Xさん
昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。
また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。
終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜しているから、だけではなく、養老孟司の脳化社会への容赦ない批判がみなさんたちにとって不気味で、気持ち悪いからなんだと思います。
さきほど添付したプレゼン資料のラストのほうの「認識の壁」にも書きましたが、
私自身、脳化社会と対立する自然界というのは実は私たちがほとんど認識できない不可知な実在であり、それゆえ、自然とは私たちの意識にとって不気味で、気持ち悪いものです。そして、私自身、そのことにもっと謙虚、鋭敏、自覚的にならなくてはと反省、痛感しました。
今月、彼の「年寄りは本気だ」という対談の中で、自然のことを真っ暗闇の世界だと表現しているのを読み、そうだ、その意味で、放射能とは最も自然らしい自然、人間からみたら魑魅魍魎としか思えない不気味な存在なんだということを受け入れる必要がある、そこから放射能の問題にどう向き合うかも(つまり、普通の人々がなんで放射能を忘れたがっているのか、その根本的な理由について)おのずと明らかになるのではないかと思いました。
この気づきは、かつて、カントが認識できない対象のことを「物自体」と呼んだことを、柄谷行人のカント論から知ったとき、ただし、物自体がどのようなイメージを持つものか、そのビジョンはついに分からずじまいのままずっと来ましたが、今回、養老孟司から初めて、この物自体のビジョンを教えてもらったような気がして、その意味でも、私は彼に傾倒しないではおれなかったのです。
Xさんが書いていた、
自然現象としての原発事故後と社会現象としての原発事故を分離して理解していたのですが
前者は「自然と人間」の関係のこと、後者は「人間と人間」の関係のことです。そして、この2つは、「自然と人間=人間と人間」という風につながっています。その繋がり方をどう捉えるかについて、その全貌を把握することは簡単ではないでしょうが、少なくとも、その一面として、
「自然と人間」の関係がベースになって、「人間と人間」の関係が形成される、
と言えると思います。法律の世界はそういう構造になっています、つまりまず事実があって、その事実に基づいて規範(法的評価)が加えられる、という段階構造です。刑法が事実認定の上に立って、法的判断(無罪かいかなる刑の有罪か)が加えられるもの、というのがその典型ですが。
追伸
1つ言い忘れました。
養老孟司が、「自然界は真っ暗闇である」ことを、「年寄りは本気だ」という本で書いていると言いましたが、ネットでも以下の文にもそのことを述べていますので、備忘録を兼ねてお伝えしておきます。
↑
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762
この間、「放射能は魑魅魍魎とした世界」だと書いてきましたが、ただし、それは放射能に限ったことではなく、そもそも「自然界は真っ暗闇」なんだから、放射能が真っ暗闇なのは或る意味で当然です。尤も、真っ暗闇の闇にも質の違いがあり、この点で放射能は群を抜いており、この意味で、私は脳化社会が行き着いたひとつの到達点が放射能を使う核の科学技術である、と理解しています。
とりいそぎ。