2025年7月12日土曜日

【第113話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある。それが「生成法=生ける法」(2)(25.7.13)

昨年暮れに、次の投稿を書いた。

第24話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある(1)(24.12.16)。

とうとう見つかった。

何がさ? 

法律の終焉が。

海に沈む太陽のように。


そして、また見つかった。

何がさ? 

生成法の準備が。

大地から昇る太陽のように。

(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」のヴァリエーション)‥‥(略)
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この時は、なぜ
「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要があるのか、その理由について書いたが、それ以上、どうやって生成法を準備するのか、そのビジョンまでは書けなかった。

それから半年、ようやくそのビジョンの一端が掴めた気がした。それが協同組合の取組みによる「生成法=生ける法」の実行。つまり、ゆうちょ裁判を通じて、市民生活に関する法秩序の形成においては法の中身を生成する主役は市民自身であることを再確認したとき(第112話)、この「生成法=生ける法」の最も輝かしい局面が「一緒に働き、一緒に運営する(協同労働=協同経営)」の協同組合の取組みにあることに思い至った(第111話)。

このとき、私たち市民のイニシアティブで、つまり協同組合の取組みを通じて市民生活に関する法秩序が形成されるのだから、それは、我々は我々が理想とする、我々が望むやり方で市民生活に関する法秩序を形成するチャンスを与えられたことを意味する。だとすれば
「ここがロードスだ、ここで跳べ!」
協同組合の取組みの中で、我々は今までのような「脳化社会に安住し眠りこける法律」から抜け出して、「脳化社会の塀の外に出た法律」を目指してルール(規範)を作り上げていくことが出来るし、作り上げていく必要がある。

ここで、私たちは経済と政治が、日常と非日常が一心同体となったいわば交通の要所に立っている。それは、日々の足元(仕事の現場)での「脳化社会の塀の外に出たルール(規範)」作りの取組みが、市民社会の共通の「脳化社会の塀の外に出たルール(規範)」作りの基盤を形成するという意味だ。
それは人類がこれまで掲げてきた課題のうち最も困難で、なおかつ最も切実にその解決が求められている「脳化社会との対決」という最終問題だ。そのとき、上記のとおり、この課題の解決は一握りの権力者・専門家の手に委ねられるのではなく、当事者である我々市民の手に委ねられることが判明した。これ以上の僥倖はないと受け止めて、あとはその実行を一歩一歩うまずたゆまず歩むだけだ。


 

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【第114話】なぜ環境権は人権として認められないのか。その最大の理由は 環境権は終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」の中に収まらず、まだ誰によっても書かれたことのない未来の法「脳化社会の塀の外に出た法律」の切り札だから(25.7.14)

日本の七不思議の1つ それが環境権。日本で環境権という言葉が初めて提唱されたのは半世紀以上前の1970年、 日本弁護士連合会の人権擁護大会の公害問題に関するシンポジウムの中だった。また、その前年の1969年、画期的な 東京都公害防止条例はその前文で「 すべて都民は、健康で安全かつ...