2026年8月31日月曜日

【第134話】つぶやき(その9)チェルノブイリ法日本版、その対話の必要性と可能性(3)(26.8.31)

これまで日本版のプロジェクトをやってきて、「これはという対話」をしてきた経験は、実は数えるくらいしかなかった。それはもっぱら私の側の責任による。私が相手の心に届くようなメッセージを発信できなかったからだ。
だから、「これはという対話」ができた主な原因も、相手の人が私の心に届くようなメッセージを発信したからだ。その代表格が前松本市長の菅谷昭さん。私はここ1~2年、彼が何気なく発する言葉に「うっ」と詰まる連続だった。その都度、こんなに人を唸らせる言葉を発信する菅谷さんって誰なんだ、自分はいったい今まで彼のことを丸っきり何も分かっていなかったんではないかと思い直したほどだった。

以上は前置きで、ここの主題は、もう一人、私の心に残る人を紹介する(Xさんという)。Xさんは最初、ふくしま集団疎開裁判を支援する会(のちに「脱被ばく実現ネット」と名称変更)に参加し、のちに一念発起し、区議会議員になった。その後はなかなか行動をともにする機会はなかったが、たまに顔を合わせるときに、Xさんが発した言葉は私の心に突き刺さり、私はそこからその言葉をいつまでも反芻する、という経験をした。ひとつにそれは、以下の言葉だった。


これはスペインの寒村モンドラゴンで、内戦で敗北しフランコ将軍に見放された村の再建を、自力で成し遂げた協同組合の創始者のひとり「ホセ・マリーア・アリスメンディアリエタ・マダリアーガ」(通称アリスメンディ)の言葉(以下、モンドラゴン協同組合の紹介)。

私は、アリスメンディがどんな文脈で、この《今日の革命は参加という名前である》を発したのか知らない。けれど、この言葉に接した瞬間、ここには従来の革命のビジョン(例えば階級闘争の中での権力の奪取)とは一線を画した、独特の新しい意味が込められていると直感した。敢えて類比すれば、それは「民主主義の永久革命」、より正確には「(民主主義から政治を抜いた)人権の永久革命」「一歩前に出る永久革命」を彷彿させた。それは私の心をひそかに多いに触発した。

このように、私の中では、アリスメンディのこの言葉は格別の意義を帯びたものだった。そしたら、この言葉に初めて反応したのがXさんだった。それは私に対する貴重な対話の呼びかけを意味した。その時には二言三言、話したきりだったが、その後も、この時の反応は私の脳裏に強烈に焼きついて、折に触れて、この言葉とXさんの反応を反芻し続けた。

その後、或る時、この言葉の「参加」の意味が新しく私の中でまざまざとイメージできた瞬間が訪れた。それが、既成の政治・経済・文化からの脱出を試みる新しい政治・経済・文化への「参加」のこと。私に言わせれば、脱「脳化社会」への「参加」のこと。ただし、この脱「脳化社会」を積極的に定義しろ、明確に定式化しろと言われると、それは「できない」。なぜなら、人類が長い歴史的体験を経て脱「自然社会」=脳化社会に至ったように、脱「脳化社会」もまた、人類の長い試行錯誤の過程の中でおのずと明らかにされるものであって、予め、ニンゲンの頭の中でこしらえた、これこれのビジョンとして示し得るものでは到底ないから。

ともあれ、アリスメンディの「参加」も、単に社会参加を言っているのではなく、今の脳化社会のどんづまりを打開するような新たなシステム、取り組みへの「参加」を言っている。

だから、今、私は、アリスメンディの「参加」に全幅の共感を示したXさんにこう言いたいーー非政治家的政治家に挑戦しませんか。
つまり、最初はともかく、いつまでも既成の枠組みの政治家として頑張ってみたところでつまらない。せっかく区議会議員になったんだったら、過去に経験したことのない未曾有の枠組みの政治家に挑戦してみませんか。それが貴方が共感したアリスメンディの「参加」ーー従来の枠組みの政治家を否定して、今まで誰も挑戦してこなかった新たな枠組みの政治家に挑戦することです。具体的には、「脳化社会」のどん詰まりの成れの果てに迎えた先端科学技術の暴走、つまり福島原発事故の暴走に対し、既成の政治家がみんな自分たちの手に余る取り組みだと、見て見ぬ振りをして「放置」しているのに対し、百年後の日本を見据えて、原発事故の救済の問題と正面から取り組もうという脱「脳化社会」への挑戦、それがチェルノブイリ法日本版の実現への挑戦です。

その最初の一歩を福島県の或る市で始めることにしました。その市の市長と全議員に対して、チェルノブイリ法日本版の必要性と実現のプロセスを解説したブックレット「わたしたちは見ている」を手渡すことにしたのです。昨日、ブックレットを手渡すときに一緒に渡す手紙の文案を作成しました。
私は、311以来、ふくしま集団疎開裁判を通じて、国や自治体の政治家に対する抜きがたい不信感を抱いてきました。彼らにはツバを吐くしかなかった。しかし、今、彼らとチェルノブイリ法日本版について「合意」できなくとも、なおも「対話」することがとても重要だということに気がついた。それで、これまでの「ツバを吐くのをやめて、花を盛る」気持ちに切り替えて、彼らに対するラブレターを初めて書いた。これは2年前、最高裁に対して「ツバを吐くのをやめて、花を盛る」気持ちで書いたラブレターの2通目だった(以下、その経過)。私は一歩前に出ることにした。

◆
その時の報告>最高裁につばを吐くのか、それとも花を盛るのか(24.3.8)

◆
1年8ヶ月後の最高裁からの返信>山が一歩動いた。最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判の理由書に対し、1年8ヶ月後に最高裁から「受理する」と応答(25.12.12)。

◆
その1ヶ月後の最高裁からの返信>311から15年目の今日、最高裁は「百年の悲劇」と決別するため、今まで書かれたことのなかった原発事故の救済のあり方を最高裁判決に書き込んだ。今日まかれた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかーーそれは私たちに掛かっている。人権への道は人類全員の協同労働なのだから(26.1.9)

私は、Xさんにも、このラブレターを送りたい。

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「いま法律があぶない!」をカタチにして解決策を示した「チェルノブイリ法日本版」

           様

1、無知の涙 

 終戦直前に広島で被爆した政治学者の丸山真男は、のちに、自分は原爆はけしからんと言ってきたのに、原爆の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は従来の災害の概念では理解できない。一度ならず毎日々々原爆が落ちているにひとしい)については言ってこなかったと己の無知に恥じ入りました。

私も同様です。私も311まで、日本に原発事故が起きるなんて夢にも思わず、己の無知に恥じ入りました。或いは、原発のことを考えてきた人でも、原発はけしからんとその中止を求めてきたのに、原発事故の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は従来の災害の概念では理解できない。一度ならず毎日々々原発事故が発生しているにひとしい)は言ってこなかったと己の無知に恥じ入りました。黒い雨の被ばくから76年もの間、被ばくによる健康被害にずっと苦しんできた被ばく者の広島長崎の「黒い雨」訴訟が示すとおり、
放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対する己の無知に涙を流したことが私たちチェルノブイリ法日本版の会の発足の原点でした。

2、原発事故の救済に無知の日本の法体系

 福島原発事故は、一時は吉田昌郎福一所長(当時)に「東日本壊滅」を覚悟させた[1]ほどの、日本史上最悪の、未曾有の過酷人災でした。この未曾有の原発事故は日本の政治・経済・文化に前例のない甚大な打撃を及ぼしました。しかしその打撃はそれにとどまりませんでした。日本の法体系も未だかつてない深刻な打撃を受けたのです。もともと日本の法体系は原発事故について実効性のある備えがありませんでした。1999年のJCO事故のあと原災法ができ、防災基本計画や防災指針が定められましたが、それは過酷事故が現実化した場合に円滑に実行できるようなものではありませんでした。いざ福島原発事故が発生したら、自治体(双葉町、浪江町等)への連絡すらなく、オフサイトセンターは機能せず、病人の避難の混乱から何十人もの死者を出し、SPEEDIやモニタリング情報が市民に隠され、安定ヨウ素剤を配布できなかったという体たらくからも明らかでした。原発事故の救済に関する法体系が文字通りノールール(無法地帯)状態、法的な表現で言えば日本の法体系は原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺(穴)」という状態にありました。しかも、この全面的な「法の欠缺」状態は311後も立法的に解消されず、放置されたままでした。でも、それはどこでもそうなのでしょうか。ちがいます。

 


3、半世紀以上前の日本

半世紀以上前にも、日本は高度経済成長の中で深刻な公害に見舞われ、人々の命、健康、暮らしが危機的な状況にありましたが、その公害に対応する救済法は「法の欠缺」状態でした。この危機の時、全国の市民、自治体が立ち上がり、1970年の「公害国会」で公害対策基本法から「経済の健全な発展との調和を図る」調和条項を削除、命・健康の擁護を最優先とする姿勢に大転換する法改正、水質汚濁防止法の制定など世界最先端の公害対策を盛り込んだ14の新法の制定という抜本的な立法的解決を実行して、公害から人々の命、健康、暮らしを守りました。それだけではありません。

4、40年前の旧ソ連
40
年前の旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が発生し深刻な放射能による健康被害に見舞われたとき、被災者やリクビダートルが立ち上がり、旧ソ連は体制崩壊の置き土産として、世界標準と言われる住民避難基準を定めた法律が制定され、放射能から人々の命、健康、暮らしを守りました。それがチェルノブイリ法です。

5、チェルノブイリ法日本版の出番
もしもこの話を今の子どもたちに聞かせたら、彼らはこう思うのではないか――半世紀以上前、日本の公害国会の法律制定のおかげで、その後の子どもは曲がりなりにも公害から健康を守られたんだったら、今の僕たち子どもも同じ目(放射能から健康を守られる)に遭わせてもらってもいいんじゃないか。

もしもこの話を今の子どもたちに聞かせたら、彼らはこう思うのではないか――35年前、経済がガタガタの旧ソ連でも、チェルノブイリ法のおかげで、子どもも大人も曲がりなりにも原発事故から健康を守られたんだったら、旧ソ連よりずっと経済大国の日本の僕たち子どもも同じ目(放射能から健康を守られる)に遭わせてもらってもいいんじゃないか。ちっとも贅沢じゃないんじゃないか。

もしもこの話を子どもたちに聞かせたら、彼らはこう思うのではないか――いま法律があぶない!なぜなら、これではいま子どもがあぶないから。大人が何もせずに放射能で病気になってくたばるのはしょうがないとしても、僕たち子どもまで同じ目に、その巻き添えにするのはやめて欲しい。それって余りに大人の身勝手じゃないか。

いま法律があぶない!そう訴える子どもたちは裸の王様を笑う少年に似ている。なぜなら、法律も裸の王様の服と同じで、誰にも見えないし、臭わない、手でさわれない存在だから。その見えない、あぶない法律を放射能から子どもたちを守る法律に転換するのが「チェルノブイリ法日本版」。

そのチェルノブイリ法日本の必要性と実現のプロセス(公害と同じく、全国の自治体の条例制定から始める)について、もし子どもたちが語るとしたらこんな風に語るのではないかと想像しながら、子どもたちの語り部の積りで作ったのが今、お渡しするブックレット「わたしたちは見ている」です。

今日の、そして未来の、百年後の子どもたちの「声なき声」「名もなき草莽の声」に耳を傾ける積りで、このブックレットを手にとって一読して頂くことを心から願ってやみません。

          2026年8月30日

            「わたしたちは見ている」編者



[1] 《私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。・・・ここで本当に死んだと思ったんです。2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまい、そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる。 最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。・・・放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、我々のイメ-ジは東日本壊滅ですよ》(2011年8月9日吉田調書52頁)。

 


2026年8月28日金曜日

【第133話】つぶやき(その8)チェルノブイリ法日本版、その対話の必要性と可能性(2)(26.8.28)

以下は、1年前に、私が代理人ではなく、原告本人としてゆうちょ銀行を被告に提訴した人権訴訟の中で体験した体験談である。一見、それはチェルノブイリ法日本版の対話の必要性と可能性と関係なさそうに見える。しかし、それは自分が初めて法律家になったような気がした書面を書いた経験であり、法律家に羽化した瞬間の体験だった。チェルノブイリ法日本版も市民が法律を生成する取組みであり、市民が「法律家」として行動を起こす番である。だから、この「法律家に羽化した体験」は市民主導の「法律家」の行動=市民立法にとっても意味があると確信する。
ただし、この時の体験談が1回の投稿では書き切れず、5回に分かれている。末尾に、1回目の投稿の冒頭と終わりのさわりを再掲した。

◆【第109話】法律学(自己)批判の最初の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面を書いた(25.7.6)

◆【第110話】法律学(自己)批判の次の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面の注釈を書いた(25.7.9)

◆【第111話(追加)】法律学(自己)批判の三歩目:「生ける法=生成法」の最も明確なメッセージである「モンドラゴンの挑戦」に立ち帰る(25.7.13) 

◆【第112話(追加)】法律学(自己)批判の四歩目:ゆうちょ裁判が問うた本質的なテーマ、それは「たがために法律はあるのか」(25.7.12) 

◆【第113話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある。それが「生成法=生ける法」(2)(25.7.13) 

いま、私に必要なことは法律家として羽化すること。それが
ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスのように、
「概念法学」を創造的に否定することである。

 それは概念法学の換骨奪胎だった。概念法学がなぜダメかというと、それは概念法学の組み立てでは、一方で、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分がおざなりの形式的、定型的な事実にとどまり、他方で、紛争の現場のリアルな事実の核心部分がノイズと扱われ抜け落ちるおそれがあるからだ。とりわけ制定当時に想定していなかった新たな事態が発生したときには、概念法学ではこのおそれが現実化する(これが「法の欠缺」状態の発生である)。概念法学のこの宿命的な機能不全(すなわち「法の欠缺」状態に対応できない)に対し、概念法学にふたたび命を吹き込むのがここでの目的だった。それが「概念法学の換骨奪胎」ーー概念法学の法的論理の枠組みだけ残して、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に、概念法学のように形式的、定型的な事実でもってお茶を濁すのではなく、紛争の現場のリアルな事実の核心部分が盛り込まれるように、事実の取捨選択と分析と活用の仕方を面目一新しようとしたのである。

「紛争の現場のリアルな事実の核心部分」の把握の重要性は実はずっと昔から、戦前は末弘厳太郎の「自由法論」「法社会学」、我妻栄の処女論文「私法の方法論に関する一考察」、戦後も民法の星野英一、刑法の平野竜一らが提唱した「利益衡量論」、憲法の芦部信喜が提唱した「立法事実論」などでお馴染みのものだった。しかし、これらの思考方法は一時の流行でもなければ、特定の分野だけのことでもなく、すべての法律問題に及ぶ普遍的、原理的なものであった。

しかし、これまで、ともすると、「概念法学」の弊害に対する反発から「概念法学」の全てが批判の対象となり、法的論理の枠組みすら否定されてしまいがちだった。しかし、ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスにならって(末尾の※3)、ここで必要なことは「概念法学」の創造的否定だった。それが法的論理の枠組みである論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に新たに「紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んで、そこから(概念法学がもたらした)「死んだ法」に換えて「生きた法」を創造することだった。

その際、私が自覚的にやろうとしたことは、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に「紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んだだけではなく、そのあと、その埋め込みに最も相応しい法的な判断を引き出す(それが「法の欠缺」の「補充」という法の創造作用のことである)にあたって、私自身の中で「最も普遍的な判断」とみなしてよいと信ずるものを持ち込んで、法的な評価を引き出したことである。今までと何がちがうかと問われると、それまで私は「法的価値判断の相対性」という考え方に囚われていて、事実問題は真偽の有無を判断できるが、法律問題という価値判断では真偽の有無は判断できない、つまりどこまでいっても相対的な判断にとどまると思ってきた。そのため、法律問題に対しては、あくまでもこれは私個人の主観的な価値判断として主張しているのだというスタンスを取ってきた。
しかし、最近に至り、統計学・疫学の検討をする中でそれはちがうのではないかと思い直すようになった。実はヒュームの懐疑論、ポパーの反証主義からも明らかなとおり、事実問題もまた
真偽の有無をついに確定的に判断することは出来ず、あくまでも仮説にとどまる。そうだとしたら、価値判断もまた同様に考えられるのではないか。つまり、これもまた仮説として普遍的な価値判断を提示しているのであり、そうだとしたらこれも許されるのではないかと。
柄谷行人によれば、カントは普遍性を真(科学)の次元のみならず、善(倫理・法)の次元にも拡張したとされるが、私が今回初めてやろうとしたことはカントのこの立場に立とうとしたことである。もちろんこれは仮説としての法的価値判断である。だから、のちにいくらでも反証され、否定されても構わない。しかし、それまでの間、私は自分の法的価値判断を普遍的な性格を持つものとして初めて主張したのである(それでとくに問題はないと考えている)。
その結果、何か変わることでもあるのか? そう問われると、私は大いにあると答えたくなる。「文は人なり」--このコトバはこの業界に身を置いていると痛切に感じるものである。従って、もし法律問題に対して示す自分の法的価値判断を「普遍的な性格」を持つものとして主張し得たとき、そのコトバは今までにはない説得力を読み手(裁判官や裁判の当事者・支援者)にもたらす力を持つであろうことを私は疑わないからだ。裁判官に向かってに限らず、およそ「法を説いて、人を巻き込む」の極意とは別に手練手管や詭弁的なテクニックを駆使することではなく、こうした原理的なスタイルそのものを地に足をつけて実行することにある。

その取り組みを曲がりなりにも初めてやったのが、ゆうちょ裁判の今回の準備書面(3)だった。
以上の意味で、この短い書面は、これまで書いたことがないような
私にとって画期的な書面である。私はこれで法律家として羽化したと思った。

とはいえ、これがどこまで首尾よくいったかどうか、自分では分からない。ただ、これを書き上げたとき、この書面でもってこの裁判の勝負に出よう、それで、まともな裁判官の手で裁かれるのであればそれで構わないという心境になった。つまり、裁判官に向けて、自信をもって自分の愛の告白をつづったラブレターを書いたと思った。

このとき、私は曲りなりに、自分が初めて法律家に羽化したような気がした。

私の願いは、2日前に自分が羽化した「自分が初めて法律家になったような気がした書面」をただのお飾りにして終わるのではなく、これを最初の一歩にして、今後、もっともっと練り上げていき、今度はひとり裁判官だけではなく、裁判に関心を持ってくれるすべての市民に向けて読んでもらえるように、このような書面を何十通、何百通、命がある限り書き続けることである。
それが、私にとって
「政治・政策問題から人権問題へのシフト」を実践する大切な場のひとつである。

2026年8月18日火曜日

【第132話】つぶやき(その7)チェルノブイリ法日本版、その対話の必要性と可能性(1)(26.8.18)

1、10.25 郡山の対話集会のテーマはチェルノブイリ法日本版について次の2つの問い。
(1)、Why:チェルノブイリ法日本版の実現(制定)の必要性(なぜ必要なのか)
(2)、How:チェルノブイリ法日本版の実現へのロードマップ(どうやって実現するのか)
         ↑
これまで、チェルノブイリ法日本版の学習会で取り上げた一貫したテーマ
     「戦争と平和」
も同様だった(>具体例〔8年前の郡山の学習会〕)。
なぜなら、今回の上記(1)が戦争(福島原発事故の現実)、上記(2)が平和(福島原発事故の救済)にほぼ対応するから。
その上で、10.25対話集会では主に、小出さんに(1)、柳原が(2)を担当と考えている。
    ↓
最大の問題は、このテーマをめぐってどうしたら対話が成立するか。そのためには対話成立の条件について吟味する必要がある。

2、対話集会の条件ーー人を見て法を説く。
10.25対話集会で取り上げるテーマについて、人々はどう考え、感じているのか、それを踏まえてこちらが語る必要がある。
この点、難しいのが(1)のチェルノブイリ法日本版の実現(制定)の必要性について。
なぜなら、
311直後なら、これについて人々がどう受け止めたかはほぼ直感的に理解できた(ように思う)。
だが、311から15年経過した現在、これについて人々がどのように受け止めているのか、率直なところ、よく分らない、見えない。
その結果、集会で、ただやみくもに語っても、人々の心に届かず、独りよがりの独演場で終わってしまうおそれが多いにある。実際、私はその失敗を過去にうんざりするくらい経験してきた。
         
3、過去の日本版学習会の振り返り(反省)
柳原は過去の学習会で、「人を見て法を説く」ことを殆どして来なかった。もっぱら、語る本人(柳原)の信じるところ、思うところを無我夢中に語ることしかしてこなかった。それ以上、自分の語ったことが、相手(参加者)にとってどのような意味を持ったのか、それをしっかり受け止める(対話する)ことを殆どしてこなかった。
その結果、たとえ語った内容が良かったとしても、相手(参加者)にとっては、精々「ああ、今日、いい話を聞かせてもらった」と知識がひとつまた増えたとか、原発事故について少しお利口になったかくらいで終わってしまった。それ以上、「一歩前に出て」チェルノブイリ法日本版の実現に向けて行動しようというアクションには(ごく一部の例外を除いて)結び付かなかった。
いわば、情報を一方的に伝達するだけの、閉鎖的なタコツボ型の集会(学習会)しかしてこなかった。  
それが日本の市民運動の悪しき伝統であることを最近知って、改めて愕然としている。
その中で、60年安保のときに、岸首相が、国会に押しかけるデモについて「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べたことにリアクションして(いわば岸と対話をして)、だったら誰でも参加できる「声なき声」のネットワークを作ろうじゃないかと、ふたりの市民(小林トミと不破三雄)が「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた幕を掲げてデモの最後尾について歩き出した。最初、二人の後ろに誰もいなかったのに、その後、沿道の歩道にいた一般市民が徐々に列に加わり、解散時には300人以上にふくれ上がった。そこから「声なき声の会」「べ平連」という、新しいタイプの市民運動が誕生したことを知った。人を見て、誰もが参加できるデモを説いた、この対話型デモの試みである「声なき声」の取組みは今もなお振り返る価値がある。
        
4、その意味で、今の時点で必要だと思っていることは、
311直後ではなく、311から15年「も経った、或いは、しか経っていない」現時点において、原発事故について「声なき声」の人たちの中で、漠然と「福島原発事故はもう終わった」と考えている、或いは「福島原発事故は終わったと信じたい」と思っている、或いは「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんのように(※)放射能のことを心底嫌いだと思っている、そのように原発事故のことを気にしている人々の気持ちを意識して、このような人々に向けて、彼らの心に届くように、福島原発事故の救済の必要性(その具体化がチェルノブイリ法日本版)について語りかけること、対話を試みること。
言い換えれば、311から15年も経って「福島原発事故はもう終わった」「福島原発事故は終わったと信じたい」「放射能のことを心底嫌いだ」と思っている人々の頭の中がグジャグジャになるような認識の体験をしてもらうように、彼らに語りかけること。
以上、「言うは易き、行い難し」だが、スタンスとしては、これを基本にしたい。

(※)「自伝」より。

毎年、夏がくると「原爆!原爆!」とマスコミ等が騒ぎたて、私の気持ちは落ち込んで暗くなった。嫌でも広島の体験がよみがえり、やりきれない気持ちにさせられた。そして、自分が被ばくしたことで、なんか悪事を働いたような錯覚を覚えた。世の中の迷惑人間のように見る東京人の目の嫌らしさには、本当に腹が立った。‥‥
広島にいたとき原爆という言葉が嫌いで逃げていたが、東京に住んでからは、ますます原爆という言葉が嫌いになって逃げ回った。酒場や会合などで同県人だと聞かされると、原爆の話題が出ないことを祈るように願った。‥‥
私はもう二度と原爆という言葉を口にすまいと 決心した。本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。(185~186頁)

5、4の対話の可能性の中心
では、4の対話は言うは易きで、果たしてそんな対話が可能か?
困難だとしても可能だと思う。なぜなら、一方で、正直なところ311後からずっと、上記のような「人を見て法を説くような」対話にチャレンジしたことがなかったから対話が成立しないのは当然だし、成立しなくても何とも思わなかった。他方で、2年前の正月、そのような対話の必要性を痛感し(>その詳細)、そこから初めて、意識的になおかつ試行錯誤しながら、相手との対話の試みをスタートさせる中で、今年1月9日、そのような対話が成立するという初めての、得難い体験をしたから。それが避難者追出し裁判1.9最高裁三浦意見(>その詳細)。
法律家になって以来、最高裁は権力の犬であって、社会的な事件に対して最高裁にまともな判断を期待すること自体が幻想であり誤りであるとずっと思ってきた。だから、311後も最高裁に対し、いくつもの裁判で正しいと信ずる主張を出してきたが、その都度、いつもその主張を拒否されるか無視されるかの応答しかなかった目に遭ったとき、それはどうしようもないと思っていた。ところが、2年前の正月、一見、権力の犬のように思われている最高裁に対し、なお、「対話の通路」があるのだという思ってもみなかった未知の可能性を元最高裁判事の泉徳治さんの「一歩前へ出る司法」から教えられ、その秘密の通路は「政治政策から人権へシフト」する中で見えてくる通路だという説明は深い説得力を私に与え、その結果、ラクダが通る針の穴かもしれないが、その「対話の通路」に賭けてみる気持ちになった。それはまるで、天岩戸(あまのいわと)に引きこもったアマテラス(天照大御神)を岩戸から引きずり出すような難行の気持ちで、手さぐりの試行錯誤の連続だった。しかし、今年1月9日、最高裁に呼ばれ、じきじきに三浦裁判長(彼がこの事件の裁判長だった)と向き合って、彼の判決言い渡しを聞きながら、ラクダも針の穴を通ることがあるのだと思った。とはいえ、これは文字通り「司法が一歩前へ出た」小さな一歩。この三浦意見が告げることは、このささやかな対話の成功体験を、ひとり裁判官だけではなく、もっと沢山の人たちに向けて挑戦することだった。その本格的な第1歩が7月12日、東京でやったチェルノブイリ法日本版の最初の対話集会だった(>そのお知らせ)。
尤も、日本版について市民との対話の経験はこれが初めてで、どう取り組んでいったらよいのか皆目検討がつかず、文字通り、手さぐりだったが、フタを開けたら、発言者の小川さん、郷田さんも、参加者も熱い思いを語り、その会場でも、そのあとでも日本版の会への参加申込みがあり、とても充実した集会になったのではないかと思った(>その報告)。

6、日本版の2回目の対話集会に向けての準備
(1)、認識が「一歩前へ出る」ために
 認識が「被害を受けてきた」から「人権侵害をされてきた」へ転換するために必要な手がかりを提供すること。
これは、7.12対話集会に参加し、その後正会員になった、双葉町から避難した人が会場で発言していた以下の内容に触発されたもの。
311で自分が被害に遭っているとは感じてきたけれど、それが人権侵害だとは知らなかった、それに今日、気がついた、と。

つまり、人はどんなに被害を受けても、くり返し被害に遭ったとしても、被害という事実をどんなに重ねたところで、そこから自然に、自動的に、「これは人権侵害だ」という認識には辿り着かない(正確には、辿り着けない)。つまりチェルノブイリ法日本版(の必要性)に辿り着けない。
そこに辿り着くためには被害を受けた人自身の判断・決断が必要だから。この点で、その決断が最も素直に、ストレートに出来るのは、子どもがいるときだと思う。子どもが、被ばくのためにいわれのない苦しみ、健康被害に遭っているとき、これは絶対「許せない」と思う人、その人は「これは人権侵害だ」という認識に立っている。
これに対し、7.12対話集会に参加し、その後正会員になった上記の人は子どもがいるわけではなかった。だとしたら、どのような契機がこの人に新たな認識をもたらしたのか、尋ねてみたいと思う。

(2)、「福島原発事故はもう終わった」と(無意識のうちに)信じたがっている人の認識を変えるために 
 菅谷さんがいつも言っているように「ひとたび原発事故が起きたらその修復には百年かかる」(「これから100年放射能と付き合うために」)。まず、この峻厳な認識を示す必要がある。ただし、これだけでは足りない。このような気が遠くなるような長期にわたる放射能災害の認識に普通の人はとうてい耐えられず、精神の正気を保てないだろうから。
だとしたら、この認識と向き合うためにはさらに何が必要だろうか。
その認識の格闘をしてきたひとりの人物として黒澤明がいる。彼はビギニ環礁の水爆実験に衝撃を受け、1955年に原爆の恐怖を正面から捉えた「生きものの記録」で挫折(大赤字)を経験し、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難(不可能)さを語ったこととつながっている。しかし、黒澤明はそれから35年後の1990年、「夢」の中で、再び放射能(原発事故)の現実と向き合う映画を撮り、さらに翌年の1991年、「八月の狂詩曲」でまたしても放射能(原爆)の現実と向き合う映画を撮った。そこから、彼が、人々は放射能(原爆・原発事故)の現実と向き合うことは困難(不可能)だと認めながらなおも、それを乗り越える道(可能性)をずっと模索していたことを、被ばく経験者の「日常生活」の中で放射能(原爆・原発事故)がどのように突き刺さっているのかを黒澤なりに描く中で、放射能の現実と向き合う道を示したように思った。
放射能の現実を、劇的な「非日常的な場面」として捉えるのではなく、「日常生活」の中で捉える黒澤の姿勢に深く学ぶものを感じた一方で、「八月の狂詩曲」での「日常生活」の中の捉え方に正直、とても不満を覚えた。なぜなら、放射能(原爆・原発事故)の時間的影響は、自ら広島で被爆した丸山真男の被爆体験のコトバ
「広島は単なる戦争の惨禍の一ページではない。毎日々々原爆が落ちている(※)。」
に示されている通り、途方もなく長い期間、健康被害の影響をもたらすものであるのに、その本質が抜けていて、
過去の原爆投下の出来事であるかのように捉えられているから。
だとしたら、
今、目の前に与えられたことはーー「日常生活」の中で、なおかつ「毎日々々原発が事故を起している」かのような現実とどのように向き合うことができるのかであり、 それが黒澤から託された私の課題だ。

(※)従来の災害の概念では、戦後24年の今日でもまだ新たな原爆症の患者が生まれ、長期の患者或いは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるという現実を理解できない。 まさに毎日々々原爆は落っこちている(>丸山の動画)。
 

7、柳原のチラシの呼びかけ文(>こちら)
以下の、7.12対話集会のチラシと同じ。

 「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」
もし、今の日本で普通に生きられると思っている人がいたら、その人はおそらく311後の日本社会を「異常」だと思っていない。しかし、311後の日本社会は戦後経験したことのない「異常」さの中にある。その異常ぶりは数々あるが、その双璧は311直後の文科省20mSv通知と山下俊一氏発言。なぜならこの2つはその後に異常事態として是正されたのではなく、むしろ311後の日本社会を形成する母体となったから。そして、この異常さの増殖の果てに私たちに待ち受けているのは日本社会の崩壊である。
それと心中するのは――バカバカしい。
だからといって、これを食い止めることができるのか。できる。ではどうやって?

そのビジョンを報告し、その実現の可能性について対話するのが10.25郡山の対話集会。
2年前、ブックレット「わたしたちは見ている」を出版した。今、「私たちは行動する」。それが
10.25郡山の対話集会。皆さんが「参加」することを心から願っている。

ここで呼びかけている対象は、311後に、原発事故の現実にずっと声を上げ続けている人でもなければ、311後も311前と意識が殆ど変わらない極楽トンボのような人でもなく、その中間にいる「声なき声の人たち」、内心は原発事故の現実にひどく不満、批判を抱きながら、もろもろの事情で自身の思いについて声を上げてこなかった(或いは2012年当時にあげたきり、上げるのをやめてしまった)人たちである。
この人たちは、或る種の閉塞状態に置かれている気分の中にいて、動きが取れず、がんじがらめになっている気分だと思う。しかし、その閉塞状態もがんじがらめも実は幻想でしかなく、「一歩前に出る」ことだけで、実はスッカリ光景は変わり得る。その
「一歩前に出る」お誘いをこのチラシで「対話集会に来ませんか」とおこなった。
でも、その一歩を踏み出すのが大変? そんなことはない。311後の異常が進行する日本社会と心中するのは「バカバカしい」。単にそう思えば足りる。
そのことを伝えたくて、上記のようなメッセージを作成した。

以上、続く。

2026年8月10日月曜日

【第131話】報告:信州四賀の夏休み親子キャンプに参加し、そのあと書き上げた、終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」に代わる「脳化社会の塀の外に出た法律」への挑戦の3回目(26.8.10)

8月3日、埼玉から松本市四賀の保養施設「奏奏(sousou)」に向け、移動。
その日から3泊4日で夏休み親子保養キャンプのスタッフ、実態は経験未熟の使い物にならない雑用係りとして参加。
2年ぶりのキャンプ。子どもらに混じって、その道の大ベテランの悠平さん(>2年前の彼の写真)のアドバイスを受けてテント張り、翌日、アルプスあづみの公園行きの補助スタッフとして同行‥‥それらの体験を通じて、私の頭の中がグジャグジャに溶けた気がした。一言で、子どもたちの三無主義(無鉄砲、無頓着、無謀)を目の当たりにして、
全幅の共感が身体中を突き抜ける中、思わず、
自分もあんなふうに「疾走」したい! 水と踊りたい!

      乳川のミニダムを全力疾走

                     

      乳川のミニダムの水と格闘


この保養キャンプで、信州の大自然と子どもたちの三無主義(無鉄砲、無頓着、無謀)で自分の感性が溶けてしまったーー脳化社会に安住する感性が。
再び、脳化社会の塀の外に出るしかないと思いながら、脳化社会の都会に戻って来た。そしてたまった雑用を片付け、週末に待ち構えていたのは、福島県が福島地裁に提訴した、自主避難者を応急仮設住宅から退去を求める追出し裁判の最終書面の作成・提出の作業。
その内容は2ヶ月前に、自主避難者が4年前に東京地裁に提訴した、福島県が自主避難者に不当な追出しを求めたことに対する損害賠償請求裁判の最終書面の〆切があり(>その報告)、その内容と変わらなかった。
しかし、たとえ内容が同じでも、この2ヶ月間に起きた経験、とりわけ信州四賀の保養キャンプのおかげで久々に「脳化社会の塀の外に出る」貴重な経験をしたので、その経験の糧を今度の書面に反映できないものか、帰ってから、つらつらと考えていた。しかし、再び「脳化社会の塀の中に戻って来た」中で、塀の外の体験の意味を振り返ることは「言うは易き」の難行で、思うようにはかどらなかった。試行錯誤の末、裁判官に、これだけは頭に叩き込んで欲しい、と思うエッセンスを冒頭に書いてみようと鉛筆を握った。それが、以下だった。
それは疾走する子どもらから授かった三無主義をコトバに変換したささやかな小品だった。しかし、これまで何度も言葉にしてきた「新しい酒は新しい革袋に盛れ 」、これはただの格言ではなくて、歴史の転換期の法律のことだったことに気づいた。その気づきは先週、時間を共有した「疾走」する子どもたち、彼らのおかげである。これこそ「脳化社会の塀の外に出て」、全身でつかんだ貴重な認識だった。

 なお、本日提出した最終準備書面の全文>こちら

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第1、はじめに

 被告は改めて、被告が本裁判に求める根本的な問題提起について述べる。それは、この問題提起に初めて正面から応答した、本裁判に先行した区域外避難者の応急仮設住宅からの退去を求める裁判(以下、「先行裁判」という)の本年1月9日最高裁判決(乙1。以下、「本判決」という)の三浦守裁判官の意見(以下、「三浦意見」という)と問題意識を共有するものである(>その解説)。

1、転換期の法律――新しい酒は新しい革袋に盛れ――

 この格言は社会・歴史の転換期における法のあり方を現したものである。つまり、社会・歴史の転換期においては、新たに出現した現実に従来の法律では対応できず、新たな現実について発生した法の穴(法の欠缺)に対して、穴を埋める(欠缺の補充)必要が生じる。これは法の本来の宿命である。古くは、日本で最初に武家政権が誕生した時、それまでの公家法に替わって武家法(貞永式目)が制定されたのも、日本で最初に国民主権が誕生した時、それまでの明治憲法に替わって日本国憲法が制定されたのも、日本全土で初めて公害が深刻化した時、1970年の公害国会で抜本的な公害対策を盛り込んだ14法が制定されたのも、既成産業への破壊的インパクトを「恐竜の絶滅」になぞらえられたインターネットが登場した時、日本でも従前の法律を抜本的に変更するネット法が制定されたのも、いずれも「新しい酒は新しい革袋に盛れ」をミッションとする法律の姿であった。
 とはいえ、これらはいずれも法律の制定による解決、いわゆる立法的解決であるが、立法的解決が間に合わない時には裁判所による司法的解決が登場する。それを説いたのが1981年12月16日大阪国際空港公害訴訟最高裁判決の団藤重光裁判官の次の意見である。

「本件のような大規模の公害訴訟には、在来の実体法ないし訴訟法の解釈運用によつては解決することの困難な多くの新しい問題が含まれている。新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない。本来ならば、それは新しい立法的措置に待つべきものが多々あるであろう。」

しかし、諸事情によりその立法的措置が果たされない場合、裁判所による「欠缺の補充」の出番であると次の通り締めくくっている。

「法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない。」(33~34頁)

2、日本で初めて国内避難民が登場したとき

 近年、裁判所による「欠缺の補充」の出番となったのが2011年3月の福島原発事故による救済とりわけ大規模の避難者が出現した時の救済である。それまで日本の法体系は原発事故による救済を具体的に制定していなかった[1]。そのため、福島原発事故で出現した「大規模の避難者」をどう扱ってよいのか、福島原発事故前は言うまでもなく、事故後においても法律は空白(法の欠缺)状態だった。この時、この新しい事態に国外から法的な言葉を与えたのが国際人権法の1つ「国内避難の指導原則」だった。この指導原則により日本で最初に「国内避難民」の登場が認められた[2]。

本裁判においても、この「大規模の避難者」について発生した法の欠缺に対して、「国内避難の指導原則」などの国際人権法に基いて法の欠缺を正しく補充し、この補充に基いて「国内避難民」である被告の救済がどうあるべきかを正しく導くことが不可欠である。

 かつて東京地方裁判所行政部で名を馳せた藤山雅行裁判官は「法律家の仕事は同時代のみならず歴史的な評価にも耐えうるものでなければならない」と述べた[3]。この言葉は空間的にも時間的にも過去に前例のない惨劇(カタストロフィー)である福島原発事故に由来する本裁判に当てはまるものである。

以上の観点から内堀決定の適法性について、以下、検討する。

 (以下、略。その内容は>こちら)



[1] その典型が原子力災害特別措置法(原災法)15条に基づき、福島原発事故直後に発令された原子力緊急事態宣言である。同宣言はその対象地域を特定する必要を法文上、明らかにしていないため、内閣総理大臣は対象地域を特定しないまま発令した。

[2] 2018年3月、日本政府は、2017年11月の第3回国連人権理事会の普遍的定期的審査(UPR)においてポルトガルから出された「福島原発事故の全ての被災者に国内避難民に関する指導原則を適用すること」という勧告に対し、「フォローアップすることに同意する」と回答、国際社会に対して受入れを表明した。

[3]藤山雅行編「新・裁判実務大系 第25巻 行政争訟」藤山雅行「はしがき」

【第137話】311から15年、「国やぶれてノリ弁あり」。避難者の住宅使用料協議情報の不開示の異常さから、311後の日本社会のレントゲン診断に挑戦する提訴(26.9.24)

   日野行介さん       ノリ弁の開示文書 今頃なに?と人は思うかもしれないが、本日、ひとりのジャーナリストが原告となって国と福島県を提訴した。 その人は日野行介さん。 その内容は、福島原発事故により避難を余儀なくされ...