一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。
他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。
しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らない。
なぜ、両者はちぐはぐなのか。
それは、「解釈」といいながら、或る場面では表示された文言の内容を把握することという「認識」の意味で使っていながら、或る場面では規範的な意味を把握することという「価値判断」の意味で使っている(※1)。つまり、「解釈」といいながら、或る時には真(認識)の次元の問題だと捉えているのに対し、他の時には善(価値判断)の次元の問題だと捉えている(※2)。
「解釈」という概念には真(認識)と善(価値判断)が同棲している。
そこで、両者のちぐはぐを解明するカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある。
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(※1)我妻栄は、法律行為の解釈とは、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だという(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)。つまり、法律行為とは、当事者の「求めよ、さらば与えられん」の実現に助力する制度であるが、しかし、法律は当事者のすべての法律行為を助力する訳ではなく、あくまでも法の理想をもってこれに臨み、その妥当とするものについてだけ助力する。
そこで、そのような法律行為の制度を実現するために次の手続を踏む(上記〔283〕)、
1、まず、その法律行為の目的(=対象)を確定しなければならない。これが法律行為の解釈。
2.法律行為の対象が確定して初めてその対象が法の助力に値するかどうかを決定することができる。つまり当事者が欲する目的(対象)に法的助力を与えることを可能にするベース(基礎)を確定すること、これが法律行為解釈のミッション(任務)。
このベースが確定したら、次に進む。それが次の審査。
3、法律は、その確定された対象が(1)果して可能であるか、(2)現代の法律理想からみて許されるか、(3)現代の法律理想からみて社会的妥当性を欠かないかを審査して、助力するかどうかの態度を決することになる。
↑
3の(2)や(3)は許す許されない、妥当性を欠くか欠かないか、という法的価値判断の次元の問題。
これに対し、1は対象の確定という意味で、対象の認識の次元の問題。
つまり、我妻は「法律行為の解釈」は認識の次元の問題と捉え、認識の仕事が終わったあとに、次に3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と取り組むと捉えている。
↑
しかし、これは「法律の解釈」とはちがう。我妻は法の解釈とは、法源の意味をはっきりさせることだと言う(民法案内Ⅰ119頁)。ただし、法の解釈は法律独自の立場から決定されるものだと言う。その結果、或る時には文言を縮小して解釈したり、また或る時には法律の論理体系との整合性を考慮して解釈することになるという。それはもはや条文の文言の正確な「認識」ではなく、法的な価値判断の中で引き出される「価値判断」である。
この意味で、
法律行為の場合、まず法的評価のベースを確定する作業として解釈という「認識」の仕事がある。それが済んだら、次に、適法性や社会的妥当性を審査する「法的価値判断」の仕事が続く。
しかし、法律の場合、最初からいきなり法律独自の立場から、法律の意味内容が決定される。それは単なる「認識」の仕事ではなく、「法的価値判断」の仕事である。そこから見えてくることは、普段は自覚されていないが、実は「法律の解釈」にあたっては、その暗黙の前提として、法律の存在を「認識」するという作業を済ませていることである。なぜ普段は自覚されないか。それは普段は紛争の対象となる事実に対応する法律が制定されているからで、制定法である以上、その法源の内容は条文を見れば明らかだからである(これに対し、制定法ではない慣習法は同様にはいかず、その「認識」をめぐって困難な仕事が待っている)。
その結果、普段の生活にはない、異常事態、新たな事態の発生によって発生した紛争については、その紛争に対応した制定法がないため、法律の存在を「認識」するという作業を自覚せざるを得なくなる。その時、出現するのが「法の欠缺」という問題。
(※2)我妻は、実は「法律行為の解釈」を基本的に認識の次元の問題と捉えているようにみえながら、同時に、法的価値判断の次元の問題として捉えていて、両者の関係がどういう関係に立つのか、明らかにしないまま、お茶を濁している。
つまり、我妻は、「法律行為の解釈」を、
一方で、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だと言いながら(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)、
他方で、「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」だと言い替える(「民法講義Ⅰ民法総則」〔292〕)。
これは単なる語句の言い換えではない。事実の「認識」の次元から法規範の「価値判断」の次元に跳躍した決定的瞬間だ。 この跳躍した瞬間から、「法律行為の解釈」が単なる事実認識のレベルの話ではなくなって、いかなる法的な効力を与えるのが妥当であるかという、もともと法律行為の3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と変わらない問題がここで登場する。
つまり、我妻はひとくちに「法律行為の解釈」と言いながら、或る時には「表示行為の有する意味を明らかにすること」と認識の問題を語りながら、或る時には「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」と法的価値判断の問題を語る。
↑
なぜ、事実認識の問題と法的価値判断の問題の区別をやかましく言うのか。それは法的価値判断の問題は価値観の問題だから、思想信条の自由、価値観の多様性を前提とする以上、法的価値判断で見解の違いが生じることは認めざるを得ない。しかし、事実認識の問題は価値観の問題ではないからうやむやにせず、見解の違いは科学上の見解の対立と同様、事実問題として証拠を通じて基本的に決着が付けられる。このちがいはとても大きいからだ。
↓
だから、我妻は、もし「法律行為の解釈」を事実問題と法的価値判断の問題の両方で使いたかったら、使っても構わないから、両者が混同されないように、例えば、
事実問題として使うときには「法律行為の解釈A」といい、
法的価値判断の問題として使うときには、「法律行為の解釈B」という風に混同されないように使い分けるべきだった。
同様に、川島武宜も「民法総則」で、「法律行為の解釈」が事実問題しての側面を有するときと法的価値判断の問題としての側面を有するときがあることを述べ、この「二つの側面は論理的には明確に区別され得るしまたされるべきである」と述べている(188~191頁)が、だったら、たとえ現実に両者の区別が不明確で流動的だとしても、理論上はやはり両者が混同されないように、それぞれの場合に命名をすべきだった。