2024年10月31日木曜日

【第15話】もともと「自然界は真っ暗闇である」、「放射能は魑魅魍魎とした世界」なのは当然(24.10.1)。

Xさん

昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。
また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。  

終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜しているから、だけではなく、養老孟司の脳化社会への容赦ない批判がみなさんたちにとって不気味で、気持ち悪いからなんだと思います。

さきほど添付したプレゼン資料のラストのほうの「認識の壁」にも書きましたが、
私自身、脳化社会と対立する自然界というのは実は私たちがほとんど認識できない不可知な実在であり、それゆえ、自然とは私たちの意識にとって不気味で、気持ち悪いものです。そして、私自身、そのことにもっと謙虚、鋭敏、自覚的にならなくてはと反省、痛感しました。
今月、彼の「年寄りは本気だ」という対談の中で、自然のことを真っ暗闇の世界だと表現しているのを読み、そうだ、その意味で、放射能とは最も自然らしい自然、人間からみたら魑魅魍魎としか思えない不気味な存在なんだということを受け入れる必要がある、そこから放射能の問題にどう向き合うかも(つまり、普通の人々がなんで放射能を忘れたがっているのか、その根本的な理由について)おのずと明らかになるのではないかと思いました。

この気づきは、かつて、カントが認識できない対象のことを「物自体」と呼んだことを、柄谷行人のカント論から知ったとき、ただし、物自体がどのようなイメージを持つものか、そのビジョンはついに分からずじまいのままずっと来ましたが、今回、養老孟司から初めて、この物自体のビジョンを教えてもらったような気がして、その意味でも、私は彼に傾倒しないではおれなかったのです。
Xさんが書いていた、

自然現象としての原発事故後と社会現象としての原発事故を分離して理解していたのですが

前者は「自然と人間」の関係のこと、後者は「人間と人間」の関係のことです。そして、この2つは、「自然と人間=人間と人間」という風につながっています。その繋がり方をどう捉えるかについて、その全貌を把握することは簡単ではないでしょうが、少なくとも、その一面として、
「自然と人間」の関係がベースになって、「人間と人間」の関係が形成される、
と言えると思います。法律の世界はそういう構造になっています、つまりまず事実があって、その事実に基づいて規範(法的評価)が加えられる、という段階構造です。刑法が事実認定の上に立って、法的判断(無罪かいかなる刑の有罪か)が加えられるもの、というのがその典型ですが。

 追伸
1つ言い忘れました。
養老孟司が、「自然界は真っ暗闇である」ことを、「年寄りは本気だ」という本で書いていると言いましたが、ネットでも以下の文にもそのことを述べていますので、備忘録を兼ねてお伝えしておきます。
    ↑
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

この間、「放射能は魑魅魍魎とした世界」だと書いてきましたが、ただし、それは放射能に限ったことではなく、そもそも「自然界は真っ暗闇」なんだから、放射能が真っ暗闇なのは或る意味で当然です。尤も、真っ暗闇の闇にも質の違いがあり、この点で放射能は群を抜いており、この意味で、私は脳化社会が行き着いたひとつの到達点が放射能を使う核の科学技術である、と理解しています。
     
とりいそぎ。

 

 

2024年10月7日月曜日

【第14話】マルクスその可能性のもう1つの中心、それが福島原発事故を解く手がかりを与えてくれる(24.10.8)

 かつて、柄谷行人は、マルクスに対して、

彼の可能性の中心は、それまで喧伝されてきたような「生産様式」にあるのではなく、資本論で追及されてきた「交換様式」の中にある、

と喝破し(「マルクスその可能性の中心」)、終始一貫その問題を追及し、これを2010年の「世界史の構造」の中で、これまでの世界史を「交換様式」から体系化してみせた。 それは賞賛に値する一方で、柄谷行人が明らかにしたいと考えた未来の「交換様式X」については、依然、霧に包まれ、謎めいていた。つまり、真っ暗闇が覆っていた。

他方、その翌年起きた福島原発事故に対して、上の成果がどう活かされるのか、少なくとも私には不明だった。しかし、その新たな問題も、次のマルクスの指摘によって解決の手がかりが与えられることを知った。それは、マルクスその可能性のもう1つの中心である。

これまで、「交換様式」はたいがい「人間と人間の関係」の中で考えられてきた。柄谷行人の「世界史の構造」もそうだ(以下の彼の図式を参照)

しかし、「交換様式」は「人間と人間の関係」に限られない、「自然と人間の関係」の中でも生じる。それを考え、指摘してきたのがマルクス。そのことを柄谷行人は「世界史の構造」の序説の「5 人間と自然の『交換』」の中で指摘した。しかし、それ以上、本論の中では殆ど取り上げないできた。それをより正面から取り上げたのが、その後に書かれた「『世界史の構造』を読む」の『震災後に読む「世界史の構造」』だった。彼もまた、福島原発事故を経験して、「自然と人間の関係」の中での「交換様式」が平時ばかりではなく、原発事故という異常事態時の中で考えなければならないことを実感した。

そこにもう1つのマルクスの可能性があるばかりか、そこにこそ、彼が明らかにしたいと願いながら、依然、霧に包まれ、真っ暗闇の謎の中にいた未来の「交換様式X」が明らかにされる鍵が秘められている。

それが大災害(カタストロフィー)時における「 自然と人間の関係」の中での「交換様式」の問題。そして、それが「人間と人間の関係」に及ぼす影響の問題も提起されている。そのことを日本史の激動期について養老孟司は考察している(平安末期、江戸末期、大正末期の大災害)。

その意味で、柄谷行人が「人間と人間の関係」の中での「交換様式」を世界史を4つに分類したが、今、この4分類ごとに大災害が「人間と人間の関係」にどのような影響を及ぼすのか、検討する価値がある。

2024年10月4日金曜日

【第13話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の感受性は完璧、最高だ(24.10.4)

 黒澤は、1954年のビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた映画を製作した。その映画について、黒澤明自身、こう書いている。

この映画は、水爆の脅威を描いている。しかし、それをセンセーショナルに描こうとは思っていない。
ある一人の老人を通して、この問題をすべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に描きたいのである。

水爆の脅威を「センセーショナル」ではなく、「すべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に」と願って描こうとしたとき、黒澤はどのような選択をしたか。

彼は、水爆の脅威に対する人間の反応を、脳化社会の中にすっぽり安住している人たちの「意識」に焦点を当てて描くのではなく、脳化社会から排除される自然、ここではヒトの中にある自然の部分、つまり「動物としての本能」に焦点を当てて描こうとした。
それがこの映画の題名「生きものの記録」だ。
この映画の題名ひとつ取っても、黒澤の哲学が明確に示されている。彼は、
脳化社会の成れの果ての産物である水爆、それによる放射能の脅威という巨大な自然的世界に立ち向かうためには、もはや脳化社会という人工世界の意識では不可能であり、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に立ち戻るしかないことを悟った。この黒澤明の感受性は完璧であり、養老孟司の「脳化社会」論を40年前に先取りしている。

黒澤がこの映画で願ったことは、
ーーこの主人公は、人間としては欠点だらけかも知れない。しかし、その一見奇矯な行動の中に、生きものの正直な叫びと聞いて貰いたいと思う。

それは70年後の今日、放射能のゴミ屋敷と化した日本社会に対して、人権屋敷の再建を考える私たちの行動とまっすぐつながっている。私たちの行動もまた、
脳化社会という人工世界の意識で取り組むのではなく、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に基づいて取り組んでいるからだ。
         「生きものの記録」映画パンフレット1955年8月。


【第12話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の理解は間違っている(24.10.4)

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
かつて、これを読んだ時、そうだろうなと思った。

しかし、いま、それは少し違うのではないかと思い直すようになった。では、どう違うのか。
人が放射能を見続けることが出来ないとしたら、その原因は単に、太陽がまぶしいといった物理的なことが原因と片付ける訳にはいかないと思うから。つまり、人々を放射能から遠ざける最大の原因は、我々が放射能を無条件に忌み嫌い、排除しようとするゴキブリのような存在だからではないか。
言い換えると、人が人工的に作り上げた脳化社会では、安全・安心が確保されるように管理されている一方、管理の及ばない脳化社会の外側にいる自然界の存在は忌み嫌われ、ゴミのように排除される。その典型として、ゴキブリは我々が住んでいる脳化社会の管理が及ばない自然界の存在として忌み嫌われて排除の対象にされている。そして、放射能、原爆や原発事故で社会に放出された放射能もまた、脳化社会の管理が及ばない自然界の存在である。そのように管理の手に余る放射能が脳化社会に安住する人々から、ゴキブリのように忌み嫌われ、排除されたとしてもあやしむに足りない。

他方、太陽は、別に、人々が無条件に忌み嫌い、排除しようとする存在ではない。夏場に、灼熱の猛暑をもたらす存在として敬遠されることはあったとしても。

人々が放射能に向き合うことを避け、これを排除しようとするのは、何よりも、核兵器・原発を生み出した我々の脳化社会が、脳化社会の管理の手が及ばない自然界の存在(放出された放射性物質)を遠ざけ、排除しようとするという「脳化社会」の基本原理・哲学に由来するものである。こう考えたほうがリアリティがある。

【第11話】参考(その2): 【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん


柳原です。
今の続きです(これで最後ですが)。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:49:32 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:   


小川さん

柳原です。
スミマセン、あと1つ、また思いついたので、備忘録として。
柄谷行人の「力と交換様式」の4番目の交換様式を、人権で置き換えた時、
今度は人権が新たなものとして見えてくるのが分かりました。
それが、力です。柄谷行人は交換様式が持っているのは力だと。資本制社会(商品交換)であれば貨幣の力。国家制社会であれば国家の力。氏族社会であれば、贈与の力。そして、4番目の交換様式Xであれば、高次元の贈与の力と柄谷行人は言ってたのですが、この「高次元」というのがずっと正体不明でした。
私は、この「高次元」を解くカギが人権にあるのではないかと気づいたのです。
そうすると、人権というのは力として捉えることができる。一見、そうとは見えないのですが、歴史上、贈与や貨幣が(或る種の霊的な)力を持ったように、人権もまた、霊的(観念的)な力を持つのです。それが18世紀からのアメリカ革命の始まる人権の歴史が証明しています。人権宣言をすることで、それがそれだけで人々を震撼させ、それに従う、受け入れるようにさせる力があるのです。
この人権の力に着目することで、ブックレットの意義を見直せるのではないかと思いました。つまり、人権宣言としてのブックレットの発行が、人々に人権の力を思い知らせる、と。

取り急ぎ備忘録でした。




【第10話】参考(その1): さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん

柳原です。
この間のメールを書く中で、今年2月に、ブックレットの編集作業の中で新しい気づきに出会った、その内容が、今のテーマと関係していることに気がつきました。
すっかり忘れていたのですが、改めて、重要な気づきだと思ったので、参考までに転送します。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:33:36 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:    

小川さん

柳原です。

今、プールで泳いでいて、ふと、また新しい気づきに出会いました。
それは、柄谷行人が2010年に出した、彼の本では世界で最も読まれている「世界史の構造」の中で全面的に展開した「社会の構造を、唯物論のような生産様式で捉えるのではなく、交換様式で捉える」問題について、彼が、そこで4つの交換様式を提起し、その最後の4番目として、私のみならず台湾のオードリ・タンも注目した「自由と平等を担保した未来社会の原理」としての交換様式Xについてです。
https://gentosha-go.com/articles/-/34442

これって、結局、「自立した個人の平等で自由なアソシエーション」により作られていく社会関係のことなんですね。
だとしたら、それはさっき書きました、協同組合の原理そのものなんです。
だったら、この交換様式Xは人権を言い換えたものにほかならない。
それが分かれば、これまで、世界史の中で、交換様式Xはどのようにして存在、発展、生成してきたかは、人権闘争の歴史を見れば分かる。
逆に言えば、世界史を人権の視点から再構成する時に見えてくるものが、協同組合の原理でもあり、交換様式Xのあらわれなんだと。

なぜ、こんなことにこだわるかというと、これまで柄谷さんは、2001年に、社会をこれまでの唯物論=生産様式ではなく、交換様式で捉え直すことが必要だという発見をし、その中で、未来社会を構成する交換様式として、交換様式Xを提起したのですが、
そのあと、じゃあ、お前が言う交換様式Xって一体何なのか?という問いを執拗に突き詰めたのですが、なかなかその具体的なビジョンを掴むことが出来ずいたのです。彼の最新作「力と交換様式」も、その苦闘の足跡ですが、やっぱり、上記の問いの答えが出ずじまいでした。
この本を読んだ時、もう柄谷行人に期待するのは難しいのかもしれない、自分で答えを見つけ出すしかないと思いました。
そして今、その答えの手がかりを、人権という中に見つけ出したと思ったからです。

そんなだいそれた発見ではありませんが、今まで、柄谷行人すら「人権」という切り口で世界史を再発見する意義に気がつかなかったことを思うと、人権が世界史の認識を大きく変える画期的な一歩になる可能性があると、密かに感じています。それを具体化する一歩が今回のブックレットです。

以下、「力と交換様式」について語った柄谷行人のインタビュー
https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689


【第9話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(7) 最後のつぶやき(24.10.4)

Xさん


柳原です。
これで最後です。
それは、自分の中の間違いについてです。
この夏に養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、彼の言い方がそうさせた面もあるのですが、てっきり、
人間対人間の関係は「脳化社会」の世界、
自然体人間の関係が自然の世界
という風に対応づけました。
その結果、「脳化社会」に対する強い嫌悪感に襲われた私は、人間対人間の関係すべてがうとましく、嫌悪しないではおれなくなりました。つまり人間嫌いが再発してしまいました。

今度は自分なりに理論的確信が伴うだけに、その人間嫌いは深刻な面があり、ちょっと社会生活が出来なくなりました。
といって、適当なところで、お茶を濁して折り合いをつけるのも嫌なので、正直、かなり参りました。
      ↓
その結果、今、考えていることは、
1、人間対人間の関係を「脳化社会」の世界と対応づけるのは誤っていること、
2、人間対人間の関係の中にも、「脳化社会」の世界が反映した場面と自然の世界が反映した場面の両方があるということ(尤も、後者は稀でしょうが)、
3、問題は、人間対人間の関係の中に、「脳化社会」の世界の病理を克服し、自然の世界の延長を実現できる世界をどうやったら広げられていけるか、(←この問題提起自体が、いまだ未熟、未完成)。極めて図式的な言い方ですが、従来の人間対人間の関係を自然の世界から再構成してみる(これまで真の芸術家たちが挑戦してきたこと)。

その7は以上。
本当はもっと詰めて考える必要があるのですが、ひとまず区切りをつけるため最後は駆け足になりました。

長々とおつきあい頂き、ありがとうございました。

【第15話】もともと「自然界は真っ暗闇である」、「放射能は魑魅魍魎とした世界」なのは当然(24.10.1)。

Xさん 昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。 また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。   終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜して...