本日、終焉を迎えた「脳化社会に安住する塀の中の法律」に代わる「脳化社会の塀の外に出た法律」への2回目の挑戦となる書面を書き上げた(私の担当部分>PDF)。
1、これまでの経緯
2年前の2024年12月16日、《まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある》という表題で、次のようにつぶやいた。
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とうとう見つかった。
何がさ?
法律の終焉が。
海に沈む太陽のように。
そして、また見つかった。
何がさ?
生成法の準備が。
大地から昇る太陽のように。
(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」のヴァリエーション)
その半年前、それまでボロ負けし続けてきた避難者追出し裁判の上告審で、最高裁に「脳化社会の塀の外に出た法律」を適用して正しい裁きをして欲しいと、それまで書いたことがなかった、この裁判のこの数年間の総決算の書面(上告〔受理申立〕の理由書)を作成し提出した(2024年4月17日)。その直後に次のようにつぶやいた。
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今回の書面の根底にある考えを一言で言うと‥‥
物理学者のアーネスト・スターングラスは
「放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です」
と言った。これは事実についてだった。だが、法についても同様のことがあるのではないかと気がついた。
「放射能に関する法律もまた見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です」と。
そのことに気がつくのに311から随分時間がかかった。
それはひとつには次のような紆余曲折を経たためである。
高校時代、文学にかぶれた私は、文学を司法試験の答案にそのまま持ち込み、合格者から「これは司法試験の答案ではない。合格は永遠にあり得ない」と酷評された。
そこで合格後、文学臭を消すことが私の課題となった。
ようやく、それが実行できたと思えた最近に至り、今度はそれだけでは足りないのだということに再び気がつかされた。そのことを最も意識したのが今回の書面。どう意識したのか。
「未知の普遍的なものを見る」見者にならなければと考えた(ー>ランボーの手紙)18歳のランボーが書いた詩「地獄の季節」の一節。
見つかった。何が?
永遠が。海と溶け合う太陽が。
私も知らないうちに「未知の普遍的なものを見」つけなければと考え、これと同様のことを試みていた。それが今回の上告理由書。(以下はのちに補足したもの)ただし、それは事実の次元ではなく、あくまでも理念の次元でのこと。価値の相対性を信ずる者にとって、これは躓きの石、成功の見込みのない無茶無謀の企て。私も長い間、そう思ってきた。だが、価値相対性にもある種の価値優劣性、価値の構造があるのではないか、価値優劣性、価値の構造を見出すこともまた立派な「未知の普遍的なものを見つける」仕事のひとつなのではないか、否、私に残された殆ど唯一の仕事なのではないかと思えるようになった。
見つかった。何が?
法の欠缺が。放射能と溶け合う法の欠缺が。
賢者ではなく、まず見者になる必要があった。ランボーの見者になる必要があった。
再び、文学のエッセンスを取り出し、それを法律の中で再構成する必要があった。
それを今までで最も意識的に追及したのが今回の上告理由書。
つまり、これが「脳化社会の塀の外に出た法律」への初挑戦だった。すると、それから約1年9ヶ月後、裁判所から応答があった。三浦守裁判官は私らからのこの呼びかけに100%応答する意見だった(その報告>こちら)。
そしたら、避難者追出し裁判の続編とも言うべき、東京地裁に避難者が提訴した住まいの権利裁判の一審の最終準備書面が、上と同じ挑戦の2回目だということに、書き上げてみて分かった。なぜなら、この書面は私らの「脳化社会の塀の外に出た法律」への初挑戦に100%応答した三浦意見の可能性を120%満載した書面、つまり「脳化社会の塀の外に出た法律」の必要性、重要性を改めて強調した書面だったから。
それは、理屈っぽく言うと、事実と法律が交わる境界線で、「未知の普遍的な理念」を見つけ出すことだった、しかも、それを一般論だけではなく、事件に即して具体的に展開することだった。
「言うは易き」のこの仕事を、今回、次のフレーズを手がかりにして、 「未知の普遍的な理念」を見つけ出そうとした。
・いやしくも区域外避難者の原発事故からの回復(命、健康の回復、生活再建)に対する「十分な配慮」を具体化しようとするならば、「応急仮設住宅の供与の打切りという県知事決定が区域外避難者に及ぼす現実の影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即してこれを行なうほかなく、もし、このような「生きた現実」に即した検討をしない限り、内堀決定は法律的に「空虚」なものにならざるを得ない。
・長期間にわたる低線量・内部被ばくの影響から人々の生命、健康、暮らしを守るという日本の法体系のもとにおいてこれに優越する価値を他に見い出すことができない最も重要な人権の保障が十分に守られることを念頭において注意深く行うこと。
果たして、「未知の普遍的な理念」を見つけ出そうとする、この2回目の挑戦がどこまで成功したか。それは読者である市民の人々、そして死者も未だ生まれざる者も含めた歴史の審判で決まる。今回、私は、かつて「国敗れて三部あり」と言われ、四半世紀前に書かれた藤山雅行裁判長の林試の森事件一審判決や三浦意見から、本当に汲めど尽きない泉のごとき珠玉の宝を授けて貰った。この恩は一生忘れ得ないほどのものである。
私のこの挑戦はまだ始まったばかりで続く。


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