以下は、本日の原電前抗議行動で喋ったスピーチの原稿です(時間切れで喋れなかった内容も盛り込んであります)。
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初めて、この場で話をします。
東海第二の運動について殆ど無知の私のような者がここに呼ばれたのは、私自身が10歳から35歳頃まで四半世紀の間、引きこもりで欝の人間だったからではないかと思います。
なぜ原発に反対するのか。その理由は人により様々だと思います。私にとって、それは311以来、原発事故の被災者の人たちとつきあって来て、思うことは、原発事故は人々の命、健康、暮らしを狂わせましたが、実はそればかりではなく、さらに、人々の心をこれでもかと思うほど傷つけ、苦しめるものだということです。
そのことを日本で最初に経験し、語ったのが、27年前、東海村のJCO事故で両親が被ばくした大泉実成さんでした。私がそれを最初に知ったのは22年前に読んだこの新聞記事です。
直接のきっかけは、ここ数年、月の半分を過ごしている茨城県に滞在中に、昨秋、NHK茨城で、JCO事故の被害者の人が事故後体調不良になり、村役場に相談する中で不満を募らせ、事故から24年後に東海村と日立市の役所に車で突っ込んだという事件の判決があったというニュースが流れ、それで、JCO事故の被害者の人が24年も経ってからとうとうこういう形で心の傷が暴発したという事実にショックを受けたからです。
かつて、広島で自身が被爆した丸山真男は、原爆投下という放射能災害について、「戦争の惨禍の単なる一頁ではない。もし、戦争の惨禍の単なる一頁だとすれば、まだ今日でも新たな原爆症の患者が生まれて、また長期の患者とか、あるいは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるという現実は理解できない。この現実は、あたかも毎日々々原爆は落っこちている。‥‥それは広島の二十何年前のある日、起こった出来事ではなくて、毎日々々新しく起こっている。新しくわれわれに向かって突きつけられている問題なんです。」(丸山真男話文集1「二十四年目に語る被爆体験」484~485頁))と語りました。このNHKニュースは、JCO事故という放射能災害についても、被災者の人たちにとっては「過去の或る一瞬の出来事ではなくて、毎日々々新しく起こっている。新しくわれわれに向かって突きつけられている問題」だということを私たちに生々しく伝えたように思えたのです。
そしたら、そのひと月前に届いた「ノーニュークス」という市民団体の通信に、このNHKニュースのことを取り上げた一文が載っていました。それがJCO事故で両親が被ばくした大泉実成さんの報告「JCO事故から26年」でした。大泉さんは役所に車で突っ込んだ事件の当事者の人が他人事ではないことを、放射能災害の被害者はみんな同様の言い表わせない「心の傷」を負っていることを、自身のお母さんの苦しみについて語る中で表現していました。そしたら、机の脇に貼ってあった四半世紀前の新聞記事が思い出されたのです。
この記事や大泉さんの報告には、JCO事故以後、寝たきりになってJCOと聞くだけで動悸が激しく苦しむ母親のこと、PTSDと診断された彼女は5年後にようやく、事故直後に、敗戦で満州から命からがら引き揚げた幼少時の思い出が突然よみがえったと語り出したこと、それで息子の大泉さんは初めて母の「心の傷」に触れるきっかけを得た気がして、JCO事故が母に与えた傷は、母が苦難をくぐり抜けてきた全生涯に及ぶ深いものであるという認識を新たにしたことが書かれていました。
--22年ぶりにこの新聞記事を読み直し、私は原発事故の被害の意味を単に病気や生活苦と見ることはできない、その人がそれまで心にフタをしてきた過去の苦難の全歴史が一気に噴出し、その人を苦しめ直す、かつての心の傷が再発し暴走する。その苦しみは、私がこれまで関わってきたふくしま集団疎開裁判の親御さんたち、仮設住宅から追出しを迫られた追出し裁判の避難者の方たち、今回の「ノーニュークス」の通信に載った甲状腺がん裁判で意見陳述をした原告8さんも同じではないかと思ったのです。
この人たちは、JCO事故や福島原発事故のあと、放射能の危険や自分の体調不良に対する自分の疑問、不安を感じても、それを率直に口にし、理解を深めることが許されない。そんなことをすれば、その人は周りから風評被害の加害者とされ、非国民扱いされる。そのようなものすごい同調圧力の中で、生きていくために彼らは結局、自分の素朴な疑問、不安を自分の心の中にしまい込んで、フタをせざるを得なかった。いわば「苦悩という避難場所」に逃げるしかなかった。けれど、そのフタの下で自分の素直な疑問・不安は依然マグマのように息づいているから、自身の疑問・不安を押し殺す不自然な心の状態は身体全体の調子を狂わせてその人を苦しめ続ける。大泉さんもお母さんも甲状腺がん裁判の原告8さんもそうだったのではないか。
そのようなとき、この苦しみを解き放つ唯一の方法は「苦悩という避難場所」に逃げ続ける中にはなく、心のフタを開け、フタの下に閉じ込めていたマグマの感情を正しく外に出すしかないのではないか。つまり「苦悩という避難場所」から「現実の避難場所」に向かうこと、苦悩から現実のアクションへ転化するしかないのではないか。それを実行したのが自らの意思で甲状腺がん裁判の原告となった8さん。彼女は原告になる中で元気を取り戻していった。行動が心を正していった。
そして、フタの下に閉じ込めていたこの苦悩をフタをはずして現実のアクションに転化した避難者追出し裁判で、避難者の訴えに初めて最高裁が応えた判決が先月9日で出ました。三浦守少数意見判決(>こちら)です。それは、以下のような私たちの心からの願いに正面から向き合う返答でした。そして、311後に人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会に、人権屋敷の再建の必要性を明快に述べた人権回復の第一歩となるものでした。
最高裁に望むこと(>全文)
三浦意見は少数意見だったからです。
しかし、失望することはありません。人権の歴史はいつも少数者の声・行動から始まるからです。
そして、人権運動は少数者の声がその声をあげた瞬間にその声がどう評価されたかではなくて、その声に(たとえ時間がかかろうが)その後、周りの市民がどう反応したかで決まり、さらにその評価も関が原の決戦みたいな一発勝負ではなくて、long and winding roadのジグザグの漸進的なプロセスです。
この人権運動の実相に目を向けるとき、今回の少数者の声である三浦少数意見がどれほど重要なものであるか、それは多数意見(>こちら)の側に三浦少数意見が放った輝きを否定・批判するような反論がひとつも書けなかったことからして明らかです。この311後の人権侵害のゴミ屋敷に化した日本社会を人権屋敷に再建する突破口となるような、原発事故の救済に関する人権宣言のスタートとなるような画期的な最高裁判決がこの三浦少数意見なのです。
この三浦少数意見がまいた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかは、ひとえに死力を尽した三浦裁判官からバトンを受け取った私たち市民の手にかかっています。だから、私たちも、本当の力は少数意見の声の中にある、少数意見が社会を変える、この歴史の真理を胸に、311後のゴミ屋敷の日本社会を一歩ずつ人権屋敷に再建するため、「苦悩から現実のアクションに転化」する取組みを粘り強く続けていきましょう。
※参考
311から15年目の今日、最高裁は「百年の悲劇」と決別するため、今まで書かれたことのなかった原発事故の救済のあり方を最高裁判決に書き込んだ。今日まかれた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかーーそれは私たちに掛かっている。人権への道は人類全員の協同労働なのだから(26.1.9)
2、多数意見
(1)、避難者追出し裁判1.9最高裁判決は不当判決ではない。誤まった判決である。
(2)、避難者追出し裁判のふり返り:内掘決定が違法かどうかが福島県の仮設住宅明渡し請求の前提問題であることが判明した経過(26.1.16)
3、三浦少数意見
(1)、「我ここに立つ。これ以外に仕方がない」の決断の中で書かれた三浦少数意見(26.1.20)
(2)、三浦少数意見その可能性の中心(1)、国際人権法:原発事故の避難者等の人権(居住権等)について国際人権法(社会権規約、国内避難に関する指導原則)に基づいて保障されるべきことを初めて最高裁判決に書き込んだ。(2026.1.15←1.28加筆)
(3)、三浦少数意見その可能性の中心(2):避難者追出し裁判1.9最高裁判決の上告受理申立て理由書&多数意見&少数意見の対比表から見えてきたもの(26.1.27)
(4)、三浦少数意見その可能性の中心(3):内掘決定の違法性と建物明渡請求の可否についての具体的内容(2026.1.30)



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