今回、2月後半の田舎暮らしで、出会った最大の生き物は福岡正信。
例えば、彼の「わら一本の革命」に書かれていた「自然と放任はちがう」、そのちがいについて。
この本質的問題でここまで格闘した人に出会ったのは初めてだった。
敬して、考え続けるために、その一節を引用しておこうと思う。
******************
たとえば、教育というものは、
価値のあることだと思っている。
ところが、それはその前に、価値があるような条件を、
人間が作っているんだということがまず問題にある。
教育なんて、本来は無用なものだけれど、
教育しなければいけないような条件を、
人間が、社会全体がつくっているから、
教育しなければならなくなる。
教育すれば価値があるように
見えるだけにすぎないということです。
(中略)
私ははじめ、「放任」ということと、
「自然」ということを、ごっちゃにしてたんですね。
枝は混乱する、病虫害にはやられるで、
7反ばかりのミカン山を全部枯らしてしまった。
私はそのときから自然型とは何ぞや、ということが
常に問題として頭にあって、
これだということを確信するまでに、
さらに400本の木を枯らしてしまうことをした。
そして、やっと自然型とはこれだな、と
確信をもてるようになった。
自然型というものを作るようになってくると、
病虫害の防除も必要なくなって、
農薬がいらなくなった、
剪定というような技術も必要なくなった。
自然ということがわかれば、
人間の知恵なんて必要ないんです。
子どもの教育にしたってことです。
私も初めそれで失敗したが、
放任ということと、自然ということが混同されていて、
放任が自然であるかのように
錯覚している場合が多いんです。
0 件のコメント:
コメントを投稿