2025年3月4日火曜日

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。
他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。
しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らない。

なぜ、両者はちぐはぐなのか。
それは、「解釈」といいながら、或る場面では表示された文言の内容を把握することという「認識」の意味で使っていながら、或る場面では規範的な意味を把握することという「価値判断」の意味で使っている(※1)。つまり、「解釈」といいながら、或る時には真(認識)の次元の問題だと捉えているのに対し、他の時には善(価値判断)の次元の問題だと捉えている(※2)。

「解釈」という概念には真(認識)と善(価値判断)が同棲している。

そこで、両者のちぐはぐを解明するカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある。
 

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※1)我妻栄は、法律行為の解釈とは、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だという(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)。つまり、法律行為とは、当事者の「求めよ、さらば与えられん」の実現に助力する制度であるが、しかし、法律は当事者のすべての法律行為を助力する訳ではなく、あくまでも法の理想をもってこれに臨み、その妥当とするものについてだけ助力する。
そこで、そのような法律行為の制度を実現するために次の手続を踏む(上記〔283〕)、
1、まず、その法律行為の目的(=対象)を確定しなければならない。これが法律行為の解釈。
2.法律行為の対象が確定して初めてその対象が法の助力に値するかどうかを決定することができる。つまり当事者が欲する目的(対象)に法的助力を与えることを可能にするベース(基礎)を確定すること、これが法律行為解釈のミッション(任務)。
このベースが確定したら、次に進む。それが次の審査。
3、法律は、その確定された対象が(1)果して可能であるか、(2)現代の法律理想からみて許されるか、(3)現代の法律理想からみて社会的妥当性を欠かないかを審査して、助力するかどうかの態度を決することになる。
        ↑
3の(2)や(3)は許す許されない、妥当性を欠くか欠かないか、という法的価値判断の次元の問題。
これに対し、1は対象の確定という意味で、対象の認識の次元の問題。
つまり、我妻は「法律行為の解釈」は認識の次元の問題と捉え、認識の仕事が終わったあとに、次に3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と取り組むと捉えている。
        ↑
しかし、これは「法律の解釈」とはちがう。我妻は法の解釈とは、法源の意味をはっきりさせることだと言う(民法案内Ⅰ119頁)。ただし、法の解釈は法律独自の立場から決定されるものだと言う。その結果、或る時には文言を縮小して解釈したり、また或る時には法律の論理体系との整合性を考慮して解釈することになるという。それはもはや条文の文言の正確な「認識」ではなく、法的な価値判断の中で引き出される「価値判断」である。
この意味で、
法律行為の場合、まず法的評価のベースを確定する作業として解釈という「認識」の仕事がある。それが済んだら、次に、適法性や社会的妥当性を審査する「法的価値判断」の仕事が続く。
しかし、法律の場合、最初からいきなり法律独自の立場から、法律の意味内容が決定される。それは単なる「認識」の仕事ではなく、「法的価値判断」の仕事である。そこから見えてくることは、普段は自覚されていないが、実は「法律の解釈」にあたっては、その暗黙の前提として、法律の存在を「認識」するという作業を済ませていることである。なぜ普段は自覚されないか。それは普段は紛争の対象となる事実に対応する法律が制定されているからで、制定法である以上、その法源の内容は条文を見れば明らかだからである(これに対し、制定法ではない慣習法は同様にはいかず、その「認識」をめぐって困難な仕事が待っている)。
その結果、普段の生活にはない、異常事態、新たな事態の発生によって発生した紛争については、その紛争に対応した制定法がないため、法律の存在を「認識」するという作業を自覚せざるを得なくなる。その時、出現するのが「法の欠缺」という問題。

※2)我妻は、実は「法律行為の解釈」を基本的に認識の次元の問題と捉えているようにみえながら、同時に、法的価値判断の次元の問題として捉えていて、両者の関係がどういう関係に立つのか、明らかにしないまま、お茶を濁している。
つまり、我妻は、「法律行為の解釈」を、
一方で、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だと言いながら(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)、
他方で、「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」だと言い替える(「民法講義Ⅰ民法総則」〔292〕)。
これは単なる語句の言い換えではない。事実の「認識」の次元から法規範の「価値判断」の次元に跳躍した決定的瞬間だ。 この跳躍した瞬間から、「法律行為の解釈」が単なる事実認識のレベルの話ではなくなって、いかなる法的な効力を与えるのが妥当であるかという、もともと法律行為の3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と変わらない問題がここで登場する。
つまり、我妻はひとくちに「法律行為の解釈」と言いながら、或る時には「表示行為の有する意味を明らかにすること」と認識の問題を語りながら、或る時には「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」と法的価値判断の問題を語る。
            ↑
なぜ、事実認識の問題と法的価値判断の問題の区別をやかましく言うのか。それは法的価値判断の問題は価値観の問題だから、思想信条の自由、価値観の多様性を前提とする以上、法的価値判断で見解の違いが生じることは認めざるを得ない。しかし、事実認識の問題は価値観の問題ではないからうやむやにせず、見解の違いは科学上の見解の対立と同様、事実問題として証拠を通じて基本的に決着が付けられる。このちがいはとても大きいからだ。
            ↓
だから、我妻は、もし「法律行為の解釈」を事実問題と法的価値判断の問題の両方で使いたかったら、使っても構わないから、両者が混同されないように、例えば、
事実問題として使うときには「法律行為の解釈A」といい、
法的価値判断の問題として使うときには、「法律行為の解釈B」という風に混同されないように使い分けるべきだった。

同様に、川島武宜も「民法総則」で、「法律行為の解釈」が事実問題しての側面を有するときと法的価値判断の問題としての側面を有するときがあることを述べ、この「二つの側面は論理的には明確に区別され得るしまたされるべきである」と述べている(188~191頁)が、だったら、たとえ現実に両者の区別が不明確で流動的だとしても、理論上はやはり両者が混同されないように、それぞれの場合に命名をすべきだった。

【第94話】2025年の気づき8:住まいの権利裁判、「契約の欠缺」の補充を国際人権法で穴埋めする日本で最初の書面の提出(25.3.4)

         アマミノクロウサギ(mae shin / PIXTA) 弁護士ドットコムより

30年前、奄美大島のゴルフ場開発許可を取り消す訴訟の原告にアマミノクロウサギ、アオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケスが登場した時、この訴状は日本の裁判史上、一大エポックとなる画期的な書面だった。
それは裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという、人間社会(脳化社会)のあり方に根底から問題を突きつけるものだった。

本日、住まいの権利裁判で、内堀福島県知事の無償提供打ち切り決定のあと、福島県が追い出し訴訟の原告となって避難者を仮設住宅から体よく追い出すために交わした「セイフティネット契約」の違法性を明らかにするための、この間の避難者と福島県双方の主張を踏まえて集大成した書面を作成し、提出した(全文PDF)。

これまで、内堀知事の打ち切り決定の違法性を明らかにするために、災害救助法等が、原発事故の救済について「法の欠缺」状態にあり、その欠缺の補充を上位規範である国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定によって実行したとき、「国内避難民」である避難者には仮設住宅に「居住する権利」が保障され、たとえ例外的に仮設住宅から退去を強制する場合であっても、仮設住宅に代わる「代替住居の誠実な提供」が必須とされていることが導かれる。このような法規範に照らし、2017年3月末をもって問答無用に退去を決めた内堀知事決定は違法というほかないというのが、これまでの住まいの権利裁判のメインの主張だった。
ところで、住まいの権利裁判は先行して県が提訴した追い出し裁判とちがい、避難者が「セイフティネット」契約を締結していたので、この欺瞞的な「セイフティネット」契約の有効・無効がさらに裁判の争点となり、これについても、国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定の観点から主張を集大成したのが本日提出した書面。


近代市民社会において契約は法律と並んで、市民社会を規律する二大規範だ。しかるに、法学者たちの法律の研究に比べ、契約の研究は表面をなぞったばかりの不完全、お粗末なものが多く、その中で、住まいの権利裁判の「セイフティネット」契約の有効・無効を明確に論じることは至難の業だった。

その上、これまで法律家をやってきて一番分からない問題は
「法(法律)の解釈」とは何か。
自然科学と比べたとき、「自然的事実の解釈」は事実を認識することだが、「法(法律)の解釈」はこれと違う。認識した法(法律の文言)をどのようなものとして確定したらよいか、法律の文言を文字どおり理解するのか(文理解釈という)、それともふくらますのか(拡張解釈という)、それとも限定するのか(縮小解釈という)……とあれこれひねくり回す。こんなひねくりテクニカルなことは自然科学では考えられない。つまり、法律ではここで既に、認識の次元ではなく、価値判断の次元の議論をしている。

私自身が今回の検討の中で気づいたことは、
法律を解釈するためには、その暗黙の前提として
現実の紛争において適用すべき法律が何であるのか、それを認識する必要があるのだが、通常その答えは自明だ(つまり、法体系と現実の紛争とはいちおう対応関係がつけられている)。
しかし、311まで安全神話の中に眠っていた原発事故の救済に関する法律はちがう。そんな法律は制定されていなかった。
だから、原発事故の救済に関する現実の紛争において適用すべき法律が何であるのかと問われたら、そんな法律は制定されていない、つまり「法の穴(欠缺)」状態にあると答えるのが正しい。つまり、
現実に存在する災害救助法等は原発事故の救済に関する法律ではない。ぽっかり穴があいている。そこで、その穴を補充して、原発事故の救済に関する法律の規範を創造する必要がある。この創造行為を法律の上位規範である憲法、国際人権法らを参照しながらやったのが、住まいの権利裁判の原告避難者の主張書面(例えば1年前の以下)。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/03/24318.html

しかし、ひるがえって思うに、もし現実の法律が現実の紛争に対応するように制定されていない場合に、これを「法の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいとすれば、
もし現実に締結された契約が現実の紛争に対応するような内容でない場合にも、「原発事故の救済に関する契約」という規範から眺めた場合、現実に締結された契約を「契約の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいのではないか。
本日の書面のうち国際人権法の部分は、殆ど直感的ともいうべきこの気づきに背中を押されて書かれたもの。
過去に「法の欠缺」という理論的問題を扱った文献はあったが、「契約の欠缺」という問題を扱った文献は寡聞にして知らない。
しかし、法律と契約という両輪の輪で市民社会の秩序が形成されているとき、欠缺の問題を法律だけに限定する理由はない。両輪のもう一方の輪である契約においても、同様に欠缺の問題が発生し、これを欠缺の補充として解決すべきであるというのは十分な理由がある。

この問題提起はちょうど、裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという問題提起をしたアマミノクロウサギ裁判と同じようなもの。

民法に登場する「解釈」には「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つがあるが、この2つの「解釈」の意味をめぐって、同じ「解釈」という言葉を使いながら、2つの解釈について明確で、統一的な説明を知らない。民法の神様と言われた我妻栄の「民法総則」の議論も、法社会学の大家と言われた川島武宜の「民法総則」の議論も、刑法の大家で元最高裁判事の団藤重光の「法学入門」の議論もどれもゴッチャゴッチャーー一方で、解釈とは外部に表示された法律や契約の内容を把握することであると「認識」の問題だとしながら、他方で、解釈とはその法律や契約の規範的な意味内容を把握することであると「価値判断」の問題だとするーー。「解釈」というひとつの言葉の中に真(認識)と善(価値判断)の次元が同居している。この同棲関係をどう理解したらいいのか、明快な統一的な説明ができていない。
しかし、もし、今回の書面を通して、「法の欠缺」と「契約の欠缺」の問題を解明していったら、「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つの関係--それは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係--が初めて明確に整理できるのではないかと、ひそかに展望を感じている(→その試行錯誤の第1歩が以下)。

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある

「事実(現実)は小説(理論)より奇なり」という真理を、どんなに頭で考えても思いつかない真理として、この福島原発事故は我々に突きつけていると改めて思う。

2025年3月3日月曜日

【第93話】2025年のつぶやき8:自然と放任のちがいを追及し抜いた福岡正信(25.3.3)

今回、2月後半の田舎暮らしで、出会った最大の生き物は福岡正信。
例えば、彼の「わら一本の革命」に書かれていた「自然と放任はちがう」、そのちがいについて。
この本質的問題でここまで格闘した人に出会ったのは初めてだった。
敬して、考え続けるために、その一節を引用しておこうと思う。

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たとえば、教育というものは、

価値のあることだと思っている。

 

ところが、それはその前に、価値があるような条件を、

人間が作っているんだということがまず問題にある。

 

教育なんて、本来は無用なものだけれど、

教育しなければいけないような条件を、

人間が、社会全体がつくっているから、

教育しなければならなくなる。

 

教育すれば価値があるように

見えるだけにすぎないということです。

(中略)

私ははじめ、「放任」ということと、

「自然」ということを、ごっちゃにしてたんですね。

 

枝は混乱する、病虫害にはやられるで、

7反ばかりのミカン山を全部枯らしてしまった。

 

私はそのときから自然型とは何ぞや、ということが

常に問題として頭にあって、

これだということを確信するまでに、

さらに400本の木を枯らしてしまうことをした。

 

そして、やっと自然型とはこれだな、と

確信をもてるようになった。

 

自然型というものを作るようになってくると、

病虫害の防除も必要なくなって、

農薬がいらなくなった、

剪定というような技術も必要なくなった。

 

自然ということがわかれば、

人間の知恵なんて必要ないんです。


子どもの教育にしたってことです。

私も初めそれで失敗したが、

放任ということと、自然ということが混同されていて、

放任が自然であるかのように

錯覚している場合が多いんです。

2025年3月1日土曜日

【第92話】第91話の続き雑誌「政経東北」掲載「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」(2025.3.1)

 【第91話】で紹介した「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」が雑誌「政経東北」3月号(3月5日発売)に掲載されることになった(>全文PDF)。


【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。 他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。 しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らな...