2025年11月28日金曜日

【第117話】民事冤罪事件に光を!:最高裁の誤判に国際再審手続の保障を実現するのは私たち市民の手にかかっている(25.11.29)

世界の常識である個人通報制度を日本に導入することを求める市民の声をカタチで示すため、オンライン署名をスタート。賛同の方は>こちらまで署名をお願いします。

1、或る民事冤罪事件の概要
昨日、最高裁から通知が届いた(上の書面)。私が代理人をつとめる、学問の自由の侵害に対して救済を求めた裁判を受理しないという数行の決定だった(平山朝治VS筑波大事件>詳細はブログ)。 

この事件は、2018年12月に起きた(NGT48のメンバー)アイドル暴行事件に関する論文NGT48問題・第四者による検討結果報告」が2020年1月より筑波大学のリポジトリで一般公開され話題となったところ、同年4月、株式会社Vernalossom(旧社名AKS。以下、AKSという)から「本論文は当社の名誉毀損にあたり、リポジトリからの削除を求める」と抗議文が著者と筑波大学に送られるや、筑波大学が同論文をリポジトリから削除した。同論文をリポジトリに再公開することを求めて、2021年6月、著者が筑波大学とAKSを相手に東京地裁に提訴した事件だった。

 提訴時の記者会見( 時事通信の記事『削除は違憲筑波大を提訴 アイドル暴行事件論文で教授 東京地裁」より)

3年後の2024年3月、一審の東京地裁の判決は、被告AKSが主張する名誉毀損は認めず、さらに被告筑波大学が同論文をリポジトリから削除する際の理由にしたアイドル暴行事件の被害者のプライバシーの侵害も認めなかった、では原告の言い分が認められたのかというと、さにあらず、判決は、この裁判まで被告らから取り上げられることのなかった「論文は同暴行事件の加害者のプライバシーを侵害をしたもの」を理由にリポジトリからの削除は適法と判断したのである。

しかし、被告らの主張からみても奇奇怪怪のこの論点に関する判断は、同暴行事件の加害者が事件後に自ら進んで事件についてカミングアウトしていた事実を無視したもので、誤判(法令適用の誤り)であった。著者はこの点を二審の東京高裁で主張。東京高裁はいったんは審理の見直しに着手したが、約1年後の5月の判決では、単に「(著者に)個人情報の不当な取り扱いがあり」とだけ指摘して、一審判決通りでよいとした。つまり、一審判決の奇奇怪怪の誤判をそのまま是認した。

やむなく著者は三度目の正直の上告審で、一審、二審の各判決が暴行事件の加害者のプライバシー侵害と判断したことが誤りであることを一目で分かるように理由書に記載(末尾の上告受理申立て理由書6~9頁参照)、この明々白々の誤判を詳細に主張した。その際、たとえ少数意見でも、二審判決は誤判である旨の判決が書かれることを期待した。しかし、昨日、全員一致の却下の決定が届き、誤判が確定した。
もともと裁判所が他の国家機関と根本的にちがうのは結論の理由を示す点にある。つまり結論を証明することが求められた点にあった。しかし、この却下決定には証明が要らない。「上告受理申立ての理由に当たらない」とさえ言えばそれで一丁あがり、原判決を是認できる。しかし、これは「結論を証明する」という司法の存在理由をみずから否定するにひとしい。前記の通り、原告が上告受理申立ての理由の中で、原判決が憲法に違反した「違憲判決」、法律の適用にも違反した「違法判決」であることを証明しようとしたのに対し、司法の存在意義を踏まえて誠実に対応するのであれば、最高裁は、原判決が「違憲判決」でも「違法判決」でもないことを自ら証明すべきである。それをしないまま、ただ一言「上告受理申立ての理由に当たらない」としか言わないというのは、司法が行なうべき判決として「未完成」のままほおり出したというほかない。

その通知を受け取り、最高裁はこんな明々白々の誤判すら見抜けないほどその目は節穴なのか、これでは市民は救われないと思い知らされ、そのとき、映画「それでもボクはやっていない」の監督周防正行が、この映画の制作中に語った次の言葉が思い出された。

僕は取材を始めて半年ぐらいたった時に、痴漢冤罪とか他のいろんな冤罪があるけれど、誰かに「何がいけないと思います?」と聞かれたら、「あ、裁判所だ」って思ったわけですよ。それはきちんと取材してそう思ったんだから、そのことは伝えなければいけない。裁判所はひどい。‥‥多分、いまの多くの人は、「十人の真犯人を逃がすくらいなら、一人ぐらい間違って有罪にしてもいいんじゃないか」って思ってるんじゃないか‥‥僕はそういう気がして、そういう社会的な雰囲気を感じているから裁判官も、平気で「判らないけど、ま、有罪にしとけ」って感じになるんじゃないのか。そんな気がしてならないんです。

刑事事件なら、当然、再審手続に移る事件だった。しかし、民事事件にはそのような手続は保障されていない。しかし、誤判であり、冤罪であるならば、民事事件でもその濡れ衣を晴らす途があっていいのではないか。18年前にも同様の民事冤罪事件に遭遇した時、この思いを実感し、次の文を書いた。

 民事冤罪事件 それでもボクはコピーやっていない--模写裁判サイト--

2、民事冤罪事件を救済する個人通報制度
しかし、当時、この思いをカタチにするやり方を知らなかった。その後、そのカタチがあることを知った。それが民事冤罪を国際的に救済する制度、個人通報制度(以下はアムネスティの解説による)。

人権を国際的に保障する国際人権法、それを具体化する手続のひとつ。
それは、人権条約に認められた権利を侵害された個人が、各人権条約の条約機関に直接訴え、国際機関で自分自身が受けた人権侵害の救済を求めることができる制度。

人権侵害を受けた個人は、その国において利用できる国内的な救済措置を尽くした後(日本の民事事件なら最高裁判決)であれば誰でも通報できる。その通報が受理され、審議された後に条約機関はその通報に対する見解を出す。見解には拘束力はないけれど、国際・国内の世論を高めることで国内法や運用の改正を図り、人権侵害の救済・是正を目指すことができる。

もしこれが使えれば、今回、学問の自由の侵害事件に対して最高裁が誤判をおかしたとして、自由人権規約の自由権規約委員会に、救済を求めて通報することができる。
この制度の活用の重要性を、今回、誤判を経験し、改めて痛感した。

ただし、これが使えるためには、この制度を日本政府が批准する必要がある。しかし、日本政府は各人権条約についてひとつも批准していない。このような国は、世界ではG7サミット参加国において日本だけ。OECD(経済協力開発機構)加盟37か国において日本とイスラエルだけ。この意味で日本は人権の最貧民国かつ世界に名だたる人権鎖国。そして、この汚名がまかり通っている最大の原因は当の日本の市民がこの事実を知らないからだ。知って行動を起こせば、日本は人権の最貧民国・人権鎖国から抜け出すことができる。そのカギを握っているのは私たち日本の市民()。この真理を改めて噛み締めている。

今回の最高裁がこのようなていたらくだとしたら、一事が万事、ほかにも沢山、これと同じような民事冤罪事件を経験させられている市民が沢山いるのではないか。世界の常識である個人通報制度を、今なお鎖国を堅持する日本の非常識な司法制度に吹き込むことにより、民事冤罪をめぐる環境はがらりと変わる。それは私たち市民の手にかかっている。

1951年に起きた「八海事件」を映画化した「真昼の暗黒」のラストシーンで、被告人は獄中から「まだ最高裁がある!」と叫んだ。百年後の私たちの合言葉は「最高裁がある」ではなく、最高裁を鎖国から解放し、国際人権法をカタチにした「個人通報制度がある」である。

)市民の声が個人通報制度を実現することを訴えた日弁連のパンフ>こちら
   今年2月の山形県弁護士会の個人通報精度の早期導入を求める決議

 上告受理申立て理由書 >全文PDF

        
アイドル暴行事件の加害者のプライバシー侵害の点について




2025年11月24日月曜日

【第116話】(【差し替え版】チェルノブイリ法日本版ニュースレター原稿)PTSDに苦しむ原発事故被災者が一歩前に出るために(25.11.24)


11月8日の第22回新宿デモ(脱被ばく実現ネット主催)

第115話】で紹介したチェルノブイリ法日本版の会の次回のニュースレター用の原稿が長すぎるので、その後、差し替え版を作成した。それが今月8日の第22回新宿デモで話したスピーチに当日、喋り切れなかった内容を補足したもの。

このとき、喋っていて、とても素直に、自然に、言葉が出てきて、こんな感じで喋れたのは初めてのような気がして、これが肝心なんだと合点した。その意味で、私にとって画期的なな経験だった。

11.8新宿デモのスピーチ動画>以下の末尾
・ニュースレター用原稿「PTSDに苦しむ原発事故被災者が一歩前に出るために」>こちら

以下は、字数制限のない、ニュースレター用原稿の元原稿。

   ***********************

PTSDに苦しむ原発事故被災者と予防原則が一歩前に出るために

1、PTSD

先日、JCO事故の被害者の人が事故後体調不良になり、村役場に相談する中で不満を募らせ、24年後に東海村と日立市の役所に車で突っ込んだ事件の判決があったというニュースを聞き、26年前のJCO事故の被害者の人がとうとうこういう形で暴発したという事実を知りました。

最近届いた或る通信に、母親がJCO事故で健康を害し、裁判を闘って負けたという息子さんの報告の最後でこの事件を取り上げ、JCO事故の健康被害者は3人だけが国の公式見解だが、外にも沢山いたことを覚えておいて欲しいと結んでいた。
その時私は、車で暴走したこの人はこの母親と似ている、そして、この報告の次に載っていた311甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんとも似ていると思った。
この報告を読んだ時それが21年前に切り抜いて壁に貼っておいた或る新聞記事()の内容だったのを思い出し、そこにJCO事故以後、寝たきりになってJCOと聞くだけで動悸が激しく苦しむ母親のことが書かれていて、PTSDと診断された彼女は5年後にようやく、事故直後に、敗戦で満州から命からがら引き揚げた幼少時の思い出が突然よみがえったと語り出した。それで息子さんは初めて母の「心の傷」に触れるきっかけを得た気がして、JCO事故が母に与えた傷は母が苦難をくぐり抜けてきた全生涯に及ぶ深いものであるという認識を新たにした

--21年ぶりにこの記事を読み直し、私は原発事故の被害の意味を単に病気や生活苦と見ることはできない、その人がそれまで心にフタをしてきた過去の苦難の全歴史が一気に噴出し、その人を苦しめ直す、心の傷が再発し暴走する。その苦しみは甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんも同じではないかと思ったのです。
のみならず、同様の苦しい思いをしている人たちはほかにもいっぱいいる、ふくしま集団疎開裁判、子ども脱被ばく裁判、仮設住宅から追出しを迫られた追出し裁判でも欝になった方たちが沢山いて、その原因は単なる偶然や本人の心がけのせいではなく、必然的、客観的な原因があるのではないか、それは、原発事故後に体調不良に陥り或いは避難生活の中で生活困窮に陥ったとき、自分を苦しめている原因は放射能の被ばく或いは避難者の生活再建を保障しない国の政策にあるのではないかと内心思っても、医師や国からは「放射能は関係ない。自分の責任で避難したのだから生活再建も自己責任が当然」と突き放されると、じゃあ何が原因なんだ、病気も生活苦も自分の生活態度が悪かったからなのかと思うほかなく、かといってそれで納得もできず、その結果、自分の素朴な疑問にフタをして、不本意な気持ちのまま自分自身の殻に閉じこもり病気や生活苦と向かい合うしかなくなる。けれど、フタの下で自分の素直な感情は依然マグマのように、医師や国はおかしいと思っているから、自身を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめる。それはその人から生きる尊厳を奪い、その人を人間失格にさせ、その人を深刻な心の病に陥れる。

他方、どんなに厳しい境遇であっても、もしその人に境遇と正面から闘う意味が分かり、誇りをもって闘い続けることができるのなら、それで馬鹿にされようが虫けらみたいにされようがまだ元気でいられる。しかし、医師や国の言葉にずるずると屈して、それに従うしかないと思うとき、その屈従は「放射能や国の政策が原因ではないか」という自分自身の素直な思いを心中に閉じ込めるフタとなる。けれど、そのフタの下で自分の素直な感情は依然マグマのように息づいているから、自身を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめる。この苦しみを解き放つ唯一の方法はそのフタを開け、フタの下に閉じ込めていたマグマの感情を正しく外に出すしかないのではないか。それを実行したのが甲状腺がん裁判の原告となった8さん。彼女は原告になる中で元気を取り戻していった。行動が心を正していった。

 ところで、これは決して原発事故の直接の被害者の人たちだけじゃなくて、私たち自身がみんな似た思いを抱いているのではないでしょうか。311以後、原発事故の救済をめぐって本当におかしなことばかり沢山あった。しかし、それを周りに言っても「いや、それはあんたの思い過ごし、妄想だ」と一蹴され、フタをするしかなかったことが多かったのではないでしょうか。しかし、当人は「いや、決して妄想でも何でもない、これには絶対根拠がある」とどこかで納得しなかったはずです。ただ、この思いをフタから出して表明する場所がなかった。しかし、甲状腺がん裁判に参加した原告8さんみたいに裁判という場があります。それ以外にもデモがあります。デモは私たちが普段フタをして心の底に閉まっている思いをフタを外して外に出して街頭でアピールする場なのです。そして市民立法も同様です。市民立法チェルノブイリ法日本版も、311以後、私たちが普段フタをして心の底に閉まっている思いをそのフタを外して外に出してその実現に向けて一歩ずつ進む取組みなのです。

2、予防原則

JCO事故の裁判は8年やって負けました。その理由を原告の息子さんは 因果関係の立証ができなかったから、要するに 原告に被ばくと病気の関係をきちんと立証しろと言われ、その証明ができないで負けたそうです。当たり前です。今の科学技術のレベルでさえ立証できない被ばくと病気の因果関係を、なんで普通の市民が立証できるのか。市民が立証するなんて本来できないのです 。元々それが無理なこと分かってて裁判でそれを要求する、その今の裁判のシステムが間違ってるんです。だから、それを正すことが本当に必要で、それを正すちゃんとしたテクニック、技術があるんです。それが予防原則です。予防原則というのは加害者のほうで被ばくと病気の因果関係がないことを証明しない限り因果関係はあったとされるというものです。いわゆる立証責任が被害者から加害者に転換されることを認めるものです。その原則が今の日本にはないんです。しかしこれは日本で作ることができるし、作るべきです。 そして私が思うにはこのような法律を作るのは最後は市民が決めるんです。決してこれは選挙で決めることではなくて、市民が決めることであることを最高裁がそう言っています。今、結婚制度は大きく揺れ動いていて、どういう結婚制度が合法かそれが最高裁でも問題になっていて、最高裁は判決でそれを決めるのは市民の意識だと表明しています。 つまり私たち市民の意識がいかなる結婚制度を認めるかを決める鍵を握っているんです。だから、これと同じような意味でいかなる因果関係のシステムを認めるか、予防原則を取るか否かは私たち市民が決めることができるんです。それを決める1つの大事な場がこのデモです。デモを通じて私たちは、市民の意識は原発事故による救済を予防原則で救えということを求めている、そのことを一緒に声を上げて言おうじゃありませんか。それによって市民の意識が変わり日本の法律も変わって、原発事故の救済が一歩でも前に進むのだと信じます。今日はそのためのさやかな一歩ですが、是非一緒に頑張りましょう。ありがとうございました。

 )2004年9月

          11.8新宿デモのスピーチ(柳原)



2025年11月20日木曜日

【第115話】(チェルノブイリ法日本版ニュースレター原稿)生活再建権の保障を法制化したのが日本版(25.11.20)

 チェルノブイリ法日本版の会の次回のニュースレターに原稿を寄せるので、この夏、信州松本の片田舎(四賀)で、日本版の会の有志でやった協同組合の学習会の合宿について書こうと思った。そう思ったのは、7年前、100歳で亡くなった脚本家・映画監督の橋本忍の次の言葉を思い出したからだ(>弟子たちと一緒の100歳の写真)。

(映画の仕事のどこが面白いのか、という問いに対し)
ロケ地の道路わきでスタッフ・俳優みんなと一緒にわいわいがやがや言いながら昼飯を食べるのが何よりも楽しいんだ

そうだ、これは単なる映画の話にとどまらない。このフラットな関係の中でおこなう協同労働=協同経営の映画作りの中にこそ、人類のひとつの普遍的なあり方が示されている、それが「協同組合」の精神なんだと気がついたからだ。

私にとって、協同組合は311後の避難者・被災者が生活再建を成し遂げる上で不可欠の就労システムだ。モンドラゴンの協同組合でもそうだが、現実に協同組合が実を結ぶところは、その前提として、彼らの生活に襲い掛かった人権侵害、様々な迫害に抗って、みずから生活再建を果たそうとアクションを起こした人たちだったことだ。 橋本忍にしても、24時間金儲けのことしか考えず、金儲けになる映画を作れとしか命令しない映画会社に抗って、「作りたくて、面白くて、その上、元も取れる映画を作ろう」とみずからアクションを起こした人、その意味で、協同組合の精神の光を放った映画人だ。

以下は、先週、東京地裁であった避難者住まいの権利裁判の中で起きた「小さなものすごい異変」とそれが協同組合の取組みに深く関係していることを述べた、日本版のニュースレター用に書いた原稿(おそらく長すぎて、カットされるので、ここに全文を掲載)。

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生活再建権の保障を法制化したのが日本版

1、 理性のつぶやきはやむことがない

 今月12日の避難者住まいの権利裁判で、裁判長が初めて仮設住宅提供の打切りを決定した福島県知事決定の手続に問題があるのではないかと決定の問題点に言及する訴訟指揮をした。これは私が311から14年目にして初めて経験した出来事だった。311以後、原発事故被災者・避難者は人間として扱われず、ずっと虫けらみたいにあしらわれて来たが、今回初めて、避難者たちの生活再建の状況や将来の見通しなどを本人たちにヒアリングもしないで打切りを決めた知事の決定の手続はやっぱりおかしいんではないかという理性のつぶやきが登場したからです。同時にそれは、避難者の住宅問題が解決しないのは根本的に彼らの生活再建の問題が解決しないからであり、311以後、避難者たちの多くが避難先で生活再建の見通しを持てずに厳しい生活環境に置かれているという過酷な現実をクローズアップするものでした。なぜなら、311以後、日本政府も福島県も県外に避難した避難者たちに、帰還すれば手厚い保護を与えるのに、避難先で生活再建できるような就労支援については、支援のしの字も実行しなかったという残忍酷薄な、人権侵害の政策が取られて来たからです。

2、生活再建を求める人たちの苦悩

 2013年3月、名古屋で、自主避難者のネットワークの結成総会でふくしま集団疎開裁判の話をしてくれと言われ、行った。総会の後の懇親会で、避難者が自己紹介をした時、若いバイタリティーあふれるお母さんが年子と思われる0~5歳ほどの子どもたち5人を連れて登壇した。 そのあとに、ちょこんと恥ずかしそうにお父さんが登壇、ポツリポツリと自己紹介を始め、最後にこう言った。
女房が逃げたいというので、みんなで逃げることにしました。その結果、私は会社を退職し、それで、こちらで新しい仕事を探しましたが、どうしても見つからない。最後に決まったのがガードマンでした。本当はもっとちがう仕事に就きたかったけれど、これしかなかったので、これでがんばります
奥さんと子どもたちを見ながら、悲壮な決意で、殆ど泣き出さんばかりに感極まって「がんばります!」と締め括った。その悲壮な姿に、思わず、おかしいだろ、なんで、自分たちが壊したわけでもない原発の事故のために、ここまで苦しまなくてはいけないのか。避難先で自立し、誇りに思えるだけの仕事に就くことを願うことがそんなに尊大で、そんなに厚かましいことなのだろうか。 個人の尊厳を認める社会なら、避難先で自立するために自分なりに納得が行く仕事に就くことは権利として認められて当然じゃないのか。 生活再建権という人権があることをもしこのお父さんが知ったなら、「そいつは、オレの権利だ!人間としての権利だ!」ときっと叫んだと思いました。

 原発事故が明らかにしたこと、それは避難者には人権として生活再建権があるんだということ。そして、それが保障されないために、声もあげられずひそかに苦悩、苦闘している避難者や避難できない人たちが、この国にはこのお父さんだけではなくて、ほかにも無数にいるということです。

3、生活再建の現実的な方法として協同組合の道は不可避

 他方で、人権の歴史が教えることは人権はこれまで「棚からぼたもち」式に市民に保障されたことは一度もないということです。それはいつも市民立法、つまり市民が自らの手で手に入れて初めて保障が実現した。ではどうやって手に入れるの?それは世界最初の人権である宗教の自由が示す通り、宗教の弾圧、宗教戦争という宗教の自由に対する情け容赦ない侵害に対し市民が「あらがい続ける」ことを通じて宗教の自由を手に入れた。つまり、人権侵害とそれに対する「あらがい=抵抗」が人権保障の実現にとって不可欠の前提条件だということです。この意味で、311後に原発事故被災者、避難者を襲った生活再建権や命、健康を守る人権の侵害という事実は歴然としています。あと足りないのは何か。これらの人権侵害に対して「あらがい=抵抗」することです。それが市民立法のアクションです。ただし、それを絵に描いた餅ではなく、現実のものにするためにはただあらがうのではなく、もっと創意工夫がいる。その1つが「協同労働=協同経営」という、市民自らがお互いに助け合って生活再建する協同組合の試みです。そんなのは夢でしょう?と思うかもしれませんが、世界にはスペイン・モンドラゴンを始めとしてそれに挑戦して成し遂げた数多くの実例があり、私たちはその気になればそこからいくらでも学べるのです。
 今年の夏、日本版の会の有志で、協同組合について学ぼうと信州松本市の片田舎で合宿をした。幸い、建物貸しだけで、あとの管理はすべて利用者がする。参加者自ら地元で食材を求め、台所でみんなで「協同調理=協同炊事」して「協同食む」。その経験は協同組合のささやかな実践として参加者の心に刻まれた。この時、私は「ロケ地の道路わきでスタッフ・俳優みんなと一緒にわいわいがやがや言いながら昼飯を食べるのが何よりも楽しいんだ」と言った、百歳まで現役で活躍した脚本家・映画監督の橋本忍の言葉を思い出した。非人間性の闇が世界を覆い尽している311後の日本社会ほど、「協同労働=協同経営」の理念の光が大切な時代はない、それが日本版の精神であることを痛感している。






2025年7月13日日曜日

【第114話】なぜ環境権は人権として認められないのか。その最大の理由は 環境権は終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」の中に収まらず、まだ誰によっても書かれたことのない未来の法「脳化社会の塀の外に出た法律」の切り札だから(25.7.14)

日本の七不思議の1つ
それが環境権。日本で環境権という言葉が初めて提唱されたのは半世紀以上前の1970年、日本弁護士連合会の人権擁護大会の公害問題に関するシンポジウムの中だった。また、その前年の1969年、画期的な東京都公害防止条例はその前文で「すべて都民は、健康で安全かつ快適な生活を営む権利を有し、この権利は、公害によってみだりに侵されてはならない」と宣言し、環境権の理念を明文化した。しかし、このような熱心な推進にもかかわらず、その後現在に至るまで、日本では法令にも判例にも環境権という言葉は登場しなかった。なぜか?

その際、いつも言われるお決まりの言葉が「環境権の範囲や内容が不明確だから」 。しかし、こんなことはおよそ全ての人権の言葉にも、また法の基本原理である「信義則」「権利濫用」「公序良俗」といった言葉に妥当することであり、にもかかわらず、これらの言葉は法令にも判例にもしっかり登場する。さらには、もともと多くの法律の概念というのは、あらかじめピシッと定義されることはできず、むしろ現実世界の個々の紛争の解決を通じてその権利の範囲や内容を一歩ずつ確定していくものであり、それが本来の姿であり、それで全く問題ない。ひとり環境権だけ特別扱いする理由はない。つまり「概念が不明確」という理由はただの弁解でしかない。
では、何が彼らをこうした弁解に走らせるのか?
それについてもあれこれ推理されている。 しかし、そこには「環境権」を他とはちがって特別扱いせざる得ない
それ相応の理由があるからだ。これについて、最近、私が思い当たったことがある。

環境権の画期的な意味
ーーそれは、
環境権はこれを本気で法律に導入しようとしたら、それは「脳化社会のに安住する塀の中の法律」の枠組みにとうてい大人しく収まることができず、この法律自体の枠組みを破壊してしまうほどの恐るべき異端児だからだ。なぜなら、環境問題の根源を問い詰めていったら、それは脳化社会が直面している、脳化社会の力では乗り越えられることができない限界(壁)にぶちあたり、それを解決するための切り札として登場した環境権とは、まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」の中でこそ見出せる性質のものだから。
だから、脳化社会にしがみつく人たちは、いったん環境権を安易に認知してしまうと、それは自分たちの安住する世界を足元から崩すことを熟知しているから、必死になって、用心深くこれを回避しようとしてきた。その結果が、これまでずうっと日本の法令にも判例にも環境権という言葉は登場しなかった事実である。

しかし、これは日本が現在なお鎖国状態にあることを示すものだ。なぜなら、世界の動静はポルトガル(1976年導入)を皮切りに、019年時点で国連加盟国 193 カ国のうち80%
以上の国(156 カ国)が環境権を認めているからだ(なぜ国際社会は環境権を認めたのか)。

「脳化社会の塀の外に出た法律」の切り札としての環境権の意義
では、環境権という言葉を認めることと認めなかったことで、どういう違いがもたらされたか。
その有名な事件が今から44年前、日本三大奇奇怪怪裁判の1つとされる1981年12月16日「大阪空港」最高裁大法廷判決。
もともと
第一小法廷で審理されていて、そこで差し止めを認めた二審判決を追認する方向でいたところ、被告国から大法廷での審理を求める上申書が出された際、元最高裁判所長官村上朝一から第一小法廷の裁判長宛に大法廷で審理するよう電話があり、それで大法廷に回されることになり、そこで結論が逆転したといういわくつきの裁判(誰のための司法か〜團藤重光 最高裁・事件ノート〜)。
この事件の特徴はこれまでの公害訴訟とちがって、加害(騒音)と被害の因果関係は明白で、その意味で本体での勝負はついていた。にもかかわらず原告の請求を退けるためには本体の前の訴訟手続論でケチをつけるしかなかった。そこで、「航空行政権」とかいう訳の分からない言葉を持ち出して、無理やり原告には本論に入る前の訴訟手続として差止め請求をする資格がないとして原告を負かせたのである。
しかし、このときまでにもし「環境権」という言葉が法令か判例に登場していたならどうだっただろうか。最高裁はこの人権と向き合わざるを得ず、こんな糞屁理屈でもって原告を負かせることは出来なかったはずだ。最高裁は「環境権」が法令にも判例にも登場していなかったことをもっけの幸いにこの裁判を強引に逃げ切った。

もう1つが311後の日本社会。原発事故で日本社会は原発事故の救済について人権侵害のゴミ屋敷と化した、しかもそのゴミ屋敷がネグレクト(放置)されたままに。このような事態が許されるのはなぜか。一方でそれは原発事故の救済を本気に実行することは脳化社会の枠組みを根底から揺さぶるものであり、脳化社会維持者にとってあり得なかった。と同時に、他方で、海外とちがい、日本では法令にも判例にも「環境権」という言葉は登場していなかったので、これをいいことにして、しらを切って逃げに出ようと。
だからもし、
311までに「環境権」という言葉が法令か判例に登場していたなら、日本政府はこんなにやすやすと逃げ切れなかった。この環境権」を具体化したのがチェルノブイリ法日本版。だからもし「環境権」が登場していたなら、日本政府は日本版の制定という問題と否応なしに向き合わざるを得なかった。その意味で、日本で環境権」という言葉が法令にも判例にも登場していない意味はものすごく大きい。

たかが法律用語、しかしされど法律用語。
環境権」という言葉は日本の脳化社会の行方を左右する地雷のようなホットな存在だ。
だから、「環境権」を具体化したチェルノブイリ法日本版の市民立法(日本各地の条例制定の取組み)とは、この地雷を日本社会のあちこちに埋め込もうという、脳化社会の未来を根底から揺るがす「環境権」をめぐるアクションであり、だから、これは身が引き締まるような最もホットな企てである。

2025年7月12日土曜日

【第113話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある。それが「生成法=生ける法」(2)(25.7.13)

昨年暮れに、次の投稿を書いた。

第24話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある(1)(24.12.16)。

とうとう見つかった。

何がさ? 

法律の終焉が。

海に沈む太陽のように。


そして、また見つかった。

何がさ? 

生成法の準備が。

大地から昇る太陽のように。

(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」のヴァリエーション)‥‥(略)
      ↑
この時は、なぜ
「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要があるのか、その理由について書いたが、それ以上、どうやって生成法を準備するのか、そのビジョンまでは書けなかった。

それから半年、ようやくそのビジョンの一端が掴めた気がした。それが協同組合の取組みによる「生成法=生ける法」の実行。つまり、ゆうちょ裁判を通じて、市民生活に関する法秩序の形成においては法の中身を生成する主役は市民自身であることを再確認したとき(第112話)、この「生成法=生ける法」の最も輝かしい局面が「一緒に働き、一緒に運営する(協同労働=協同経営)」の協同組合の取組みにあることに思い至った(第111話)。

このとき、私たち市民のイニシアティブで、つまり協同組合の取組みを通じて市民生活に関する法秩序が形成されるのだから、それは、我々は我々が理想とする、我々が望むやり方で市民生活に関する法秩序を形成するチャンスを与えられたことを意味する。だとすれば
「ここがロードスだ、ここで跳べ!」
協同組合の取組みの中で、我々は今までのような「脳化社会に安住し眠りこける法律」から抜け出して、「脳化社会の塀の外に出た法律」を目指してルール(規範)を作り上げていくことが出来るし、作り上げていく必要がある。

ここで、私たちは経済と政治が、日常と非日常が一心同体となったいわば交通の要所に立っている。それは、日々の足元(仕事の現場)での「脳化社会の塀の外に出たルール(規範)」作りの取組みが、市民社会の共通の「脳化社会の塀の外に出たルール(規範)」作りの基盤を形成するという意味だ。
それは人類がこれまで掲げてきた課題のうち最も困難で、なおかつ最も切実にその解決が求められている「脳化社会との対決」という最終問題だ。そのとき、上記のとおり、この課題の解決は一握りの権力者・専門家の手に委ねられるのではなく、当事者である我々市民の手に委ねられることが判明した。これ以上の僥倖はないと受け止めて、あとはその実行を一歩一歩うまずたゆまず歩むだけだ。


 

2025年7月10日木曜日

【第112話(追加)】法律学(自己)批判の四歩目:ゆうちょ裁判が問うた本質的なテーマ、それは「たがために法律はあるのか」(25.7.12)

(注)昨日書いたものの最後に、大切な気づきを追加した。

6回の双方の攻防を経て2日前に審理を終結したゆうちょ裁判(>最新の報告)。その5日前に提出した原告主張を総整理・集大成した書面を提出した(>準備書面(3))。
あとは、傍聴に駆けつける人たちに向けて、この書面をより分かりやすく解説する要旨を作成して、弁論当日、法廷で陳述するばかりとなった。

しかし、いざこの解説書面の作成に取りかかるや、この作業は独りで勝手に暴走し始め、分かりやすい解説どころか、ひとまず総整理・集大成をしたと思っていた書面がまだ不完全・不徹底であることがハッキリし、その結果、要旨という名のもとで、主張書面の再整理・再集大成をおこなうという羽目になってしまった。それが>要旨原稿

その不首尾を詫び、改めて、傍聴に来た人たち向けに、本来の解説書面を作成し、これを「もう1つの要旨」として公開・朗読することにして、その作業に取り掛かった。ところがまたしても、この作業は勝手に暴走し、その結果、再整理・再集大成したと思っていた書面がまたしてもまだ不完全・不徹底であることが明らかとなり、頭を抱えてしまった。そこで、3度目の主張書面の再整理・再集大成をおこなうことになってしまった。それが>もう1つの要旨原稿

この3度目の主張の再整理を通じて明らかになったことは「そもそも法律とは何のためにあるのか」という法律の存在理由を問うこと、これがゆうちょ裁判の中心的なテーマだということだった。
そして、ひとたび、この「法律とはそもそも何のためにあるのか」という法の存在理由を本件に即して明確に掴むことができたなら、そのとき、法律は私たち市民団体がやっている活動をサポートすべきであると確信をもって言うことができる。
そこから、私たちの活動にとって必要不可欠な団体名義の口座開設も認められるべきであるという結論が確信をもって引き出されるのだ。

それに気がつくまでは、単に、法律にそう書いてあるからといった形式的、概念法学的な考えで主張してきたきらいがあったのに対し、今度はもはやそんな機械的なレベルのことではなく、私たち原告の行っている市民活動という現実を法の使命、ミッションに照らして評価したとき、この市民活動は保障されるに相応しい、ゆえに団体名義の口座開設の自由も保障されなければならないのだということを普遍的な法的判断にのっとって主張することができることに気がついた。今度は、このやり方が「たがために法律はあるのか」を踏まえた紛争の正しい法的な解決のやり方なのだと自信を持って言うことができる。

ところで、この気づきはゆうちょ裁判だけにとどまらない、もっと広い、もっと深い意味を持っている。
なぜなら、この気づきによって、私たちは日頃から具体的な法律問題と向き合うときに「なぜそのような法律が存在するのか」というその法律の存在理由について思いを馳せ、自覚的になることができるから。そして、この自覚が私たちが法律を正しく使いこなして紛争を適正に解決する上で最も重要な羅針盤になるから。
市民立法というのは、自分たちの市民社会の法秩序を一握りの職業的専門家の手にゆだねるのではなく、市民自らが積極的に関わることによって作り上げていくという意味。そのためには法律の存在理由について思いを馳せて自覚する体験を積むことがとても大切なのだと思う。
のみならず、「団体に関する法律の存在理由」について思いを馳せ、これを理解するとき、現代の「団体に関する法律の存在理由」()から、我々市民ひとりひとりが普段から市民団体を通じて行っている市民活動ーーただし、手放しに何でもいい訳ではなく、それが普遍的な価値を帯びることを条件とするーーを通じて、現代の市民社会の法秩序の骨格を形成するのだという、最も単純で深遠な、最も重要な真理に気づかされた。なぜなら、ここで我々市民の市民活動こそが「生きる法=生成法」の基盤(土台)となるものであることが明らかにされたから。「生きる法=生成法」とは日常の市民活動を通じて市民社会の法秩序が形成されることにそのエッセンスがある。そうだとしたら、市民主導で立法を実現するという「市民立法」の意義も、何も市民が法律の制定権者である立法機関の議員とコンタクトを取る際に市民がリーダーシップを取るといったことだけを指すのではなく、むしろ、日常の市民活動を通じて市民社会の法秩序が形成される中にこそ真骨頂を見出すことができる。
その意味で、私たちは、普段、知らずして、日常生活の市民活動を通じて、ひとかどの立派な「市民立法」を実現しているのだ、たとえそれが1ミリほどの小さな歩みだとしても、それは「生きる法=生成法」としての偉大な一歩である。市民が歴史を作る、というのはこういうことを言うのだ。
ただし、市民活動であれば、何でもかんでも「生きる法=生成法」の基盤になる訳ではない。それは「普遍的な価値」を帯びる必要がある。では、市民活動の何が「普遍的な価値」なのか?それは簡単には判定できない。しかし、少なくともポジティブで創造的な取組みを通じて「普遍的な価値」に近づけると信じている。そこから、ポジティブで創造的な取組みに励もうと改めて思う。

以上のことに思い至ったとき、最初、なぜこんな単純なことを今まで思いつかなかったのだろうかと思った。ひょっとして、自分の気づきは根本的に間違っているのではないかとすら思った。しかし、再考する中で間違っていないことが確認できた。してみると、自分が至らないだけのことなのだと思い直した。

「団体の生理的機能を助長するとともに、その病理的現象の防止につとめること」

以上のような貴重な気づきを与えてくれた、この「もう1つの要旨原稿」を以下に再掲する。
その冒頭でこう書いた。

法律の存在理由は一番当たり前で、なおかつ一番よく分からない問題、経済学でいう商品みたいな問題です。

このとき、私はマルクスが資本論の序文と本文(商品の第4節 商品の呪術的性格とその秘密)で、「商品」の正体をめぐって四苦八苦したことを素直に告白し、
商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちたきわめて奇怪なものであることがわかる。
と書いていたことを思い出し、そうだ、法律現象における「法律」とは経済現象における「商品」のようなものであり、それゆえ、人は紛争を法的に解こうとしたら「法律」の存在理由のところでつまづくのは当然なんだ、ということを思い出した。ましてや、本裁判は紛争を法的に解こうとするための「法律」が制定されていない(法の欠缺)のであり、その法的解決はますますマルクスの上記の告白みたいに複雑困難になる(その解決のためには、法の穴になっている「欠缺」を補充することから始める必要がある)。
 四半世紀前、「アマミノクロウサギは裁判の原告になれるか」という法律の難問の解決に直面したときに、たまたまマルクスの資本論の上記の「商品」論を手がかりにそれを解こうとした(>「価値形態論」(自然権の理論構成)に関するスケッチ)。それを思い出し、実はそのときと同じことをまたくり返しずっとやっているのだということに気がづいた。

原告準備書面(3)のもう1つ要旨>全文のPDF


【第111話(追加)】法律学(自己)批判の三歩目:「生ける法=生成法」の最も明確なメッセージである「モンドラゴンの挑戦」に立ち帰る(25.7.13)

 第112話で、ゆうちょ裁判から「生ける法=生成法」についての新しいビジョンを授かり、そこから「市民立法」の意義も新しいビジョンも得たことを書いた。そしたら、「生ける法=生成法」の最も輝かしい場面が生産=消費協同組合の取組みの中にあることに気づいた。それをここ(第111話)で書いた。しかし、この気づきは奥が深く、汲めど尽きせぬ泉のように次から次へと新たな気づきをもたらしてくれる。以下は13日時点での、新たな気づきを反映させた追加版である。

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昨日のゆうちょ裁判(第6回期日)をやっていて、この裁判が究極的にめざしていることが何であるのか、分かったような気がした。
それは、私たちの市民団体「災害時の人権を考える会」の活動が私たちの市民社会の健全な育成にとって何かしらポジティブな貢献をしている、そのことを法がこれを法的にもポジティブなものとして承認すること、以上のことを裁判所に承認させること(表現がまどっろこくて申し訳ない)、そこにこの裁判の究極的の目標(のひとつ)があるのではないかと。

なぜなら、現代の市民法秩序の大原則の1つとして、団体に関する現代法の使命は団体が社会で果たしている生理的機能、これを助長することにある。そうだとしたら、この点で私たちは自分たちが所属する市民団体を通じて行っている市民運動が何かしらのポジティブな社会的作用を果たしていると認識できるならば、その社会的作用を法は原則としてサポートすべきであると要求していいのだ。
言い換えれば市民団体に対し憲法が保障している「結社の自由」とは、単に、市民が或る目的に向かってネットワークを作るのを妨害されないという消極的な義務だけではなくて、そうしたネットワークがスムーズに運営されるように必要な支援を要求できるという積極的な義務まで含まれるのだ()。その1つが団体名義の口座開設の自由が保障されること。それが今日における「結社の自由」の具体的、現実的な意味なのだと。

)国際人権法の自由権規約上の権利も、その確保のためには国の様々な積極的措置を必要とし、その過程では例えば公務員への人権研修のように漸進的に充実させていかなければならない側面が多々ある(自由権規約(40条1項)・社会権規約(16条1項)参照) 

そしたら、これまで市民立法「チェルノブイリ法日本版」の取組みとして考えてきた「生成法=生ける法」とは、このようなことを言うのではないかと直感的に合点した。
ゆうちょ裁判の原告のような、市民社会に誕生した市民団体がどのようなスタイルでどのような内容の活動を行うことが法的に可能なのか。それは国家が一方的に決めることではなく、むしろ我々市民自身が市民団体の活動を通じて決めることなのだと。つまり、我々市民が市民団体の活動内容および活動スタイルについて実際の活動の中で形成されてきて合理的で、適正と思うルール(規範)を提示したとき、国家はそれを吟味検討した結果、それが市民団体の生理的機能として是認されたならば、その機能をサポートする義務を負うというのが現代法の生成のあり方だから。
だから、そこで市民団体に関する法の中身を積極的に形成するのは市民団体の側にある。だから、ここで法の中身を生成する(生成法=生ける法)の主役は市民自身にあり、その法を制定、執行、適用する国家(立法・行政・司法)は市民が形成した市民団体の活動を肯定的あるいは否定的に評価するだけの脇役にとどまる。
もっとも、すべての社会現象に対する法の形成をこのように考えられていいか、現時点では分からない。が、少なくとも市民生活に関する法秩序の形成においては法の中身を生成する主役は市民自身なのだ。

そしたら、「生成法=生ける法」の中で市民が最も積極的な主役として行動できる場面として、「一緒に働き、一緒に運営する(協同労働=協同経営)」の協同組合が存在することに気がついた。
実は少し前から、日本版の会の或るメンバーが「スペイン・モンドラゴンの挑戦」が痛く気に入っているのを知り、この人が「モンドラゴンの挑戦」に心奪われているのは表面的なことではなく、もっと深い訳があるのではないかと、原発事故の避難者が避難先で仕事が見つけられないという窮状を打開する方法として「モンドラゴンの挑戦」にならって、自ら仕事を創り出す=起業によって克服する可能性があることを本気で信じているのではないかと、こそこで、「モンドラゴンの挑戦」という厳粛な真理に私も再び目を向けるようになったからだ。

そう思って、「モンドラゴンの挑戦」を振り返ると、それは本当に資本制社会の行き着くはてまで来たように思える今日の時点にこそ、むしろこの挑戦の意義がリアルに伝わってくるものがある。それは、資本制社会の賃労働システムの外に出た新たな経営システム(協同労働=協同経営)に挑戦したスペイン・モンドラゴンの協同組合が、さながら、今日の米国の市民社会の(思うに最良の)源流が400年前に宗教的迫害のイギリスから信仰の自由を求めて逃れてきた清教徒(ピルグリム・ファーザーズ)たちがメイフラワー号の中で「メイフラワー компакт」=多数決による自治を誓った彼らの「人権と民主主義の挑戦」を髣髴とさせ、これと同じように、私たちの未来を照らし出す象徴的な事件として、「モンドラゴンの挑戦」は私たちの前に聳え立ち、私たちをたえず鼓舞し支えてくれているように思える。

以下は、1999年9月、文芸雑誌「群像」に連載中の柄谷行人の「トランスクリティーク」最終回を読み衝撃を受け、そこから「モンドラゴンの挑戦」のことを知り、協同組合について書いた小文(2000年の「NAMの原理」に収められている)。この雑文も、もう一度、「モンドラゴンの挑戦」の可能性について再考する価値と必要があると思い、再掲した。

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生産協同組合について

2000926

敗残兵にならないための生産協同組合

先日、しばらくぶりに親戚の結婚式に出て、定年退職した従兄弟4、5人と会って、ビックリしました。いずれもこの間大企業を勤め上げたいわゆる企業戦士といわれる人たちでしたが、昔、一流企業に就職した頃の誇りと自信に満ちた表情に比べ、文字通り徹底的に痛めつけられ、ボロボロになった敗残兵という印象だったからです。もう会社の話なんか二度としたくないという感じでした。そして、かつて大手建設会社に勤務していた従兄弟が、今借りている農園での共同作業の話を、不思議なくらい熱を帯びて話し始めました。

私は、その話を聞きながら、もしもっと早く生産協同組合があったなら、この従兄弟はきっとそこに飛び込んで、こんな無残な敗残兵にならずに済んだろうと思いました。彼にとって苦痛だったことは、「労働が苛酷で給料が少ない」ということではなかったのです。仕事の中身が、余りに意に反すること、余りに誇りと無関係なことばかりだったからです。

これに対し、生産協同組合というのは、それがめざすものは、労働者がそういう敗残兵にならずに済むような場所のこと、今のところ「労働は厳しく、給料は少ない」かもしれないが、その代わり、自分の仕事に誇りと喜びが持てる場所のことです。

今の若者は、こういう敗残兵としての父親たちを見て、その二の舞をする必要はないと思う。かといって、父親たちの仕事に背を向けて、単なるフリーターにとどまる必要もないと思う。なぜなら、敗残兵にもならずに、かつフリーターにとどまることもなく、自ら積極的に自分がしたい仕事を、自分が誇りの持てる仕事を、自分に喜びをもたらすような仕事をする場所があるのだから。それが生産協同組合というものです。そして、そのような場の実現に努力する人たちが連帯する場としてNAMは存在したいと思っているのです。

 

生産協同組合の具体的なイメージ

もっとも、生産協同組合といっても、そんなものまだ見たこともないし、そんなことが果して可能なのか信じられない、ただの空想的なお話ではないかと思うかもしれません。しかし、それは決して空想的な話ではなく、既に現実に進行している出来事なのです。

ここで、生産協同組合のことを分かりやすいイメージで説明しますと、それは、一言で言えば、

  「労働者=消費者=市民の手に<生産>を取り戻す」

ことです。そして、この<生産>の中に、具体的なものを代入していけばいいのです。例えば、ここに「メディア」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手にメディアを取り戻す」

となり、これを半ば実現したのが、例のインターネットです。

私がこのインターネットの威力を実感したのが94年6月に起きた松本サリン事件です。この事件の第一通報者のKさんは、警察のみならずマスコミからもずっと犯人扱いされたのですが、このとき、私はKさん側の言い分も是非とも知りたいと思いました。しかし、マスコミはKさんの言い分を殆ど取り上げなかった。そこで、このとき、もし自分がKさんの代理人だったら、すぐさまホームページを立ち上げて、「私は、こう主張する」とKさんの言い分を全面的に展開して、これを全世界に発信したのにと思いました。そして、これが「市民の手にメディアを取り戻す」ことなのだと思い知りました。しかも、これは今すぐ実現可能なことで、決して空想的なことではありません。

 また、先ほどの公式に、コンピュータの頭脳部分である「OS」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手にOSを取り戻す」

つまり、巨大企業マイクロソフトを脅かす存在にまでなって、今大きな話題となっているLinuxといった無料OSのことになるわけです(http://www.linux.or.jp/参照)。また、ここに「発電所」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に発電所を取り戻す」

つまり、今、各地で取り組みが始まっている、危険な原子力発電所ではなく、安全な風力発電所や太陽光発電所を作る運動になるわけです(http://www.infosnow.ne.jp/~h-green/参照)。さらに、ここに「通貨」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に通貨を取り戻す」

つまり、今、世界で行われている、利子を生まないLETSなどの地域通貨の取り組みになるわけです(http://www.gmlets.u-net.com/参照)。

また、ここに「安全なバナナ」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に安全なバナナを取り戻す」

つまり、フィリピンのネグロス島などでで行われている、安全なバナナの生産協同組合の取り組みになるわけです(http://www.altertrade.co.jp/参照)。

このほかにも、この公式の<生産>の中には、銀行なり学校なり病院なりを入れることができます。そうすれば、「預金者が自分で投資するプロジェクトを選び、同時に自分で預金の利率を決める」(「エンデの遺言」83頁)ことができるドイツのGLS銀行みたいなものや

http://www.gemeinschaftsbank.de/参照)、或いは東京シューレなどのフリースクールになるわけです(http://www.shure.or.jp/office/tokyo/参照)。さらにまた、そこに、レコード会社、映画制作会社などと自分たちがやってみたいと願うことを入れてみて、その実現に向けて取り組むことができるのです。こういう風にして、生産協同組合のイメージはどんどん膨らましていくことができるです。

 

生産協同組合の実例―音楽のケース―

次に、実際にどのような生産協同組合があるのか、その実例を紹介したいと思います。

それは、音楽の分野で、インディーズ的志向の極めて強いアーティスト/プロデューサーたちが「自分たちの作りたい作品を自分たちのペースで作り続けていきたい。そして、作り上げた作品を、アーティストと彼らの作品を支持してくれるユーザーたちにきちんと届けたい」という願いを原点にして、それを実現できる仕組みを考えているうちに、アーティスト/プロデューサーたちの協同組合的なシステムを作るしかないということになったケースです。

音楽の分野では、アーティスト/プロデューサーは、通常、①お金を持っていませんし、②CDを制作するための事務処理をこなす体制も、③またCDを販売するための流通の仕組みも持っていません。そこで今までなら、これらは全て①出資者②レコード会社③流通会社に依存するしかなかったのです。その結果、アーティストたちは、否応なしに、こうした連中の支配に置かれることになったわけです。そうすると、グループ「チューリップ」の財津和夫がこの前雑誌に書いていたように、「チューリップ時代は、売れる曲を書かなければという強迫観念から逃れられずに、ずっと走り続けてきました」といった、企業戦士同様のボロボロの敗残兵に成り下がるしかなくなるわけです。

そこで、もうそういう無残な二の舞はくり返したくない、かといって、作りたいものも作っても誰にも聞いてもらえずただヤケクソになっているのも絶対嫌だ、というところから、今回のアーティスト/プロデューサーたちの新しい試みは始まったといえます。

そこで、彼らは何をしたかというと、上の3つの仕組みを自分たちの手で作り上げたのです。①CD制作のためのお金を集める仕組み(=投資組合)も、②CD制作の事務処理をするための仕組みも、③制作したCDを販売するための仕組みも自分たちで作り上げたのです。いわば、自分たちの手で①銀行の機能を持った仕組みと、②レコード会社と、③レコードの流通会社を作り出したのです。それが、彼らの生産協同組合というものです(下図参照)。

では、これがそれまでの仕組みと比べてどこが新しいかと言いますと、まず①お金を集める仕組みについてですが、第一に、権利の帰属を変えたのです。それまでだったら、レコード制作に必要な費用を出資者から出してもらうと、レコードを作ったときに発生するレコード原盤の権利というのはみんな出資者(原盤会社)の手に渡り、アーティスト/プロデューサー側には残らなかったのです(そのため、いくらレコードが売れても、原盤の権利に発生する利益〔=ロイヤリティ〕はみんな出資者のものとなり、実際のクリエーターであるアーティスト/プロデューサーたちの元には僅かなロイヤリティしか還元されなかったのです)。ところが、この新しい投資組合という仕組みでは、出資者から出資は集めるけれど、原盤の権利はアーティスト/プロデューサーの元にとどめておくという新しいやり方を取ったのです。もちろん、作品がヒットすれば、それに応じて、出資者にも利益が分配されるような仕組みにはなっていますが、原盤の権利はきちんとアーティスト/プロデューサーの元にとどめ、そのため、末永く人々に聴かれる作品を創作すれば、それに対する見返りがきちんとアーティスト/プロデューサーに還元されるようにしたのです。

もっとも、この原盤の権利をアーティスト/プロデューサーが持っている場合と持っていない場合とでは実際上どれくらい違いがあるのかと言いますと、確かに後者の場合でも、レコーディングをしたアーティストには、アーティスト印税というのが発生します。しかし、その数値たるや、通常、定価の1%でしかありません。これに対し、原盤の権利を持っていれば、原盤印税が発生するのですが、その数値は、通常、邦楽で定価の1020%、洋楽で定価の1525%と、アーティスト印税とは比べものになりません。つまり、音楽の世界では、原盤の権利を持っているかいないかが決定的なのです。

第二に、アーティスト/プロデューサーにレコーディングに関する経済的な責任を負わせなかったのです。音楽も他の商品と同様、実際に売ってみなければ果して売れるかどうか分かりません。その結果、思ったような売上げにならず、投資した金額が回収できない場合が出てきます。このような場合、インディーズの映画などでは、監督やプロデューサーの個人資産(なかには親戚一同の資産まで)を処分して、赤字分の穴埋めをするようなことがザラです。その結果、監督やプロデューサーたちは、一度興行に失敗すると、生活の基盤さえ失い、二度と映画を作るチャンスを持てなくなるのです。ところが、アーティスト/プロデューサーに対するこうした過酷な責任追求がないようにしたのが、今回の投資組合の特徴です。つまり、アーティスト/プロデューサーは、実際に回収できた分だけでそれ以上の責任は負わなくていいとしたのです。その結果、もちろんそのようなアーティスト/プロデューサーは、引き続き同じような投資を受けることは困難になるでしょうが、しかし、映画の監督やプロデューサーみたいに、借金の返済のため、住まいを追われたり、行方をくらますような悲惨なことをしなくて済むのです。頑張れば、ずっと容易に立ち直れるチャンスがあるのです。

第三に、今回の投資組合を立ち上げたときには、、まだ法律ができていなかったので間に合わなかったのですが、その後、投資事業有限責任組合法(9811月より施行)という投資組合に関する画期的な法律が成立したのです。この法律がどうして画期的かというと、それは、従来でしたら、投資組合を作るときには、通常、民法に定めた組合という制度しかなかったのです。しかし、この組合では、組合が第三者に負う負債に対し、組合に出資した者は単に出資した金額ではなく、出資者の全財産をもって責任を負わなければならなかったのです(無限責任)。こういう重い責任では、投資家は出資を躊躇せざるを得ず、そのため、従来の組合方式でスムーズに出資を集めてくることは大変困難だったのです。ところが、この新しい投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を使えば、出資者は、単に出資した金額だけ責任を負えばいいことになります(有限責任)。その結果、この方式により出資が非常にスムーズに実行されるようになったわけです。但し、この法律は、もともとアメリカに大きく立ち遅れている日本のベンチャー企業の保護育成のために立法されたものです。しかし、それが思いがけず生産協同組合の保護育成にも大いに応用可能なものとなったところが、もともと軍事目的で始まったインターネットなどと似ていて、興味深いことです(なお、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合については、最後の生産協同組合の形態の検討のところでもっと詳しく解説します)。

 

次に、②レコード会社と③レコードの流通会社の点ですが、いくつものアーティスト/プロデューサー集団が集まって、協同して、レコード制作とレコード流通に必要な事務処理を全て管理・処理するレコード制作の管理会社とレコード流通の管理会社を自分たちで立上げたのです。それまでだったら、基本的にはアーティストとプロデューサーとアシスタントだけの少人数のグループでは、とても自分たちで、レコード会社やレコード流通の会社をやるなんて不可能だったのです。そのため、いやいやながらも、大手のレコード会社やレコード流通の会社に対し、彼らの言いなりの条件を飲んで、これらの業務を委託していたのです。でなければ、自分たちの作った作品を世に知ってもらう手段がなかったからです。しかし、こうした弱小の、しかしインディーズ的志向の強いアーティスト/プロデューサーたちでも結束すれば、それまで夢でしかなかった、レコード会社とレコード流通の会社を自分たちでも持てるようになったのです。しかも、これは、自分たちが作ったレコード制作の管理会社とレコード流通の管理会社ですから、アーティスト/プロデューサーの夢を支えるために存在する会社です。だから、自らが肥え太るのではなく、その反対に、徹底的に安いCD製造コストをめざし、徹底的に安い著作権等の業務管理コストをめざし、徹底的に安いCDの流通コストをめざしたのです(それは、個々のアーティスト/プロデューサーたちが集まって、こうした業務を専門に行う会社を立ち上げることにより実現したのですが)。この点が、既存の大手のレコード会社やレコード流通の会社と決定的にちがいました。

このような、いわば「アーティストの、アーティストによる、アーティストのための協同組合」という仕組みが、商業主義の仕事に飽き足らない、仕事そのものに誇りと喜びを求めるアーティスト/プロデューサーたちの共感を呼んだのは当然のことでした。発足当時、6つのアーティスト/プロデューサー集団でスタートしたこの協同組合も、1年後には6倍の36ものグループ、1年半後の2000年9月現在では55のグループが結束し、こうして、自分たちの作りたい歌を作り続けられることを可能にするシステムの中で、ここに集まったアーティスト/プロデューサーたちは、ようやく次の課題――自分たちが作る音楽が果して人に聴いてもらうに値するものかどうかという真価が問われるという本来の課題――と取り組んでいるのです。

 

生産協同組合の可能性―NAMの存在意義―

もっとも、音楽の世界で最初にこうしたアーティスト/プロデューサーたちの協同組合が現実に出現したのには、いろんな要素があって、とりわけそれを企画し、出資者たちにもこの新しい仕組みの素晴らしさを説いて回って出資を説得した或るプロデューサーの存在が大きいと思います。この人は殆ど情熱と信念と倫理の人という感じですから(本人は「何か新しいことをやるとき必要なのは、よそ者とバカ者、若者の3つで、自分はバカ者だ」と言っているそうですが)。

その意味で、音楽の世界にせよ、これ以外の世界にせよ、こうした協同組合を立ち上げていくのには「情熱と信念と倫理の人」の存在が不可欠であり、そう簡単に一筋縄ではいかないでしょう。

しかし、たとえひとつでも、こうしたクリエーターたちの協同組合が現実に出現して成長している事実、これは、Linuxの出現などと同様、ものすごい貴重なものです。なぜなら、この事実だけでも、それがあとに続く人たちに、何とか制作と流通を自らコントロールするシステムを作ってやれば出来ないことはないのだという気にさせ、あきらめないでやり続ける希望を与えるからです。

そして、NAMというのは、生産と流通の自主性をめざして同じように試みをしている人たちを横につないで、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を交流する媒体として役立つのではないかと思います。

私自身、これまで法律家として主に映画の方面の仕事をしてきました。しかし、インディーズ系の映画のクリエーターの人たちから受けた法律相談というのは、著作権のことでは全くなく、それとは無関係な、映画制作で背負った借金をどう返済したらいいかとか、破産手続をどうやってやるのかといったものばかりでした。或るプロデューサーの人はこうも言っていました、「我々映画人は、『橋のない川』みたいなものだ。なぜなら、我々は『人に非ず』なのだから」。しかし、NAMの原理からすれば、音楽で成功したクリエーターの協同組合が映画でもやれない筈はない。事実、私が教えている或る映画学校で、若い生徒たちにこの音楽の協同組合の話をすると少なからぬ若者が目を輝かせる。これが成功するかどうかは、殆ど「あきらめないでやり続ける」かどうかにかかっていると思う。もし、NAMが、こうした試みに対し、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を交流する媒体として役立つのなら、そのときNAMは、「橋のない川」にかけようとする現代の橋となるにちがいない。私の願いもまたそこにあります。

最後に、これまで、経済的な自由や自主性を勝ち取るために、多くのクリエーターの人たちが様々な試みをしてきたと思いますが、それはだいたいうまくいかなかった。しかし、それは彼らがダメだったからではなく、今まで、彼らの目標の実現にとって何が正しい方向か、それがきちんと見出されていなかったからだと思う。そのために、今では、こうした試みに時間と労力を割いてきた多くのクリエーターの人たちはすっかりやる気をなくしているのが現状だと思います。しかし、これらの人たちは、ここに述べたような生産協同組合の可能性について、まだ徹底的に追求してこなかったこともまた事実です。

NAMは、こうした誠実な人たちに対して、生産協同組合の可能性について、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を提供する媒体であり、自分たちの運動に何が欠けていたのかをもう一度考えさせる貴重な場だと思います。

その意味で、未来以外失うものが何もない若いクリエーター(の卵)だけでなく、過去の運動の中で失ってしまったと思い込んでいる先輩のクリエーターの人たちも、クリエーターである以上は、いつまでたっても否応なしに経済的な自由と自主性の課題を背負わざるを得ないわけですから、そうであるなら、この経済的な自由と自主性を確実に勝ち取るための方向性――生産協同組合の可能性――について、NAMと共に、あきらめずにクリエティブに探求し続けて欲しいと願うものです。

 

生産協同組合の形態の検討

やや専門的になりますが、ここで、生産協同組合を立ち上げていく際、もっかのところ、法律的にどんな形態が可能であり、またそのうちどれが最も有効なのか、それについて解説しておきたいと思います。

ところで、法律というのは、所詮、特定の現象をあとから正当化するための理屈にすぎませんから、生産協同組合の理想的な形態を考えていくためには、ひとまず法律をカッコに括って、そもそもいかなる形態をめざすことが生産協同組合として有効なのかを見ていく必要があります。

1、徹底したコストダウンをめざした形態を模索

言うまでもなく、私たちは資本主義生産の中におり、生産協同組合を立ち上げていく際にも、こうした資本主義的な企業との過酷な競争に否応なしにさらされます。従って、資本主義的な企業との競争に負けないような工夫を見つけ出すことが不可欠となります。そのひとつが徹底したコストダウンのための工夫です。そこで具体的に考えられたのが、90年代に復活したアメリカ企業の切り札とも言われたアウトソーシング(=業務の一部の外部委託)の協同組合的応用です。

つまり、いくら小さくとも個々の生産協同組合(的な組織)が独立して企業を立ち上げるとなると、例えば、先ほど例にあげたレコード会社にしても、資金の調達から始まって、CDの制作業務、CDの販売業務、CDのプロモーション業務といった様々な分野の業務をひとりでこなしていかなければなりません。これは零細の生産協同組合にとっては大変なことです。しかし、よくよく考えてみると、このうちで、ほかに代替不可能なその協同組合特有の活動というのは、作曲・作詞、レコーディングといった創作的な活動部門だけであって、それ以外の部門というのは、必ずしも個々の生産協同組合自身が担当しなければできないものではありません。ここに目を付けたのが、ほかに代替不可能な創作的な活動部門は個々の生産協同組合に残し、それ以外の部門は、個々の生産協同組合たちが集まって新たに結成した別組織の協同組合に委託するというアウトソーシング方式という工夫です。例えば、先ほどのレコード会社で言えば、新たな協同組合として、資金の調達部門を担当する組織、CDの制作に関する著作権処理などの業務部門を担当する組織、CDの販売業務部門を担当する組織、CDのプロモーション業務部門を担当する組織をそれぞれ立上げ、個々の生産協同組合は、そこに各部門の業務をアウトソーシング(外部委託)することにしたのです。つまり、これによって、クリエーターたちは、最も得意で本来やりたいと思って始めた創造的な分野=音楽活動に専念できることになります。

以上のことを図にしてみると、次のようになります。

2、アウトソーシング方式を可能にするベストの組織形態の検討

(1)、以上のようなアウトソーシング方式でいくと、その形態は次の3つに分類できると思います。

非代替的な得意分野だけに特化した個々の協同組合

新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達を専門に扱うもの。

新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達以外の生産活動の部門を専門に扱うもの。

ここで、新たに創設する別の協同組合を②資金調達と③それ以外の生産活動の部門とに分けたのは、資金調達は、生産活動から自律した固有の活動であり、資金に特有な事柄・問題をはらむものだからです(業務の主な流れも、それ以外の生産活動の部門が、個々の協同組合→専用の組織 なのに対し、資金調達の場合、専用の組織→個々の協同組合 と正反対になります)。

(2)、まず、②の資金調達を専門に扱う組織形態についてですが、これまでα株式会社の方式とβ民法上の任意組合の方式(民法667条以下)がありました。先ごろ、大正生命から85億円を詐取したとして投資会社「クレアモントキャピタルホールディング」の代表者が逮捕されましたが、あれなどは、株式会社方式の投資専門組織です。これに対し、例えばある映画を製作するために製作資金を集めたいという風に、もっと手軽に投資組織を作りたいときにこれまで活用されてきたのが、民法上の任意組合の方式です。これだと、株式会社方式みたいに、いちいち厳格な組織を立ち上げたり、資金調達の目的が終了するたびに会社を整理するみたいな面倒な手間が要りません。しかし、その代わり、これは投資者に無限責任を負わせる(組合が第三者に負う負債に対し、組合に出資した者は単に出資した金額ではなく、出資者の全財産をもって責任を負わなければならない)ものですから、投資者は、相当のリスクを覚悟しなければなりません。

そこで、そのリスクを軽減し、かつ株式会社ほど厳格な手続が要求されない新しい組織として98年から登場したのが、投資事業有限責任組合法(正式名称は、中小企業等投資事業有限責任組合契約に関する法律)に基づく投資組合です。これは、基本的には従来の民法上の組合の枠組みに立つものですが(従って、株式会社みたいに最低1000万円の資本金が要求されるようなこともありません)、しかし民法上の組合とちがって、投資者(=組合員)は、組合が第三者に負う負債に対し、単に出資した金額だけ責任を負えばよい(有限責任)という立場を採用し、これにより、投資者が安心して投資できるようにしたのです。その意味で、もっかのところ、②の資金調達を専門に扱う組織形態として、この投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を選択するのが最適だと思います。

但し、この投資事業有限責任組合法に基づく投資組合にも、なお大きな問題があります。それは、この法律が投資先として許容しているのが、基本的に中小の株式会社だけであり、同じ中小の組織であっても、それ以外の形態の組織、例えば、民法上の任意組合や有限会社や中小企業等協同組合法による企業組合(注1)、事業協同組合(注2)や最近話題のNPO法人などに投資することを認めていないことです(法31項)。

そのため、投資専門組織として投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を選択した場合、投資先になる個々の協同組合は、株式会社の形態を取らざるを得ません。つまり、①の非代替的な得意分野だけに特化した個々の協同組合の形態は、当面、株式会社の形態を取らざるを得ないことになります。そこで、私たちとしては、とりあえず株式会社の形態を受け入れた上で、その中で、可能な限り協同組合的な組織形態や運営方式を実現できるように、さらに新たな工夫をすることになります(例えば。くじ引き制度。こうした制約の中で、くじ引き制度は協同組合的な運営を実現するものとして大変重要な意味を持つことになるでしょう)。

 なお、この個々の協同組合の形態として、株式会社以外のものが、どんな長所や短所を持っているかを表にしてコメントをつけておきましたので、参考にして下さい(ここでは、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合のことを「投資事業有限責任組合」と略称します)。

1 民法上の組合

 民主的運営の観点(②1)からすれば、出資額の多寡に関わらず、一人一票の原則を取る民法上の組合は結構。が、対外的な債務の責任(①2)について、組合員が個人財産の全てをもって責任を負う無限責任の原則を取るので、この点で問題。

→そこで、対外的な債務の責任についても、組合員の出資額の限度でしか責任を負わない有限責任の原則を取る形態を探すと、思いつくのが、中小企業等協同組合法の企業組合。

 

*2 中小企業等協同組合法の企業組合

  これは、民主的運営の観点(②1)からも、対外的な債務の責任(①2)の点からも、申し分ない制度ですが、反面、組合員になる資格(②2)が非常に厳しくて、原則として事業専従義務を満たした者だけしか組合員になれないという制約がある。

  そのため、事情に専念できない形で関与する者も参加を予定している場合、現行法の企業組合では無理。

→組合以外の形態を探してみた場合、思いつくのが、まず小人数での共同経営に適しているのが有限会社。

 

*3 有限会社

 ここの最大の問題点は、資金をどうやって調達するか(①2)。株主(=組合員)という形で多くの人から資金を募集するという方法を取ると、そもそも小規模を前提にした有限会社ではなくなるし、さらに現在の企業と殆ど変わりなくなり、協同組合の民主的な共同経営の理念が後退してしまうおそれがある。その意味で、資金調達の問題(①)と共同経営の問題(②)を区別できる形態が望ましい。そのための技術が、投資事業有限責任組合からの投資(=株式保有)という方法(①1)。しかし、これは、投資事業有限責任組合に関する法律により、有限会社ではダメで、株式会社にしか投資できないことになっています。

 

*4 株式会社

 ここでは、株式会社の形態を取りながら、いかにして協同組合の民主的な共同経営を実現するかが課題となります。

 ひとつの試案ですが、これから立ち上げようとしている雑誌「批評空間」を発行する出版社の場合、株式会社の形態を取りながら、協同組合的な性格を維持するために、とりあえず次のような技術を考えています。

 まず、出資はするが編集・経営には関わらない人には、「批評空間」の出版社に投資する投資事業有限責任組合に出資してもらい、投資事業有限責任組合の名で出版社の株を保有することにする。他方で、出資もするし編集・経営にも関わる共同経営者には、出版社の株を直接かつ全員同株数だけ保有することとする。

 このようして、資金調達の問題(①)と共同経営者の問題(②2)を区別し、なおかつ同数の議決権を持つ少数の共同経営者により、経営を資本的ではなく協同組合的に運営するようにしたものです。

 

(3)、さて、残された③の新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達以外の生産活動の部門を専門に扱う組織形態については、法律的に特にこれといった制約はありません。法律的には、多くの形態から選択することが可能で、株式会社や有限会社、民法上の任意組合、中小企業等協同組合法による企業組合や事業協同組合まで全て可能です。あとは、協同組合の性格と各業界の実情を踏まえて、最も運営しやすい形態を採用すればいいと思います。

 

(注1)企業組合

「個人事業者や勤労者(4人以上)が組合に事業を統合(個々の資本と労働を組合に集中)して、組合員は組合の事業に従事し、組合自体が一つの企業体となって事業活動を行う組合です。企業組合は、組合員が共に働くという特色をもっており、そのため組合員に対し組合の事業に従事する義務が課せられております(原則として組合員の3分の2以上が組合の事業に従事しなければなりません。さらに、組合の事業に従事する者の2分の1以上は組合員でなければなりません)。また、組合員は個人に限られますので、会社は加入できませんが、事業者に限らず勤労者なども加入できます。」(全国中央企業団体中央会のホームページの解説より。

http://www.chuokai.or.jp/cat_02/g2.html参照)

(注2)事業協同組合

「組合は組合員の事業を支援・助成するための事業ならばほとんどすべての分野で実施できます。組合の設立も4人以上集まればよく、気心の合う同じニーズをもった事業者だけで比較的自由に設立でき、中小企業者にとって非常に設立しやすい組合として広く普及しており、最も代表的な組合」(同右)

 

3、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合の概要

では、簡単に、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合がどんな仕組みになっているか、解説しておきます。

 一言で言うと、この投資組合は、もともと中小のベンチャー企業向けの投資組合として最も相応しい形態を備えているものとして構想されたといえます。つまり、

     1000万円の最低資本金制度などの厳格な手続を要求する株式会社と異なり、民法上の組合と同様、シンプルな組織としてスピーディに立ち上げ、運営することが可能であること、かつ税法上も組合自身に課税されず、二重課税を回避できること。

     加えて、無限責任を課した従来の民法上の組合と異なり、株式会社の最大のメリットである出資者の有限責任の原則を導入したこと。

     さらに、従来の民法上の組合と異なる点として、組合員に対する情報開示を担保したこと。

 

以下、五つの項目に分けて、もう少し細かく見ていきます(以下の解説は、「投資事業有限責任組合法」(編者中小企業庁振興課)の4頁以下の説明を参考にしたものです)。

(1)、基本的な性格 

投資事業有限責任組合法に基づく投資組合は、その基本的な性格を民法上の組合と共通にするものです。従って、この投資組合は株式会社のような法人ではありません。従って、組合の財産は、組合自身が独立して保有するものではなく、組合員全員の共有ということになります。また、民法上の組合と同様、組合員全員が組合契約でお互いに結ばれているという関係になります(なお、ひとつの投資組合の組合員の人数は最大で49名までとされています)。従って、法人でないために、税法上も組合自身には課税されず、個々の組合員のみが課税されるだけという、株式会社に比べ有利な扱いになるのです(従来、株式会社方式を取らず、あえて民法上の組合方式で投資ファンドを作ってきた大きな理由はこの税制面でのメリットからです)。

(2)、政策立法としての性格

今回制定された投資事業有限責任組合法において、出資者の有限責任という特例を導入した最大の理由は、ベンチャー企業への資金供給を円滑にするためであり、それゆえ、この政策目的に沿って本法の適用範囲もおのずと限定されています。つまり投資先の限定です。民法上の組合の場合、投資先が限定されるようなことはありません。しかし、本法では、投資が許される投資先は、いわゆるベンチャー企業としての資格を備えるもの、つまり、株式会社であり(それ以外の形態は許されない)、しかも一定の条件を満たす中小の株式未公開企業に限定されます(21項)。

(3)、出資者=組合員の責任の範囲

前述した通り、投資事業有限責任組合法において、出資者の有限責任という特例を導入したのですが、より細かく見ていくと、次のような二種類の責任の取り方となっています。

①.一般の組合員:出資額の限度でしか責任を負わない有限責任組合員(92項)

②.業務執行を行う組合員:出資者の全財産をもって責任を負わなければならない無限責任組合員(22項・7条1項)

つまり、投資組合の組合員のうち、業務の執行を行い運営の中心になる組合員に限って無限責任を負わせ、組合と取引に入る第三者(以下、組合債権者と略称)の保護を図ったもので、こうした二段構えの方法でかかる組合債権者の保護と一般投資家の保護(有限責任)との調整をはかったものです。

(4)、組合債権者の保護

このように、組合債権者の保護のために、業務執行組合員に無限責任を負わせていますが、これ以外にも次のような保護を与えています。

     組合の名称中に必ず「投資事業有限責任組合」という文字を入れなければなりません(5条)。

 取引に入ろうとする第三者が、この組合が何者であるかを名称から判別できるようにしています。

     組合に関する登記を義務づけています(4条)。

 つまり、組合契約の内容のうち重要な事項を一般に公開することにしたものです。ちなみに、法人格のない組織の登記を認めたのは、わが国の登記制度上初めてのことです(法律がいかに臨機応変にできているものかを示す好例です)。

     組合員の出資の方法が、金銭その他の財産に限定されています(62項)。

つまり、民法上の組合で認められている労務による出資は、ここでは認められません。

     組合財産の分配(組合員に対する配当)について、一定の制限を設けています(10条)。

つまり、民法上の組合では組合財産はいつでも制限なしに組合員に分配できるのに対し、有限責任の原則を導入した本法では、組合財産が債務超過(負債が資産を上回る場合)の場合には組合財産の分配を禁止したもので、これによって組合財産の最低限の維持を図ろうとしたものです。

⑤但し、それ以上、株式会社の最低資本金(1000万円)の制度のように、一定額を常に維持することまで義務づけることまでは、投資効率向上の観点を優先して、採用しませんでした。

(5)、情報開示の徹底

一般投資家及び組合債権者の保護ため、彼らに対する情報開示の徹底を図っています。

無限責任組合員(=執行組合員)は、組合の事業について財務諸表等(貸借対照表・損益計算書・業務報告書など)の作成が義務づけられています(8条1項)。

無限責任組合員は、財務諸表等について、公認会計士等による外部監査を受け、かれらの意見書作成を義務づけられています(8条2項)。

組合員及び組合債権者は、財務諸表等及び公認会計士等の意見書を閲覧・謄写することができます(8条3項)。

 

 

 

 

4、実務的な情報

 今まで述べてきた協同組合の諸々の形態について、もっと詳しい実務的な情報を知りたい方は、次の文献やホームページを参考にして下さい。

(1)、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合について

 参考文献:「投資事業有限責任組合法」(編者 中小企業庁振興課。発行 通商産業調査会)

問合せ先:通産省中小企業庁(http://www.chusho.miti.go.jp/

 

(2)、中小企業等協同組合法による企業組合や事業協同組合のことについて

 参考文献:「中小企業等協同組合法の解説」(編者 中小企業庁指導部組織課。発行 ぎょうせい)

問合せ先:通産省中小企業庁(http://www.chusho.miti.go.jp/

     また、実務的な相談は、全国中小企業団体中央会(http://www.chuokai.or.jp/

 

生産協同組合の法律問題に関する質問等は、次のメールアドレスまでご連絡下さい。

NAM法律:nam-law-jp@md.neweb.ne.jp  

 

以上

2000年9月12日)

 

 

 

 

 

 


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