30年前、奄美大島のゴルフ場開発許可を取り消す訴訟の原告にアマミノクロウサギ、アオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケスが登場した時、この訴状は日本の裁判史上、一大エポックとなる画期的な書面だった。
それは裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという、人間社会(脳化社会)のあり方に根底から問題を突きつけるものだった。
本日、住まいの権利裁判で、内堀福島県知事の無償提供打ち切り決定のあと、福島県が追い出し訴訟の原告となって避難者を仮設住宅から体よく追い出すために交わした「セイフティネット契約」の違法性を明らかにするための、この間の避難者と福島県双方の主張を踏まえて集大成した書面を作成し、提出した(>全文PDF)。
これまで、内堀知事の打ち切り決定の違法性を明らかにするために、災害救助法等が、原発事故の救済について「法の欠缺」状態にあり、その欠缺の補充を上位規範である国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定によって実行したとき、「国内避難民」である避難者には仮設住宅に「居住する権利」が保障され、たとえ例外的に仮設住宅から退去を強制する場合であっても、仮設住宅に代わる「代替住居の誠実な提供」が必須とされていることが導かれる。このような法規範に照らし、2017年3月末をもって問答無用に退去を決めた内堀知事決定は違法というほかないというのが、これまでの住まいの権利裁判のメインの主張だった。
ところで、住まいの権利裁判は先行して県が提訴した追い出し裁判とちがい、避難者が「セイフティネット」契約を締結していたので、この欺瞞的な「セイフティネット」契約の有効・無効がさらに裁判の争点となり、これについても、国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定の観点から主張を集大成したのが本日提出した書面。
近代市民社会において契約は法律と並んで、市民社会を規律する二大規範だ。しかるに、法学者たちの法律の研究に比べ、契約の研究は表面をなぞったばかりの不完全、お粗末なものが多く、その中で、住まいの権利裁判の「セイフティネット」契約の有効・無効を明確に論じることは至難の業だった。
その上、これまで法律家をやってきて一番分からない問題は
「法(法律)の解釈」とは何か。
自然科学と比べたとき、「自然的事実の解釈」は事実を認識することだが、「法(法律)の解釈」はこれと違う。認識した法(法律の文言)をどのようなものとして確定したらよいか、法律の文言を文字どおり理解するのか(文理解釈という)、それともふくらますのか(拡張解釈という)、それとも限定するのか(縮小解釈という)……とあれこれひねくり回す。こんなひねくりテクニカルなことは自然科学では考えられない。つまり、法律ではここで既に、認識の次元ではなく、価値判断の次元の議論をしている。
私自身が今回の検討の中で気づいたことは、
法律を解釈するためには、その暗黙の前提として
現実の紛争において適用すべき法律が何であるのか、それを認識する必要があるのだが、通常その答えは自明だ(つまり、法体系と現実の紛争とはいちおう対応関係がつけられている)。
しかし、311まで安全神話の中に眠っていた原発事故の救済に関する法律はちがう。そんな法律は制定されていなかった。
だから、原発事故の救済に関する現実の紛争において適用すべき法律が何であるのかと問われたら、そんな法律は制定されていない、つまり「法の穴(欠缺)」状態にあると答えるのが正しい。つまり、
現実に存在する災害救助法等は原発事故の救済に関する法律ではない。ぽっかり穴があいている。そこで、その穴を補充して、原発事故の救済に関する法律の規範を創造する必要がある。この創造行為を法律の上位規範である憲法、国際人権法らを参照しながらやったのが、住まいの権利裁判の原告避難者の主張書面(例えば1年前の以下)。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/03/24318.html
しかし、ひるがえって思うに、もし現実の法律が現実の紛争に対応するように制定されていない場合に、これを「法の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいとすれば、
もし現実に締結された契約が現実の紛争に対応するような内容でない場合にも、「原発事故の救済に関する契約」という規範から眺めた場合、現実に締結された契約を「契約の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいのではないか。
本日の書面のうち国際人権法の部分は、殆ど直感的ともいうべきこの気づきに背中を押されて書かれたもの。
過去に「法の欠缺」という理論的問題を扱った文献はあったが、「契約の欠缺」という問題を扱った文献は寡聞にして知らない。
しかし、法律と契約という両輪の輪で市民社会の秩序が形成されているとき、欠缺の問題を法律だけに限定する理由はない。両輪のもう一方の輪である契約においても、同様に欠缺の問題が発生し、これを欠缺の補充として解決すべきであるというのは十分な理由がある。
この問題提起はちょうど、裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという問題提起をしたアマミノクロウサギ裁判と同じようなもの。
民法に登場する「解釈」には「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つがあるが、この2つの「解釈」の意味をめぐって、同じ「解釈」という言葉を使いながら、2つの解釈について明確で、統一的な説明を知らない。民法の神様と言われた我妻栄の「民法総則」の議論も、法社会学の大家と言われた川島武宜の「民法総則」の議論も、刑法の大家で元最高裁判事の団藤重光の「法学入門」の議論もどれもゴッチャゴッチャーー一方で、解釈とは外部に表示された法律や契約の内容を把握することであると「認識」の問題だとしながら、他方で、解釈とはその法律や契約の規範的な意味内容を把握することであると「価値判断」の問題だとするーー。「解釈」というひとつの言葉の中に真(認識)と善(価値判断)の次元が同居している。この同棲関係をどう理解したらいいのか、明快な統一的な説明ができていない。
しかし、もし、今回の書面を通して、「法の欠缺」と「契約の欠缺」の問題を解明していったら、「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つの関係--それは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係--が初めて明確に整理できるのではないかと、ひそかに展望を感じている(→その試行錯誤の第1歩が以下)。
【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある
「事実(現実)は小説(理論)より奇なり」という真理を、どんなに頭で考えても思いつかない真理として、この福島原発事故は我々に突きつけていると改めて思う。
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