2025年11月28日金曜日

【第117話】民事冤罪事件に光を!:最高裁の誤判に国際再審手続の保障を実現するのは私たち市民の手にかかっている(25.11.29)

世界の常識である個人通報制度を日本に導入することを求める市民の声をカタチで示すため、オンライン署名をスタート。賛同の方は>こちらまで署名をお願いします。

1、或る民事冤罪事件の概要
昨日、最高裁から通知が届いた(上の書面)。私が代理人をつとめる、学問の自由の侵害に対して救済を求めた裁判を受理しないという数行の決定だった(平山朝治VS筑波大事件>詳細はブログ)。 

この事件は、2018年12月に起きた(NGT48のメンバー)アイドル暴行事件に関する論文NGT48問題・第四者による検討結果報告」が2020年1月より筑波大学のリポジトリで一般公開され話題となったところ、同年4月、株式会社Vernalossom(旧社名AKS。以下、AKSという)から「本論文は当社の名誉毀損にあたり、リポジトリからの削除を求める」と抗議文が著者と筑波大学に送られるや、筑波大学が同論文をリポジトリから削除した。同論文をリポジトリに再公開することを求めて、2021年6月、著者が筑波大学とAKSを相手に東京地裁に提訴した事件だった。

 提訴時の記者会見( 時事通信の記事『削除は違憲筑波大を提訴 アイドル暴行事件論文で教授 東京地裁」より)

3年後の2024年3月、一審の東京地裁の判決は、被告AKSが主張する名誉毀損は認めず、さらに被告筑波大学が同論文をリポジトリから削除する際の理由にしたアイドル暴行事件の被害者のプライバシーの侵害も認めなかった、では原告の言い分が認められたのかというと、さにあらず、判決は、この裁判まで被告らから取り上げられることのなかった「論文は同暴行事件の加害者のプライバシーを侵害をしたもの」を理由にリポジトリからの削除は適法と判断したのである。

しかし、被告らの主張からみても奇奇怪怪のこの論点に関する判断は、同暴行事件の加害者が事件後に自ら進んで事件についてカミングアウトしていた事実を無視したもので、誤判(法令適用の誤り)であった。著者はこの点を二審の東京高裁で主張。東京高裁はいったんは審理の見直しに着手したが、約1年後の5月の判決では、単に「(著者に)個人情報の不当な取り扱いがあり」とだけ指摘して、一審判決通りでよいとした。つまり、一審判決の奇奇怪怪の誤判をそのまま是認した。

やむなく著者は三度目の正直の上告審で、一審、二審の各判決が暴行事件の加害者のプライバシー侵害と判断したことが誤りであることを一目で分かるように理由書に記載(末尾の上告受理申立て理由書6~9頁参照)、この明々白々の誤判を詳細に主張した。その際、たとえ少数意見でも、二審判決は誤判である旨の判決が書かれることを期待した。しかし、昨日、全員一致の却下の決定が届き、誤判が確定した。
もともと裁判所が他の国家機関と根本的にちがうのは結論の理由を示す点にある。つまり結論を証明することが求められた点にあった。しかし、この却下決定には証明が要らない。「上告受理申立ての理由に当たらない」とさえ言えばそれで一丁あがり、原判決を是認できる。しかし、これは「結論を証明する」という司法の存在理由をみずから否定するにひとしい。前記の通り、原告が上告受理申立ての理由の中で、原判決が憲法に違反した「違憲判決」、法律の適用にも違反した「違法判決」であることを証明しようとしたのに対し、司法の存在意義を踏まえて誠実に対応するのであれば、最高裁は、原判決が「違憲判決」でも「違法判決」でもないことを自ら証明すべきである。それをしないまま、ただ一言「上告受理申立ての理由に当たらない」としか言わないというのは、司法が行なうべき判決として「未完成」のままほおり出したというほかない。

その通知を受け取り、最高裁はこんな明々白々の誤判すら見抜けないほどその目は節穴なのか、これでは市民は救われないと思い知らされ、そのとき、映画「それでもボクはやっていない」の監督周防正行が、この映画の制作中に語った次の言葉が思い出された。

僕は取材を始めて半年ぐらいたった時に、痴漢冤罪とか他のいろんな冤罪があるけれど、誰かに「何がいけないと思います?」と聞かれたら、「あ、裁判所だ」って思ったわけですよ。それはきちんと取材してそう思ったんだから、そのことは伝えなければいけない。裁判所はひどい。‥‥多分、いまの多くの人は、「十人の真犯人を逃がすくらいなら、一人ぐらい間違って有罪にしてもいいんじゃないか」って思ってるんじゃないか‥‥僕はそういう気がして、そういう社会的な雰囲気を感じているから裁判官も、平気で「判らないけど、ま、有罪にしとけ」って感じになるんじゃないのか。そんな気がしてならないんです。

刑事事件なら、当然、再審手続に移る事件だった。しかし、民事事件にはそのような手続は保障されていない。しかし、誤判であり、冤罪であるならば、民事事件でもその濡れ衣を晴らす途があっていいのではないか。18年前にも同様の民事冤罪事件に遭遇した時、この思いを実感し、次の文を書いた。

 民事冤罪事件 それでもボクはコピーやっていない--模写裁判サイト--

2、民事冤罪事件を救済する個人通報制度
しかし、当時、この思いをカタチにするやり方を知らなかった。その後、そのカタチがあることを知った。それが民事冤罪を国際的に救済する制度、個人通報制度(以下はアムネスティの解説による)。

人権を国際的に保障する国際人権法、それを具体化する手続のひとつ。
それは、人権条約に認められた権利を侵害された個人が、各人権条約の条約機関に直接訴え、国際機関で自分自身が受けた人権侵害の救済を求めることができる制度。

人権侵害を受けた個人は、その国において利用できる国内的な救済措置を尽くした後(日本の民事事件なら最高裁判決)であれば誰でも通報できる。その通報が受理され、審議された後に条約機関はその通報に対する見解を出す。見解には拘束力はないけれど、国際・国内の世論を高めることで国内法や運用の改正を図り、人権侵害の救済・是正を目指すことができる。

もしこれが使えれば、今回、学問の自由の侵害事件に対して最高裁が誤判をおかしたとして、自由人権規約の自由権規約委員会に、救済を求めて通報することができる。
この制度の活用の重要性を、今回、誤判を経験し、改めて痛感した。

ただし、これが使えるためには、この制度を日本政府が批准する必要がある。しかし、日本政府は各人権条約についてひとつも批准していない。このような国は、世界ではG7サミット参加国において日本だけ。OECD(経済協力開発機構)加盟37か国において日本とイスラエルだけ。この意味で日本は人権の最貧民国かつ世界に名だたる人権鎖国。そして、この汚名がまかり通っている最大の原因は当の日本の市民がこの事実を知らないからだ。知って行動を起こせば、日本は人権の最貧民国・人権鎖国から抜け出すことができる。そのカギを握っているのは私たち日本の市民()。この真理を改めて噛み締めている。

今回の最高裁がこのようなていたらくだとしたら、一事が万事、ほかにも沢山、これと同じような民事冤罪事件を経験させられている市民が沢山いるのではないか。世界の常識である個人通報制度を、今なお鎖国を堅持する日本の非常識な司法制度に吹き込むことにより、民事冤罪をめぐる環境はがらりと変わる。それは私たち市民の手にかかっている。

1951年に起きた「八海事件」を映画化した「真昼の暗黒」のラストシーンで、被告人は獄中から「まだ最高裁がある!」と叫んだ。百年後の私たちの合言葉は「最高裁がある」ではなく、最高裁を鎖国から解放し、国際人権法をカタチにした「個人通報制度がある」である。

)市民の声が個人通報制度を実現することを訴えた日弁連のパンフ>こちら
   今年2月の山形県弁護士会の個人通報精度の早期導入を求める決議

 上告受理申立て理由書 >全文PDF

        
アイドル暴行事件の加害者のプライバシー侵害の点について




2025年11月24日月曜日

【第116話】(【差し替え版】チェルノブイリ法日本版ニュースレター原稿)PTSDに苦しむ原発事故被災者が一歩前に出るために(25.11.24)


11月8日の第22回新宿デモ(脱被ばく実現ネット主催)

第115話】で紹介したチェルノブイリ法日本版の会の次回のニュースレター用の原稿が長すぎるので、その後、差し替え版を作成した。それが今月8日の第22回新宿デモで話したスピーチに当日、喋り切れなかった内容を補足したもの。

このとき、喋っていて、とても素直に、自然に、言葉が出てきて、こんな感じで喋れたのは初めてのような気がして、これが肝心なんだと合点した。その意味で、私にとって画期的なな経験だった。

11.8新宿デモのスピーチ動画>以下の末尾
・ニュースレター用原稿「PTSDに苦しむ原発事故被災者が一歩前に出るために」>こちら

以下は、字数制限のない、ニュースレター用原稿の元原稿。

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PTSDに苦しむ原発事故被災者と予防原則が一歩前に出るために

1、PTSD

先日、JCO事故の被害者の人が事故後体調不良になり、村役場に相談する中で不満を募らせ、24年後に東海村と日立市の役所に車で突っ込んだ事件の判決があったというニュースを聞き、26年前のJCO事故の被害者の人がとうとうこういう形で暴発したという事実を知りました。

最近届いた或る通信に、母親がJCO事故で健康を害し、裁判を闘って負けたという息子さんの報告の最後でこの事件を取り上げ、JCO事故の健康被害者は3人だけが国の公式見解だが、外にも沢山いたことを覚えておいて欲しいと結んでいた。
その時私は、車で暴走したこの人はこの母親と似ている、そして、この報告の次に載っていた311甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんとも似ていると思った。
この報告を読んだ時それが21年前に切り抜いて壁に貼っておいた或る新聞記事()の内容だったのを思い出し、そこにJCO事故以後、寝たきりになってJCOと聞くだけで動悸が激しく苦しむ母親のことが書かれていて、PTSDと診断された彼女は5年後にようやく、事故直後に、敗戦で満州から命からがら引き揚げた幼少時の思い出が突然よみがえったと語り出した。それで息子さんは初めて母の「心の傷」に触れるきっかけを得た気がして、JCO事故が母に与えた傷は母が苦難をくぐり抜けてきた全生涯に及ぶ深いものであるという認識を新たにした

--21年ぶりにこの記事を読み直し、私は原発事故の被害の意味を単に病気や生活苦と見ることはできない、その人がそれまで心にフタをしてきた過去の苦難の全歴史が一気に噴出し、その人を苦しめ直す、心の傷が再発し暴走する。その苦しみは甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんも同じではないかと思ったのです。
のみならず、同様の苦しい思いをしている人たちはほかにもいっぱいいる、ふくしま集団疎開裁判、子ども脱被ばく裁判、仮設住宅から追出しを迫られた追出し裁判でも欝になった方たちが沢山いて、その原因は単なる偶然や本人の心がけのせいではなく、必然的、客観的な原因があるのではないか、それは、原発事故後に体調不良に陥り或いは避難生活の中で生活困窮に陥ったとき、自分を苦しめている原因は放射能の被ばく或いは避難者の生活再建を保障しない国の政策にあるのではないかと内心思っても、医師や国からは「放射能は関係ない。自分の責任で避難したのだから生活再建も自己責任が当然」と突き放されると、じゃあ何が原因なんだ、病気も生活苦も自分の生活態度が悪かったからなのかと思うほかなく、かといってそれで納得もできず、その結果、自分の素朴な疑問にフタをして、不本意な気持ちのまま自分自身の殻に閉じこもり病気や生活苦と向かい合うしかなくなる。けれど、フタの下で自分の素直な感情は依然マグマのように、医師や国はおかしいと思っているから、自身を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめる。それはその人から生きる尊厳を奪い、その人を人間失格にさせ、その人を深刻な心の病に陥れる。

他方、どんなに厳しい境遇であっても、もしその人に境遇と正面から闘う意味が分かり、誇りをもって闘い続けることができるのなら、それで馬鹿にされようが虫けらみたいにされようがまだ元気でいられる。しかし、医師や国の言葉にずるずると屈して、それに従うしかないと思うとき、その屈従は「放射能や国の政策が原因ではないか」という自分自身の素直な思いを心中に閉じ込めるフタとなる。けれど、そのフタの下で自分の素直な感情は依然マグマのように息づいているから、自身を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめる。この苦しみを解き放つ唯一の方法はそのフタを開け、フタの下に閉じ込めていたマグマの感情を正しく外に出すしかないのではないか。それを実行したのが甲状腺がん裁判の原告となった8さん。彼女は原告になる中で元気を取り戻していった。行動が心を正していった。

 ところで、これは決して原発事故の直接の被害者の人たちだけじゃなくて、私たち自身がみんな似た思いを抱いているのではないでしょうか。311以後、原発事故の救済をめぐって本当におかしなことばかり沢山あった。しかし、それを周りに言っても「いや、それはあんたの思い過ごし、妄想だ」と一蹴され、フタをするしかなかったことが多かったのではないでしょうか。しかし、当人は「いや、決して妄想でも何でもない、これには絶対根拠がある」とどこかで納得しなかったはずです。ただ、この思いをフタから出して表明する場所がなかった。しかし、甲状腺がん裁判に参加した原告8さんみたいに裁判という場があります。それ以外にもデモがあります。デモは私たちが普段フタをして心の底に閉まっている思いをフタを外して外に出して街頭でアピールする場なのです。そして市民立法も同様です。市民立法チェルノブイリ法日本版も、311以後、私たちが普段フタをして心の底に閉まっている思いをそのフタを外して外に出してその実現に向けて一歩ずつ進む取組みなのです。

2、予防原則

JCO事故の裁判は8年やって負けました。その理由を原告の息子さんは 因果関係の立証ができなかったから、要するに 原告に被ばくと病気の関係をきちんと立証しろと言われ、その証明ができないで負けたそうです。当たり前です。今の科学技術のレベルでさえ立証できない被ばくと病気の因果関係を、なんで普通の市民が立証できるのか。市民が立証するなんて本来できないのです 。元々それが無理なこと分かってて裁判でそれを要求する、その今の裁判のシステムが間違ってるんです。だから、それを正すことが本当に必要で、それを正すちゃんとしたテクニック、技術があるんです。それが予防原則です。予防原則というのは加害者のほうで被ばくと病気の因果関係がないことを証明しない限り因果関係はあったとされるというものです。いわゆる立証責任が被害者から加害者に転換されることを認めるものです。その原則が今の日本にはないんです。しかしこれは日本で作ることができるし、作るべきです。 そして私が思うにはこのような法律を作るのは最後は市民が決めるんです。決してこれは選挙で決めることではなくて、市民が決めることであることを最高裁がそう言っています。今、結婚制度は大きく揺れ動いていて、どういう結婚制度が合法かそれが最高裁でも問題になっていて、最高裁は判決でそれを決めるのは市民の意識だと表明しています。 つまり私たち市民の意識がいかなる結婚制度を認めるかを決める鍵を握っているんです。だから、これと同じような意味でいかなる因果関係のシステムを認めるか、予防原則を取るか否かは私たち市民が決めることができるんです。それを決める1つの大事な場がこのデモです。デモを通じて私たちは、市民の意識は原発事故による救済を予防原則で救えということを求めている、そのことを一緒に声を上げて言おうじゃありませんか。それによって市民の意識が変わり日本の法律も変わって、原発事故の救済が一歩でも前に進むのだと信じます。今日はそのためのさやかな一歩ですが、是非一緒に頑張りましょう。ありがとうございました。

 )2004年9月

          11.8新宿デモのスピーチ(柳原)



2025年11月20日木曜日

【第115話】(チェルノブイリ法日本版ニュースレター原稿)生活再建権の保障を法制化したのが日本版(25.11.20)

 チェルノブイリ法日本版の会の次回のニュースレターに原稿を寄せるので、この夏、信州松本の片田舎(四賀)で、日本版の会の有志でやった協同組合の学習会の合宿について書こうと思った。そう思ったのは、7年前、100歳で亡くなった脚本家・映画監督の橋本忍の次の言葉を思い出したからだ(>弟子たちと一緒の100歳の写真)。

(映画の仕事のどこが面白いのか、という問いに対し)
ロケ地の道路わきでスタッフ・俳優みんなと一緒にわいわいがやがや言いながら昼飯を食べるのが何よりも楽しいんだ

そうだ、これは単なる映画の話にとどまらない。このフラットな関係の中でおこなう協同労働=協同経営の映画作りの中にこそ、人類のひとつの普遍的なあり方が示されている、それが「協同組合」の精神なんだと気がついたからだ。

私にとって、協同組合は311後の避難者・被災者が生活再建を成し遂げる上で不可欠の就労システムだ。モンドラゴンの協同組合でもそうだが、現実に協同組合が実を結ぶところは、その前提として、彼らの生活に襲い掛かった人権侵害、様々な迫害に抗って、みずから生活再建を果たそうとアクションを起こした人たちだったことだ。 橋本忍にしても、24時間金儲けのことしか考えず、金儲けになる映画を作れとしか命令しない映画会社に抗って、「作りたくて、面白くて、その上、元も取れる映画を作ろう」とみずからアクションを起こした人、その意味で、協同組合の精神の光を放った映画人だ。

以下は、先週、東京地裁であった避難者住まいの権利裁判の中で起きた「小さなものすごい異変」とそれが協同組合の取組みに深く関係していることを述べた、日本版のニュースレター用に書いた原稿(おそらく長すぎて、カットされるので、ここに全文を掲載)。

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生活再建権の保障を法制化したのが日本版

1、 理性のつぶやきはやむことがない

 今月12日の避難者住まいの権利裁判で、裁判長が初めて仮設住宅提供の打切りを決定した福島県知事決定の手続に問題があるのではないかと決定の問題点に言及する訴訟指揮をした。これは私が311から14年目にして初めて経験した出来事だった。311以後、原発事故被災者・避難者は人間として扱われず、ずっと虫けらみたいにあしらわれて来たが、今回初めて、避難者たちの生活再建の状況や将来の見通しなどを本人たちにヒアリングもしないで打切りを決めた知事の決定の手続はやっぱりおかしいんではないかという理性のつぶやきが登場したからです。同時にそれは、避難者の住宅問題が解決しないのは根本的に彼らの生活再建の問題が解決しないからであり、311以後、避難者たちの多くが避難先で生活再建の見通しを持てずに厳しい生活環境に置かれているという過酷な現実をクローズアップするものでした。なぜなら、311以後、日本政府も福島県も県外に避難した避難者たちに、帰還すれば手厚い保護を与えるのに、避難先で生活再建できるような就労支援については、支援のしの字も実行しなかったという残忍酷薄な、人権侵害の政策が取られて来たからです。

2、生活再建を求める人たちの苦悩

 2013年3月、名古屋で、自主避難者のネットワークの結成総会でふくしま集団疎開裁判の話をしてくれと言われ、行った。総会の後の懇親会で、避難者が自己紹介をした時、若いバイタリティーあふれるお母さんが年子と思われる0~5歳ほどの子どもたち5人を連れて登壇した。 そのあとに、ちょこんと恥ずかしそうにお父さんが登壇、ポツリポツリと自己紹介を始め、最後にこう言った。
女房が逃げたいというので、みんなで逃げることにしました。その結果、私は会社を退職し、それで、こちらで新しい仕事を探しましたが、どうしても見つからない。最後に決まったのがガードマンでした。本当はもっとちがう仕事に就きたかったけれど、これしかなかったので、これでがんばります
奥さんと子どもたちを見ながら、悲壮な決意で、殆ど泣き出さんばかりに感極まって「がんばります!」と締め括った。その悲壮な姿に、思わず、おかしいだろ、なんで、自分たちが壊したわけでもない原発の事故のために、ここまで苦しまなくてはいけないのか。避難先で自立し、誇りに思えるだけの仕事に就くことを願うことがそんなに尊大で、そんなに厚かましいことなのだろうか。 個人の尊厳を認める社会なら、避難先で自立するために自分なりに納得が行く仕事に就くことは権利として認められて当然じゃないのか。 生活再建権という人権があることをもしこのお父さんが知ったなら、「そいつは、オレの権利だ!人間としての権利だ!」ときっと叫んだと思いました。

 原発事故が明らかにしたこと、それは避難者には人権として生活再建権があるんだということ。そして、それが保障されないために、声もあげられずひそかに苦悩、苦闘している避難者や避難できない人たちが、この国にはこのお父さんだけではなくて、ほかにも無数にいるということです。

3、生活再建の現実的な方法として協同組合の道は不可避

 他方で、人権の歴史が教えることは人権はこれまで「棚からぼたもち」式に市民に保障されたことは一度もないということです。それはいつも市民立法、つまり市民が自らの手で手に入れて初めて保障が実現した。ではどうやって手に入れるの?それは世界最初の人権である宗教の自由が示す通り、宗教の弾圧、宗教戦争という宗教の自由に対する情け容赦ない侵害に対し市民が「あらがい続ける」ことを通じて宗教の自由を手に入れた。つまり、人権侵害とそれに対する「あらがい=抵抗」が人権保障の実現にとって不可欠の前提条件だということです。この意味で、311後に原発事故被災者、避難者を襲った生活再建権や命、健康を守る人権の侵害という事実は歴然としています。あと足りないのは何か。これらの人権侵害に対して「あらがい=抵抗」することです。それが市民立法のアクションです。ただし、それを絵に描いた餅ではなく、現実のものにするためにはただあらがうのではなく、もっと創意工夫がいる。その1つが「協同労働=協同経営」という、市民自らがお互いに助け合って生活再建する協同組合の試みです。そんなのは夢でしょう?と思うかもしれませんが、世界にはスペイン・モンドラゴンを始めとしてそれに挑戦して成し遂げた数多くの実例があり、私たちはその気になればそこからいくらでも学べるのです。
 今年の夏、日本版の会の有志で、協同組合について学ぼうと信州松本市の片田舎で合宿をした。幸い、建物貸しだけで、あとの管理はすべて利用者がする。参加者自ら地元で食材を求め、台所でみんなで「協同調理=協同炊事」して「協同食む」。その経験は協同組合のささやかな実践として参加者の心に刻まれた。この時、私は「ロケ地の道路わきでスタッフ・俳優みんなと一緒にわいわいがやがや言いながら昼飯を食べるのが何よりも楽しいんだ」と言った、百歳まで現役で活躍した脚本家・映画監督の橋本忍の言葉を思い出した。非人間性の闇が世界を覆い尽している311後の日本社会ほど、「協同労働=協同経営」の理念の光が大切な時代はない、それが日本版の精神であることを痛感している。






【第117話】民事冤罪事件に光を!:最高裁の誤判に国際再審手続の保障を実現するのは私たち市民の手にかかっている(25.11.29)

世界の常識である個人通報制度を日本に導入することを求める市民の声をカタチで示すため、オンライン署名をスタート。賛同の方は >こちら まで署名をお願いします。 1、或る民事冤罪事件の概要 昨日、最高裁から通知が届いた(上の書面)。私が代理人をつとめる、学問の自由の侵害に対して救済...