2025年7月10日木曜日

【第112話】法律学(自己)批判の四歩目:ゆうちょ裁判が問うた本質的なテーマ、それは「たがために法律はあるのか」(25.7.11)

 6回の双方の攻防を経て2日前に審理を終結したゆうちょ裁判(>最新の報告)。その5日前に提出した原告主張を総整理・集大成した書面を提出した(>準備書面(3))。
あとは、傍聴に駆けつける人たちに向けて、この書面をより分かりやすく解説する要旨を作成して、弁論当日、法廷で陳述するばかりとなった。

しかし、いざこの解説書面の作成に取りかかるや、この作業は独りで勝手に暴走し始め、分かりやすい解説どころか、ひとまず総整理・集大成をしたと思っていた書面がまだ不完全・不徹底であることがハッキリし、その結果、要旨という名のもとで、主張書面の再整理・再集大成をおこなうという羽目になってしまった。それが>要旨原稿

その不首尾を詫び、改めて、傍聴に来た人たち向けに、本来の解説書面を作成し、これを「もう1つの要旨」として公開し、朗読することにして、作業に取り掛かった。ところがまたしても、この作業は勝手に暴走し、その結果、再整理・再集大成したと思っていた書面がまたしてもまだ不完全・不徹底であることが明らかとなり、頭を抱えてしまった。そこで、3度目の主張書面の再整理・再集大成をおこなうことになってしまった。それが>もう1つの要旨原稿

この3度目の主張の再整理を通じて明らかになったことは「そもそも法律とは何のためにあるのか」という法律の存在理由を問うこと、これがゆうちょ裁判の中心的なテーマだということ。
そして、ひとたび、この「法律とはそもそも何のためにあるのか」という法の存在理由を本件に即して明確に掴んだなら、そのとき、法律は私たち市民団体がやっている活動をサポートすべきであると確信をもって言うことができる。
そこから、私たちの活動にとって必要不可欠な団体名義の口座開設も認められるべきであるという結論が確信をもって引き出される。
それまでは、単に、法律にそう書いてあるからといった形式的、概念法学的な考えで主張していたのに対し、今度はもはやそんな機械的なレベルのことではなく、私たち原告の行っている市民活動という現実を法の使命、ミッションに照らして評価したとき、この市民活動は保障されるに相応しい、ゆえに団体名義の口座開設の自由も保障されなければならないのだということを普遍的な法的判断にのっとって主張することができるのだ。それが「たがために法律はあるのか」を踏まえた紛争の正しい法的な解決のやり方なのだと自信を持って言うことができる。

ところで、この気づきはゆうちょ裁判だけにとどまらない、もっと広い、もっと深い意味を持っている。
なぜなら、この気づきによって、私たちは日頃から具体的な法律問題と向き合うときに「なぜそのような法律が存在するのか」というその法律の存在理由について思いを馳せ、自覚的になることができるから。そして、この自覚が私たちが法律を正しく使いこなして紛争を適正に解決する上で最も重要な羅針盤になるから。
市民立法というのは、自分たちの市民社会の秩序を一握りの職業的専門家の手にゆだねるのではなく、市民自らが積極的に関わることによって作り上げていくという意味。そのためには法律の存在理由について思いを馳せて自覚する体験を積むことがとても大切なのだと思う。

その貴重な気づきを与えてくれた、この「もう1つの要旨原稿」を以下に再掲する。

原告準備書面(3)のもう1つ要旨>全文のPDF


【第111話】法律学(自己)批判の三歩目:「生ける法=生成法」の最も明確なメッセージである「モンドラゴンの挑戦」に立ち帰る(25.7.10)

昨日のゆうちょ裁判(第6回期日)をやっていて、この裁判が究極的にめざしていることが何であるのか、分かったような気がした。
それは、私たちの市民団体「災害時の人権を考える会」の活動が私たちの市民社会の健全な育成にとって何かしらポジティブな貢献をしている、そのことを法がこれを法的にもポジティブなものとして承認すること、以上のことを裁判所に承認させること(表現がまどっろこくて申し訳ない)、そこにこの裁判の究極的の目標(のひとつ)があるのではないかと。

なぜなら、市民法秩序の大原則の1つとして、団体に関する現代法の使命は団体が社会で果たしている生理的機能、これを助長することにある。そうだとしたら、この点で私たちは自分たちが所属する市民団体を通じて行っている市民運動が何かしらのポジティブな社会的作用を果たしていると認識したならば、その社会的作用を法は原則としてサポートすべきであると要求していいのだ。
言い換えれば市民団体に対し憲法が保障している「結社の自由」とは、単に、市民が或る目的に向かってネットワークを作るのを妨害されないという消極的な義務だけではなくて、そうしたネットワークがスムーズに運営されるように必要な支援を要求できるという積極的な義務まで含まれるのだ()。その1つが団体名義の口座開設の自由が保障されること。それが今日における「結社の自由」の具体的、現実的な意味なのだと。

)国際人権法の自由権規約上の権利も、その確保のためには国の様々な積極的措置を必要とし、その過程では例えば公務員への人権研修のように漸進的に充実させていかなければならない側面が多々ある(自由権規約(40条1項)・社会権規約(16条1項)参照) 

そしたら、これまで市民立法「チェルノブイリ法日本版」の取組みとして考えてきた「生成法=生ける法」とは、このことを言うのではないかと直感的に合点した。つまり、市民社会に誕生した市民団体がどのようなスタイルでどのような内容の活動を行うことが可能なのか。それは法が一方的に決めることではなく、むしろ我々市民自身が決めることなのだと。つまり、我々市民が市民団体の活動内容および活動スタイルについて実際の活動の中で形成されてきて合理的で、適正と思うものを法に対し提示したとき、法はそれを吟味検討した結果、それが市民団体の生理的機能として是認されたならば、その機能をサポートする義務を負うというのが現代法の使命だから。だから、そこで市民団体に関する法の中身を積極的に形成するのは市民団体の側にある。だから、ここで法の中身を生成する(生成法=生ける法)の主役は市民自身にあり、その法を制定、執行、適用する国(立法・行政・司法)は脇役にとどまる。
すべての社会現象をこのように考えられていいか、現時点では分からないが、少なくとも市民生活に関する法秩序の形成においては法の中身を生成する主役は市民自身なのだ。

そしたら、生成法=生ける法で市民が最も積極的な主役として行動する場面の1つとして、「一緒に働き、一緒に経営する(協同労働=協同経営)」の協同組合が存在することを気がついた。少し前から、日本版の会の或るメンバーが「スペイン・モンドラゴンの挑戦」が痛く気に入っているのを知り、この人が「モンドラゴンの挑戦」に心奪われているのは表面的なことではなく、もっと深い訳があるのではないかと、原発事故の避難者が避難先で仕事が見つけられないという窮状を「モンドラゴンの挑戦」にならって、自ら仕事を創り出す=起業によって克服する可能性がある1ことを本気で信じているのではないかと、この挑戦という厳粛な真理に私も再び目が行くようになったからだ。
そう思って、「モンドラゴンの挑戦」を振り返ると、それは本当に資本制社会の行き着く先まで来たように思える今日にこそ挑戦の意義がリアルに伝わってくるものがあり、資本制社会の賃労働システムの外に出て、新たな経営システム(協同労働=協同経営)に挑戦したスペイン・モンドラゴンの協同組合が、さながら、今日の米国の市民社会の(思うに最良の)源流が400年前に宗教的迫害のイギリスから信仰の自由を求めて逃れてきた清教徒(ピルグリム・ファーザーズ)たちがメイフラワー号の中で「メイフラワー компакт」=多数決による自治を誓った彼らの「人権と民主主義の挑戦」を髣髴とさせて、これと同じくらい、私たちの未来を照らし出す象徴的な事件として、「モンドラゴンの挑戦」は私たちの前に聳え立ち、私たちを常に鼓舞し支えてくれているように思えるからです。

以下は、1999年9月、柄谷行人の文芸雑誌「群像」に連載中の「トランスクリティーク」最終回を読み衝撃を受け、そこから「モンドラゴンの挑戦」のことを知り、協同組合について書いた小文(2000年の「NAMの原理」に収められている)。この雑文も、もう一度、「モンドラゴンの挑戦」の可能性について再考する価値と必要があると思い、再掲した。

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生産協同組合について

2000926

敗残兵にならないための生産協同組合

先日、しばらくぶりに親戚の結婚式に出て、定年退職した従兄弟4、5人と会って、ビックリしました。いずれもこの間大企業を勤め上げたいわゆる企業戦士といわれる人たちでしたが、昔、一流企業に就職した頃の誇りと自信に満ちた表情に比べ、文字通り徹底的に痛めつけられ、ボロボロになった敗残兵という印象だったからです。もう会社の話なんか二度としたくないという感じでした。そして、かつて大手建設会社に勤務していた従兄弟が、今借りている農園での共同作業の話を、不思議なくらい熱を帯びて話し始めました。

私は、その話を聞きながら、もしもっと早く生産協同組合があったなら、この従兄弟はきっとそこに飛び込んで、こんな無残な敗残兵にならずに済んだろうと思いました。彼にとって苦痛だったことは、「労働が苛酷で給料が少ない」ということではなかったのです。仕事の中身が、余りに意に反すること、余りに誇りと無関係なことばかりだったからです。

これに対し、生産協同組合というのは、それがめざすものは、労働者がそういう敗残兵にならずに済むような場所のこと、今のところ「労働は厳しく、給料は少ない」かもしれないが、その代わり、自分の仕事に誇りと喜びが持てる場所のことです。

今の若者は、こういう敗残兵としての父親たちを見て、その二の舞をする必要はないと思う。かといって、父親たちの仕事に背を向けて、単なるフリーターにとどまる必要もないと思う。なぜなら、敗残兵にもならずに、かつフリーターにとどまることもなく、自ら積極的に自分がしたい仕事を、自分が誇りの持てる仕事を、自分に喜びをもたらすような仕事をする場所があるのだから。それが生産協同組合というものです。そして、そのような場の実現に努力する人たちが連帯する場としてNAMは存在したいと思っているのです。

 

生産協同組合の具体的なイメージ

もっとも、生産協同組合といっても、そんなものまだ見たこともないし、そんなことが果して可能なのか信じられない、ただの空想的なお話ではないかと思うかもしれません。しかし、それは決して空想的な話ではなく、既に現実に進行している出来事なのです。

ここで、生産協同組合のことを分かりやすいイメージで説明しますと、それは、一言で言えば、

  「労働者=消費者=市民の手に<生産>を取り戻す」

ことです。そして、この<生産>の中に、具体的なものを代入していけばいいのです。例えば、ここに「メディア」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手にメディアを取り戻す」

となり、これを半ば実現したのが、例のインターネットです。

私がこのインターネットの威力を実感したのが94年6月に起きた松本サリン事件です。この事件の第一通報者のKさんは、警察のみならずマスコミからもずっと犯人扱いされたのですが、このとき、私はKさん側の言い分も是非とも知りたいと思いました。しかし、マスコミはKさんの言い分を殆ど取り上げなかった。そこで、このとき、もし自分がKさんの代理人だったら、すぐさまホームページを立ち上げて、「私は、こう主張する」とKさんの言い分を全面的に展開して、これを全世界に発信したのにと思いました。そして、これが「市民の手にメディアを取り戻す」ことなのだと思い知りました。しかも、これは今すぐ実現可能なことで、決して空想的なことではありません。

 また、先ほどの公式に、コンピュータの頭脳部分である「OS」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手にOSを取り戻す」

つまり、巨大企業マイクロソフトを脅かす存在にまでなって、今大きな話題となっているLinuxといった無料OSのことになるわけです(http://www.linux.or.jp/参照)。また、ここに「発電所」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に発電所を取り戻す」

つまり、今、各地で取り組みが始まっている、危険な原子力発電所ではなく、安全な風力発電所や太陽光発電所を作る運動になるわけです(http://www.infosnow.ne.jp/~h-green/参照)。さらに、ここに「通貨」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に通貨を取り戻す」

つまり、今、世界で行われている、利子を生まないLETSなどの地域通貨の取り組みになるわけです(http://www.gmlets.u-net.com/参照)。

また、ここに「安全なバナナ」を入れれば、

  「労働者=消費者=市民の手に安全なバナナを取り戻す」

つまり、フィリピンのネグロス島などでで行われている、安全なバナナの生産協同組合の取り組みになるわけです(http://www.altertrade.co.jp/参照)。

このほかにも、この公式の<生産>の中には、銀行なり学校なり病院なりを入れることができます。そうすれば、「預金者が自分で投資するプロジェクトを選び、同時に自分で預金の利率を決める」(「エンデの遺言」83頁)ことができるドイツのGLS銀行みたいなものや

http://www.gemeinschaftsbank.de/参照)、或いは東京シューレなどのフリースクールになるわけです(http://www.shure.or.jp/office/tokyo/参照)。さらにまた、そこに、レコード会社、映画制作会社などと自分たちがやってみたいと願うことを入れてみて、その実現に向けて取り組むことができるのです。こういう風にして、生産協同組合のイメージはどんどん膨らましていくことができるです。

 

生産協同組合の実例―音楽のケース―

次に、実際にどのような生産協同組合があるのか、その実例を紹介したいと思います。

それは、音楽の分野で、インディーズ的志向の極めて強いアーティスト/プロデューサーたちが「自分たちの作りたい作品を自分たちのペースで作り続けていきたい。そして、作り上げた作品を、アーティストと彼らの作品を支持してくれるユーザーたちにきちんと届けたい」という願いを原点にして、それを実現できる仕組みを考えているうちに、アーティスト/プロデューサーたちの協同組合的なシステムを作るしかないということになったケースです。

音楽の分野では、アーティスト/プロデューサーは、通常、①お金を持っていませんし、②CDを制作するための事務処理をこなす体制も、③またCDを販売するための流通の仕組みも持っていません。そこで今までなら、これらは全て①出資者②レコード会社③流通会社に依存するしかなかったのです。その結果、アーティストたちは、否応なしに、こうした連中の支配に置かれることになったわけです。そうすると、グループ「チューリップ」の財津和夫がこの前雑誌に書いていたように、「チューリップ時代は、売れる曲を書かなければという強迫観念から逃れられずに、ずっと走り続けてきました」といった、企業戦士同様のボロボロの敗残兵に成り下がるしかなくなるわけです。

そこで、もうそういう無残な二の舞はくり返したくない、かといって、作りたいものも作っても誰にも聞いてもらえずただヤケクソになっているのも絶対嫌だ、というところから、今回のアーティスト/プロデューサーたちの新しい試みは始まったといえます。

そこで、彼らは何をしたかというと、上の3つの仕組みを自分たちの手で作り上げたのです。①CD制作のためのお金を集める仕組み(=投資組合)も、②CD制作の事務処理をするための仕組みも、③制作したCDを販売するための仕組みも自分たちで作り上げたのです。いわば、自分たちの手で①銀行の機能を持った仕組みと、②レコード会社と、③レコードの流通会社を作り出したのです。それが、彼らの生産協同組合というものです(下図参照)。

では、これがそれまでの仕組みと比べてどこが新しいかと言いますと、まず①お金を集める仕組みについてですが、第一に、権利の帰属を変えたのです。それまでだったら、レコード制作に必要な費用を出資者から出してもらうと、レコードを作ったときに発生するレコード原盤の権利というのはみんな出資者(原盤会社)の手に渡り、アーティスト/プロデューサー側には残らなかったのです(そのため、いくらレコードが売れても、原盤の権利に発生する利益〔=ロイヤリティ〕はみんな出資者のものとなり、実際のクリエーターであるアーティスト/プロデューサーたちの元には僅かなロイヤリティしか還元されなかったのです)。ところが、この新しい投資組合という仕組みでは、出資者から出資は集めるけれど、原盤の権利はアーティスト/プロデューサーの元にとどめておくという新しいやり方を取ったのです。もちろん、作品がヒットすれば、それに応じて、出資者にも利益が分配されるような仕組みにはなっていますが、原盤の権利はきちんとアーティスト/プロデューサーの元にとどめ、そのため、末永く人々に聴かれる作品を創作すれば、それに対する見返りがきちんとアーティスト/プロデューサーに還元されるようにしたのです。

もっとも、この原盤の権利をアーティスト/プロデューサーが持っている場合と持っていない場合とでは実際上どれくらい違いがあるのかと言いますと、確かに後者の場合でも、レコーディングをしたアーティストには、アーティスト印税というのが発生します。しかし、その数値たるや、通常、定価の1%でしかありません。これに対し、原盤の権利を持っていれば、原盤印税が発生するのですが、その数値は、通常、邦楽で定価の1020%、洋楽で定価の1525%と、アーティスト印税とは比べものになりません。つまり、音楽の世界では、原盤の権利を持っているかいないかが決定的なのです。

第二に、アーティスト/プロデューサーにレコーディングに関する経済的な責任を負わせなかったのです。音楽も他の商品と同様、実際に売ってみなければ果して売れるかどうか分かりません。その結果、思ったような売上げにならず、投資した金額が回収できない場合が出てきます。このような場合、インディーズの映画などでは、監督やプロデューサーの個人資産(なかには親戚一同の資産まで)を処分して、赤字分の穴埋めをするようなことがザラです。その結果、監督やプロデューサーたちは、一度興行に失敗すると、生活の基盤さえ失い、二度と映画を作るチャンスを持てなくなるのです。ところが、アーティスト/プロデューサーに対するこうした過酷な責任追求がないようにしたのが、今回の投資組合の特徴です。つまり、アーティスト/プロデューサーは、実際に回収できた分だけでそれ以上の責任は負わなくていいとしたのです。その結果、もちろんそのようなアーティスト/プロデューサーは、引き続き同じような投資を受けることは困難になるでしょうが、しかし、映画の監督やプロデューサーみたいに、借金の返済のため、住まいを追われたり、行方をくらますような悲惨なことをしなくて済むのです。頑張れば、ずっと容易に立ち直れるチャンスがあるのです。

第三に、今回の投資組合を立ち上げたときには、、まだ法律ができていなかったので間に合わなかったのですが、その後、投資事業有限責任組合法(9811月より施行)という投資組合に関する画期的な法律が成立したのです。この法律がどうして画期的かというと、それは、従来でしたら、投資組合を作るときには、通常、民法に定めた組合という制度しかなかったのです。しかし、この組合では、組合が第三者に負う負債に対し、組合に出資した者は単に出資した金額ではなく、出資者の全財産をもって責任を負わなければならなかったのです(無限責任)。こういう重い責任では、投資家は出資を躊躇せざるを得ず、そのため、従来の組合方式でスムーズに出資を集めてくることは大変困難だったのです。ところが、この新しい投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を使えば、出資者は、単に出資した金額だけ責任を負えばいいことになります(有限責任)。その結果、この方式により出資が非常にスムーズに実行されるようになったわけです。但し、この法律は、もともとアメリカに大きく立ち遅れている日本のベンチャー企業の保護育成のために立法されたものです。しかし、それが思いがけず生産協同組合の保護育成にも大いに応用可能なものとなったところが、もともと軍事目的で始まったインターネットなどと似ていて、興味深いことです(なお、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合については、最後の生産協同組合の形態の検討のところでもっと詳しく解説します)。

 

次に、②レコード会社と③レコードの流通会社の点ですが、いくつものアーティスト/プロデューサー集団が集まって、協同して、レコード制作とレコード流通に必要な事務処理を全て管理・処理するレコード制作の管理会社とレコード流通の管理会社を自分たちで立上げたのです。それまでだったら、基本的にはアーティストとプロデューサーとアシスタントだけの少人数のグループでは、とても自分たちで、レコード会社やレコード流通の会社をやるなんて不可能だったのです。そのため、いやいやながらも、大手のレコード会社やレコード流通の会社に対し、彼らの言いなりの条件を飲んで、これらの業務を委託していたのです。でなければ、自分たちの作った作品を世に知ってもらう手段がなかったからです。しかし、こうした弱小の、しかしインディーズ的志向の強いアーティスト/プロデューサーたちでも結束すれば、それまで夢でしかなかった、レコード会社とレコード流通の会社を自分たちでも持てるようになったのです。しかも、これは、自分たちが作ったレコード制作の管理会社とレコード流通の管理会社ですから、アーティスト/プロデューサーの夢を支えるために存在する会社です。だから、自らが肥え太るのではなく、その反対に、徹底的に安いCD製造コストをめざし、徹底的に安い著作権等の業務管理コストをめざし、徹底的に安いCDの流通コストをめざしたのです(それは、個々のアーティスト/プロデューサーたちが集まって、こうした業務を専門に行う会社を立ち上げることにより実現したのですが)。この点が、既存の大手のレコード会社やレコード流通の会社と決定的にちがいました。

このような、いわば「アーティストの、アーティストによる、アーティストのための協同組合」という仕組みが、商業主義の仕事に飽き足らない、仕事そのものに誇りと喜びを求めるアーティスト/プロデューサーたちの共感を呼んだのは当然のことでした。発足当時、6つのアーティスト/プロデューサー集団でスタートしたこの協同組合も、1年後には6倍の36ものグループ、1年半後の2000年9月現在では55のグループが結束し、こうして、自分たちの作りたい歌を作り続けられることを可能にするシステムの中で、ここに集まったアーティスト/プロデューサーたちは、ようやく次の課題――自分たちが作る音楽が果して人に聴いてもらうに値するものかどうかという真価が問われるという本来の課題――と取り組んでいるのです。

 

生産協同組合の可能性―NAMの存在意義―

もっとも、音楽の世界で最初にこうしたアーティスト/プロデューサーたちの協同組合が現実に出現したのには、いろんな要素があって、とりわけそれを企画し、出資者たちにもこの新しい仕組みの素晴らしさを説いて回って出資を説得した或るプロデューサーの存在が大きいと思います。この人は殆ど情熱と信念と倫理の人という感じですから(本人は「何か新しいことをやるとき必要なのは、よそ者とバカ者、若者の3つで、自分はバカ者だ」と言っているそうですが)。

その意味で、音楽の世界にせよ、これ以外の世界にせよ、こうした協同組合を立ち上げていくのには「情熱と信念と倫理の人」の存在が不可欠であり、そう簡単に一筋縄ではいかないでしょう。

しかし、たとえひとつでも、こうしたクリエーターたちの協同組合が現実に出現して成長している事実、これは、Linuxの出現などと同様、ものすごい貴重なものです。なぜなら、この事実だけでも、それがあとに続く人たちに、何とか制作と流通を自らコントロールするシステムを作ってやれば出来ないことはないのだという気にさせ、あきらめないでやり続ける希望を与えるからです。

そして、NAMというのは、生産と流通の自主性をめざして同じように試みをしている人たちを横につないで、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を交流する媒体として役立つのではないかと思います。

私自身、これまで法律家として主に映画の方面の仕事をしてきました。しかし、インディーズ系の映画のクリエーターの人たちから受けた法律相談というのは、著作権のことでは全くなく、それとは無関係な、映画制作で背負った借金をどう返済したらいいかとか、破産手続をどうやってやるのかといったものばかりでした。或るプロデューサーの人はこうも言っていました、「我々映画人は、『橋のない川』みたいなものだ。なぜなら、我々は『人に非ず』なのだから」。しかし、NAMの原理からすれば、音楽で成功したクリエーターの協同組合が映画でもやれない筈はない。事実、私が教えている或る映画学校で、若い生徒たちにこの音楽の協同組合の話をすると少なからぬ若者が目を輝かせる。これが成功するかどうかは、殆ど「あきらめないでやり続ける」かどうかにかかっていると思う。もし、NAMが、こうした試みに対し、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を交流する媒体として役立つのなら、そのときNAMは、「橋のない川」にかけようとする現代の橋となるにちがいない。私の願いもまたそこにあります。

最後に、これまで、経済的な自由や自主性を勝ち取るために、多くのクリエーターの人たちが様々な試みをしてきたと思いますが、それはだいたいうまくいかなかった。しかし、それは彼らがダメだったからではなく、今まで、彼らの目標の実現にとって何が正しい方向か、それがきちんと見出されていなかったからだと思う。そのために、今では、こうした試みに時間と労力を割いてきた多くのクリエーターの人たちはすっかりやる気をなくしているのが現状だと思います。しかし、これらの人たちは、ここに述べたような生産協同組合の可能性について、まだ徹底的に追求してこなかったこともまた事実です。

NAMは、こうした誠実な人たちに対して、生産協同組合の可能性について、「あきらめないでやり続ける」ための情報と技術と希望を提供する媒体であり、自分たちの運動に何が欠けていたのかをもう一度考えさせる貴重な場だと思います。

その意味で、未来以外失うものが何もない若いクリエーター(の卵)だけでなく、過去の運動の中で失ってしまったと思い込んでいる先輩のクリエーターの人たちも、クリエーターである以上は、いつまでたっても否応なしに経済的な自由と自主性の課題を背負わざるを得ないわけですから、そうであるなら、この経済的な自由と自主性を確実に勝ち取るための方向性――生産協同組合の可能性――について、NAMと共に、あきらめずにクリエティブに探求し続けて欲しいと願うものです。

 

生産協同組合の形態の検討

やや専門的になりますが、ここで、生産協同組合を立ち上げていく際、もっかのところ、法律的にどんな形態が可能であり、またそのうちどれが最も有効なのか、それについて解説しておきたいと思います。

ところで、法律というのは、所詮、特定の現象をあとから正当化するための理屈にすぎませんから、生産協同組合の理想的な形態を考えていくためには、ひとまず法律をカッコに括って、そもそもいかなる形態をめざすことが生産協同組合として有効なのかを見ていく必要があります。

1、徹底したコストダウンをめざした形態を模索

言うまでもなく、私たちは資本主義生産の中におり、生産協同組合を立ち上げていく際にも、こうした資本主義的な企業との過酷な競争に否応なしにさらされます。従って、資本主義的な企業との競争に負けないような工夫を見つけ出すことが不可欠となります。そのひとつが徹底したコストダウンのための工夫です。そこで具体的に考えられたのが、90年代に復活したアメリカ企業の切り札とも言われたアウトソーシング(=業務の一部の外部委託)の協同組合的応用です。

つまり、いくら小さくとも個々の生産協同組合(的な組織)が独立して企業を立ち上げるとなると、例えば、先ほど例にあげたレコード会社にしても、資金の調達から始まって、CDの制作業務、CDの販売業務、CDのプロモーション業務といった様々な分野の業務をひとりでこなしていかなければなりません。これは零細の生産協同組合にとっては大変なことです。しかし、よくよく考えてみると、このうちで、ほかに代替不可能なその協同組合特有の活動というのは、作曲・作詞、レコーディングといった創作的な活動部門だけであって、それ以外の部門というのは、必ずしも個々の生産協同組合自身が担当しなければできないものではありません。ここに目を付けたのが、ほかに代替不可能な創作的な活動部門は個々の生産協同組合に残し、それ以外の部門は、個々の生産協同組合たちが集まって新たに結成した別組織の協同組合に委託するというアウトソーシング方式という工夫です。例えば、先ほどのレコード会社で言えば、新たな協同組合として、資金の調達部門を担当する組織、CDの制作に関する著作権処理などの業務部門を担当する組織、CDの販売業務部門を担当する組織、CDのプロモーション業務部門を担当する組織をそれぞれ立上げ、個々の生産協同組合は、そこに各部門の業務をアウトソーシング(外部委託)することにしたのです。つまり、これによって、クリエーターたちは、最も得意で本来やりたいと思って始めた創造的な分野=音楽活動に専念できることになります。

以上のことを図にしてみると、次のようになります。

2、アウトソーシング方式を可能にするベストの組織形態の検討

(1)、以上のようなアウトソーシング方式でいくと、その形態は次の3つに分類できると思います。

非代替的な得意分野だけに特化した個々の協同組合

新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達を専門に扱うもの。

新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達以外の生産活動の部門を専門に扱うもの。

ここで、新たに創設する別の協同組合を②資金調達と③それ以外の生産活動の部門とに分けたのは、資金調達は、生産活動から自律した固有の活動であり、資金に特有な事柄・問題をはらむものだからです(業務の主な流れも、それ以外の生産活動の部門が、個々の協同組合→専用の組織 なのに対し、資金調達の場合、専用の組織→個々の協同組合 と正反対になります)。

(2)、まず、②の資金調達を専門に扱う組織形態についてですが、これまでα株式会社の方式とβ民法上の任意組合の方式(民法667条以下)がありました。先ごろ、大正生命から85億円を詐取したとして投資会社「クレアモントキャピタルホールディング」の代表者が逮捕されましたが、あれなどは、株式会社方式の投資専門組織です。これに対し、例えばある映画を製作するために製作資金を集めたいという風に、もっと手軽に投資組織を作りたいときにこれまで活用されてきたのが、民法上の任意組合の方式です。これだと、株式会社方式みたいに、いちいち厳格な組織を立ち上げたり、資金調達の目的が終了するたびに会社を整理するみたいな面倒な手間が要りません。しかし、その代わり、これは投資者に無限責任を負わせる(組合が第三者に負う負債に対し、組合に出資した者は単に出資した金額ではなく、出資者の全財産をもって責任を負わなければならない)ものですから、投資者は、相当のリスクを覚悟しなければなりません。

そこで、そのリスクを軽減し、かつ株式会社ほど厳格な手続が要求されない新しい組織として98年から登場したのが、投資事業有限責任組合法(正式名称は、中小企業等投資事業有限責任組合契約に関する法律)に基づく投資組合です。これは、基本的には従来の民法上の組合の枠組みに立つものですが(従って、株式会社みたいに最低1000万円の資本金が要求されるようなこともありません)、しかし民法上の組合とちがって、投資者(=組合員)は、組合が第三者に負う負債に対し、単に出資した金額だけ責任を負えばよい(有限責任)という立場を採用し、これにより、投資者が安心して投資できるようにしたのです。その意味で、もっかのところ、②の資金調達を専門に扱う組織形態として、この投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を選択するのが最適だと思います。

但し、この投資事業有限責任組合法に基づく投資組合にも、なお大きな問題があります。それは、この法律が投資先として許容しているのが、基本的に中小の株式会社だけであり、同じ中小の組織であっても、それ以外の形態の組織、例えば、民法上の任意組合や有限会社や中小企業等協同組合法による企業組合(注1)、事業協同組合(注2)や最近話題のNPO法人などに投資することを認めていないことです(法31項)。

そのため、投資専門組織として投資事業有限責任組合法に基づく投資組合を選択した場合、投資先になる個々の協同組合は、株式会社の形態を取らざるを得ません。つまり、①の非代替的な得意分野だけに特化した個々の協同組合の形態は、当面、株式会社の形態を取らざるを得ないことになります。そこで、私たちとしては、とりあえず株式会社の形態を受け入れた上で、その中で、可能な限り協同組合的な組織形態や運営方式を実現できるように、さらに新たな工夫をすることになります(例えば。くじ引き制度。こうした制約の中で、くじ引き制度は協同組合的な運営を実現するものとして大変重要な意味を持つことになるでしょう)。

 なお、この個々の協同組合の形態として、株式会社以外のものが、どんな長所や短所を持っているかを表にしてコメントをつけておきましたので、参考にして下さい(ここでは、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合のことを「投資事業有限責任組合」と略称します)。

1 民法上の組合

 民主的運営の観点(②1)からすれば、出資額の多寡に関わらず、一人一票の原則を取る民法上の組合は結構。が、対外的な債務の責任(①2)について、組合員が個人財産の全てをもって責任を負う無限責任の原則を取るので、この点で問題。

→そこで、対外的な債務の責任についても、組合員の出資額の限度でしか責任を負わない有限責任の原則を取る形態を探すと、思いつくのが、中小企業等協同組合法の企業組合。

 

*2 中小企業等協同組合法の企業組合

  これは、民主的運営の観点(②1)からも、対外的な債務の責任(①2)の点からも、申し分ない制度ですが、反面、組合員になる資格(②2)が非常に厳しくて、原則として事業専従義務を満たした者だけしか組合員になれないという制約がある。

  そのため、事情に専念できない形で関与する者も参加を予定している場合、現行法の企業組合では無理。

→組合以外の形態を探してみた場合、思いつくのが、まず小人数での共同経営に適しているのが有限会社。

 

*3 有限会社

 ここの最大の問題点は、資金をどうやって調達するか(①2)。株主(=組合員)という形で多くの人から資金を募集するという方法を取ると、そもそも小規模を前提にした有限会社ではなくなるし、さらに現在の企業と殆ど変わりなくなり、協同組合の民主的な共同経営の理念が後退してしまうおそれがある。その意味で、資金調達の問題(①)と共同経営の問題(②)を区別できる形態が望ましい。そのための技術が、投資事業有限責任組合からの投資(=株式保有)という方法(①1)。しかし、これは、投資事業有限責任組合に関する法律により、有限会社ではダメで、株式会社にしか投資できないことになっています。

 

*4 株式会社

 ここでは、株式会社の形態を取りながら、いかにして協同組合の民主的な共同経営を実現するかが課題となります。

 ひとつの試案ですが、これから立ち上げようとしている雑誌「批評空間」を発行する出版社の場合、株式会社の形態を取りながら、協同組合的な性格を維持するために、とりあえず次のような技術を考えています。

 まず、出資はするが編集・経営には関わらない人には、「批評空間」の出版社に投資する投資事業有限責任組合に出資してもらい、投資事業有限責任組合の名で出版社の株を保有することにする。他方で、出資もするし編集・経営にも関わる共同経営者には、出版社の株を直接かつ全員同株数だけ保有することとする。

 このようして、資金調達の問題(①)と共同経営者の問題(②2)を区別し、なおかつ同数の議決権を持つ少数の共同経営者により、経営を資本的ではなく協同組合的に運営するようにしたものです。

 

(3)、さて、残された③の新たに創設する別の協同組合のうち、資金調達以外の生産活動の部門を専門に扱う組織形態については、法律的に特にこれといった制約はありません。法律的には、多くの形態から選択することが可能で、株式会社や有限会社、民法上の任意組合、中小企業等協同組合法による企業組合や事業協同組合まで全て可能です。あとは、協同組合の性格と各業界の実情を踏まえて、最も運営しやすい形態を採用すればいいと思います。

 

(注1)企業組合

「個人事業者や勤労者(4人以上)が組合に事業を統合(個々の資本と労働を組合に集中)して、組合員は組合の事業に従事し、組合自体が一つの企業体となって事業活動を行う組合です。企業組合は、組合員が共に働くという特色をもっており、そのため組合員に対し組合の事業に従事する義務が課せられております(原則として組合員の3分の2以上が組合の事業に従事しなければなりません。さらに、組合の事業に従事する者の2分の1以上は組合員でなければなりません)。また、組合員は個人に限られますので、会社は加入できませんが、事業者に限らず勤労者なども加入できます。」(全国中央企業団体中央会のホームページの解説より。

http://www.chuokai.or.jp/cat_02/g2.html参照)

(注2)事業協同組合

「組合は組合員の事業を支援・助成するための事業ならばほとんどすべての分野で実施できます。組合の設立も4人以上集まればよく、気心の合う同じニーズをもった事業者だけで比較的自由に設立でき、中小企業者にとって非常に設立しやすい組合として広く普及しており、最も代表的な組合」(同右)

 

3、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合の概要

では、簡単に、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合がどんな仕組みになっているか、解説しておきます。

 一言で言うと、この投資組合は、もともと中小のベンチャー企業向けの投資組合として最も相応しい形態を備えているものとして構想されたといえます。つまり、

     1000万円の最低資本金制度などの厳格な手続を要求する株式会社と異なり、民法上の組合と同様、シンプルな組織としてスピーディに立ち上げ、運営することが可能であること、かつ税法上も組合自身に課税されず、二重課税を回避できること。

     加えて、無限責任を課した従来の民法上の組合と異なり、株式会社の最大のメリットである出資者の有限責任の原則を導入したこと。

     さらに、従来の民法上の組合と異なる点として、組合員に対する情報開示を担保したこと。

 

以下、五つの項目に分けて、もう少し細かく見ていきます(以下の解説は、「投資事業有限責任組合法」(編者中小企業庁振興課)の4頁以下の説明を参考にしたものです)。

(1)、基本的な性格 

投資事業有限責任組合法に基づく投資組合は、その基本的な性格を民法上の組合と共通にするものです。従って、この投資組合は株式会社のような法人ではありません。従って、組合の財産は、組合自身が独立して保有するものではなく、組合員全員の共有ということになります。また、民法上の組合と同様、組合員全員が組合契約でお互いに結ばれているという関係になります(なお、ひとつの投資組合の組合員の人数は最大で49名までとされています)。従って、法人でないために、税法上も組合自身には課税されず、個々の組合員のみが課税されるだけという、株式会社に比べ有利な扱いになるのです(従来、株式会社方式を取らず、あえて民法上の組合方式で投資ファンドを作ってきた大きな理由はこの税制面でのメリットからです)。

(2)、政策立法としての性格

今回制定された投資事業有限責任組合法において、出資者の有限責任という特例を導入した最大の理由は、ベンチャー企業への資金供給を円滑にするためであり、それゆえ、この政策目的に沿って本法の適用範囲もおのずと限定されています。つまり投資先の限定です。民法上の組合の場合、投資先が限定されるようなことはありません。しかし、本法では、投資が許される投資先は、いわゆるベンチャー企業としての資格を備えるもの、つまり、株式会社であり(それ以外の形態は許されない)、しかも一定の条件を満たす中小の株式未公開企業に限定されます(21項)。

(3)、出資者=組合員の責任の範囲

前述した通り、投資事業有限責任組合法において、出資者の有限責任という特例を導入したのですが、より細かく見ていくと、次のような二種類の責任の取り方となっています。

①.一般の組合員:出資額の限度でしか責任を負わない有限責任組合員(92項)

②.業務執行を行う組合員:出資者の全財産をもって責任を負わなければならない無限責任組合員(22項・7条1項)

つまり、投資組合の組合員のうち、業務の執行を行い運営の中心になる組合員に限って無限責任を負わせ、組合と取引に入る第三者(以下、組合債権者と略称)の保護を図ったもので、こうした二段構えの方法でかかる組合債権者の保護と一般投資家の保護(有限責任)との調整をはかったものです。

(4)、組合債権者の保護

このように、組合債権者の保護のために、業務執行組合員に無限責任を負わせていますが、これ以外にも次のような保護を与えています。

     組合の名称中に必ず「投資事業有限責任組合」という文字を入れなければなりません(5条)。

 取引に入ろうとする第三者が、この組合が何者であるかを名称から判別できるようにしています。

     組合に関する登記を義務づけています(4条)。

 つまり、組合契約の内容のうち重要な事項を一般に公開することにしたものです。ちなみに、法人格のない組織の登記を認めたのは、わが国の登記制度上初めてのことです(法律がいかに臨機応変にできているものかを示す好例です)。

     組合員の出資の方法が、金銭その他の財産に限定されています(62項)。

つまり、民法上の組合で認められている労務による出資は、ここでは認められません。

     組合財産の分配(組合員に対する配当)について、一定の制限を設けています(10条)。

つまり、民法上の組合では組合財産はいつでも制限なしに組合員に分配できるのに対し、有限責任の原則を導入した本法では、組合財産が債務超過(負債が資産を上回る場合)の場合には組合財産の分配を禁止したもので、これによって組合財産の最低限の維持を図ろうとしたものです。

⑤但し、それ以上、株式会社の最低資本金(1000万円)の制度のように、一定額を常に維持することまで義務づけることまでは、投資効率向上の観点を優先して、採用しませんでした。

(5)、情報開示の徹底

一般投資家及び組合債権者の保護ため、彼らに対する情報開示の徹底を図っています。

無限責任組合員(=執行組合員)は、組合の事業について財務諸表等(貸借対照表・損益計算書・業務報告書など)の作成が義務づけられています(8条1項)。

無限責任組合員は、財務諸表等について、公認会計士等による外部監査を受け、かれらの意見書作成を義務づけられています(8条2項)。

組合員及び組合債権者は、財務諸表等及び公認会計士等の意見書を閲覧・謄写することができます(8条3項)。

 

 

 

 

4、実務的な情報

 今まで述べてきた協同組合の諸々の形態について、もっと詳しい実務的な情報を知りたい方は、次の文献やホームページを参考にして下さい。

(1)、投資事業有限責任組合法に基づく投資組合について

 参考文献:「投資事業有限責任組合法」(編者 中小企業庁振興課。発行 通商産業調査会)

問合せ先:通産省中小企業庁(http://www.chusho.miti.go.jp/

 

(2)、中小企業等協同組合法による企業組合や事業協同組合のことについて

 参考文献:「中小企業等協同組合法の解説」(編者 中小企業庁指導部組織課。発行 ぎょうせい)

問合せ先:通産省中小企業庁(http://www.chusho.miti.go.jp/

     また、実務的な相談は、全国中小企業団体中央会(http://www.chuokai.or.jp/

 

生産協同組合の法律問題に関する質問等は、次のメールアドレスまでご連絡下さい。

NAM法律:nam-law-jp@md.neweb.ne.jp  

 

以上

2000年9月12日)

 

 

 

 

 

 


2025年7月8日火曜日

【第110話】法律学(自己)批判の次の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面の注釈を書いた(25.7.9)

5日前、ゆうちょ裁判の集大成の書面を書き上げ、提出した(>準備書面(3))。
その後、この書面の要旨を法廷で陳述したい旨を事前に裁判所に伝えていたことを思い出し、その要旨を準備した。
しかし、フタをあけたら、その書面は準備書面(3)のたんなる要約ではなく、その注釈、つまりなぜこのような整理をしたのか、その理由を明らかにした書面になってしまった。それは【第109話】の追伸に書いた以下の気づきを敷衍したものだった。

この感想を書いたおかげで、
今回の「概念法学の換骨奪胎」と、「法の欠缺の補充」というここ数年来の最大の発見である法律問題が私の中でつながった、ひとつの現象を別のメガネをかけて眺めているのだということに気づいた。つまり、もともとの問題が「法人格のない社団」という団体を規律する法律が制定されておらず、この意味で「法の欠缺」状態にあり、その「欠缺の補充」をしないと「法人格のない社団」をめぐる紛争を「法による裁判」によって解くことができない。そこで、「概念法学の換骨奪胎」という名の下に、無意識のうちに「欠缺の補充」を実行していたのだ。 

自分の中で無意識のうちにあったこの重要な問題意識を、ぜひとも裁判官に伝えたくて、今回の書面を書いた。だから、これは裁判官に宛てたラブレターの続きだった。

しかし、その結果、自分が書き上げた書面を一般市民の人たちにも理解して貰えるように簡単明瞭に要約することがかなわなくなった。それは改めて書くので許して欲しい。

             原告準備書面(3)の要旨>全文のPDF



2025年7月6日日曜日

【第109話】法律学(自己)批判の最初の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面を書いた(25.7.6)

いま、私に必要なことは法律家として羽化すること。それが
ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスのように、
「概念法学」を創造的に否定することである。

ゆうちょ裁判の原告準備書面(3)の全文

 

311以来、原発事故関連の裁判の行方を決めるのは次の三つの力にあることは確信していた(以下の2012年の疎開裁判のブックレットの目次>こちらと本文>こちら)。

 第2章 疎開裁判の判断を決める三つの力
 1 第一と第二の力――真実と正義
 2 第三の力――物いわぬ多数派(サイレントマジョリティ))

しかし、この3つの力について、これを裁判所にどう伝えたらベストなのか、そのコミュニケーションの仕方については正直、混沌としたままでよく分からなかった。その結果、その都度、必要だと思う上記の3つの力についてこれを主張した書面を作成し、提出した。つまり、行き当たりばったりにやっていたのである。

しかし、1年前の正月、元最高裁判事の泉徳治さんの「一歩前に出る司法」ほかを読み、そこで初めて、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4なるもの(末尾の※1があることを知り、政治・政策問題に対して裁判所が司法消極主義を取るという態度にそれなりの合理的根拠があることを知った。ただし、このとき私が驚愕したのはそれではなく、にもかかわらず裁判所が司法消極主義を覆して、司法積極主義に出る場面があることを、この脚注4が説いていたことだった(末尾の※2)。それは一言でいって、人権問題に対する場面のことを指していた。
これは私にとって天啓だった。それまで
私はずっと政治・政策問題と人権問題を、漫然とゴッチャに考えていたからだ。それを可能な限りスパッと切り分ける。そのとき、裁判所は人権問題に対して司法積極主義に出るのだ、それが司法の本来の姿であると(それを実行して見せたのが先日の「国の生活保護基準の引き下げは違法」と判断した最高裁判決であり、昨年7月の「旧優生保護法は違憲」と判断した最高裁大法廷判決である)。泉徳治さんの「一歩前に出る司法」はそう語っていた。

この本の帯に書いてあるように、「裁判所が日本社会を動かす歯車の一つになる」必要がある。しかし、そのためには裁判所を利用する我々市民自身が一歩前に出て、一歩成熟する必要がある。それがーー裁判所を利用する以上、裁判所が司法積極主義に出れるように「政治・政策問題から人権問題へシフト」する必要があるということ。
私にとって深遠に思えたこの味わい深い訓えに触れ、私は自身の過去58年間を振り返る中で、社会問題に関する裁判に取り組むスタンスをそれまでの政治・政策問題から人権問題にシフトすることに態度を変更した。なぜなら、それまで私は裁判という場で人権問題なのに漠然とこれを政治・政策問題として解こうとしてきて、解き方をずっと間違えてきたからだ(その間違いについて書いたブログ>こちら)。

そして、自分が関わる市民運動においても、
それと取り組むスタンスを政治・政策問題から人権問題にシフトすることに態度を変更し、その態度変更を宣言したブックレット「わたしたちは見ている」を編集し出版し、出版後の最初の講演の題名は「原発事故後の社会を生き直す -市民運動の問題は従来の解き方では解けない-」だった(>そのチラシ)。
とはいっても、これはあくまでも基本原則・大原則に関する態度変更であって、現実の裁判の審理や書面の中で、或いは現実の市民運動の中で「政治・政策問題から人権問題へのシフト」をどう具体化していったらよいのか、それはまた別の問題だった。むしろそこでこそ自分が選択した態度変更が生きた実践として活かされるかどうかが問われる正念場だった。

現実の裁判の場では、政治・政策問題から人権問題へのシフト」という観点から、上記の3つの力について、これを裁判所が読んでなるほどと合点してもらえるように構成した書面をどうしたら作成できるか、それが求められていた。

その試練は昨年の態度変更以来、私を襲っていたはずで、私の中で政治・政策問題から人権問題へのシフト」という観点から今まで書いたことがなかった主張書面を書いてきた(と思ってきた)。ただし、今から振り返るにそれはなお不徹底、不完全だった。なぜなら、上記の3つの力の関係について、これをどのように割り振って記述したらよいのか、それについての明瞭な自覚に基づく努力をしてこなかったから。

この3つの力の関係について、初めて明瞭に自覚的に吟味検討を迫られたのが、今回のゆうちょ裁判(>裁判の公式ブログ)の集大成の主張書面だった。それは「なぜゆうちょ銀行の口座開設拒否は許されないのか?」この問いに対する原告の主張を集大成して述べるものだった。

実は最初、私は、この問いに対し、「或る団体が社団か、それとも組合か」という古典的な論点の分析から答えを導く準備書面第1稿を作成し、私の盟友であるKさんに見てもらった。すると彼は「判例は、団体が組合であっても民訴法の当事者能力を認めてますよ」と、私の「社団か組合か」の二分論をやんわりと否定し、もっと現実の紛争に即したリアルな分析が必要ではないかとコメントをくれた。
それもまた私にとって天啓だった。これを読んだ瞬間、大昔に読んだ次の一節が思い出されたからだ。

民法学者として知られる川島武宜は、90年前、研究会で初めて判例の報告をした際、指導教授の末弘厳太郎から次のようにこっぴどく叱られた。
そのようなばかばかしい判例評釈をするなど、もってのほかである。そんな判例研究するような人間は、法律学の勉強をやめてしまえ」、2回目の報告でも「おまえのは概念法学だ。稲というのは現実に植えつけた人間のものにならないはずはない。ドイツでそうでないなどと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ」(「ある法学者の軌跡」66頁~)。

私もまた、Kさんから、次のように言われたと思った。
――おまえのは概念法学だ。社団か組合か、そんな概念的な区別は理由にならない。問題の実質をよく見ろ。そのようなばかばかしい理由づけをするなど、もってのほかである。そんなことをするような人間は法律家をやめてしまえ。

それで、半ば忸怩たる思いで「問題の実質をよく見ろ」という真理と向かい合うしかないと思い直し、次の問題について、自分なりに吟味分析することにした。
・市民団体が団体名義の口座を持つことが健全な市民運動にとっていかなる意味を持つのか。
・そもそも健全な市民運動は健全な市民社会の形成にとっていかなる意味を持つのか。
・健全な市民社会の形成と市民運動の形成に不可欠な団体名義の口座がもし拒否されるとしたら、それはいかなる場合か。いかなる手続を経て拒否されるべきか。
その上で、この問題について、法的な価値判断を下すとしたら、いかなる法的な評価が導かれるか
についても
自分なりに吟味分析することにした。
それは一方で事実問題の分析評価であり、他方で法律問題の分析評価だった。

以上の分析が済んだあと、これまでの私なら、漫然とこれらの分析結果をベタッと書面化して一丁あがりとしたはずだ。しかし、今回、初めて意識的に、これらの分析結果をいわば演繹的に組み立て直し、あたかも目の前の現実を現行法というメガネを通して眺めたら、論理必然的に結論が引き出された、というふうに叙述形式を組み立て直した。
それは一見、私が最初に書いた第1稿の準備書面案と似ていた。しかし、それは似て非なるものだ。確かに形式論理的に組み立てられている点は同じだ。しかし、論理と論理をつなぐ事実はもはや第1稿のそれとはまったく異なり、本件紛争の現実世界の核心部分から構成されていて、その結果、本件紛争の現実に最も相応しい法的評価が見出されるように論理が組み立てられていた(少なくともそれをめざした)。

それは概念法学の換骨奪胎だった。概念法学がなぜダメかというと、それは概念法学の組み立てでは、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分がおざなりの形式的、定型的な事実にとどまり、紛争の現場のリアルな事実の核心部分が抜け落ちるおそれがあるからだ。とりわけ制定当時に想定していなかった新たな事態が発生したときには、概念法学ではこのおそれが現実化する(これが「法の欠缺」状態の発生である)。概念法学のこの宿命的な機能不全(すなわち「法の欠缺」状態に対応できない)に対し、概念法学にふたたび命を吹き込むのがここでの目的だった。それが概念法学の換骨奪胎ーー概念法学の法的論理の枠組みだけ残して、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に、概念法学のように形式的、定型的な事実でもってお茶を濁すのではなく、紛争の現場のリアルな事実の核心部分が盛り込まれるように、事実の取捨選択と分析と活用の仕方を面目一新しようとしたのである。

紛争の現場のリアルな事実の核心部分」の把握の重要性は実はずっと昔から、戦前は末弘厳太郎の「自由法論」「法社会学」、我妻栄の処女論文「私法の方法論に関する一考察」、戦後も民法の星野英一、刑法の平野竜一らが提唱した「利益衡量論」、憲法の芦部信喜が提唱した「立法事実論」などでお馴染みのものだった。しかし、これらの思考方法は一時の流行でもなければ、特定の分野だけのことでもなく、すべての法律問題に及ぶ普遍的、原理的なものであった。
しかし、これまで、ともすると、「概念法学」の弊害に対する反発から
「概念法学」の全てが批判の対象となり、法的論理の枠組みすら否定されてしまいがちだった。しかし、ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスにならって(末尾の※3)、ここで必要なことは「概念法学」の創造的否定だった。それが法的論理の枠組みである論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に新たに紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んで、そこから(概念法学がもたらした)「死んだ法」に換えて「生きた法」を創造することだった。

その際、私が自覚的にやろうとしたことは、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んだだけではなく、そのあと、その埋め込みに最も相応しい法的な判断を引き出す(それが「法の欠缺」の「補充」という法の創造作用のことである)にあたって、私自身の中で「最も普遍的な判断」とみなしてよいと信ずるものを持ち込んで、法的な評価を引き出したことである。今までと何がちがうかと問われると、それまで私は「法的価値判断の相対性」という考え方に囚われていて、事実問題は真偽の有無を判断できるが、法律問題という価値判断では真偽の有無は判断できない、つまりどこまでいっても相対的な判断にとどまると思ってきた。そのため、法律問題に対しては、あくまでもこれは私個人の主観的な価値判断として主張しているのだというスタンスを取ってきた。
しかし、最近に至り、統計学・疫学の検討をする中でそれはちがうのではないかと思い直すようになった。実はヒュームの懐疑論、ポパーの反証主義からも明らかなとおり、事実問題もまた
真偽の有無をついに確定的に判断することは出来ず、あくまでも仮説にとどまる。そうだとしたら、価値判断もまた同様に考えられるのではないか。つまり、これもまた仮説として普遍的な価値判断を提示しているのであり、そうだとしたらこれも許されるのではないかと。
柄谷行人によれば、カントは普遍性を真(科学)の次元のみならず、善(倫理・法)の次元にも拡張したとされるが、私が今回初めてやろうとしたことはカントのこの立場に立とうとしたことである。もちろんこれは仮説としての法的価値判断である。だから、のちにいくらでも反証され、否定されても構わない。しかし、それまでの間、私は自分の法的価値判断を普遍的な性格を持つものとして初めて主張したのである(それでとくに問題はないと考えている)。
その結果、何か変わることでもあるのかと問われると、私は大いにあると答えたくなる。「文は人なり」--このコトバはこの業界に身を置いていると痛切に感じるものである。従って、もし法律問題に対して示す自分の法的価値判断を「普遍的な性格」を持つものとして主張し得たとき、そのコトバは今までにはない説得力を読み手にもたらす力を持つであろうことを私は疑わないからだ。裁判官に限らず、およそ「法を説いて、人を巻き込む」の極意とは別に手練手管や詭弁的なテクニックを駆使することではなく、こうした原理的なスタイルそのものを実行することにある。

その取り組みを曲がりなりにも初めてやったのが、ゆうちょ裁判の今回の準備書面(3)だった。
以上の意味で、この短い書面は、これまで書いたことがないような
私にとって画期的な書面である。私はこれで法律家として羽化したと思った。

とはいえ、これがどこまで首尾よくいったかどうか、自分では分からない。ただ、これを書き上げたとき、この書面でもってこの裁判の勝負に出よう、それで、まともな裁判官の手で裁かれるのであればそれで構わないという心境になった。つまり、裁判官に向けて、自信をもって自分の愛の告白をつづったラブレターを書いたと思った。

このとき、私は曲りなりに、自分が初めて法律家に羽化したような気がした。

私の願いは、2日前に自分が羽化した「自分が初めて法律家になったような気がした書面」をただのお飾りにして終わるのではなく、これを最初の一歩にして、今後、もっともっと練り上げていき、今度はひとり裁判官だけではなく、裁判に関心を持ってくれるすべての市民に向けて読んでもらえるように、このような書面を何十通、何百通、命がある限り書き続けることである。
それが、私にとって
政治・政策問題から人権問題へのシフト」を実践する大切な場のひとつである。

その第一歩を踏み出した今回の体験を記憶にしかと刻んでおくために、荒削りを承知で感想を記した次第である。

追伸
この感想を書いたおかげで、
今回の「概念法学の換骨奪胎」と、「法の欠缺の補充」というここ数年来の最大の発見である法律問題が私の中でつながった、ひとつの現象を別のメガネをかけて眺めているのだということに気づいた。つまり、もともとの問題が「法人格のない社団」という団体を規律する法律が制定されておらず、この意味で「法の欠缺」状態にあり、その「欠缺の補充」をしないと「法人格のない社団」をめぐる紛争を「法による裁判」によって解くことができない。そこで、「概念法学の換骨奪胎」という名の下に、無意識のうちに「欠缺の補充」を実行していたのだ。

 

※1アメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4

①立法が、その文面上、憲法修正1条から修正10条までの10箇条(これらの条項が修正14条の正当な法の手続及び法の平等なる保護の原則の中に包含されると考えられる場合も同様であるが)による禁止のように、憲法による明確な人権制限禁止の範囲内に入っていると考えられる場合には、合憲性推定の働きはより狭い範囲となろう。

②望ましくない立法の廃止をもたらすことを通常期待することができる政治過程を制約する立法は、修正14条の一般的禁止の下で、他の多くの類型の立法の場合よりも、より厳格な司法審査に服すべきかどうかということを、州際通商の問題を扱っている本件では考える必要がない。ここで政治過程を制約する立法とは、選挙権の制限、情報を広めることの制限、政治団体に対する干渉、平和的集会の禁止などの立法を指す。

③特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた立法の審査について、政治過程を制約する立法の審査と同様の考慮が及ぶかどうかを、本件において調査する必要はない。すなわち、個々の孤立した少数者に対する偏見が、通常は少数者を擁護するために頼りとされる政治過程の働きをひどく抑制し、それに対応してより厳密な司法審査を要求するであろうというような特別の状況となり得るかどうかを、本件において審査する必要はない。

※2なぜなら、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がもし司法消極主義に徹していたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることであって、正義にもとることになるからである。このような場合には司法は自ら積極的に司法判断に出る必要がある。
(ブログ
最高裁につばを吐くのか、それとも花を盛るのか(24.3.8)」より

※3)(1)、資本論第2版の後記(1873年。以下、その英訳版)。(2)、経済学批判要綱の序説の3経済学の方法(1857年。以下、その英訳版

(1)、資本論第2版の後記より
My dialectic method is not only different from the Hegelian, but is its direct opposite. To Hegel, the life process of the human brain, i.e., the process of thinking, which, under the name of “the Idea,” he even transforms into an independent subject, is the demiurgos of the real world, and the real world is only the external, phenomenal form of “the Idea.” With me, on the contrary, the ideal is nothing else than the material world reflected by the human mind, and translated into forms of thought.

The mystifying side of Hegelian dialectic I criticised nearly thirty years ago, at a time when it was still the fashion. But just as I was working at the first volume of Das Kapital, it was the good pleasure of the peevish, arrogant, mediocre Ἐπίγονοι [Epigones — Büchner, Dühring and others] who now talk large in cultured Germany, to treat Hegel in same way as the brave Moses Mendelssohn in Lessing’s time treated Spinoza, i.e., as a “dead dog.” I therefore openly avowed myself the pupil of that mighty thinker, and even here and there, in the chapter on the theory of value, coquetted with the modes of expression peculiar to him. The mystification which dialectic suffers in Hegel’s hands, by no means prevents him from being the first to present its general form of working in a comprehensive and conscious manner. With him it is standing on its head. It must be turned right side up again, if you would discover the rational kernel within the mystical shell.

In its mystified form, dialectic became the fashion in Germany, because it seemed to transfigure and to glorify the existing state of things. In its rational form it is a scandal and abomination to bourgeoisdom and its doctrinaire professors, because it includes in its comprehension and affirmative recognition of the existing state of things, at the same time also, the recognition of the negation of that state, of its inevitable breaking up; because it regards every historically developed social form as in fluid movement, and therefore takes into account its transient nature not less than its momentary existence; because it lets nothing impose upon it, and is in its essence critical and revolutionary.

The contradictions inherent in the movement of capitalist society impress themselves upon the practical bourgeois most strikingly in the changes of the periodic cycle, through which modern industry runs, and whose crowning point is the universal crisis. That crisis is once again approaching, although as yet but in its preliminary stage; and by the universality of its theatre and the intensity of its action it will drum dialectics even into the heads of the mushroom-upstarts of the new, holy Prusso-German empire.

(2)、経済学批判要綱の序説の3経済学の方法
(3) THE METHOD OF POLITICAL ECONOMY

When we consider a given country politico-economically, we begin with its population, its distribution among classes, town, country, the coast, the different branches of production, export and import, annual production and consumption, commodity prices etc.

It seems to be correct to begin with the real and the concrete, with the real precondition, thus to begin, in economics, with e.g. the population, which is the foundation and the subject of the entire social act of production. However, on closer examination this proves false. The population is an abstraction if I leave out, for example, the classes of which it is composed. These classes in turn are an empty phrase if I am not familiar with the elements on which they rest. E.g. wage labour, capital, etc. These latter in turn presuppose exchange, division of labour, prices, etc. For example, capital is nothing without wage labour, without value, money, price etc. Thus, if I were to begin with the population, this would be a chaotic conception [Vorstellung] of the whole, and I would then, by means of further determination, move analytically towards ever more simple concepts [Begriff], from the imagined concrete towards ever thinner abstractions until I had arrived at the simplest determinations. From there the journey would have to be retraced until I had finally arrived at the population again, but this time not as the chaotic conception of a whole, but as a rich totality of many determinations and relations. The former is the path historically followed by economics at the time of its origins. The economists of the seventeenth century, e.g., always begin with the living whole, with population, nation, state, several states, etc.; but they always conclude by discovering through analysis a small number of determinant, abstract, general relations such as division of labour, money, value, etc. As soon as these individual moments had been more or less firmly established and abstracted, there began the economic systems, which ascended from the simple relations, such as labour, division of labour, need, exchange value, to the level of the state, exchange between nations and the world market. The latter is obviously the scientifically correct method. The concrete is concrete because it is the concentration of many determinations, hence unity of the diverse. It appears in the process of thinking, therefore, as a process of concentration, as a result, not as a point of departure, even though it is the point of departure in reality and hence also the point of departure for observation [Anschauung] and conception. Along the first path the full conception was evaporated to yield an abstract determination; along the second, the abstract determinations lead towards a reproduction of the concrete by way of thought. In this way Hegel fell into the illusion of conceiving the real as the product of thought concentrating itself, probing its own depths, and unfolding itself out of itself, by itself, whereas the method of rising from the abstract to the concrete is only the way in which thought appropriates the concrete, reproduces it as the concrete in the mind. But this is by no means the process by which the concrete itself comes into being. For example, the simplest economic category, say e.g. exchange value, presupposes population, moreover a population producing in specific relations; as well as a certain kind of family, or commune, or state, etc. It can never exist other than as an abstract, one-sided relation within an already given, concrete, living whole. As a category, by contrast, exchange value leads an antediluvian existence. Therefore, to the kind of consciousness – and this is characteristic of the philosophical consciousness – for which conceptual thinking is the real human being, and for which the conceptual world as such is thus the only reality, the movement of the categories appears as the real act of production – which only, unfortunately, receives a jolt from the outside – whose product is the world; and – but this is again a tautology – this is correct in so far as the concrete totality is a totality of thoughts, concrete in thought, in fact a product of thinking and comprehending; but not in any way a product of the concept which thinks and generates itself outside or above observation and conception; a product, rather, of the working-up of observation and conception into concepts. The totality as it appears in the head, as a totality of thoughts, is a product of a thinking head, which appropriates the world in the only way it can, a way different from the artistic, religious, practical and mental appropriation of this world. The real subject retains its autonomous existence outside the head just as before; namely as long as the head’s conduct is merely speculative, merely theoretical. Hence, in the theoretical method, too, the subject, society, must always be kept in mind as the presupposition.

But do not these simpler categories also have an independent historical or natural existence pre-dating the more concrete ones? That depends. Hegel, for example, correctly begins the Philosophy of Right with possession, this being the subject’s simplest juridical relation.‥‥(以下、略)

 


【第112話】法律学(自己)批判の四歩目:ゆうちょ裁判が問うた本質的なテーマ、それは「たがために法律はあるのか」(25.7.11)

 6回の双方の攻防を経て2日前に審理を終結したゆうちょ裁判(> 最新の報告 )。その5日前に提出した原告主張を総整理・集大成した書面を提出した(> 準備書面(3) )。 あとは、傍聴に駆けつける人たちに向けて、この書面をより分かりやすく解説する要旨を作成して、弁論当日、法廷で陳述...