理解できない。なぜなら、戦後24年の今日でもまだ新たな原爆症の患者が生まれ、長期の患者或いは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるのが現実だからだ。この現実を直視すれば、まさに毎日々々原爆は落っこちている。」
          ↑
これを聞いたとき、それは福島原発事故にも当てはまる、こう言うことが出来ると思った。
「従来の災害の概念では、福島原発事故の現実を理解できない。従来の災害のようなタイムスパンで原発事故の災害を考えることは出来ない。その意味で、まさに毎日々々原発が事故を起こしているようなものだ。」
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さらに、今、これは、次のように置き換えられることに気づいた。
原爆投下により、その後も「毎日々々原爆は落っこちている。」としたら、それはまさに「毎日々々権利侵害が発生し、そして損害が発生している」ことを意味する。
つまり、丸山は、従来の災害の時間概念を覆し、未曾有のタイムスパンで考えざるを得ないという原爆特有の「損害」概念を発見した。
同様に、
福島原発事故により、その後も「毎日々々原発が事故を起こしている」としたら、それはまさに「毎日々々権利侵害が発生し、損害が発生している」ことを意味する。     
つまり、我々は、従来の災害の時間概念を覆した、未曾有のタイムスパンで考えざるを得ない原発事故特有の「損害」概念の発見した。
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それは、まさに従来の権利侵害(違法)論や損害論の枠組みでは福島原発事故により発生した権利侵害(違法)や損害は捉え切れないことを意味する。
第一、そもそも日本政府も日本の法律関係者も誰一人、福島原発事故級の事故を想定しておらず、福島原発事故級の事故を踏まえた権利侵害(違法)論、損害論も誰一人、正面からまともに吟味検討した者はいなかったのだから。これがまさに「法の欠缺」であり、「居住権」に関する「法の欠缺」を追出し裁判、住まいの権利裁判で主張してきた。
しかし、「法の欠缺」は「権利侵害(違法)論」のレベルにとどまるものではなく、「損害論」のレベルでも問われるべきテーマだった。今回、Hさんの指摘で初めて、丸山真男の「被ばく体験」の言葉を以上のような「損害」に変換できることに気がついた。

2つ目は、「求償」論に対する違和感(このうち前半を省略)。
……
この問題の解決策は単純で、2つの場合に分けて論じるしかない。つまり、
第一が、国は福島原発事故の加害責任を負っている。だから、東電と並んで、被害者が被った「損害」の賠償を連帯で負う責任がある。そこには「求償」という問題は生じない。
第二に、仮に第一の主張が認められないとき(国の加害責任が否定されたとき)、その場合には被害者が被った「損害」を国が負担した場合には、その負担分はのちに東電に「求償」することになる。除染作業により発生した費用はそのように扱われている。
         ↑
この2つの場合に整理して初めてすっきりした気分で、3つの「損害」論に入ることができる。それは、例えば、この間発生した全ての除染作業により発生した費用(以下、除染費用という)は全て東電に「求償」できるのか?それとも或る時期を区切って、その時期以降の除染については、東電に「求償」できないことになるおそれがあるのではないか。逆に言えば、その時期を区切らないと、東電は際限なく、ずうっと除染費用を負担させられることになり、それはたまらない、と反論してくる。もしそうだとしたら、どこまでの除染費用が「求償」の対象となるのか。それはすなわち、どの時点までの除染費用が「損害」に含まれるのかという「損害」の時間的、空間的範囲の問題。
さらにそれは、そもそも「損害」の中身は誰が決定できるのか、行政?国会?裁判所?それ以外の誰か?という基本問題に至る。それが次の3つ目の論点。

3つ目は「損害」の範囲は誰が決めるのかという主体の問題。
例えば2017年3月末で無償提供を打ち切った内堀知事が「仮設住宅」の使用に関する「損害」の範囲を決定できるのか。できるとしたら、どこにその根拠があるのか。
思うに、ここも2つのレベルに分けて考える必要がある。
第一が「損害」の範囲とは通常は損害賠償に関する法律の解釈のこと。
従って、「損害」の範囲は誰が決めるかとは、「損害」の解釈を最終的に決定する者は誰かという問題に置き換えられる。
これについて、最も有力な見解が、憲法81条で最高裁判所が「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を有すると規定されていることを根拠にして、最高裁判所だとされている。ただし、これはあくまでも「最終」の決定権者であって、最終に至るプロセスで、現実の過程の中では、立法府だったり、行政府だったりすることが日常茶飯事。その意味で、裁判所もまた地裁、高裁レベルでも「法の解釈」をする権限が与えられているから、裁判所も「損害」の範囲を自ら決めることができる。内堀が2017年3月末で無償提供を打 ち切る決定を出したからといって、裁判所はそれに服従して「損害」の範囲を従う義務はなく、裁判所自らの判断を示せる。
しかし、本件では、さらに新たな問題がある。それが「法の欠缺」。原発事故による「損害」は従来の「損害」論が想定範囲外であり、まさに「法の欠缺」状態にある。従って、このような穴である「損害」について「解釈」の余地はない。なぜなら、解釈とは法が穴ではなく、存在することを前提にして、その文言をどう読み解くかという行為だから。
そこで、「法の欠缺」状態にある本件の「損害」については、
第二に、「損害」の範囲とは欠缺状態にある「損害」の穴を補充すること。
従って、この場合の「損害」の範囲は誰が決めるかとは、「損害」の穴の補充を最終的に決定する者は誰かという問題に置き換えられる。
これについて、憲法にも法律にも、おそらく国際法にも規定はない。
そこで、条理に照らして、この難問を考えるほかないが、試行錯誤の中で辿り着いた私の結論は「欠缺の補充」の作用もまた、その1つである「類推解釈」が「解釈」という名称が使われていることから示唆される通り、規範的な創造行為という意味で、解釈作用と共通する側面を有する。この意味で、法解釈の最終決定権者と同様に考えてよい。
つまり、最高裁が「欠缺の補充」の最終決定権者であること、
最終に至るプロセスの現実の過程の中では、立法府も行政府も裁判所もめいめいに付与された権限の範囲内で、「欠缺の補充」を決定することが出来るものと解すべき。
つまり、裁判の中で、損害の範囲に関する「欠缺の補充」を決定する際に、「行政府の決定(例えば内堀決定)に従う義務はなく、あくまでも自らの判断で「欠缺の補充」を行えばよい。例えば、強制避難の避難者ばかりか自主避難者の住宅確保にかかった「損害」について、条理に照らして、2017年4月以降の分も「損害」に含まれるという「欠缺の補充」を行なうことは法的に全く何の問題もない。
その場合には、2017年4月以降の分については、県の2倍部分はむろんのこと、1倍部分の請求もまた「損害」である以上、これを被害者に請求することは許されず、端的に加害者の東電に「求償」すべきことになる。

これに対し、国も県も上記の主張を認めないわけですが、にもかかわらず、「住宅確保に要した費用」について、強制避難と自主避難を問わず、国と県はどこまでが「損害」で、どこからが「損害」ではないと主張するのか、その整理は殆ど不可能なはず。とはいえ、彼らとても、「住宅確保に要した費用」について「損害」はゼロであるとはさすがに言えないはずで、もしそうなら、じゃあ、どこまでが「損害」の範囲かを決定せざるを得なくなる。そこがつらいところで、損害の内と外の境界線を引くことが彼らの手に余るように思える。
そこで、ひとまず、内堀決定の中身に従って損害と非損害の境界線を引くことにしようと見えて、しかし、それでも2017年3月までの分は「損害」でないんなら、国はその分も避難者に請求しないとおかしいことになる。だが、そんなことはとても出来ない。他方、2017年3月までの分は「損害」だとしたら、今度は東電に「求償」しなくてはならなくなる。それもまたややこしいので、国はやらない。全てをゴチャゴチャにしたまま、グルグルポンで闇の中に葬るようにして、この「損害」論を終わらせようとしている。

最後の4つ目が、福島県の反論『国に対して2倍家賃を支払うという義務を負担する(現に支払っている)から、セーフティネット契約に2倍家賃条項を設けたこと、これを原告らに請求することは違法、無効ではない』というロジックのおかしさ。

このロジックは、次の思考実験「タイタニック号が大型タンカーにぶつけられて衝突したときに、国が乗客の救助が行う」、その時にたまたま国の救助船が間に合わなくて、民間の救助船に頼んで救助してもらったケースに置き換えると、そこで、民間の救助船から、非常事態に対応して大変だっというので国が通常の2倍料金を請求されてそれを支払った。そういう理由で、国が救助にかかった2倍料金の費用を負担したんだから、救助された乗客に請求することは別に違法でも無効でもない、と主張するのと共通している。
この思考実験では、災害救助に要した費用が「損害」である以上、費用を「肩代わり」した公的な組織は、被害者に請求するのではなく、最終負担者の加害者に「求償」すべき。それと同様に、本件も、勝負はセーフティネット契約終了後の2019年4月以降の「住宅確保に要した費用」が「損害」かどうかにある。もしこれが「損害」なら、県は県が「肩代わり」した費用を被害者の避難者に請求するのではなく、最終負担者の加害者=東電に「求償」すべきだからです。
ここでも勝負は3つ目の論点「損害」の範囲はどこまで及ぶか、であり、そして、この論点を判断する決め手は1つ目の、丸山真男の喝破した原爆・原発事故特有の「損害」概念の発見に行き着く。 

この従来の災害・事故では捉え切れない、原爆・原発事故特有の途方もない「時間的」スパンの中で「被災者」「人権(権利)」「損害」といった概念を再構成する必要があることを自覚・発見したとき、この発見に最もふさわしい「欠缺の補充」の指導原理を具体化したものが、「国内避難民」という規範であることの意味が分かった気がした。なぜなら、過去の経験からも(例えば、クルド人の迫害問題)、「国内避難民」は迫害の危険が伴う不安定な地位にいつ終わりが来るのか、その結論は簡単に引き出せず、長期にわたり「国内避難民」の地位が継続する可能性が高い。この意味で、原発事故特有の途方もない「時間的」スパンの中で原発事故避難者の地位を再構成する必要があるときに国内避難民」の概念はこの原発事故避難者の上記状態を最も的確に置き換えたものであるからである。
この意味で、国内避難民」という概念による補充は、単に法律の上位規範である国際人権法の1つとして登場したものにとどまらず、その「適合性」の点においても、原発
事故避難者の地位の本質的特徴を「時間的」スパンにおいて最も的確に言い表わした、その意味で最適な補充だったのだ。
4年前、2021年5月の追出し裁判第1回期日で、
国内避難民」に基づく居住権の保障を主張したが、その時は無我夢中で、それ以上のことまで考える余裕がなかった。いま初めて、国内避難民」という概念による補充が「法の創造行為」のお手本なのだという意味が分かった気がした。

おわりに
だらだらと取りとめもなく、書いてしまった。
この雑文の中核にある教えは次のものである。

「法の欠缺」の補充を正しく行え。
そのためには、やみくもに上位規範を探し出してきても無駄。
法の穴になっている部分の背景となっている事実関係(憲法なら「立法事実」)の本質的特徴を捉え、
その特徴と出来る限りピッタリ対応する上位規範を探索すること。
その実例が、原発事故避難者の地位にピッタリ対応したのが国内避難民」の指導原則という上位規範。
この経験は永遠に記憶される価値のある、「欠缺の補充」のお手本の最初の第一歩となるだろう。

 

 

 

2025年6月10日火曜日

【第107話】2025年の気づき9:住まいの権利裁判、もうひとつの「法の欠缺」が見つかった。それが「損害の欠缺」。そのおかげで今までの「法の欠缺」との関係も明瞭になった(25.6.10)

 政府の迷走。それは、原発事故による除染作業で発生した費用について、国が負担した分は東電に請求している一方で、原発事故による避難者が避難先で住宅確保に要した費用について、国が負担した分も東電に請求していると思うだろうが、実際にはしていない。なぜしないのか。その理由を説明しうる唯一のものは前者の除染費用は東電が負担すべき、原発事故により発生した「損害」であるのに対し、後者の住宅確保に要した費用はこの「損害」に該当しないから。

だが、果して、本当にそうだろうか。原発事故で大気中に大量に放出された放射性物質による被ばくを逃れるために、原発周辺の住民が住いから避難して、避難先で住宅確保のために費用が発生したら、それは通常、加害者が賠償すべき「損害」ではないのか。

この理は国も先刻承知している。だから、ざっくり言えば、原発事故直後に原発周辺の住民が避難先で住宅確保に要した費用が「損害」に該当することは認める。だが、本当の問題(アポリア)はその先にある。つまり、住宅確保に要した費用について、空間的に、そして時間的に「損害」の範囲はどこまで及ぶのか、それが分からない。言い換えると、避難先で住宅確保に要した費用は、原発からどの程度の範囲に住む住民が(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのか分からず、頭を抱えている。

それはその通りだろう。なぜなら、このような、従来の災害と比べ、桁違いの空間的な広がり(東日本壊滅の危機)と時間的な広がり(百年単位)をもった「損害」論は311原発事故まで日本は経験したことがない出来事だから、日本の過去の「損害」論に手がかりを求めても見つからないのは当然だ。この意味で、日本の法体系は311まで、桁違いの空間的及び時間的な広がりを有する原発事故による「損害」論は「法の欠缺」状態にあり、国に限らず、誰もがみんな、「損害」論に関する「法の欠缺」に頭を抱えることになるのは必至だ。

 それをさも分かったような顔をして処理しようとするからドツボにはまる。法哲学者の田中成明が言うように、我々はもっと素直になって、法の欠缺の事態を素直に承認し(「現代法理論」246頁)、そこから慎重に「欠缺の補充」作業を吟味検討すればいいし、そうするほかない。
以下、この「欠缺の補充」作業の吟味検討の中で明らかになったことをメモ風に書き出す。 

1、「損害」として自明と思われている除染費用も、実は住宅確保に要した費用と同様の困難な問題を孕んでいる(住宅費用ほど顕在化しないだけのことで)。ここでもまた、除染費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのかと問い始めると、途端に訳が分からなくなり、同様に頭を抱えてしまうからである。

2、この難問を解く鍵は、普段誰も問おうとしない次の問い《なぜ除染費用は「損害」なのか》、その理由を問うことの中にある。
除染費用が「損害」であるのは、
ひとつは、原発事故で大量の放射性物質が大気中に拡散して、住民の住いに降り注いだ結果、住民の生命、身体、健康に対する危険をもたらした、つまり人格権が侵害されたから。。
もうひとつは、住民の住いに降り注いだ結果、住民の土地、建物の所有権が侵害されたから。
その結果、こうした侵害を除去するために必要な除染作業に要した費用(=除染費用)は「損害」だと。つまり、いずれも「権利」侵害が認められるからだと。
       ↑
ここで重要なことは「損害」論と「権利」論が表裏一体、コインの表と裏の関係にあるということ。
そして、この関係は、除染費用に限らず、住宅確保に要した費用でも妥当する。否、実はすべての「損害」論に妥当する。なぜなら、そもそも「損害」の発生というのは「権利」(厳密には権利に限定されないが)侵害に対する事後的な救済として登場するもので、その本質上、両者を別々に考えるわけにはいかない。
以下、この観点から住宅確保に要した費用の問題を考える。

3、つまり、 住宅確保に要した費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、という「損害」の問題は、「権利(居住権)」論と表裏一体の関係にある。従って、
いつまで住宅費用が「損害」として認められるかは、いつまで避難者に「権利(居住権)」が認められるかという問題と同一である。そこで、この「損害」の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着する。
       ↑
ただし、ここで、事態が少々錯綜、複雑化する。というのは、除染費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は基本的に東電とされているのに対し、
住宅確保に要した費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は東電だけに限定されず、国もまた「権利」侵害の主体とされるからである。なぜなら、避難者が「国内避難民」として認定された場合、国(及び自治体。以下、国らという)は、その「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負い、国らがその義務を果たさない場合、それは国らによる「居住権」の侵害とみなされるからだ。
       ↑
その意味で、たとえば次のロジックはまちがいである。
住宅確保に要した費用が「損害」に該当する場合、県はこの「損害」をダイレクトに東電に請求すべきであって、被害者である避難者に請求し、さらに避難者が最終的な責任を負う東電に請求するという迂路を取るのは信義則上、許されない。

なぜなら、上記の通り、もともと国も自治体も、避難者の「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負う以上、その義務者が避難者に対し住宅確保に要した費用を請求すること自体が、上記法的義務に違反する行為であり、居住権の侵害と言わざるを得ないから。

4、そこで、「損害」論の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着するから、これについて吟味検討する。
 国際人権法が「国内避難民」について、人々がいつ「国内避難民」になるかという始期について規定しているのに対し、いつ「国内避難民」でなくなるのかという終期について規定していないのは、それなりの訳があり、思うに、「国内避難民」の終わりが簡単に訪れるものではない現実を反映していて、個別の事案ごとに慎重に検討して判断しているものと思われる(確認中)。
ただし、厳密には、「国内避難民」の終期と住宅確保に要した費用の「損害」の終期とは必ずしも連動する論理必然性はなく、たとえ国内亡命状態が継続中であっても、もし万が一、避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供された場合(いわゆる生活再建権の保障)には、或る一定の時点以降は自力で生活再建が果たせると判断して、住宅確保に要した費用の「損害」の終わりが到来したものと解する余地も可能だと思う。

仮にこのような立場に立ったとしても、それは「避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供されたか」どうかを慎重に検討して判断を下すべき事柄であって、県知事が国と協議して一方的に「損害」の終わりを決定できるようなものではない。

5、小括
 いずれにせよ、住宅確保に要した費用の「損害」の問題は避難者の「国内避難民」の居住権の問題と一体に考えて、その中で解決すべきである。それが上記の4。これが現時点で私の引き出した結論である。

 


 

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

◆ はじめに 311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含...