2026年9月2日水曜日

【第135話】つぶやき(その10)チェルノブイリ法日本版、その対話の必要性と可能性(4) トニ・モリスン「複雑な人々についての非常にシンプルな物語を語ること」(26.9.2)


トニ・モリスン( Britannicaより)

この夏、北茨城の実家に滞在中、1冊の本の表紙の言葉に目がとまった。
題名「人と思想 トニ・モリスン」
解説の言葉「モリスンは、白人支配の下で『見えない存在』として生きたアメリカの黒人の姿を四世紀の歴史の中から掘り起こし、この人々の内なる世界に声と言葉を与えた」

何という偉業を成し遂げたのだろう。
「見えない存在」におとしめられていた存在を「見える、尊厳のある存在」に回復するための再建の取組み。それが過去の「見えない存在」を掘り起こし、そこに声と言葉を与えて、「見える、尊厳のある存在」に導いた。

その彼女が作家としての野心を次のように語ったーー複雑な人々についての非常にシンプルな物語を語ること。
"I stand with the reader, hold his hand, and tell him a very simple story about complicated people."(1981年雑誌『The New Republic』のインタビュー記事より)

まったくその通りだ。
私の課題も同様。
複雑な考え、アイデア、思想を非常にシンプルに語ること。
複雑な考え、アイデア、思想を複雑に語ること、それなら今までも何とかできる。しかし、それでは足りない。そこから、
これをシンプルに語ること、複雑な語りからエッセンスを抽出する必要がある。

なぜなら、そのシンプルの語りこそ、この語りがこれを読む人々の心に届き、絶え間のない触発を与え続けることができるから。
例えば、「ここがロードスだ、ここで跳べ!」
例えば、何度もボロクソに蹴散らされてきた追出し裁判の下級審判決と裁判官忌避判決。しかし、そこで無視され、蹴散らされるたびに、その次にチャレンジする時には、それまでに書いた「複雑な考え、アイデア、思想を複雑に語る」主張を、少しでもシンプルに語り直そうと、エッセンスの抽出に励んだ、それも一度ではなく、何度も。すると、そのうちに、最後は、自分でも言いたいことが段々とシンプルに研ぎ澄まされていった。以下のように。そして、これに最高裁の三浦意見が応答した。
この体験から、トニ・モリスンの上の言葉の意味が実感できる。

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第1、はじめに――本裁判に対し申立人らが望むこと―― 

1、本裁判の意義

 本裁判(通称「自主避難者住宅追出し訴訟」)とは、2011年3月11日の福島第一原子力発電所事故(以下、福島原発事故という)の発生後、福島県内から東京都に自主避難した区域外避難者である申立人らは国(所有者)及び東京都(管理者)が提供する応急仮設住宅(申立人らが入居したこの住宅〔国家公務員宿舎〕を以下、本件建物という)に居住していたが、内堀福島県知事は2015年6月15日、2017年3月末をもって区域外避難者に対する応急仮設住宅の供与を打ち切り、延長しないことを決定した(以下、この案件を応急仮設住宅供与打切り問題、この決定を福島県知事決定という)。これを受けて、本件建物の所有者でも管理者でもなかった福島県は、2020年3月、申立人らに本件建物からの退去を求めて福島地方裁判所に提訴し、これに対し、申立人らは、本提訴は国際人権法が国内避難民である申立人らに保障する居住権を侵害するものであり、精神的損害を被ったとして慰謝料の支払を求めて反訴に出たものである。

 そもそも原子力発電所を稼働させる限りいつか事故の発生を避けることはできず、ひとたび事故が起きれば被ばくを避けることはできない。しかるに現代の科学技術の水準では被ばく量の予測は難しく、被ばくによる健康被害の有無・程度もよく分かっていない。他方、被ばくを避けるための方策として、長期ないし短期の避難、建物内退避、飲食物等を選択することは、社会生活においても家庭生活においても、経済的にも精神的にも大きな負担が伴う。自分や家族の命、健康、暮しを護るためにどのように行動すべきか、誰にも正解は分らず、一人一人が情報を集めて判断し、決定するしかない。そのためには、国や地方自治体からの迅速かつ正確な情報提供と十分な経済的支援が不可欠である。このことは、住民とりわけ子どもたちが無用な被ばくを避け、被ばくについての自己決定権そして命、健康、暮しについての自己決定権を保障するためにも最低限の条件である。

福島原発事故の発生後、被災者は、この「被ばくについての自己決定権」そして「命、健康、暮しについての自己決定権」が侵害された。事故直後、被災者には迅速かつ正確な情報が提供されず、被災者は無用な被ばくを余儀なくされた。また、無用な被ばくを避けるために自主避難を選択した申立人らの区域外避難者は、その後、国や相手方の政策により、命、健康、暮しについての自己決定権が奪われた。本裁判は、この後者について相手方の責任を問うものであった。この責任を明らかにしなければ、次の事故においても同じことが繰り返される。

 しかるに、一審判決及び原判決はいずれも、福島県知事決定にも相手方の提訴にも問題はないとして、申立人らの訴えを退けたが、それは第2以下で明らかにする通り、人間として扱われたいという申立人らのささやかな願いや不安に何一つ向き合って応答したものではなかった。

 人権保障の最後の砦として司法に期待した申立人らが一審判決及び原判決を聞き、いかに落胆したか、最高裁判所に対していかなる思いを寄せているかについて申立人の陳述書(資料1)を添付したので熟読いただきたい(ただし、申立人2もその準備をしていたところ、4月8日の相手方の強制執行によって、驚愕と恐怖と憤りの嵐に巻き込まれ、そのショックから未だ立ち直れず、今回の提出がかなわなかった。申立人らの思いは彼らが一審で提出した陳述書〔乙C5・同6〕にも吐露されているので、合わせて熟読いただきたい)。

 

2、本裁判の概要

 本裁判において、申立人らが相手方の明渡請求に反論する理由は次の3つである。

①.訴訟要件 

相手方は原告適格を有しない。

②.占有権限の抗弁

 ⓐ.国内避難民である申立人らには国際人権法が保障する居住権が認められる。

ⓑ.福島県知事決定は違法であり、無効であること 

 本書面では、第2以下で、占有権限の抗弁、訴訟要件の順番に記述する。

 

3、本裁判に対し申立人らが望むこと

(1)、結論

本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは「真空地帯」で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して申立人らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由と意義について述べる。

 

(2)、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――

福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義には民主主義システムにおける役割分担としてそれ相応の理由があるものというべきである。

他方で、どのような原理原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である(別紙訳文参照)。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる「民主主義の政治過程」、これが正常に機能しない場合もしくは「民主主義の政治過程」が性質上及びにくい場合に、民主主義の政治過程そのものに関わる人権問題やそれが及びにくい領域の人権問題について、司法が引き続き司法消極主義に徹していたら、それはまさしく司法消極主義のやり方に任せていたのでは解決できない病理現象から司法が目を背けることにほかならず、明らかに正義にもとるのである。このような場合には司法は態度を変更して、自ら積極的に司法判断に出る必要がある。

とはいえ、ここで行う審査とは決して政策の当否といった政治論争の審査(政治問題への積極的介入)ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義は司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。

①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

(泉徳治元最高裁判事の20041030日「司法とは何だろう」講演録74~75頁[1]による)

 

(3)、本裁判の主題

ア、「真空地帯」の発生――311後の日本社会の際立った法律問題――

本裁判の主題とは何か。その第1は、応急仮設住宅供与打切り問題が原発事故の救済をめぐる紛争の解決が求められた事案であるにもかかわらず、これを解決する相応しい具体的な判断基準が法律から直接引き出せない状態、すなわち法の欠缺状態それも全面的な欠缺状態にあったということである。本件に即して言えば、

申立人2は福島原発事故直後に避難した体験について、陳述書(乙C6)でこう述べた。

2011年3月11日に東日本大震災が発生し、南相馬市長より避難の要請が出された為、私は次女を連れて友人家族の車に便乗させてもらい関東方面に向かいました。しかし当時ガソリンが手に入らず、東京までは行けず、途中栃木県のそば屋で一泊させてもらい、翌日宇都宮駅から次女と各駅停車の電車に乗り、東京に向かいました。東京では頼れる人も居ないので、‥‥(中略)‥‥、その後 福島県の情報が全く入らず、どうして良いのか分からず途方に暮れて不安な時間を過ごしている中、次女の同級生が足立区の武道館に避難していることが分かり、そこへ会いに行き、初めて避難所があることを知りました。その避難所は避難者向け都営住宅の募集もしていて、老人ではないし当てはまらなかったけれど直ぐに申し込みをしましたが、落選通知が東京都から来て、その後東京都から「赤坂プリンスホテルに入れる」と連絡を受け、4月中旬頃、東京の専門学校に通っていた長女と合流して赤坂プリンスホテルに移動しました。6月末までそこで過ごして、その後、千代田区の全国町村会館へ移動、7月末に現在の住まいである東雲住宅へ入居しました。

この事実だけでも本裁判の主題が明確に示されている。それが、一方は本件建物の持ち主であり、福島原発事故の加害責任を負うべき立場にある訴外国が避難者に提供した本件建物の所有権と、他方は、福島原発事故により避難を余儀なくされた避難民である申立人が国より避難先住居として提供を受けた本件建物について有する居住権(同時にそれは生存権でもある)とが対立・衝突した場合、いかにして両者の調整を図るかという、原発事故発生時における加害者の所有権と被害者・避難民の居住権(生存権)との対立・衝突をいかに調整するかという、「平時」とは状況が全く異なる原発事故発生という「緊急事態」のもとにおける人権保障のあり方が根本から問われた、過去に経験のない人権問題であるにもかかわらず、これを解決する相応しい具体的な判断基準が災害救助法及び関連法令から直接引き出せない状態、すなわち法の欠缺状態それも全面的な欠缺状態にあったという点にあった。

 しかも、それはひとり申立人らに限った問題ではない。311後の日本社会の際立った法律問題は原発事故の救済について法律の備えがなく、「真空地帯」つまり法の全面的な穴(欠缺)状態が発生したこと、にもかかわらず、国会は半世紀前の公害国会のような、速やかな立法的解決を殆どしなかったことである。

その結果、現実に発生した原発事故の救済についての全面的な法の穴をどう穴埋めするか(欠缺の補充)をめぐって、裁判所にどのような責務が発生するのか、すなわち「新しい酒をどのように新しい革袋に盛るのか」これが前例のない重要な人権問題となったのである。

 

イ、「真空地帯」の放置は許されるか(ノン・リケットの禁止)

最初の問題は、「法の欠缺」状態に対し立法的解決が図られない場合、裁判所は「欠缺の補充」をする必要があるかである。答えは、この場合、裁判所による「欠缺の補充」は不可避であり、必要不可欠である。

なぜなら第1に、そもそも裁判所は、法の欠缺を理由に裁判不能(ノン・リケット)を宣言して裁判を拒絶することは許されず、のみならず、法の「欠缺の補充」を実行しないかぎり、裁判所は原発事故の救済について司法の大原則である「法による裁判」が実行できないからである。

 第2に、後記第3、2で詳述する通り、「法の欠缺」状態にある放射性物質についての「環境基準」をめぐり国会も裁判所[2]も「欠缺の補充」をせず放置している結果、放射能汚染地に住む子どもらの安全に教育を受ける権利を侵害される事態を引き起こして是正されないままでいる。この事例からも明らかな通り、法の「欠缺の補充」を実行しないと深刻な人権侵害が発生しているのにそれが放置されたままになるからである。

第3に、後記第2で詳述する通り、「法の欠缺」状態に対し国会が立法的解決に動かない場合、それは民主主義の政治過程に「真空地帯」という重大な欠陥が生じ、その結果、人権侵害が発生するという憂慮すべき事態であり、そのような場合には司法は一歩前に出て人権問題を積極的に審査すべきだからである。

第4に、以上について述べた最高裁判決を紹介する。それが半世紀前、深刻な公害問題で発生した「法の欠缺」状態に対し立法的解決が果たされない場合、裁判所による「欠缺の補充」の重要性を「新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない」という比喩で強調した、1981年12月16日大阪国際空港公害訴訟最高裁判決の団藤重光裁判官の次の少数意見である。

「本件のような大規模の公害訴訟には、在来の実体法ないし訴訟法の解釈運用によつては解決することの困難な多くの新しい問題が含まれている。新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない。本来ならば、それは新しい立法的措置に待つべきものが多々あるであろう。」

しかし、諸事情によりその立法的措置が果たされない場合、裁判所による「欠缺の補充」の出番であると次の通り締めくくっている。

「法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない。」

(33~34頁)

第5に、この「欠缺の補充」の必要性と次に述べる「欠缺の補充」をいかに実行するかという問題はひとり福島原発事故関連裁判だけのテーマではなく、昨今大きな話題になった選択的夫婦別姓事件など現代の最先端の裁判が避けて通れない普遍的なテーマでもある。

(以下、略)

[1]近畿大学法科大学院 秋期講演会 https://x.gd/igPIU(短縮URL

[2]その代表例が福島地裁令和3年3月1日安全な場所で教育を受ける権利の確認等請求事件判決である。

 

 

 

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