2025年7月6日日曜日

【第109話】法律学(自己)批判の最初の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面を書いた(25.7.6)

いま、私に必要なことは法律家として羽化すること。それが
ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスのように、
「概念法学」を創造的に否定することである。

ゆうちょ裁判の原告準備書面(3)の全文

 

311以来、原発事故関連の裁判の行方を決めるのは次の三つの力にあることは確信していた(以下の2012年の疎開裁判のブックレットの目次>こちらと本文>こちら)。

 第2章 疎開裁判の判断を決める三つの力
 1 第一と第二の力――真実と正義
 2 第三の力――物いわぬ多数派(サイレントマジョリティ))

しかし、この3つの力について、これを裁判所にどう伝えたらベストなのか、そのコミュニケーションの仕方については正直、混沌としたままでよく分からなかった。その結果、その都度、必要だと思う上記の3つの力についてこれを主張した書面を作成し、提出した。つまり、行き当たりばったりにやっていたのである。

しかし、1年前の正月、元最高裁判事の泉徳治さんの「一歩前に出る司法」ほかを読み、そこで初めて、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4なるもの(末尾の※1があることを知り、政治・政策問題に対して裁判所が司法消極主義を取るという態度にそれなりの合理的根拠があることを知った。ただし、このとき私が驚愕したのはそれではなく、にもかかわらず裁判所が司法消極主義を覆して、司法積極主義に出る場面があることを、この脚注4が説いていたことだった(末尾の※2)。それは一言でいって、人権問題に対する場面のことを指していた。
これは私にとって天啓だった。それまで
私はずっと政治・政策問題と人権問題を、漫然とゴッチャに考えていたからだ。それを可能な限りスパッと切り分ける。そのとき、裁判所は人権問題に対して司法積極主義に出るのだ、それが司法の本来の姿であると(それを実行して見せたのが先日の「国の生活保護基準の引き下げは違法」と判断した最高裁判決であり、昨年7月の「旧優生保護法は違憲」と判断した最高裁大法廷判決である)。泉徳治さんの「一歩前に出る司法」はそう語っていた。

この本の帯に書いてあるように、「裁判所が日本社会を動かす歯車の一つになる」必要がある。しかし、そのためには裁判所を利用する我々市民自身が一歩前に出て、一歩成熟する必要がある。それがーー裁判所を利用する以上、裁判所が司法積極主義に出れるように「政治・政策問題から人権問題へシフト」する必要があるということ。
私にとって深遠に思えたこの味わい深い訓えに触れ、私は自身の過去58年間を振り返る中で、社会問題に関する裁判に取り組むスタンスをそれまでの政治・政策問題から人権問題にシフトすることに態度を変更した。なぜなら、それまで私は裁判という場で人権問題なのに漠然とこれを政治・政策問題として解こうとしてきて、解き方をずっと間違えてきたからだ(その間違いについて書いたブログ>こちら)。

そして、自分が関わる市民運動においても、
それと取り組むスタンスを政治・政策問題から人権問題にシフトすることに態度を変更し、その態度変更を宣言したブックレット「わたしたちは見ている」を編集し出版し、出版後の最初の講演の題名は「原発事故後の社会を生き直す -市民運動の問題は従来の解き方では解けない-」だった(>そのチラシ)。
とはいっても、これはあくまでも基本原則・大原則に関する態度変更であって、現実の裁判の審理や書面の中で、或いは現実の市民運動の中で「政治・政策問題から人権問題へのシフト」をどう具体化していったらよいのか、それはまた別の問題だった。むしろそこでこそ自分が選択した態度変更が生きた実践として活かされるかどうかが問われる正念場だった。

現実の裁判の場では、政治・政策問題から人権問題へのシフト」という観点から、上記の3つの力について、これを裁判所が読んでなるほどと合点してもらえるように構成した書面をどうしたら作成できるか、それが求められていた。

その試練は昨年の態度変更以来、私を襲っていたはずで、私の中で政治・政策問題から人権問題へのシフト」という観点から今まで書いたことがなかった主張書面を書いてきた(と思ってきた)。ただし、今から振り返るにそれはなお不徹底、不完全だった。なぜなら、上記の3つの力の関係について、これをどのように割り振って記述したらよいのか、それについての明瞭な自覚に基づく努力をしてこなかったから。

この3つの力の関係について、初めて明瞭に自覚的に吟味検討を迫られたのが、今回のゆうちょ裁判(>裁判の公式ブログ)の集大成の主張書面だった。それは「なぜゆうちょ銀行の口座開設拒否は許されないのか?」この問いに対する原告の主張を集大成して述べるものだった。

実は最初、私は、この問いに対し、「或る団体が社団か、それとも組合か」という古典的な論点の分析から答えを導く準備書面第1稿を作成し、私の盟友であるKさんに見てもらった。すると彼は「判例は、団体が組合であっても民訴法の当事者能力を認めてますよ」と、私の「社団か組合か」の二分論をやんわりと否定し、もっと現実の紛争に即したリアルな分析が必要ではないかとコメントをくれた。
それもまた私にとって天啓だった。これを読んだ瞬間、大昔に読んだ次の一節が思い出されたからだ。

民法学者として知られる川島武宜は、90年前、研究会で初めて判例の報告をした際、指導教授の末弘厳太郎から次のようにこっぴどく叱られた。
そのようなばかばかしい判例評釈をするなど、もってのほかである。そんな判例研究するような人間は、法律学の勉強をやめてしまえ」、2回目の報告でも「おまえのは概念法学だ。稲というのは現実に植えつけた人間のものにならないはずはない。ドイツでそうでないなどと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ」(「ある法学者の軌跡」66頁~)。

私もまた、Kさんから、次のように言われたと思った。
――おまえのは概念法学だ。社団か組合か、そんな概念的な区別は理由にならない。問題の実質をよく見ろ。そのようなばかばかしい理由づけをするなど、もってのほかである。そんなことをするような人間は法律家をやめてしまえ。

それで、半ば忸怩たる思いで「問題の実質をよく見ろ」という真理と向かい合うしかないと思い直し、次の問題について、自分なりに吟味分析することにした。
・市民団体が団体名義の口座を持つことが健全な市民運動にとっていかなる意味を持つのか。
・そもそも健全な市民運動は健全な市民社会の形成にとっていかなる意味を持つのか。
・健全な市民社会の形成と市民運動の形成に不可欠な団体名義の口座がもし拒否されるとしたら、それはいかなる場合か。いかなる手続を経て拒否されるべきか。
その上で、この問題について、法的な価値判断を下すとしたら、いかなる法的な評価が導かれるか
についても
自分なりに吟味分析することにした。
それは一方で事実問題の分析評価であり、他方で法律問題の分析評価だった。

以上の分析が済んだあと、これまでの私なら、漫然とこれらの分析結果をベタッと書面化して一丁あがりとしたはずだ。しかし、今回、初めて意識的に、これらの分析結果をいわば演繹的に組み立て直し、あたかも目の前の現実を現行法というメガネを通して眺めたら、論理必然的に結論が引き出された、というふうに叙述形式を組み立て直した。
それは一見、私が最初に書いた第1稿の準備書面案と似ていた。しかし、それは似て非なるものだ。確かに形式論理的に組み立てられている点は同じだ。しかし、論理と論理をつなぐ事実はもはや第1稿のそれとはまったく異なり、本件紛争の現実世界の核心部分から構成されていて、その結果、本件紛争の現実に最も相応しい法的評価が見出されるように論理が組み立てられていた(少なくともそれをめざした)。

それは概念法学の換骨奪胎だった。概念法学がなぜダメかというと、それは概念法学の組み立てでは、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分がおざなりの形式的、定型的な事実にとどまり、紛争の現場のリアルな事実の核心部分が抜け落ちるおそれがあるからだ。とりわけ制定当時に想定していなかった新たな事態が発生したときには、概念法学ではこのおそれが現実化する(これが「法の欠缺」状態の発生である)。概念法学のこの宿命的な機能不全(すなわち「法の欠缺」状態に対応できない)に対し、概念法学にふたたび命を吹き込むのがここでの目的だった。それが概念法学の換骨奪胎ーー概念法学の法的論理の枠組みだけ残して、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に、概念法学のように形式的、定型的な事実でもってお茶を濁すのではなく、紛争の現場のリアルな事実の核心部分が盛り込まれるように、事実の取捨選択と分析と活用の仕方を面目一新しようとしたのである。

紛争の現場のリアルな事実の核心部分」の把握の重要性は実はずっと昔から、戦前は末弘厳太郎の「自由法論」「法社会学」、我妻栄の処女論文「私法の方法論に関する一考察」、戦後も民法の星野英一、刑法の平野竜一らが提唱した「利益衡量論」、憲法の芦部信喜が提唱した「立法事実論」などでお馴染みのものだった。しかし、これらの思考方法は一時の流行でもなければ、特定の分野だけのことでもなく、すべての法律問題に及ぶ普遍的、原理的なものであった。
しかし、これまで、ともすると、「概念法学」の弊害に対する反発から
「概念法学」の全てが批判の対象となり、法的論理の枠組みすら否定されてしまいがちだった。しかし、ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスにならって(末尾の※3)、ここで必要なことは「概念法学」の創造的否定だった。それが法的論理の枠組みである論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に新たに紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んで、そこから(概念法学がもたらした)「死んだ法」に換えて「生きた法」を創造することだった。

その際、私が自覚的にやろうとしたことは、論理と論理をつなぐ橋としての事実の部分に紛争の現場のリアルな事実の核心部分」を埋め込んだだけではなく、そのあと、その埋め込みに最も相応しい法的な判断を引き出す(それが「法の欠缺」の「補充」という法の創造作用のことである)にあたって、私自身の中で「最も普遍的な判断」とみなしてよいと信ずるものを持ち込んで、法的な評価を引き出したことである。今までと何がちがうかと問われると、それまで私は「法的価値判断の相対性」という考え方に囚われていて、事実問題は真偽の有無を判断できるが、法律問題という価値判断では真偽の有無は判断できない、つまりどこまでいっても相対的な判断にとどまると思ってきた。そのため、法律問題に対しては、あくまでもこれは私個人の主観的な価値判断として主張しているのだというスタンスを取ってきた。
しかし、最近に至り、統計学・疫学の検討をする中でそれはちがうのではないかと思い直すようになった。実はヒュームの懐疑論、ポパーの反証主義からも明らかなとおり、事実問題もまた
真偽の有無をついに確定的に判断することは出来ず、あくまでも仮説にとどまる。そうだとしたら、価値判断もまた同様に考えられるのではないか。つまり、これもまた仮説として普遍的な価値判断を提示しているのであり、そうだとしたらこれも許されるのではないかと。
柄谷行人によれば、カントは普遍性を真(科学)の次元のみならず、善(倫理・法)の次元にも拡張したとされるが、私が今回初めてやろうとしたことはカントのこの立場に立とうとしたことである。もちろんこれは仮説としての法的価値判断である。だから、のちにいくらでも反証され、否定されても構わない。しかし、それまでの間、私は自分の法的価値判断を普遍的な性格を持つものとして初めて主張したのである(それでとくに問題はないと考えている)。
その結果、何か変わることでもあるのかと問われると、私は大いにあると答えたくなる。「文は人なり」--このコトバはこの業界に身を置いていると痛切に感じるものである。従って、もし法律問題に対して示す自分の法的価値判断を「普遍的な性格」を持つものとして主張し得たとき、そのコトバは今までにはない説得力を読み手にもたらす力を持つであろうことを私は疑わないからだ。裁判官に限らず、およそ「法を説いて、人を巻き込む」の極意とは別に手練手管や詭弁的なテクニックを駆使することではなく、こうした原理的なスタイルそのものを実行することにある。

その取り組みを曲がりなりにも初めてやったのが、ゆうちょ裁判の今回の準備書面(3)だった。
以上の意味で、この短い書面は、これまで書いたことがないような
私にとって画期的な書面である。私はこれで法律家として羽化したと思った。

とはいえ、これがどこまで首尾よくいったかどうか、自分では分からない。ただ、これを書き上げたとき、この書面でもってこの裁判の勝負に出よう、それで、まともな裁判官の手で裁かれるのであればそれで構わないという心境になった。つまり、裁判官に向けて、自信をもって自分の愛の告白をつづったラブレターを書いたと思った。

このとき、私は曲りなりに、自分が初めて法律家に羽化したような気がした。

私の願いは、2日前に自分が羽化した「自分が初めて法律家になったような気がした書面」をただのお飾りにして終わるのではなく、これを最初の一歩にして、今後、もっともっと練り上げていき、今度はひとり裁判官だけではなく、裁判に関心を持ってくれるすべての市民に向けて読んでもらえるように、このような書面を何十通、何百通、命がある限り書き続けることである。
それが、私にとって
政治・政策問題から人権問題へのシフト」を実践する大切な場のひとつである。

その第一歩を踏み出した今回の体験を記憶にしかと刻んでおくために、荒削りを承知で感想を記した次第である。

追伸
この感想を書いたおかげで、
今回の「概念法学の換骨奪胎」と、「法の欠缺の補充」というここ数年来の最大の発見である法律問題が私の中でつながった、ひとつの現象を別のメガネをかけて眺めているのだということに気づいた。つまり、もともとの問題が「法人格のない社団」という団体を規律する法律が制定されておらず、この意味で「法の欠缺」状態にあり、その「欠缺の補充」をしないと「法人格のない社団」をめぐる紛争を「法による裁判」によって解くことができない。そこで、「概念法学の換骨奪胎」という名の下に、無意識のうちに「欠缺の補充」を実行していたのだ。

 

※1アメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4

①立法が、その文面上、憲法修正1条から修正10条までの10箇条(これらの条項が修正14条の正当な法の手続及び法の平等なる保護の原則の中に包含されると考えられる場合も同様であるが)による禁止のように、憲法による明確な人権制限禁止の範囲内に入っていると考えられる場合には、合憲性推定の働きはより狭い範囲となろう。

②望ましくない立法の廃止をもたらすことを通常期待することができる政治過程を制約する立法は、修正14条の一般的禁止の下で、他の多くの類型の立法の場合よりも、より厳格な司法審査に服すべきかどうかということを、州際通商の問題を扱っている本件では考える必要がない。ここで政治過程を制約する立法とは、選挙権の制限、情報を広めることの制限、政治団体に対する干渉、平和的集会の禁止などの立法を指す。

③特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた立法の審査について、政治過程を制約する立法の審査と同様の考慮が及ぶかどうかを、本件において調査する必要はない。すなわち、個々の孤立した少数者に対する偏見が、通常は少数者を擁護するために頼りとされる政治過程の働きをひどく抑制し、それに対応してより厳密な司法審査を要求するであろうというような特別の状況となり得るかどうかを、本件において審査する必要はない。

※2なぜなら、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がもし司法消極主義に徹していたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることであって、正義にもとることになるからである。このような場合には司法は自ら積極的に司法判断に出る必要がある。
(ブログ
最高裁につばを吐くのか、それとも花を盛るのか(24.3.8)」より

※3)資本論第2版の後記(1873年。以下、その英訳版)、経済学批判要綱の序説の3経済学の方法(1857年)

My dialectic method is not only different from the Hegelian, but is its direct opposite. To Hegel, the life process of the human brain, i.e., the process of thinking, which, under the name of “the Idea,” he even transforms into an independent subject, is the demiurgos of the real world, and the real world is only the external, phenomenal form of “the Idea.” With me, on the contrary, the ideal is nothing else than the material world reflected by the human mind, and translated into forms of thought.

The mystifying side of Hegelian dialectic I criticised nearly thirty years ago, at a time when it was still the fashion. But just as I was working at the first volume of Das Kapital, it was the good pleasure of the peevish, arrogant, mediocre Ἐπίγονοι [Epigones — Büchner, Dühring and others] who now talk large in cultured Germany, to treat Hegel in same way as the brave Moses Mendelssohn in Lessing’s time treated Spinoza, i.e., as a “dead dog.” I therefore openly avowed myself the pupil of that mighty thinker, and even here and there, in the chapter on the theory of value, coquetted with the modes of expression peculiar to him. The mystification which dialectic suffers in Hegel’s hands, by no means prevents him from being the first to present its general form of working in a comprehensive and conscious manner. With him it is standing on its head. It must be turned right side up again, if you would discover the rational kernel within the mystical shell.

In its mystified form, dialectic became the fashion in Germany, because it seemed to transfigure and to glorify the existing state of things. In its rational form it is a scandal and abomination to bourgeoisdom and its doctrinaire professors, because it includes in its comprehension and affirmative recognition of the existing state of things, at the same time also, the recognition of the negation of that state, of its inevitable breaking up; because it regards every historically developed social form as in fluid movement, and therefore takes into account its transient nature not less than its momentary existence; because it lets nothing impose upon it, and is in its essence critical and revolutionary.

The contradictions inherent in the movement of capitalist society impress themselves upon the practical bourgeois most strikingly in the changes of the periodic cycle, through which modern industry runs, and whose crowning point is the universal crisis. That crisis is once again approaching, although as yet but in its preliminary stage; and by the universality of its theatre and the intensity of its action it will drum dialectics even into the heads of the mushroom-upstarts of the new, holy Prusso-German empire.

 

 


【第109話】法律学(自己)批判の最初の一歩:自分が初めて法律家になったような気がした書面を書いた(25.7.6)

いま、私に必要なことは法律家として羽化すること。それが ヘーゲルの「弁証法」を創造的に否定したマルクスのように、 「概念法学」を創造的に否定することである。 ゆうちょ裁判の 原告準備書面(3)の全文   311以来、原発事故関連の裁判の行方を決めるのは次の三つの力にあることは確...