原発事故による放射能の危険性について、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかっていることの深刻さをくり返し語るのは、チェルノブイリで5年半、甲状腺がん手術のボランティア活動をしてきた前松本市長の菅谷昭さん(「原発事故と甲状腺がん」など)。
問題は、日本国民はなぜ深刻な「難治性悪性反復性健忘症」にかかるのか。それは日本国民の運命なのか。
運命ではない。その答えは、日本国民は「難治性悪性反復性健忘症」にかかるように仕向けられているからだ。
なら、いったい誰がそんなことを?
日本国民が健忘症にかかってくれることによって利益を得る人たちが。
例えば、大岡昇平は戦争について甘い考え、というより、戦争のことなど忘れても大丈夫なのではないかと、つまり健忘症でも構わないと思っていたという。
「われわれの死に方は惨めだった。われわれをこんな下らない戦場に駆り立てた軍人共は全く悪党だった。芸妓相手にうまい酒を飲みながら、比島決戦なんて大きなことをいい、国民に必勝の信念を持てと言い、自分たちはいい加減なところで手を打とうと考えていた。‥‥
戦後25年、おれの俘虜の経験はほとんど死んだが、きみたちといっしょにした戦争の経験は生きている。それがおれを導いてここまで連れて来た。
もうだれも戦争なんてやる気はないだろう、同じことをやらないだろう、と思っていたが、これは甘い考えだった。戦後25年、おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じ一握りの悪党共は、まだおれたちの上にいて、うそやペテンで同じことをおれたちの子供にやらせようとしている。」
(ミンドロ島ふたたび)
日本国民がこの「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを日本政府がひたすら励んでいることが、七三一部隊が行なった歴史的事実について、彼らがどう受け止めているかを知ることで鮮明になる。
そもそも、日本政府は七三一部隊が人体実験を行なった事実を今なお認めていない。日本政府が七三一部隊の存在を公に認めたのも戦後37年も経過した1982年4月になってからだ。しかも、このときの公式見解は「関東軍防疫給水部略歴」という数頁の文書。
その文書は1285名の兵士と1427名の市民が七三一部隊に関連したことを認めた。しかし、それで全てだった。犠牲者の数や国籍については何も明らかにしなかった。その文書を読んだ森村誠一『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントはこう書いている。
多くの日本人は自分たちの戦争を泥酔状態、つまり最悪の逸脱行為は翌朝には許され忘れられる状態とみなしている。健忘症を促進させるというこの日本政府の公式態度は、東アジアの国々を激怒させたが、その態度は日本における反戦精神の弱体化や軍事支出の拡大と軌を一にしている(「ハルビンの屠殺者ーー戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」(1983年))
つまり、七三一部隊の歴史は日本国民が運命的に「難治性悪性反復性健忘症」なのではなくて、日本国民が「難治性悪性反復性健忘症」にかかることを促進させることにひたすら励み、作り出している連中が厳然としていることを誰でも分かるように示している。
だから、これに対し実行可能なことは、日本国民がかからされている「難治性悪性反復性健忘症」から目覚めることを促進することである。その最初の一歩はいつも少数者のアクションから始まる。
『続・悪魔の飽食』の書評を書いたロバート・ウィマントもこう言っている。
しかし、歴史を書き直す努力は、実際に、数年前に始まったーー家永三郎が教科書の一部を書き直させる圧力に反対して起こした教科書裁判は1960年代にさかのぼる。
これまで、家永教科書裁判は、教科書は誰のものかを問う教育の自由(子どもの教育を受ける権利)をめぐる人権裁判とばかり思ってきた。しかし、この裁判は、そればかりではなく、日本国民を「難治性悪性反復性健忘症」から治癒することを促進する壮大な意識改革の取組みだったことを知った。
私のかつての著作権の仕事、「壁の世紀」裁判の依頼者だった歴史家の大江志乃夫さんがなぜ家永教科書裁判に惜しまぬ支援を続けてきたのか、その訳を知ったような気がして、感慨を新たにした。
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杉本判決検討会(1970年7月18日、肩書は当時)。 左から2人目が大江志乃夫さん(東京教育大学助教授) |
杉本判決を伝える当時の新聞 |
「北山敏和の鉄道いまむかし」の「教科書裁判」より


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