2025年3月4日火曜日

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。
他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。
しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らない。

なぜ、両者はちぐはぐなのか。
それは、「解釈」といいながら、或る場面では表示された文言の内容を把握することという「認識」の意味で使っていながら、或る場面では規範的な意味を把握することという「価値判断」の意味で使っている(※1)。つまり、「解釈」といいながら、或る時には真(認識)の次元の問題だと捉えているのに対し、他の時には善(価値判断)の次元の問題だと捉えている(※2)。

「解釈」という概念には真(認識)と善(価値判断)が同棲している。

そこで、両者のちぐはぐを解明するカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある。
 

*****************
※1)我妻栄は、法律行為の解釈とは、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だという(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)。つまり、法律行為とは、当事者の「求めよ、さらば与えられん」の実現に助力する制度であるが、しかし、法律は当事者のすべての法律行為を助力する訳ではなく、あくまでも法の理想をもってこれに臨み、その妥当とするものについてだけ助力する。
そこで、そのような法律行為の制度を実現するために次の手続を踏む(上記〔283〕)、
1、まず、その法律行為の目的(=対象)を確定しなければならない。これが法律行為の解釈。
2.法律行為の対象が確定して初めてその対象が法の助力に値するかどうかを決定することができる。つまり当事者が欲する目的(対象)に法的助力を与えることを可能にするベース(基礎)を確定すること、これが法律行為解釈のミッション(任務)。
このベースが確定したら、次に進む。それが次の審査。
3、法律は、その確定された対象が(1)果して可能であるか、(2)現代の法律理想からみて許されるか、(3)現代の法律理想からみて社会的妥当性を欠かないかを審査して、助力するかどうかの態度を決することになる。
        ↑
3の(2)や(3)は許す許されない、妥当性を欠くか欠かないか、という法的価値判断の次元の問題。
これに対し、1は対象の確定という意味で、対象の認識の次元の問題。
つまり、我妻は「法律行為の解釈」は認識の次元の問題と捉え、認識の仕事が終わったあとに、次に3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と取り組むと捉えている。
        ↑
しかし、これは「法律の解釈」とはちがう。我妻は法の解釈とは、法源の意味をはっきりさせることだと言う(民法案内Ⅰ119頁)。ただし、法の解釈は法律独自の立場から決定されるものだと言う。その結果、或る時には文言を縮小して解釈したり、また或る時には法律の論理体系との整合性を考慮して解釈することになるという。それはもはや条文の文言の正確な「認識」ではなく、法的な価値判断の中で引き出される「価値判断」である。
この意味で、
法律行為の場合、まず法的評価のベースを確定する作業として解釈という「認識」の仕事がある。それが済んだら、次に、適法性や社会的妥当性を審査する「法的価値判断」の仕事が続く。
しかし、法律の場合、最初からいきなり法律独自の立場から、法律の意味内容が決定される。それは単なる「認識」の仕事ではなく、「法的価値判断」の仕事である。そこから見えてくることは、普段は自覚されていないが、実は「法律の解釈」にあたっては、その暗黙の前提として、法律の存在を「認識」するという作業を済ませていることである。なぜ普段は自覚されないか。それは普段は紛争の対象となる事実に対応する法律が制定されているからで、制定法である以上、その法源の内容は条文を見れば明らかだからである(これに対し、制定法ではない慣習法は同様にはいかず、その「認識」をめぐって困難な仕事が待っている)。
その結果、普段の生活にはない、異常事態、新たな事態の発生によって発生した紛争については、その紛争に対応した制定法がないため、法律の存在を「認識」するという作業を自覚せざるを得なくなる。その時、出現するのが「法の欠缺」という問題。

※2)我妻は、実は「法律行為の解釈」を基本的に認識の次元の問題と捉えているようにみえながら、同時に、法的価値判断の次元の問題として捉えていて、両者の関係がどういう関係に立つのか、明らかにしないまま、お茶を濁している。
つまり、我妻は、「法律行為の解釈」を、
一方で、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だと言いながら(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)、
他方で、「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」だと言い替える(「民法講義Ⅰ民法総則」〔292〕)。
これは単なる語句の言い換えではない。事実の「認識」の次元から法規範の「価値判断」の次元に跳躍した決定的瞬間だ。 この跳躍した瞬間から、「法律行為の解釈」が単なる事実認識のレベルの話ではなくなって、いかなる法的な効力を与えるのが妥当であるかという、もともと法律行為の3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と変わらない問題がここで登場する。
つまり、我妻はひとくちに「法律行為の解釈」と言いながら、或る時には「表示行為の有する意味を明らかにすること」と認識の問題を語りながら、或る時には「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」と法的価値判断の問題を語る。
            ↑
なぜ、事実認識の問題と法的価値判断の問題の区別をやかましく言うのか。それは法的価値判断の問題は価値観の問題だから、思想信条の自由、価値観の多様性を前提とする以上、法的価値判断で見解の違いが生じることは認めざるを得ない。しかし、事実認識の問題は価値観の問題ではないからうやむやにせず、見解の違いは科学上の見解の対立と同様、事実問題として証拠を通じて基本的に決着が付けられる。このちがいはとても大きいからだ。
            ↓
だから、我妻は、もし「法律行為の解釈」を事実問題と法的価値判断の問題の両方で使いたかったら、使っても構わないから、両者が混同されないように、例えば、
事実問題として使うときには「法律行為の解釈A」といい、
法的価値判断の問題として使うときには、「法律行為の解釈B」という風に混同されないように使い分けるべきだった。

同様に、川島武宜も「民法総則」で、「法律行為の解釈」が事実問題しての側面を有するときと法的価値判断の問題としての側面を有するときがあることを述べ、この「二つの側面は論理的には明確に区別され得るしまたされるべきである」と述べている(188~191頁)が、だったら、たとえ現実に両者の区別が不明確で流動的だとしても、理論上はやはり両者が混同されないように、それぞれの場合に命名をすべきだった。

【第94話】2025年の気づき8:住まいの権利裁判、「契約の欠缺」の補充を国際人権法で穴埋めする日本で最初の書面の提出(25.3.4)

         アマミノクロウサギ(mae shin / PIXTA) 弁護士ドットコムより

30年前、奄美大島のゴルフ場開発許可を取り消す訴訟の原告にアマミノクロウサギ、アオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケスが登場した時、この訴状は日本の裁判史上、一大エポックとなる画期的な書面だった。
それは裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという、人間社会(脳化社会)のあり方に根底から問題を突きつけるものだった。

本日、住まいの権利裁判で、内堀福島県知事の無償提供打ち切り決定のあと、福島県が追い出し訴訟の原告となって避難者を仮設住宅から体よく追い出すために交わした「セイフティネット契約」の違法性を明らかにするための、この間の避難者と福島県双方の主張を踏まえて集大成した書面を作成し、提出した(全文PDF)。

これまで、内堀知事の打ち切り決定の違法性を明らかにするために、災害救助法等が、原発事故の救済について「法の欠缺」状態にあり、その欠缺の補充を上位規範である国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定によって実行したとき、「国内避難民」である避難者には仮設住宅に「居住する権利」が保障され、たとえ例外的に仮設住宅から退去を強制する場合であっても、仮設住宅に代わる「代替住居の誠実な提供」が必須とされていることが導かれる。このような法規範に照らし、2017年3月末をもって問答無用に退去を決めた内堀知事決定は違法というほかないというのが、これまでの住まいの権利裁判のメインの主張だった。
ところで、住まいの権利裁判は先行して県が提訴した追い出し裁判とちがい、避難者が「セイフティネット」契約を締結していたので、この欺瞞的な「セイフティネット」契約の有効・無効がさらに裁判の争点となり、これについても、国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定の観点から主張を集大成したのが本日提出した書面。


近代市民社会において契約は法律と並んで、市民社会を規律する二大規範だ。しかるに、法学者たちの法律の研究に比べ、契約の研究は表面をなぞったばかりの不完全、お粗末なものが多く、その中で、住まいの権利裁判の「セイフティネット」契約の有効・無効を明確に論じることは至難の業だった。

その上、これまで法律家をやってきて一番分からない問題は
「法(法律)の解釈」とは何か。
自然科学と比べたとき、「自然的事実の解釈」は事実を認識することだが、「法(法律)の解釈」はこれと違う。認識した法(法律の文言)をどのようなものとして確定したらよいか、法律の文言を文字どおり理解するのか(文理解釈という)、それともふくらますのか(拡張解釈という)、それとも限定するのか(縮小解釈という)……とあれこれひねくり回す。こんなひねくりテクニカルなことは自然科学では考えられない。つまり、法律ではここで既に、認識の次元ではなく、価値判断の次元の議論をしている。

私自身が今回の検討の中で気づいたことは、
法律を解釈するためには、その暗黙の前提として
現実の紛争において適用すべき法律が何であるのか、それを認識する必要があるのだが、通常その答えは自明だ(つまり、法体系と現実の紛争とはいちおう対応関係がつけられている)。
しかし、311まで安全神話の中に眠っていた原発事故の救済に関する法律はちがう。そんな法律は制定されていなかった。
だから、原発事故の救済に関する現実の紛争において適用すべき法律が何であるのかと問われたら、そんな法律は制定されていない、つまり「法の穴(欠缺)」状態にあると答えるのが正しい。つまり、
現実に存在する災害救助法等は原発事故の救済に関する法律ではない。ぽっかり穴があいている。そこで、その穴を補充して、原発事故の救済に関する法律の規範を創造する必要がある。この創造行為を法律の上位規範である憲法、国際人権法らを参照しながらやったのが、住まいの権利裁判の原告避難者の主張書面(例えば1年前の以下)。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/03/24318.html

しかし、ひるがえって思うに、もし現実の法律が現実の紛争に対応するように制定されていない場合に、これを「法の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいとすれば、
もし現実に締結された契約が現実の紛争に対応するような内容でない場合にも、「原発事故の救済に関する契約」という規範から眺めた場合、現実に締結された契約を「契約の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいのではないか。
本日の書面のうち国際人権法の部分は、殆ど直感的ともいうべきこの気づきに背中を押されて書かれたもの。
過去に「法の欠缺」という理論的問題を扱った文献はあったが、「契約の欠缺」という問題を扱った文献は寡聞にして知らない。
しかし、法律と契約という両輪の輪で市民社会の秩序が形成されているとき、欠缺の問題を法律だけに限定する理由はない。両輪のもう一方の輪である契約においても、同様に欠缺の問題が発生し、これを欠缺の補充として解決すべきであるというのは十分な理由がある。

この問題提起はちょうど、裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという問題提起をしたアマミノクロウサギ裁判と同じようなもの。

民法に登場する「解釈」には「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つがあるが、この2つの「解釈」の意味をめぐって、同じ「解釈」という言葉を使いながら、2つの解釈について明確で、統一的な説明を知らない。民法の神様と言われた我妻栄の「民法総則」の議論も、法社会学の大家と言われた川島武宜の「民法総則」の議論も、刑法の大家で元最高裁判事の団藤重光の「法学入門」の議論もどれもゴッチャゴッチャーー一方で、解釈とは外部に表示された法律や契約の内容を把握することであると「認識」の問題だとしながら、他方で、解釈とはその法律や契約の規範的な意味内容を把握することであると「価値判断」の問題だとするーー。「解釈」というひとつの言葉の中に真(認識)と善(価値判断)の次元が同居している。この同棲関係をどう理解したらいいのか、明快な統一的な説明ができていない。
しかし、もし、今回の書面を通して、「法の欠缺」と「契約の欠缺」の問題を解明していったら、「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つの関係--それは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係--が初めて明確に整理できるのではないかと、ひそかに展望を感じている(→その試行錯誤の第1歩が以下)。

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある

「事実(現実)は小説(理論)より奇なり」という真理を、どんなに頭で考えても思いつかない真理として、この福島原発事故は我々に突きつけていると改めて思う。

2025年3月3日月曜日

【第93話】2025年のつぶやき8:自然と放任のちがいを追及し抜いた福岡正信(25.3.3)

今回、2月後半の田舎暮らしで、出会った最大の生き物は福岡正信。
例えば、彼の「わら一本の革命」に書かれていた「自然と放任はちがう」、そのちがいについて。
この本質的問題でここまで格闘した人に出会ったのは初めてだった。
敬して、考え続けるために、その一節を引用しておこうと思う。

 ******************

たとえば、教育というものは、

価値のあることだと思っている。

 

ところが、それはその前に、価値があるような条件を、

人間が作っているんだということがまず問題にある。

 

教育なんて、本来は無用なものだけれど、

教育しなければいけないような条件を、

人間が、社会全体がつくっているから、

教育しなければならなくなる。

 

教育すれば価値があるように

見えるだけにすぎないということです。

(中略)

私ははじめ、「放任」ということと、

「自然」ということを、ごっちゃにしてたんですね。

 

枝は混乱する、病虫害にはやられるで、

7反ばかりのミカン山を全部枯らしてしまった。

 

私はそのときから自然型とは何ぞや、ということが

常に問題として頭にあって、

これだということを確信するまでに、

さらに400本の木を枯らしてしまうことをした。

 

そして、やっと自然型とはこれだな、と

確信をもてるようになった。

 

自然型というものを作るようになってくると、

病虫害の防除も必要なくなって、

農薬がいらなくなった、

剪定というような技術も必要なくなった。

 

自然ということがわかれば、

人間の知恵なんて必要ないんです。


子どもの教育にしたってことです。

私も初めそれで失敗したが、

放任ということと、自然ということが混同されていて、

放任が自然であるかのように

錯覚している場合が多いんです。

2025年3月1日土曜日

【第92話】第91話の続き雑誌「政経東北」掲載「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」(2025.3.1)

 【第91話】で紹介した「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」が雑誌「政経東北」3月号(3月5日発売)に掲載されることになった(>全文PDF)。


2025年2月16日日曜日

【第91話】いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー(2025.2.16)

1、法律家にとっての311
 法律家として311福島原発事故で何に一番驚いたか。それは文科省が
学校の安全基準を福島県の子どもたちだけ年20ミリシーベルトに引き上げたことだ。それは前代未聞の出来事だった。なぜなら、このとき見えない法的クーデタが敢行されたからだ。それについて解説しよう。

2、
法治国家から放置国家への転落
 311まで決められていた年1ミリシーベルトの防護基準は原発が通常運転している時の基準で、それまで安全神話の惰眠をむさぼっていたわが国は原発が事故を起こした時の安全基準を法律で何も定めていなかった。この法の穴を法律用語で「法の欠缺」と言う。
社会生活が変化すれば法律も当然、その変化に対応できない穴が生まれる。コンピュータやインターネットが出現し新しい事態が発生したとき、それまでの法律がこれらの事態を解決する基準を用意してないことは当然だ。法律の使命は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」で、新しい事態に対して関係当事者の人権、利益が適正に守られるように新たな法秩序を産み出して名実ともに 正義・公平に適った法律にバージョンアップすることだ。

 そして、原発の世界は1986年に史上最悪の原発事故であるチェルノブイリ事故を経験し、原発を保有する国々はこの事態に対応するよう備えをする覚悟を迫られた。しかし、このとき日本政府は「わが国の原発はソ連の原発と技術も構造もちがう、チェルノブイリのような事故は絶対起きない」と豪語し、その備えをしない途を選択した。そして 311を迎えた。それはチェルノブイリ事故の経験から学ばず、己の科学技術水準に自惚れた日本政府と原発管理者の奢りに脳天から鉄槌を下した決定的な出来事だった。このときもし、日本政府と原発管理者が己の奢りを猛省し、自然界の猛威を謙虚に受け止める姿勢を示したなら、半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対して、抜本的な対策を取った「公害国会」のようなアクションを取っただろう。つまり原発事故の救済に対して、日本の法律が全面的な「法の欠缺」状態にあることを素直に承認し、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を埋める新たな法律が作られたはずだ。これが「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の通り、たえずバージョンアップする法律の本来の姿だ。
しかし、311で
法律のこの使命は正常に作動せず、「美しい言葉」で語られた子ども被災者支援法の掛け声以外に、現実には、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を具体的に埋める、チェルノブイリ法に匹敵するような新たな法律は何一つ作られなかった。つまり、311で日本の法律の使命は異常事態に陥って、原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態が発生し、なおかつその誠実な「欠缺の補充」も見事にひとつも実行されなかった。その前代未聞の異常事態ぶりを端的に示した出来事が次の3つだ。 

3、文科省20ミリシーベルト通知
 一番目が文科省の20ミリシーベルト通知。このとき、日本の法律は原発事故の時の安全基準を何も定めていなかったという「法の欠缺」状態にあった。そのとき、原発事故の時の安全基準について行政庁がなんらかの措置に出る場合には、この「法の欠缺の穴埋め(専門用語で補充)」をする必要があり、その補充した法律規範に従って行政行為をすることが求められた。この「欠缺の補充」にあたっては、まず第1に、我が国において、憲法と条約(国際人権法)は法律の上位規範であり、従って、法律は上位規範である憲法と条約(国際人権法)に適合するように「欠缺の補充」をされる必要がある。ところが、この時、文科省が参照したのは国外の一民間団体でしかないICRPが表明したお見舞い勧告だった。文科省がこの重大な通知を出すにあたって参照したのは、国内の法律でも憲法でも条約(国際人権法)でもなくて、ICRPという私的団体の私文書。国内の法規範に従わず、ただの私文書に従って、これに適合するように、福島県の子どもたちの運命を左右するような通知を出した。これを法秩序の崩壊=見えないメルトダウンと呼ばすして何と呼んだらよいのだろうか。これに比べれば、いま対岸で吹き荒れている、当初あくまでも諮問委員会でしかなく、公式の政府機関ではなかった政府効率化省のトップに就任したマスク氏が、法律に基づかずにトランプ大統領の支持を根拠に、米国際開発局(USAID)の職員に休職措置の通知を出すなど米連邦政府職員の大量解雇を開始した振る舞いが、まだずっとマシに思えるほどだ。

4、
学校環境衛生基準
 二番目が、法の欠缺を補充する義務を日本政府がボイコットした学校環境衛生基準。半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対処するため、この時世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの。ところで、311後に環境基本法を改正し、それまで適用を除外していた放射性物質を同法の規制対象に組み込んだ。その結果、放射性物質も他の有害物質と同様、生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生が環境衛生基準となった。これを日本政府は学校環境衛生基準として書き込む義務を負うに至った。ところが、これをストレートに表わすと、年0.00286ミリシーベルト、つまり年20ミリシーベルトの7千分の1の値。半世紀前に導入し確立された学校の環境衛生基準の根拠に従ったこの数値を、しかし、日本政府は放射性物質の学校環境衛生基準として制定しようとしない。つまり環境基本法の改正によって自分に課せられた義務、その履行を日本政府は白昼堂々とサボっている。これではもはや法が支配する法治国家ではなくて、無法が支配する放置国家だ。

5、災害救助法 
 三番目が、原発事故で避難した被災者(これが国際人権法上の「国内避難民」であることは日本政府も認める)の救済に適用された災害救助法。
災害救助法は実は、311まで原発事故を想定していなかったため、当然その救助も想定しておらず、その結果、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態にあった。しかし、他の法律と同様、災害救助法もまた311後に率直な自己反省の中から、「国内避難民」の人権保障を実現するための誠実な「欠缺の補充」を行う法改正をひとつも実行しなかった。福島原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態のまま、福島県トップの内堀知事は無償提供の打切りという決定を下し、「国内避難民」である区域外避難者を避難先としてあてがわれた仮設住宅から追い出した。これに比べれば、政府効率化省トップのマスク氏の振る舞いがまだマシに思えるのは私だけだろうか。

6、法律があぶないとき、どこに向かうべきか
 以上の通り、いま、法律は、未だかつてないほどあぶない。だが、その解決は法律の解決だけでは済まない。その時、法律を支えている(というより、正確には法律が奉仕している)私たちの社会生活そのものが未だかつてなくあぶないからだ。だから、法律の危機とは社会生活に対する差し迫った危機のイエローカードのこと。いま、法律の使命が異常までに機能不全に陥っているのは、法律の根底にある私たちの社会生活が原発事故で破綻しただけでなく、実はいま、至る所で破綻をきたしているからだ。昨年11月、文科省から発表された「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」は不登校・いじめを引き起こす現代社会の構造にメスを入れない限り、いくら法律の改正に励んでも何も変わらないことを示している。
昨年来、日本中を騒がせている水道水のピーファス問題も、ピーファスという4700種類以上の有害化学物質を産み出した現代の先端化学技術のあり方にメスを入れない限り、いくら法律の整備をしたところで絵に描いた餅で終わることを示している。それと同様、原発事故の救済問題も、例えば「国内避難民」である区域外避難者の住宅問題の解決ひとつとっても、災害救助法や福島県知事決定の根底にある、従来の自然災害とは根本的に異質な放射能災害の特質・桁違いの長期戦を余儀なくされる構造的な課題に正面から目を向けてメスを入れない限り、たとえどんな立派な法律論でいくら災害救助法の改正に励んでも「カエルの面にションベン」である。

 半世紀前、公害問題で苦しんだ日本社会は、無数の無名の市民と宇井純、原田正純、田尻宗昭、戒能通孝、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に、先端科学技術の枠組みの中で問題の解決を勝ち取った。しかし今、日本社会は放射能災害、ピーファス問題などこれら先人の努力の賜物が無に帰すような新たな問題の試練にさらされている。今度の試練はもはや先端科学技術の枠組みの中では問題の解決が出来ない様相を帯びているからだ。いま、私たちは先端科学技術の枠組みの外に出て、それと一線を画す新たな視点で問題解決の探求が求められている。私はその手がかりを養老孟司の脱「脳化社会」論とチェルノブイリ法の日本版に見出している。
 しかし、紙面が尽きたので、
この手がかりについてはまた別の機会に書こうと思う。

(2025.2.16)

 

 


2025年2月14日金曜日

【第90話】【第73話】の「僕の森は戦場だった」の本人の音声ファイルの追加(25.2.14)

本日、1月27日の住まいの権利裁判で意見陳述した原告本人から音声ファイルが送られてきたので、ネットに公開(当日の裁判の報告>【第73話】)。
この音声は、後日、彼が意見陳述原稿(全文>こちら)を読み上げたもの。けれど、その朴訥な語り口は裁判当日と変わらない。
自分から意見陳述しますと志願した彼が、どんな心境で、311後に激変した自身の苦難の14年間を振り返って、裁判所に語ろうと思ったのか。また、311まで彼がどのように自然の中で「木こり」として生きてきたのか。そうしたことについて、彼の朴訥な語り口から思いをめぐらす。

    以下の写真は、原告らが国と東京都から避難先として提供された東雲の国家公務員宿舎



【第73話】「僕の森は戦場だった」:福島の木こりだった避難者が住まいの権利裁判で意見陳述(25.1.31)

               意見陳述原稿1頁目(全文>こちら


2025年2月12日水曜日

【第89話】2025年のつぶやき7:ジソブがとうとう結婚した(25.2.13)

韓国ドラマ「カインとアベル」(2009年)主演のソ・ジソブ

昨日、あのソ・ジソブがついに結婚したことを知った。
311のあと、頭の中がグジャグジャになり、原発事故という未曾有の異常事態とどう向き合うのか逡巡する中、目の前に現れたのが古代イスラエルの旧約聖書の預言者たちだった。
人権も憲法もない古代イスラエル国家の圧制のもとで、思い切り逡巡しながらも、圧制に抵抗して避難(出エジプト)を説き、実行に移したモーセ。「暗い見通しの中で希望を語り続けた」預言者エレミヤたち。 
その中で、日本の映画・ドラマは観ることができなくなり、唯一、惹きつけられたのは韓国のドラマ「エデンの東」「カインとアベル」。


「エデンの東」第2回「父の死」
そこには、お前が死んでも墓を暴いてでも復讐するといった不退転の執念が描かれていた。
そこに登場したのがソ・ジソブ。
彼の演技を超えたリアリティに一も二もなく惹きつけられた。
そのあとの彼が出演するドラマにも惹きつけられた(「ゴメン愛してる」「バリの出来事」)。
それは市民の手で独裁制を退場させた1987年の民主化後の韓国が舞台だったが、彼が演じる登場人物はみんな民主化された韓国の中での悲劇・苦悩を象徴的に示していた。

それは、昨夏気づいた「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」の塀の中に生きる悲劇・苦悩だった。
だが、その悲劇・苦悩を演じるジソブ自身の次第にその殺伐としていく風貌を見ていて、彼は実生活の中で、その悲劇・苦悩に耐えられず、押しつぶされてしまうのではないかと思った。

……しかし、とうとう彼は同伴者を見出した。
四半世紀前の盟友パク・ヨンハの自死を乗り越えて、新しい絆を作っていこうと一歩前に出た彼に心から祝福したいと思った。
そして、ジソブ、もう一歩前にーー君がドラマで散々演じてきた舞台、現在の韓国=「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」、その塀の外に出ることをめざそう、今度は同伴者もいるし。

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。 他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。 しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らな...