2024年11月30日土曜日

【第21話】 つぶやき(2):「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」(24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、
意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。
そして、これを単なる大げさ、飾り文句ではなく、文字通り、受け取るのが正しいのだと思うようになったこと。
これを指摘した養老孟司は例えば以下のように言っている(昔の本と比べ、いまひとつ切れ味が悪いが)。
世界の見方
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

ヒトは世界+(自然の世界)から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-(脳化の世界)に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできない
世界+(自然の世界)は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。
      ↑
私自身が、この自然世界は「真っ暗闇」であることを思い知らされたのは、先端科学の「素粒子論」を知った時です。以下の動画を見て、物質の世界の真相は「真っ暗闇」じゃん、我々は本当にその一部分だけ、かすかに知っただけにとどまるじゃん、と実感した。

神の数式 完全版 第2回「“重さ”はどこから生まれるのか~自発的対称性の破れ」
https://www.dailymotion.com/video/x8md0ne
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ここに登場するのですが、それまで電子はどれも一様に回転し、磁石のような性質を持っていたことが分かっていた。ところで、1957年に、その回転に右巻きと左巻きと2種類の回転があって、その性質がちがうことが分かった。
     ↑
ここから、電子をどれもみんな同じ構造、同じ動作、同じ性質を持っているなんてどこにも断言できず、電子にも「多様性」があって、それぞれ異なる側面がある可能性のほうがリアルになってきた。
     ↑
かつて、子ども脱被ばく裁判で、LNTモデルは仮説にすぎないとLNTモデルを馬鹿にした国に対し、ポパーが、科学的真理とはもともと「反証可能性」を前提とした暫定的な真理=仮説にとどまると喝破したことを取り上げ、国に噛み付いた書面を出した。
https://darkagejapan.blogspot.com/2019/02/blog-post_12.html

これは自然の世界は「真っ暗闇」である、ということを言い換えたものです。人間がこしらえた人工的な世界(科学的知見)がいつも「自然界の一部を照らす部分的な真理」でしかなく、自然界の全体からはいつもこれと矛盾する事態が起きるからです。

例えば、放射能でもα線、β線、γ線の被ばくを被ばく線量で評価しますが、果して、電子でも右巻きと左巻きの異なるものがあるように、同じβ線でも、右巻きと左巻きの異なるものがあるかもしれないし、それ以外にも、異なる構造、異なる動作、異なる性質を持っているかもしれない。単に、我々の認識能力不足で、それらのちがいを見出せずにいる可能性が大きい。その結果、それらの違いが、同じ被ばくをしても、相手の人体への影響が異なってくる可能性が当然ある。それを単純に、被ばく線量だけで健康評価しているのは、ものすごい荒っぽい、雑な見方ではないか。

そもそも、一口に放射線といっても、α線は陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核なのに対し、β線は原子核から飛び出した電子。さらに、γ線は原子核から発生する電磁波と言われる。どうして、こんなに構造も性質も異なるバラバラのものが放射線としてひとつに括られるのか、ちょっと考えただけでも不思議でならない。それは、放射能をα線、β線、γ線として外形的、表面的にしか把握しておらず、これらの3つに共通する本質(電子を吹き飛ばす電離作用)に即して放射能をまだ捉えてないんだと、放射線科学の未完成ぶり、未熟さぶりを痛感する。

それは、長い間、あれだけ内部被ばくの危険性を認識していながら、いまだに、その危険性にふさわしい定量化の表現つまり内部被ばくの単位を見つけていないことにも、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感する。

それらの放射線科学の未完成ぶり、未熟さのため、「被ばくの健康影響」に対する認識能力も極めて未熟にとどまっていると痛感せざるを得ない。

数年前に、因果関係の科学的解明のツールとして統計学にその可能性を期待し、取り組みましたが、まだ探求途上とはいえ、この間の検討で感じたことは、どんなにテクニカルな現代統計学を使っても、それで解明できるのはあくまでもデータ同士の「相関関係」にとどまること(原因確率論もみんなそう)、それ以上「因果関係」の世界に踏み込むことはできない。科学として、「因果関係」の手前でとどまるのが統計学の本質的宿命(限界)だということだ。
     ↑
その意味で、科学として「因果関係」に寄与できることはしょせん限られている。そこで、法的に「因果関係」を問うときに重要になるのが、「真っ暗闇」に見える自然世界の中に厳然として存在する「事実」です。それがたとえば病態論。というより、そのような視点で病態論を再発見する必要がある。
そういう目で意識(科学的知見)と自然(病態論)の関係を捉え直したとき、はからずも、原爆症認定訴訟の中で、過去の判例が原因確率論のような科学的知見を決め手とせずに、それに加えて病態論をも加味して、総合的に、法的な因果関係を判断してきたことに、改めて、深い智慧を見るような発見があった。

この意味で、私は、この裁判が始まった最初の夏合宿でやった原爆症認定訴訟の因果関係論--その時は何という煮え切らない、中途半端な総合判断だと軽蔑しかしていなかった--に、「自然界は真っ暗悩みである」という自然認識に辿り着いた今、そこには深い洞察力が込められていることを発見し驚嘆している次第です(まだ、ちゃんと復習していないのだが)。

まとまりのない駄文で、失礼。

【第20話】 つぶやき(1):「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」(24.10.16)

 今年10月、或るMLに書いたつぶやき。

この夏、自分自身の世界観が変わった。中でも最も変わったのが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)。そう指摘したのは養老孟司。

その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきたが、そこで「科学的知見である現代統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)で取り組んできた。しかし、その取組みの末に分かったことは、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(現代統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しだった。これは、それまでの私にとって、コペルニクス的転回だった。

なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」「○○差別」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
     ↑
これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと見直すようになった。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「ハラスメント」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの権力者どもではなく(彼らも加害者の一味であることは否定しないとしても)、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになった。

そこから、どうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになった。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、正直なところ、一瞬、気が遠くなる。他方で、それは、因果関係を現実の症状から再構成といったふうに、現実の甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題だ。

なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、 リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書く。


2024年11月29日金曜日

【第19話】 理想の「未来の政治」は、甲野善紀の身体論の中にある(24.11.29)

 脳化社会の塀の外にみずから出た勇気ある人のひとり、甲野善紀。

 彼から触発されたことの1つ。それは、

 理想の「未来の政治」は、甲野善紀の身体論の中にある。

つまり、

理想の「未来の政治」のエッセンスは、これまでの政治から「権力」を抜き去ることにある

その結果、権力を抜き去った政治自身が持つ、未知の力、それが相互扶助、友愛に基づく人権の力。これに導かれて様々な政治の課題が解決できる。

他方、

甲野善紀の身体論のエッセンスは、これまでの身体論から「力に基づく動作・鍛錬」を抜き去ることにある。
その結果、力を抜き去った身体自身が持つ、未知の力に目覚め、その力に導かれて様々な身体の課題が解決できる。 

例えば、甲野は身体全体を使うことを強調する。これと同様、政治においても市民全体が動くことが「未来の政治」の決め手になる。

そして、政治において、権力を使わずに、未知に力に導かれて、どうやって政治が回り、有効に働くのかについて、甲野の身体論から触発されるところが大。



2024年11月14日木曜日

【第18話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者である「脳化社会」そのものは、侵害の目的達成のためにみずから最良の手段方法を発見し駆使している(24.11.15)

 「脳化社会」の最悪の人権侵害者が「脳化社会」そのものの中にあることは先ほど述べた通り(>【第17話】)。

ところで、そこでの人権侵害の手段・方法は「ローマは一日にしてならず」の通り、「脳化社会」が長期間にわたって総力をあげて発見した、彼らにとって智慧の賜物、最重要情報である。
一言で言って、それは「人権保障」の手段・方法と驚くほど似ていて表裏一体である。なぜなら、

1、掲げるスローガンは「誰も反対できない」「反対しない」ものに仕上げること。

2、その達成のプロセスは「一歩前に出る」つまり「ローマは一日にしてならず」を肝に銘じて一歩一歩前に出て侵害を完遂すること。

3、不快を避け、快を求めようとするなどの人間性に根ざしたやり方で、人々から主体性、自主性を剥奪すること。つまり、安全・安心・快適などをアピールして、人々から自己決定の一任を取り付けること。
      ↑
このうち、1と2は人権保障にもそのまま妥当するとしても、3はそのまま使えない。
つまり、人間性は無視できず、これを踏まえた時、そこからどうやって人々の自己決定を確保するか、それが問題となる。
      ↓
つまり、安全・安心・快適な環境、暮らしを実現するために、いかにして市民自身の自己決定を確保するか。
そのためには、
(1)、前提として、己自身の生活全般において、自己決定が隅々まで実行されていること。
(2)、安全・安心・快適な環境、暮らしの実現においても、セルフケアを原則にすること。
(3)、その上で、セルフケアの限界については、市民のネットワークを通じて、市民主導のシステムの構築、必要な情報の相互共有、行政への説明責任、情報開示を実行してセルフケアの限界をカバーすること。
      ↑
(3)の深化、それが次の課題。

 

【第17話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者は「脳化社会」そのものの中にあり、その最大の賛同者にして被害者は「脳化社会」に安住する私たち市民である(24.11.15)

                               子ども脱被ばく裁判 福島地裁判決(2020年3月1日)

子ども脱被ばく裁判と避難者追い出し裁判が明らかにした最大のもののひとつが、人権の始まりであり人権の核心は、私の生き方、私の人生はほかならぬ私自身が選択し、決めるという「自己決定権」にあるということだ。

そこから、私たちが住む「脳化社会」がいかに人権侵害をはらんだ「人権侵害社会」であるかが浮き彫りにされた。なぜなら、福島原発事故に遭遇したとき、少なからぬ市民は、この前代未聞のカタストロフィから身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、前代未聞のカタストロフィから身を守るために選択すべき行動を決定するためには、自前で手に入る情報だけでは到底不十分・不可能であり、そのためには、これに必要な情報を独占している政府と福島県からの情報提供が不可欠だった。にもかかわらず、それを求める市民にその情報は届けられなかった(開示・提供されなかった)からである。
しかも、その悪質極まりない情報隠蔽は(政府や福島県にとって、これほどまでに深刻な原発事故は初体験だったにもかかわらず)何食わぬ顔をして、ぬけぬけと実行されたのである。
なおかつその悪徳行為の最大の被害者である市民の間からも、2014年のセウォル号沈没事故直後、遺族が朴槿恵大統領の青瓦台に向かって抗議行進したように、福島原発事故発生直後、菅直人首相の首相官邸に向かっての抗議行動はついに起きなかったのである。

セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生らの遺族が、朴槿恵大統領との面会を求めて青瓦台に向かって抗議活動。2014年5月9日 ロイター/News1

このとき、なぜ市民の間から抗議行動は起きなかったのか。私たち市民が生涯でいっぺん経験するかしないかの「自己決定権」の行使が問われた、一世一代の瞬間だったにもかかわらず。

それはひとえに私たちが「脳化社会」に安住していたからではないのか。
なぜなら、私たちの住む「脳化社会」は、私たちに「安全・安心」な快適な環境を保障する代わりに、その代償として私たちに「脳化社会」が出す指示、命令に唯々諾々と従うことが暗黙の掟になっているからだ。その見えない「掟」が私たち市民にとってどれだけ強力なものか、それはカフカが「掟の前で」で描いた通りだ。

福島原発事故が起きるまで、原子力ムラは「安全神話」の中で眠っていたと批判されるが、眠っていたのはなにも原子力ムラだけではない。「脳化社会」に安住する限り、私たち市民はみんな眠っていたのだ。 だから、福島原発事故で無知の涙を流して覚醒した一部の人たちを除いて、「脳化社会」に安住していた市民は、原発事故後も引き続き、「脳化社会」を疑うことをせず、「脳化社会」が出す指示、命令に、内心はものすごく不信、不快だったにもかかわらず、表向きは唯々諾々と従ったのだ。その結果、他方で、彼らは原発事故から身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、その実現のために必要な抗議行動に出ることができなかった。これは一世一代の痛恨事だ。

 市民は「脳化社会」に安住する意識にとどまる限り、願いを実現するために必要な行動に移せなかった。それは生涯悔いても悔い切れない痛恨事である。

この痛恨の経験が教えることは、私たちを覆っている「脳化社会」こそ私たち市民の自己決定権を不断に奪い去る、最悪の人権侵害システムだという訓えである。この痛恨をくり返さないためには、一度は本気で、「脳化社会」の掟と対決する必要がある。

私たち市民団体が今月8日に提訴した、ゆうちょ銀行の口座開設不当拒否裁判は、「脳化社会」の掟と対決するささやかなアクション、一歩前に出る行動である(その詳細こちら)。

 

【第16話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

関連ニュース
11月16日江蘇省無錫の学校で、刃物を持った男が襲撃、8人死亡17人けが(>詳細)。
10月28日北京の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年3人を含む5人けが(>詳細)。
10月8日広州の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年2人を含む3人けが(>詳細)。 
9月30日、上海のスーパーマーケットで、刃物を持った男が襲撃、3人死亡15人けが(>詳細)。
9月18日、広東省深圳市の深圳の路上で、刃物を持った男が襲撃、日本人児童1人死亡(>詳細)。
6月24日、江蘇省蘇州の下校中の日本人学校のスクールバスで、刃物を持った男が襲撃、日本人親子がけが中国人女性1人死亡(>詳細)。
 
NHKニュース(24.11.13)

               
昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。
閻連科

中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。
今の中国ではどんなことも起こり得る

彼は、その翌年出版の小説「炸裂志」で、人口数千人の寒村が開放経済政策で瞬く間に一千万人を超える大都市に変貌した村を舞台に、経済至上主義のもとで、それまで普通だった人々が商品に化し、カネを熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、カネと権力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの富への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を描いた。
昨日のニュースの自動車殺傷事件は、この小説の舞台のすぐ隣りの町、同じように開放経済政策で瞬く間に大都市に変貌した珠海で起きた。


その12年前の2001年、彼は、小説「硬きこと水のごとし」で、1966年から10年間続いた中国の文化大革命で献身的な若き革命家が銃殺刑に処せられる目前で語る回想録ーーそれは、政治至上主義のもとで、それまで普通だった人々が政治的人間に変身し、権力を熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、権力と暴力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの権力への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を次のような語り口で描いた。

軽々と目的を達成し、王鎮長を打倒しただけではなく、彼を監獄に送り、彼を現行反革命分子にし、二十年の刑にしたのだ。これは意外なほど簡単で、俺と紅梅は革命の魔力と刺激を心から感じることができ、‥‥そして、どうしてこの時期に、メクラも半身不随も、どんくさい豚も犬のクソ野郎も革命をやりたがり、みんな革命を起こすことができ、みんな革命家になりたいと思い、革命家になることができたのかという根本原因がどこにあるか分かったのだ。

文化大革命も開放経済政策も、それは政治と経済の分野のちがいはあるものの、どちらも人間の欲望をエサにして、社会をとことん作り変えようとする「脳化社会」の実験場だった。その狂走の末に、いま、中国社会はカネと権力が一緒になれば不可能はないと考える、誰一人まともな者はいない「脳化社会」の成れの果てを迎えている。

 いわば暴走する「脳化社会」列車に乗った中国の運転手たちは、今や茫然自失としている。その中にあって、今迎えている「脳化社会」の成れの果てをさらにもう一歩前に出ることをためらわず、やめない人がいる。それが閻連科である。

彼はまるで、かつて際限のない殺戮に陥った宗教戦争の成れの果てに、宗教的寛容という世界最初の人権が出現した人類の奇跡の瞬間を、再び、「脳化社会」の成れの果ての中に見つけ出そうと、気魄をみなぎらせ、掘り進む探求者のようだ。

その中国が開放経済政策でモデルにしたのが日本。その日本に追いつけ、追い越した中国が今迎えた「脳化社会」の成れの果て。そのゴミ屋敷の中で起きた昨日の中国ニュース、それは明日の日本の姿。つまり日本も、これからどんなことも起こり得る国になる。
しかし、私たち市民が明日のモデルにするのは中国のゴミ屋敷だけではない。それが、「脳化社会」の成れの果てと向き合い、そこから一歩前に出ることをためらわず、やめない人、閻連科の行動である。

私がチェルノブイリ法日本版と取り組むのは「脳化社会」の成れの果てを迎えた日本のゴミ屋敷から一歩前に出るためであるが、閻連科はそのための最良のモデル、そして百年前の魯迅に続いて遭遇した朋輩である(つつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」)。

 

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。 他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。 しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らな...