2024年11月14日木曜日

【第18話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者である「脳化社会」そのものは、侵害の目的達成のためにみずから最良の手段方法を発見し駆使している(24.11.15)

 「脳化社会」の最悪の人権侵害者が「脳化社会」そのものの中にあることは先ほど述べた通り(>【第17話】)。

ところで、そこでの人権侵害の手段・方法は「ローマは一日にしてならず」の通り、「脳化社会」が長期間にわたって総力をあげて発見した、彼らにとって智慧の賜物、最重要情報である。
一言で言って、それは「人権保障」の手段・方法と驚くほど似ていて表裏一体である。なぜなら、

1、掲げるスローガンは「誰も反対できない」「反対しない」ものに仕上げること。

2、その達成のプロセスは「一歩前に出る」つまり「ローマは一日にしてならず」を肝に銘じて一歩一歩前に出て侵害を完遂すること。

3、不快を避け、快を求めようとするなどの人間性に根ざしたやり方で、人々から主体性、自主性を剥奪すること。つまり、安全・安心・快適などをアピールして、人々から自己決定の一任を取り付けること。
      ↑
このうち、1と2は人権保障にもそのまま妥当するとしても、3はそのまま使えない。
つまり、人間性は無視できず、これを踏まえた時、そこからどうやって人々の自己決定を確保するか、それが問題となる。
      ↓
つまり、安全・安心・快適な環境、暮らしを実現するために、いかにして市民自身の自己決定を確保するか。
そのためには、
(1)、前提として、己自身の生活全般において、自己決定が隅々まで実行されていること。
(2)、安全・安心・快適な環境、暮らしの実現においても、セルフケアを原則にすること。
(3)、その上で、セルフケアの限界については、市民のネットワークを通じて、市民主導のシステムの構築、必要な情報の相互共有、行政への説明責任、情報開示を実行してセルフケアの限界をカバーすること。
      ↑
(3)の深化、それが次の課題。

 

【第17話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者は「脳化社会」そのものの中にあり、その最大の賛同者にして被害者は「脳化社会」に安住する私たち市民である(24.11.15)

                               子ども脱被ばく裁判 福島地裁判決(2020年3月1日)

子ども脱被ばく裁判と避難者追い出し裁判が明らかにした最大のもののひとつが、人権の始まりであり人権の核心は、私の生き方、私の人生はほかならぬ私自身が選択し、決めるという「自己決定権」にあるということだ。

そこから、私たちが住む「脳化社会」がいかに人権侵害をはらんだ「人権侵害社会」であるかが浮き彫りにされた。なぜなら、福島原発事故に遭遇したとき、少なからぬ市民は、この前代未聞のカタストロフィから身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、前代未聞のカタストロフィから身を守るために選択すべき行動を決定するためには、自前で手に入る情報だけでは到底不十分・不可能であり、そのためには、これに必要な情報を独占している政府と福島県からの情報提供が不可欠だった。にもかかわらず、それを求める市民にその情報は届けられなかった(開示・提供されなかった)からである。
しかも、その悪質極まりない情報隠蔽は(政府や福島県にとって、これほどまでに深刻な原発事故は初体験だったにもかかわらず)何食わぬ顔をして、ぬけぬけと実行されたのである。
なおかつその悪徳行為の最大の被害者である市民の間からも、2014年のセウォル号沈没事故直後、遺族が朴槿恵大統領の青瓦台に向かって抗議行進したように、福島原発事故発生直後、菅直人首相の首相官邸に向かっての抗議行動はついに起きなかったのである。

セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生らの遺族が、朴槿恵大統領との面会を求めて青瓦台に向かって抗議活動。2014年5月9日 ロイター/News1

このとき、なぜ市民の間から抗議行動は起きなかったのか。私たち市民が生涯でいっぺん経験するかしないかの「自己決定権」の行使が問われた、一世一代の瞬間だったにもかかわらず。

それはひとえに私たちが「脳化社会」に安住していたからではないのか。
なぜなら、私たちの住む「脳化社会」は、私たちに「安全・安心」な快適な環境を保障する代わりに、その代償として私たちに「脳化社会」が出す指示、命令に唯々諾々と従うことが暗黙の掟になっているからだ。その見えない「掟」が私たち市民にとってどれだけ強力なものか、それはカフカが「掟の前で」で描いた通りだ。

福島原発事故が起きるまで、原子力ムラは「安全神話」の中で眠っていたと批判されるが、眠っていたのはなにも原子力ムラだけではない。「脳化社会」に安住する限り、私たち市民はみんな眠っていたのだ。 だから、福島原発事故で無知の涙を流して覚醒した一部の人たちを除いて、「脳化社会」に安住していた市民は、原発事故後も引き続き、「脳化社会」を疑うことをせず、「脳化社会」が出す指示、命令に、内心はものすごく不信、不快だったにもかかわらず、表向きは唯々諾々と従ったのだ。その結果、他方で、彼らは原発事故から身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、その実現のために必要な抗議行動に出ることができなかった。これは一世一代の痛恨事だ。

 市民は「脳化社会」に安住する意識にとどまる限り、願いを実現するために必要な行動に移せなかった。それは生涯悔いても悔い切れない痛恨事である。

この痛恨の経験が教えることは、私たちを覆っている「脳化社会」こそ私たち市民の自己決定権を不断に奪い去る、最悪の人権侵害システムだという訓えである。この痛恨をくり返さないためには、一度は本気で、「脳化社会」の掟と対決する必要がある。

私たち市民団体が今月8日に提訴した、ゆうちょ銀行の口座開設不当拒否裁判は、「脳化社会」の掟と対決するささやかなアクション、一歩前に出る行動である(その詳細こちら)。

 

【第16話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

関連ニュース
11月16日江蘇省無錫の学校で、刃物を持った男が襲撃、8人死亡17人けが(>詳細)。
10月28日北京の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年3人を含む5人けが(>詳細)。
10月8日広州の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年2人を含む3人けが(>詳細)。 
9月30日、上海のスーパーマーケットで、刃物を持った男が襲撃、3人死亡15人けが(>詳細)。
9月18日、広東省深圳市の深圳の路上で、刃物を持った男が襲撃、日本人児童1人死亡(>詳細)。
6月24日、江蘇省蘇州の下校中の日本人学校のスクールバスで、刃物を持った男が襲撃、日本人親子がけが中国人女性1人死亡(>詳細)。
 
NHKニュース(24.11.13)

               
昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。
閻連科

中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。
今の中国ではどんなことも起こり得る

彼は、その翌年出版の小説「炸裂志」で、人口数千人の寒村が開放経済政策で瞬く間に一千万人を超える大都市に変貌した村を舞台に、経済至上主義のもとで、それまで普通だった人々が商品に化し、カネを熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、カネと権力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの富への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を描いた。
昨日のニュースの事件は、この小説の舞台のすぐ隣りの町、同じように開放経済政策で瞬く間に大都市に変貌した珠海で起きた。


その12年前の2001年、彼は、小説「硬きこと水のごとし」で、1966年から10年間続いた中国の文化大革命で献身的な若き革命家が銃殺刑に処せられる目前で語る回想録ーーそれは、政治至上主義のもとで、それまで普通だった人々が政治的人間に変身し、権力を熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、権力と暴力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの権力への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を次のような語り口で描いた。

軽々と目的を達成し、王鎮長を打倒しただけではなく、彼を監獄に送り、彼を現行反革命分子にし、二十年の刑にしたのだ。これは意外なほど簡単で、俺と紅梅は革命の魔力と刺激を心から感じることができ、‥‥そして、どうしてこの時期に、メクラも半身不随も、どんくさい豚も犬のクソ野郎も革命をやりたがり、みんな革命を起こすことができ、みんな革命家になりたいと思い、革命家になることができたのかという根本原因がどこにあるか分かったのだ。

文化大革命も開放経済政策も、それは政治と経済の分野のちがいはあるものの、どちらも人間の欲望をエサにして、社会をとことん作り変えようとする「脳化社会」の実験場だった。その狂走の末に、いま、中国社会はカネと権力が一緒になれば不可能はないと考える、誰一人まともな者はいない「脳化社会」の成れの果てを迎えている。

 いわば暴走する「脳化社会」列車に乗った中国の運転手たちは、今や茫然自失としている。その中にあって、今迎えている「脳化社会」の成れの果てをさらにもう一歩前に出ることをためらわず、やめない人がいる。それが閻連科である。

彼はまるで、かつて際限のない殺戮に陥った宗教戦争の成れの果てに、宗教的寛容という世界最初の人権が出現した人類の奇跡の瞬間を、再び、「脳化社会」の成れの果ての中に見つけ出そうと、気魄をみなぎらせ、掘り進む探求者のようだ。

その中国が開放経済政策でモデルにしたのが日本。その日本に追いつけ、追い越した中国が今迎えた「脳化社会」の成れの果て。そのゴミ屋敷の中で起きた昨日の中国ニュース、それは明日の日本の姿。つまり日本も、これからどんなことも起こり得る国になる。
しかし、私たち市民が明日のモデルにするのは中国のゴミ屋敷だけではない。それが、「脳化社会」の成れの果てと向き合い、そこから一歩前に出ることをためらわず、やめない人、閻連科の行動である。

私がチェルノブイリ法日本版と取り組むのは「脳化社会」の成れの果てを迎えた日本のゴミ屋敷から一歩前に出るためであるが、閻連科はそのための最良のモデル、そして百年前の魯迅に続いて遭遇した朋輩である(つつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」)。

 

2024年10月31日木曜日

【第15話】もともと「自然界は真っ暗闇である」、「放射能は魑魅魍魎とした世界」なのは当然(24.10.1)。

Xさん

昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。
また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。  

終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜しているから、だけではなく、養老孟司の脳化社会への容赦ない批判がみなさんたちにとって不気味で、気持ち悪いからなんだと思います。

さきほど添付したプレゼン資料のラストのほうの「認識の壁」にも書きましたが、
私自身、脳化社会と対立する自然界というのは実は私たちがほとんど認識できない不可知な実在であり、それゆえ、自然とは私たちの意識にとって不気味で、気持ち悪いものです。そして、私自身、そのことにもっと謙虚、鋭敏、自覚的にならなくてはと反省、痛感しました。
今月、彼の「年寄りは本気だ」という対談の中で、自然のことを真っ暗闇の世界だと表現しているのを読み、そうだ、その意味で、放射能とは最も自然らしい自然、人間からみたら魑魅魍魎としか思えない不気味な存在なんだということを受け入れる必要がある、そこから放射能の問題にどう向き合うかも(つまり、普通の人々がなんで放射能を忘れたがっているのか、その根本的な理由について)おのずと明らかになるのではないかと思いました。

この気づきは、かつて、カントが認識できない対象のことを「物自体」と呼んだことを、柄谷行人のカント論から知ったとき、ただし、物自体がどのようなイメージを持つものか、そのビジョンはついに分からずじまいのままずっと来ましたが、今回、養老孟司から初めて、この物自体のビジョンを教えてもらったような気がして、その意味でも、私は彼に傾倒しないではおれなかったのです。
Xさんが書いていた、

自然現象としての原発事故後と社会現象としての原発事故を分離して理解していたのですが

前者は「自然と人間」の関係のこと、後者は「人間と人間」の関係のことです。そして、この2つは、「自然と人間=人間と人間」という風につながっています。その繋がり方をどう捉えるかについて、その全貌を把握することは簡単ではないでしょうが、少なくとも、その一面として、
「自然と人間」の関係がベースになって、「人間と人間」の関係が形成される、
と言えると思います。法律の世界はそういう構造になっています、つまりまず事実があって、その事実に基づいて規範(法的評価)が加えられる、という段階構造です。刑法が事実認定の上に立って、法的判断(無罪かいかなる刑の有罪か)が加えられるもの、というのがその典型ですが。

 追伸
1つ言い忘れました。
養老孟司が、「自然界は真っ暗闇である」ことを、「年寄りは本気だ」という本で書いていると言いましたが、ネットでも以下の文にもそのことを述べていますので、備忘録を兼ねてお伝えしておきます。
    ↑
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

この間、「放射能は魑魅魍魎とした世界」だと書いてきましたが、ただし、それは放射能に限ったことではなく、そもそも「自然界は真っ暗闇」なんだから、放射能が真っ暗闇なのは或る意味で当然です。尤も、真っ暗闇の闇にも質の違いがあり、この点で放射能は群を抜いており、この意味で、私は脳化社会が行き着いたひとつの到達点が放射能を使う核の科学技術である、と理解しています。
     
とりいそぎ。

 

 

2024年10月7日月曜日

【第14話】マルクスその可能性のもう1つの中心、それが福島原発事故を解く手がかりを与えてくれる(24.10.8)

 かつて、柄谷行人は、マルクスに対して、

彼の可能性の中心は、それまで喧伝されてきたような「生産様式」にあるのではなく、資本論で追及されてきた「交換様式」の中にある、

と喝破し(「マルクスその可能性の中心」)、終始一貫その問題を追及し、これを2010年の「世界史の構造」の中で、これまでの世界史を「交換様式」から体系化してみせた。 それは賞賛に値する一方で、柄谷行人が明らかにしたいと考えた未来の「交換様式X」については、依然、霧に包まれ、謎めいていた。つまり、真っ暗闇が覆っていた。

他方、その翌年起きた福島原発事故に対して、上の成果がどう活かされるのか、少なくとも私には不明だった。しかし、その新たな問題も、次のマルクスの指摘によって解決の手がかりが与えられることを知った。それは、マルクスその可能性のもう1つの中心である。

これまで、「交換様式」はたいがい「人間と人間の関係」の中で考えられてきた。柄谷行人の「世界史の構造」もそうだ(以下の彼の図式を参照)

しかし、「交換様式」は「人間と人間の関係」に限られない、「自然と人間の関係」の中でも生じる。それを考え、指摘してきたのがマルクス。そのことを柄谷行人は「世界史の構造」の序説の「5 人間と自然の『交換』」の中で指摘した。しかし、それ以上、本論の中では殆ど取り上げないできた。それをより正面から取り上げたのが、その後に書かれた「『世界史の構造』を読む」の『震災後に読む「世界史の構造」』だった。彼もまた、福島原発事故を経験して、「自然と人間の関係」の中での「交換様式」が平時ばかりではなく、原発事故という異常事態時の中で考えなければならないことを実感した。

そこにもう1つのマルクスの可能性があるばかりか、そこにこそ、彼が明らかにしたいと願いながら、依然、霧に包まれ、真っ暗闇の謎の中にいた未来の「交換様式X」が明らかにされる鍵が秘められている。

それが大災害(カタストロフィー)時における「 自然と人間の関係」の中での「交換様式」の問題。そして、それが「人間と人間の関係」に及ぼす影響の問題も提起されている。そのことを日本史の激動期について養老孟司は考察している(平安末期、江戸末期、大正末期の大災害)。

その意味で、柄谷行人が「人間と人間の関係」の中での「交換様式」を世界史を4つに分類したが、今、この4分類ごとに大災害が「人間と人間の関係」にどのような影響を及ぼすのか、検討する価値がある。

2024年10月4日金曜日

【第13話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の感受性は完璧、最高だ(24.10.4)

 黒澤は、1954年のビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた映画を製作した。その映画について、黒澤明自身、こう書いている。

この映画は、水爆の脅威を描いている。しかし、それをセンセーショナルに描こうとは思っていない。
ある一人の老人を通して、この問題をすべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に描きたいのである。

水爆の脅威を「センセーショナル」ではなく、「すべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に」と願って描こうとしたとき、黒澤はどのような選択をしたか。

彼は、水爆の脅威に対する人間の反応を、脳化社会の中にすっぽり安住している人たちの「意識」に焦点を当てて描くのではなく、脳化社会から排除される自然、ここではヒトの中にある自然の部分、つまり「動物としての本能」に焦点を当てて描こうとした。
それがこの映画の題名「生きものの記録」だ。
この映画の題名ひとつ取っても、黒澤の哲学が明確に示されている。彼は、
脳化社会の成れの果ての産物である水爆、それによる放射能の脅威という巨大な自然的世界に立ち向かうためには、もはや脳化社会という人工世界の意識では不可能であり、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に立ち戻るしかないことを悟った。この黒澤明の感受性は完璧であり、養老孟司の「脳化社会」論を40年前に先取りしている。

黒澤がこの映画で願ったことは、
ーーこの主人公は、人間としては欠点だらけかも知れない。しかし、その一見奇矯な行動の中に、生きものの正直な叫びと聞いて貰いたいと思う。

それは70年後の今日、放射能のゴミ屋敷と化した日本社会に対して、人権屋敷の再建を考える私たちの行動とまっすぐつながっている。私たちの行動もまた、
脳化社会という人工世界の意識で取り組むのではなく、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に基づいて取り組んでいるからだ。
         「生きものの記録」映画パンフレット1955年8月。


【第12話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の理解は間違っている(24.10.4)

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
かつて、これを読んだ時、そうだろうなと思った。

しかし、いま、それは少し違うのではないかと思い直すようになった。では、どう違うのか。
人が放射能を見続けることが出来ないとしたら、その原因は単に、太陽がまぶしいといった物理的なことが原因と片付ける訳にはいかないと思うから。つまり、人々を放射能から遠ざける最大の原因は、我々が放射能を無条件に忌み嫌い、排除しようとするゴキブリのような存在だからではないか。
言い換えると、人が人工的に作り上げた脳化社会では、安全・安心が確保されるように管理されている一方、管理の及ばない脳化社会の外側にいる自然界の存在は忌み嫌われ、ゴミのように排除される。その典型として、ゴキブリは我々が住んでいる脳化社会の管理が及ばない自然界の存在として忌み嫌われて排除の対象にされている。そして、放射能、原爆や原発事故で社会に放出された放射能もまた、脳化社会の管理が及ばない自然界の存在である。そのように管理の手に余る放射能が脳化社会に安住する人々から、ゴキブリのように忌み嫌われ、排除されたとしてもあやしむに足りない。

他方、太陽は、別に、人々が無条件に忌み嫌い、排除しようとする存在ではない。夏場に、灼熱の猛暑をもたらす存在として敬遠されることはあったとしても。

人々が放射能に向き合うことを避け、これを排除しようとするのは、何よりも、核兵器・原発を生み出した我々の脳化社会が、脳化社会の管理の手が及ばない自然界の存在(放出された放射性物質)を遠ざけ、排除しようとするという「脳化社会」の基本原理・哲学に由来するものである。こう考えたほうがリアリティがある。

【第18話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者である「脳化社会」そのものは、侵害の目的達成のためにみずから最良の手段方法を発見し駆使している(24.11.15)

 「脳化社会」の最悪の人権侵害者が「脳化社会」そのものの中にあることは先ほど述べた通り(>【 第17話 】)。 ところで、そこでの人権侵害の手段・方法は「ローマは一日にしてならず」の通り、「脳化社会」が長期間にわたって総力をあげて発見した、彼らにとって智慧の賜物、最重要情報である...