2025年6月10日火曜日

【第107話】2025年の気づき9:住まいの権利裁判、もうひとつの「法の欠缺」が見つかった。それが「損害の欠缺」。そのおかげで今までの「法の欠缺」との関係も明瞭になった(25.6.10)

 政府の迷走。それは、原発事故による除染作業で発生した費用について、国が負担した分は東電に請求している一方で、原発事故による避難者が避難先で住宅確保に要した費用について、国が負担した分も東電に請求していると思うだろうが、実際にはしていない。なぜしないのか。その理由を説明しうる唯一のものは前者の除染費用は東電が負担すべき、原発事故により発生した「損害」であるのに対し、後者の住宅確保に要した費用はこの「損害」に該当しないから。

だが、果して、本当にそうだろうか。原発事故で大気中に大量に放出された放射性物質による被ばくを逃れるために、原発周辺の住民が住いから避難して、避難先で住宅確保のために費用が発生したら、それは通常、加害者が賠償すべき「損害」ではないのか。

この理は国も先刻承知している。だから、ざっくり言えば、原発事故直後に原発周辺の住民が避難先で住宅確保に要した費用が「損害」に該当することは認める。だが、本当の問題(アポリア)はその先にある。つまり、住宅確保に要した費用について、空間的に、そして時間的に「損害」の範囲はどこまで及ぶのか、それが分からない。言い換えると、避難先で住宅確保に要した費用は、原発からどの程度の範囲に住む住民が(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのか分からず、頭を抱えている。

それはその通りだろう。なぜなら、このような、従来の災害と比べ、桁違いの空間的な広がり(東日本壊滅の危機)と時間的な広がり(百年単位)をもった「損害」論は311原発事故まで日本は経験したことがない出来事だから、日本の過去の「損害」論に手がかりを求めても見つからないのは当然だ。この意味で、日本の法体系は311まで、桁違いの空間的及び時間的な広がりを有する原発事故による「損害」論は「法の欠缺」状態にあり、国に限らず、誰もがみんな、「損害」論に関する「法の欠缺」に頭を抱えることになるのは必至だ。

 それをさも分かったような顔をして処理しようとするからドツボにはまる。法哲学者の田中成明が言うように、我々はもっと素直になって、法の欠缺の事態を素直に承認し(「現代法理論」246頁)、そこから慎重に「欠缺の補充」作業を吟味検討すればいいし、そうするほかない。
以下、この「欠缺の補充」作業の吟味検討の中で明らかになったことをメモ風に書き出す。 

1、「損害」として自明と思われている除染費用も、実は住宅確保に要した費用と同様の困難な問題を孕んでいる(住宅費用ほど顕在化しないだけのことで)。ここでもまた、除染費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのかと問い始めると、途端に訳が分からなくなり、同様に頭を抱えてしまうからである。

2、この難問を解く鍵は、普段誰も問おうとしない次の問い《なぜ除染費用は「損害」なのか》、その理由を問うことの中にある。
除染費用が「損害」であるのは、
ひとつは、原発事故で大量の放射性物質が大気中に拡散して、住民の住いに降り注いだ結果、住民の生命、身体、健康に対する危険をもたらした、つまり人格権が侵害されたから。。
もうひとつは、住民の住いに降り注いだ結果、住民の土地、建物の所有権が侵害されたから。
その結果、こうした侵害を除去するために必要な除染作業に要した費用(=除染費用)は「損害」だと。つまり、いずれも「権利」侵害が認められるからだと。
       ↑
ここで重要なことは「損害」論と「権利」論が表裏一体、コインの表と裏の関係にあるということ。
そして、この関係は、除染費用に限らず、住宅確保に要した費用でも妥当する。否、実はすべての「損害」論に妥当する。なぜなら、そもそも「損害」の発生というのは「権利」(厳密には権利に限定されないが)侵害に対する事後的な救済として登場するもので、その本質上、両者を別々に考えるわけにはいかない。
以下、この観点から住宅確保に要した費用の問題を考える。

3、つまり、 住宅確保に要した費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、という「損害」の問題は、「権利(居住権)」論と表裏一体の関係にある。従って、
いつまで住宅費用が「損害」として認められるかは、いつまで避難者に「権利(居住権)」が認められるかという問題と同一である。そこで、この「損害」の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着する。
       ↑
ただし、ここで、事態が少々錯綜、複雑化する。というのは、除染費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は基本的に東電とされているのに対し、
住宅確保に要した費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は東電だけに限定されず、国もまた「権利」侵害の主体とされるからである。なぜなら、避難者が「国内避難民」として認定された場合、国(及び自治体。以下、国らという)は、その「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負い、国らがその義務を果たさない場合、それは国らによる「居住権」の侵害とみなされるからだ。
       ↑
その意味で、たとえば次のロジックはまちがいである。
住宅確保に要した費用が「損害」に該当する場合、県はこの「損害」をダイレクトに東電に請求すべきであって、被害者である避難者に請求し、さらに避難者が最終的な責任を負う東電に請求するという迂路を取るのは信義則上、許されない。

なぜなら、上記の通り、もともと国も自治体も、避難者の「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負う以上、その義務者が避難者に対し住宅確保に要した費用を請求すること自体が、上記法的義務に違反する行為であり、居住権の侵害と言わざるを得ないから。

4、そこで、「損害」論の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着するから、これについて吟味検討する。
 国際人権法が「国内避難民」について、人々がいつ「国内避難民」になるかという始期について規定しているのに対し、いつ「国内避難民」でなくなるのかという終期について規定していないのは、それなりの訳があり、思うに、「国内避難民」の終わりが簡単に訪れるものではない現実を反映していて、個別の事案ごとに慎重に検討して判断しているものと思われる(確認中)。
ただし、厳密には、「国内避難民」の終期と住宅確保に要した費用の「損害」の終期とは必ずしも連動する論理必然性はなく、たとえ国内亡命状態が継続中であっても、もし万が一、避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供された場合(いわゆる生活再建権の保障)には、或る一定の時点以降は自力で生活再建が果たせると判断して、住宅確保に要した費用の「損害」の終わりが到来したものと解する余地も可能だと思う。

仮にこのような立場に立ったとしても、それは「避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供されたか」どうかを慎重に検討して判断を下すべき事柄であって、県知事が国と協議して一方的に「損害」の終わりを決定できるようなものではない。

5、小括
 いずれにせよ、住宅確保に要した費用の「損害」の問題は避難者の「国内避難民」の居住権の問題と一体に考えて、その中で解決すべきである。それが上記の4。これが現時点で私の引き出した結論である。

 


 

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