今年10月、或るMLに書いたつぶやき。
この夏、自分自身の世界観が変わった。中でも最も変わったのが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)。そう指摘したのは養老孟司。
その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきたが、そこで「科学的知見である現代統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)で取り組んできた。しかし、その取組みの末に分かったことは、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(現代統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しだった。これは、それまでの私にとって、コペルニクス的転回だった。
なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」「○○差別」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
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これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと見直すようになった。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「ハラスメント」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの権力者どもではなく(彼らも加害者の一味であることは否定しないとしても)、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになった。
そこから、どうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになった。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、正直なところ、一瞬、気が遠くなる。他方で、それは、因果関係を現実の症状から再構成といったふうに、現実の甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題だ。
なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、
リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書く。
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