2024年12月27日金曜日

【第25話】いま法律があぶない――「脳化社会」のゆで蛙となった法律家――(24.11.22)

以下は、雑誌「季節」に寄稿した、311後の日本社会の現状を法律の面から述べたもの。

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はじめに――「バカの壁」の衝撃――

311後の日本社会に生じた「法の穴(専門用語だと欠缺)をどうするか」について、その答えは自明で1分で証明できる(注)。けれど、その説明を聞いたところで人は何も変わらず、行動を起こさないと思う。
 ちょうどそれは、先日の「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」という文科省の発表で、その解決として「子どもらに優しく寄り添い、居場所づくりが重要」という専門家の説明を聞いて誰も反対しない代わりに、それで問題が解決するとは誰も思わない、これと似ている。そこでいったい何が問題なのか、誰にもその壁は見えず、その光景はさながら盲人が盲人の手を引いて破滅に向かって歩いていくブリューゲルの絵のようだ。

それは決して寓話ではなく現実の出来事である。何が問題なのかそれが分からないまま、「解き方」を間違えてどうしても解けなかった現実として、数学史の有名な出来事が五次方程式の解法。 

+2x+3x+4x+5x+6=0

このような五次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けるという信念を抱いた者たちによって空しい努力が積み重ねられてきた。
 この数学の迷妄の歴史はいつまで経っても解けない不登校、いじめ問題の鏡であり、「解き方を間違えているのではないか」という自問自答は何度でもくり返す価値のある訓えである。

「法の穴をどうするか」という問題も同様で、どうやら私たちはこの問題の「解き方」を間違えているのではないか。それがこの間、この問題を考えてきてようやく見えてきたことである。そこに、不登校やいじめと同様、見えない壁があることに今、ようやく気づいたのである。その気づきを以下、子どもたちを語り部にコトバにしてみる。

「いま法律があぶない」の意味

12年前、ふくしま集団疎開裁判のブックレットを緊急出版した。それが「いま子どもがあぶない」。信じられないくらい恐ろしいことに、その事態は放置されたまま、この間何一つ変わっていない。12年後の今年、その子どもたちが「わたしたちは見ている」という題で、もう1つのブックレットを緊急出版した。子どもたちがそこで訴えたのは――「いま法律があぶない」。あぶないのは、日本に原発事故であぶない目に遭っている僕たち子どもたちを救済する法律がないこと。だが、それだけじゃない。もっとあぶないことがある。それは、この法律がないという異常事態を異常だと気づいていない大人たちのことだ。バカは死ななきゃ治らない。それで大人が勝手にくたばるのはしょうがないとしても、僕たち子どもまでその巻き添えにするなよ、それって冤罪だろ‥‥

「いま法律があぶない」。これを訴える子どもは裸の王様を笑う少年と似ている。なぜなら、法律も裸の王様の服と同じで、誰にも見えないし、臭わない、手でさわれない存在だから。その子どもに笑われている王様は法律の専門家と言われている人たち(あんたもその端くれだ)。

 福島原発事故のあと、「いま子どもがあぶない」と本気で思い、放射能から子どもを守ろうと言う人たちはたくさんいた。それに対し、「いま法律があぶない」と本気で思い、原発事故から被災者を救済する法律が存在しないことがどんなに異常かと言う人は、法律家ですら誰もいないんじゃないか。真面目に放射能問題と取り組んでいる法律家の中ですら「いま法律があぶない」と声をあげるのを聞いたことがない。福島原発事故は原子力ムラの頭に「安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだように、実は、福島原発事故は法律家ムラの頭にも「法律の安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだんだ。それにもかかわらず、殆どの法律家は再び「法律の安全神話」の中に眠りこけていき、半世紀前の公害国会の時のような大改正が必要だと思う力もなく、日本の法律は311後も安泰だと考えた、どこにも何の根拠もないのに。

いったい、この「法律の安全神話」現象をどう理解したらよいのだろうか。
僕たち子どもたちの目には、法律家たちはゆで蛙のように、いつの間にか「一億総白痴」になってしまったかのように見える。その証拠に、法律家たちには、きっと、僕たち子どもたちの不登校、いじめが「環境問題」だということが分かっていない、大人たちが作り出した「脳化社会」という環境のヘドロだということが分かっていない。それは殆どの法律家が無意識のうちに「脳化社会」を受け入れ、良心的な法律家もその中で「脳化社会」の行き過ぎを是正しようとしているだけで、「脳化社会」そのものと全面的に対決しようとは思っていない。その結果、いつの間にか「脳化社会」のゆで蛙となってしまう。それがこの半世紀間で、公害国会の時のように「法の穴には大改正が必要だ」と確信する力をじわじわと法律家が喪失してしまった理由じゃないのか。

 「脳化社会」のゆで蛙となった法律家は、無意識のうちに、法律がこの世界をカバーしていると信じている。「脳化社会」は人間の意識が自然界も人間世界も支配・制御できるという信念に支えられているものだからである。その結果、今まで経験したことのない未知の事件、紛争もすべて既存の法律の中にその答えが用意されていると信じ、その答えを論理的な操作を使って引き出すこと、それが職業的専門家の法律家の任務であると信じている。無意識のうちに、こうした信念・信仰に取りつかれている、それが今の法律家。このような信仰に立つ者に「いま法律があぶない」という認識を期待するのは不可能である。

「法の穴」の克服は「脳化社会」の外に一歩出ること

 だとしたら、お先真っ暗だろうか。そう思うのも依然「脳化社会」の塀の中で考えているからだ。塀の外には未知の世界が広がっていて、「いま法律があぶない」と、素直にその認識に立てる人たちがいる。
その一方が、まだ「脳化社会」に順応しない、自分のことを自然の一部と感じる感性を失わない僕たち子どもたち。
他方が、もう「脳化社会」に順応する義理も義務もなく、もっぱら己の信ずる道をきっぱり行くだけの大老人たち。他に先駆けて、水戸喜世子さんが「法の穴」を認識し、その対策を訴えたのは彼女が脱「脳化社会」の、自然児のような大老人だったから。

そして、これら脱「脳化社会」の野生児、自然児、大老人たちによる「法の穴」の克服の道も、言うまでもなく、世界を支配・制御する人間の意識の産物(法律専門家による制定法)なんかではなく、意識の世界の外にある、生身の自然と人間がひしめいて作り上げている社会の中でおのずと生まれ、発展し、形成されていく規範、つまり生成法=「生きた法」である。それが「脳化社会」の外にある世界で生成される「生きた法」の探求に一生を捧げたオイゲン・エールリッヒの「法社会学」の考え方。この「生きた法」の生きた現場、「生きた法」が今も活き活きと生成し続ける場、それが私にとって「日本の中の外国」である関西の汲めど尽きない可能性である。

(24.11.4)

(注)以下は、私が初めて「法の欠缺」を裁判(避難者追い出し裁判)で正面から主張した内容である(2021年5月14日の弁論期日の報告こちら)。

(3)、本件の特筆すべき事情

①のみならず、本件における災害救助法等の解釈においてはさらに重大な問題が存在する。それは本件には他の事案に見ることのできない特筆すべき事情が存在するからである。それが、2011年3月の福島原発事故発生に伴い判明し‥‥

④そこで、この立法的解決の怠慢に代わって登場したのが、人権の最後の砦とされる裁判所による司法的解決である。それが、「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対して、法律の解釈作業を通じてその穴埋め(補充)をすることである。そこで、本件において、災害救助法等の「法の欠缺」の穴埋め(補充)の解釈において、重要な法規範として主導的な役割を果すのが上位規範である条約、とりわけ従前より国内避難民の居住権問題と積極的に取り組んできた国際人権法である。

⑤以上、本件において特筆すべき事情として「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態であるという点においても、災害救助法が「国内避難民の居住権」を保障する国際人権法に適合するように解釈されなければならないことの必要性・重要性を強調しておく(被告準備書面()。全文pdfこちら)。

参考

ふくしま集団疎開裁判のブックレット


チェルノブイリ法日本版のブックレット



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