とうとう見つかった。
何がさ?
法律の終焉が。
海に沈む太陽のように。
そして、また見つかった。
何がさ?
生成法の準備が。
大地から昇る太陽のように。
(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」ヴァリエーション)
以下は、11月30日の大阪・高槻市でやったチェルノブイリ法日本版のお話会で配布したレジメに加筆したもの。
1、なぜ、チェルノブイリ法日本版の制定のために、まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要があるのか。
それは、これまでの私たちの法律つまり 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたから。
2、なぜ、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたのか。
それは、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」がみずから破綻したことを宣言したから。
3、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」はどのように、みずから破綻したことを宣言したのか。
それは311のカタストロフィーに遭遇して、以下のようにみずから破綻を宣言した。
前置き
「脳化社会に安住する塀の中の法律」の未来はその起源にある。
そこで、①.起源についての問い「法はいかにして法律になったか」、そしてそこから、②.未来についての問い「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」を明らかにする。
①.法律の起源「法はいかにして法律になったか」
それは例えば音楽の起源「音はいかにして音楽になったか」と共通する。
もともと音は自然世界の雑多な音から構成されていた。
その中から、西洋音楽は音をドレミファのきれいな音に純粋化、知的に再構成していき、そこからはずれる音はノイズとして排除、消されていった(音楽の脳化現象)。
↑
太古に、法は氏族共同体の倫理と連続し、雑多な規範として構成されていた。
その後、国家が出現し、例えば秦の始皇帝の時代に法家(法治主義)が採用され、国家統治の柱として、法律は倫理と切り離され、言語として明文化され、専門家により知的に再構成された(法律の脳化現象)。
この法律の脳化現象は19世紀に頂点に至る。生物が今や「計算生物学」と呼ばれるように、法律もサヴィニーによって「概念による計算」と呼ばれた。法律はその時代の専門家が叡智を絞って作った「計算する方程式」であり、紛争の中から方程式が求める事実(データ)を代入すれば自動的に結論が出力される。その結果、紛争において方程式に乗らない事実はノイズとして排除され、紛争解決から消されていった。これが脳化社会の行き着く先であった。次は、
↓
②.法律の未来:それは終焉「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」
それは法律がみずから破綻することを通じて終焉を迎える。
その自己破綻が「法の欠缺」。しかもそれは個別のちっちゃな「法の欠缺」ではなくて、全面的で大規模で、なおかつ欠缺状態が放置され打ち捨てられた壮大なゴミ屋敷としての「法の欠缺」のこと。
これに該当するのが311後の原発事故の救済に関する「全面的な法の欠缺状態の放置」。
つまり、311福島原発事故を起こしていながら、その救済が必要なのは重々分かっていながら、その救済法を制定しない。原発事故の救済に関して全面的な法の欠缺状態にあるのだから、本来なら、速やかに具体的、現実的に必要かつ十分な救済法を立法すべきである。にもかかわらず、実際には何一つ制定しないまま、ゴミ屋敷のように放置(ネグレクト)している。この法律のゴミ屋敷は何を意味するか。それは、法律が自ら破綻したことを宣言したにひとしい。つまり、311後の日本社会の法律は原発事故の救済という最も重要な法律において自ら破綻した。そして、この破綻を通じて、法律は終焉を迎えたのだ。
だが、それは「法規範」の終焉ではない。「法規範」は法律より広く、深い。終わりを迎えたのは上記①で述べた法律の起源「法はいかにして法律になったか」で誕生した法律のこと。それは「概念による計算」(概念法学)を本質とする法律だった。311で迎えたのは単にこの法律が終焉を迎えただけのこと。
実は、法律にはもうちょっと複雑な変遷がある。それは、当初の「概念による計算」という法律は、革命と戦争の世紀と言われる激動の20世紀に破綻し、「自由法論」に代わってしまったからだ。しかし、「自由法論」もまた、法の目的は「社会生活への奉仕」を旗印に、その目的達成のために法律を臨機応変に解釈・運用することを掲げたけれど、そこに言う「社会生活への奉仕」とは「脳化社会への奉仕」のことであり、脳化社会がもたらす病理現象の解決という根本的な問題意識は見出せなかった。つまり、概念法学と自由法論の論争もしょせん、脳化社会というコップの中の嵐でしかなかったのだ。
だから、脳化社会の浸潤の進行により、やがて自然世界との均衡が崩れ、深刻な環境問題が出現したとき、「自由法論」もまた破綻、機能不全を露呈する。そればかりか、自殺・いじめ・引きこもり・不登校・ハラスメントなどの増加に対しても「自由法論」は無力である。もともと脳化社会で制御可能なのはデータと計算式で対応できる部分だけ。そんなものは無限の情報が詰まった自然世界からみたら氷山の一角にすぎない。自然世界の大部分は依然「真っ暗闇」。だから、「自由法論」が「社会生活への奉仕」を旗汁にどんなに精度をあげても、しょせんそれは「脳化社会に奉仕」する法律であり、そうである限り、無限の情報が詰まった現実の紛争の豊饒さに比べたら屁の河童、手も足も出ない。その典型が放射能問題の極限形態である原発事故である。
自然世界からリベンジを受けた原発事故の救済について、「脳化社会に奉仕」する自由法論が破綻するのは必至である。その破綻の姿が原発事故の救済について、あたり一面のノールール(全面的な法の欠缺)の放置(セルフネグレクト)である。この破綻を通じて、概念法学と自由法論の法律はともに終焉を迎えた。今、我々に必要なのは、終焉を迎えた法律に代わる新たな法規範である。
もはやそれは、従前の概念法学や自由法論の法律のような「脳化社会の塀の中の法律」ではあり得ない。ジュネーブの城壁から外に出て「社会契約論」を書いたルソーのように、わたし達も脳化社会の塀の外に出て、その中で「脳化社会の塀の外に出た法律」を構想するしかその可能性はない。以下、このメガネをかけて考える(続く)。
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