2024年12月31日火曜日

【第27話】つぶやき6:個人的な音楽体験(24.12.31)

      モーツアルト ピアノ協奏曲20番 ピアノ:フリードリヒ・グルダ(1986年)        

これは「つぶやき5:地元の政治家たちとの人間関係の形成で悪戦苦闘しているXさんへ」の脚注。

今月11日に、こう書いた。

人類は原発でいずれ絶滅するかもしれないが、しかしその前に、人類は既に絶滅危惧種だ、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて(>ブログ

そこから、絶滅危惧種から抜け出す途は、脱「ゆでガエル」しかないことを痛感した。ならば、脱「ゆでガエル」を実行する途はどこにあるのか。

それは大河のような太い流れの中に見つかるのではなく、細い、チョロチョロ流れる水たまりの中にしか見つからないのではないか。それがひとりひとりが各人各様のやり方で体験するほかない、個人的体験を通じてなされる小道のこと。

そう思った時、私にとって、そのような個人的体験が3つあったことに気がついた。
(1)、ひとつは、ものごころついてから、大学受験勉強を始めた小学校3年までの間、夢中だった虫捕りの体験。それは小学校3年以来ずっと封印して来た体験だったが、今年の夏、超虫屋にして奇人変人の養老孟司と出会い、久々に虫捕りの封印を解いた時、虫捕りの体験はひとつも風化しておらず、むしろ永遠に記憶に刻まれた至福の瞬間であったことを再発見した。

(2)、もうひとつが、小学校3年でクラスの女の子から仕掛けられた数学のトンチ。それは次のようなもので、その後20年間、それは私の喉に刺さった小骨のように私の精神をひりひりさせ続けた。
或る日、クラスの女の子が黒板にこう書いて、みんなにトンチを出した。
「1+1は?」
2とか田とかいう答えに、その子は「ブブッー」と言い
、それからこう言いました。
 
「正解は1です」
何で?というクラスの子らの問いに、彼女曰く
「ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1」

この単純明快な説明を聞いたその日以来、それまで自分の安心立命の寄って立つ基盤をひそかに数学に求めていた私は「自分は正しい数学をやっている」という確信が持てなくなった。自分がやっているのは、単に、1+1=2と書けばテストで◯をもらえるだけのことではないか、その疑念の渦の中に突き落とされたという数学的体験。

(3)、三番目が音楽的体験。
それまで音楽に無縁だった自分が初めて個人的な音楽体験をしたのは、毎年司法試験に落ち続け、20代を棒に振った20代最後の年、その年末にたまたまラジオで音楽評論家の吉田秀和がパブロ・カザルスを紹介する番組を聞いた時である。その番組で、スペイン内戦のときに共和派支持に参加したカザ
スがバルセロナ(ひょっとしたらマドリード)陥落の前日まで、市民を鼓舞するために現地にとどまりコンサートを行なっていたというエピソードが紹介された。それまで、私は芸術家=軟弱で破滅的な人というイメージしかなかったので、このカザスの行動に度肝を抜かれた。そして、こういう音楽的人生というものがあったことに震撼させられた。このエピソードは私の殺伐とした20代の牢獄のような受験生活で出会った命の泉だった。
私は、この
パブロ・カザスとその1ヵ月後に誕生した吾が子からパワーと勇気を授かり、それまで自分にはどうしても乗り越えられないと思っていたバカの壁(司法試験)を翌年乗り越えることが出来た。合格を決めた日、私は、初めて、カザスの「バッハの無伴奏チェロ組曲」のCDとドボルザークのチェロ協奏曲の生演奏のチケットを大枚をはたいて購入した。
 
そのあと、カザスの演奏を出来るだけいい音で聞いてみたいと思った。しかし、金はない。そこで、手作りのスピーカー作りに夢中になり、それが完成したとき、FM放送で流れたのがフリードリヒ・グルダのライブ演奏、モーツアルト「ピアノ協奏曲20番」だった。これを聴いたとき、その天をも突くグルダの怪演にビックリ仰天し、その音は当時の私の殺伐とした空洞のような心いっぱいに染みわたり、鳴り響いた。ああ、そうだ、これがモーツアルトなんだと全身全霊でブルブル震え、圧倒された。こんな経験は空前絶後、その後も同じ曲を同じグルダ演奏で聞いたけれど、この時の感動は二度と訪れなかった。しかし、この個人的経験は、私にとって音楽的体験の核心、否、音楽的創造の源泉の場面に立ち会い、その秘密を伝授されたような気持ちがして、その後の私の音楽的体験のあり方を決定した。
 
そして、レベルはぜんぜんちがうが、これと同じことを武満徹はくり返し述べている。それが 、

 私は中学生のとき勤労動員で、ほぼ一年にわたって埼玉県の陸軍基地で働いていた。そこはアメリカの本土上陸にそなえて建設された食糧基地であった。私たち学生の宿舎は山奥の木立ちの茂みの中にある、半地下壕のような体裁のものであった。電気もなく、冬は宿舎の土間に焚火(たきび)でもしなければ寒さに耐えられず、夏はまるでむろのように饐(す)えた。私たちは兵隊と同じように、寝具である毛布の整頓が悪いというようなことで下士官から殴打された。時には、理由もなく数キロの山道を軍歌演習をしながら駈けさせられた。(中略)
 そんな環境のなかで、私はある一つの〈歌〉を聞いた。そして、それは軍歌や当時の他のうたのようにしいられたものではなかった。

 基地には、数人の学業半ばに徴兵された見習士官がいた。真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。

 それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。その時、私の心は他の学生たちとおなじように、おおうことのできない空洞であり、ただその歌がしみこむにまかせていた。あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ。
(中略)
 私があのとき聞いた歌は、絶対にジョセフィン・ベーカーのシャンソンでなければならなかったが、私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまったのだ。「暗い河の流れに」(「私たちの耳は聞こえているか」所収)

このとき、武満はその音楽を意思的に、みずから意図的に聞こうとして聞いたのではなかった。抑えがたい、覆うことの出来ない惨澹たる空洞の心に しみこむのに任せてしみこんで来て、ただそこに注がれた。そこで、もう二度と元に戻れない体験をしてしまった。それが彼の生涯を決定した、生涯に刻まれた個人的な音楽的体験。

私の場合、その2年後にもう1つあった。それがブルーノ・ワルター指揮のブラームスの交響曲第4番の第1楽章(>音源)を聞いた時の経験。この13分の音楽的体験を通して、私はそれまで考えあぐねてきた裁判官志望の道から己の望みの道へシフトすることを決断した。その時のことを、かつて以下のようにメモったことがある(ダバより)。

 曲は、冒頭から、ある一つの終末を目指して魂の奥底まで轟き入るかのよ うな鋭敏な音を鳴り響かせ、それはなにものかに飢えていたダバの心を締め つけるような感動で満たしていきました。
 彼は、もはや自分から何かを求めようとはせず、ただ陶酔を胸に秘め、曲 の進行に全て身を委ねました。それは、冒頭からまるで人生の希望と苦悩を 共々背負い、さ迷い続けた揚句、新しい出口を求めずにはおれない人間の魂の叫びのような、旋律を幾重にも積み重ね、やがて、第1楽章の結びに至る と、それまで何処か新しい出口を探しあぐねて、空しく高い塔のように幾重にも積み上げられてきた旋律の塔が、遂に、神の恩寵を受けて、天上に届 き、そこから新しい第1歩----苦悩の間から歓喜に満ちたすざまじい飛躍の第一歩が踏み出されようという瞬間、その瞬間、ダバはそのごうごうと響き 渡る音の間から、これと呼応するかのように
----あゝ生きるんだ、生きるんだ。俺は、生きてやるぞ。生きて生き抜く ぞ!
 という満腔の叫びがダバの全身を貫いて響き渡るのを聞きとどけたのでし た。その瞬間というもの、彼は、まるで雷に打たれたかのように動けなかっ たのでした。
 この一瞬の後、ダバは、自分が裁判官にならない決断をしてしまっている ことに気がつきました。

この瞬間、ブラームスのこの交響曲は私のために用意された唯一無二の音楽であるかのように感じた。私はブラームスにも、これを演奏したワルターにも、彼らから、一生、何物にも替え難い宝を授かったと思った。

それから40年、この冬、武満徹と再会する中で、今ようやく、これらの音楽的体験がチェルノブイリ法日本版の体験と繋がっていることが確信できた。その時、私は武満徹に対しても、彼から一生、何物にも替え難い宝を授かったと思った。

2024年12月30日月曜日

【第26話】つぶやき5:地元の政治家たちとの人間関係の形成で悪戦苦闘しているXさんへ(24.12.31)

1、2つのタイプ
チェルノブイリ法日本版(以下、日本版と略称)の市民運動を知った人たちが示す反応として、少なくとも次の2つのタイプがあると思う。

A.そんな市民運動があったことを今まで知らなかったことに驚き、もっと知りたいと参加する人たち。

B.そんな市民運動があったことを知ったのちも、「一歩前に出て参加すること」をしない人たち。

Aに属する人たちのひとりが(広い意味で)漫画家のちばてつやさん。彼は、311後に日本は汚染地の子どもたちの集団避難がてっきり実行されているものとばかり思っていた。しかし、それが何も実行されていないことを知り、愕然とする。そして、このような子どもたちの避難の権利が保障されなければならないと考え、そのために一歩前に出た。それがまつもと子ども留学への支援、協力(以下が、そのプロジェクトのスタート時の記者会見に参加した彼のブログ記事)。
福島の児童疎開プロジェクトより

これまで、ワシは何の役にも立てず、
つくづく情けなかったけど、これからは
疎開先の学童達、スタッフのみなさん達を
なんとか、応援するつもりです。

2、Bタイプ
これに対し、圧倒的に多いのがBに属する人たち。もちろん、それにはそれ相応の訳があり、ひと括りすることは出来ない。だが、それにも関わらず、この人たちは「それ相応の訳」と日本版の市民運動との間で、優先順位は前者が優先していることには間違いない。もし、後者の重要性が自覚されているのだったら、どんなに多忙でも、どんなに時間が取れなくても、参加するやりようは、ちばてつやさんみたいにいくらでもあるのだから。詰まるところ、この人たちはまだ自分なりに日本版と出会った経験をしていない。

たとえば、日本版の運動への参加を期待され働きかけを受けていたのに現実には参加しようとしない、リベラルを自称する自治体の首長や議員のひとたちもBタイプだと思う。ならば、彼らに参加して貰うためには何をなすべきか。

詰まるところ、それは彼らが日本版と頭でなく、心で出会うこと、その意味で日本版を再発見することしかないのではないか。 

そして、それは「言うは易き、行い難し」。こういう人たちは日本版についていくら新しい知識で物知りになったところで、心で出会わない限り、参加しないのは永遠に変わらないから。
だとしたら、そもそも「心で出会う」とはどういうことなのか。
それが決定的な問題のような気がする。
それについて、ひとつの手がかりを示したいと思う。
それが「音楽との出会い」「音楽家の再発見」

3、ひとつの手がかりーー音楽との出会い
私は、音楽とは人の一生を左右するインパクトを秘めた体験だと確信している人間のひとりだ。理由は私自身、これまで何度も、或る音楽と出会うこと、再発見することで、あるいは或る音楽家と出会うこと、再発見することで人生の転機を迎えた経験をしてきたから(その詳細>こちら)。

小沢征爾はこう言っている。

音楽はうんと個人的なもので成り立っている。それが大事だと思うんだ。だから、レコードが何万枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要ではないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、人間と音楽が根本的にどこでつながるかにあるんじゃないだろうか。(武満徹との対談「音楽」)

ところが、今日、人間と「音楽との出会い」が危機的なまでに困難になっている。そう警鐘を鳴らすのは武満徹。彼は次のように言っている。

私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来にくいような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、このまま退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。

 これが彼の遺作「私たちの耳は聞こえているか」。

そこで、彼は、退化する我々の耳に抗して自分の仕事をこう定義している。

進歩というものに騙されてはならないのです。人間は二つの石をこすって火を作り出しました。それから、これまで火を生み出す原子力を発明しました。私の音楽家としての役目は、石の摩擦が爆弾よりはるかに創意に富んでいることを分からせることなのです。
私のつとめは、人間の裡にその自然の感覚、その自然の感情をよびさましてやることなのです。

実は、これと同様のことが日本版にも言えるのではないか。日本版を伝えるとは、相手の人の心の裡に、放射能被ばくという自然からの脅威の感覚、それが人間の身体を含め、他の自然に対して途方もない破壊をもたらすという自然の感情をよびさましてやることであり、その覚醒を通じて、この事態の是正への何物にも替え難い希求の感情を呼び覚ますことである。

そのためには、相手の心の前に、まず相手と向き合う私たち自身の心の裡にある自然の感覚をもっと研ぎ澄まし、もっと深く、もっと広くしていくことが必要になる。「作曲家は作曲をするんじゃなくて、まず一番最初の聴衆じゃなくてはいけない」(>動画)とその大切さをくり返し説き続けてきた武満徹。彼は、盟友アンドレ・タルコフスキーが亡くなった時、彼の「ノスタルジア」のラスト(>動画)について、こう語っている。

あれは凄かったな。彼は言い知れぬヴィジョンを持っていて、しかもそのヴィジョンは他人に見せたいというものではなくて、何よりも自分が見たいんですよね。そこが彼の素晴らしい芸術家たるゆえんでしょうね。人に見せることが巧い映画監督は、いっぱいいますからね。例えぱジュリアン・デュヴィヴィエなんかそうですね。だけど、自分は何を見ているのかよく分からないという感じです。つまり、タルコフスキーは、内的な衝動に非常に潔癖で、純粋で、エゴイストだった。それが僕らを感動させるんですね。

日本版も同様です。他人にどううまく伝えることではなくて、まずは自分自身がどう伝えたいと感じているのか、実はそれがよく分かっていない。私自身がどう伝えたいのか、他人に伝えないではおれないビジョンをどう掴んでいるのか。その内的な衝動に誠実であること。それがあって初めて他人の心に伝わり、揺さぶる。
だから、他人にどううまく伝えるかを考える前に、次のように、私たち自身の心の裡にある自然の感覚をもっと研ぎ澄まし、もっと深く、もっと広くしていくことが必要ではないでしょうか。
武満徹は言う。

音なんてね、実は、ひとつとして同じ音なんてないはずなんですよ。

耳をすませば

同様に、放射線なんて、実はひとつとして同じ放射線なんてないはずなんですよ。それを西洋流の量の論理でもってひと括りなんかできないはず。その自然(放射線)の「真っ暗闇」に対し、もっと謙虚になるべきなんだ。それが私が武満徹から授かった次の問いだ。
そして、これらの問いが私にとって、私たちを「ゆでガエル」にさせ、私たちの感性を全面退化させる「脳化社会」から一歩前に出て、脱「脳化社会」に向かう最初の一歩だ。

私たちの耳は聞こえているか

私たちの目は見えているか

私たちの鼻は匂っているか

私たちの肌は感じているか

私たちの舌は味わっているか

私たちの骨は動いているか

私たちの脳は動いているか 

私たちの心は愛しているか 

2024年12月27日金曜日

【第25話】いま法律があぶない――「脳化社会」のゆで蛙となった法律家――(24.11.22)

以下は、雑誌「季節」に寄稿した、311後の日本社会の現状を法律の面から述べたもの。

*******************

はじめに――「バカの壁」の衝撃――

311後の日本社会に生じた「法の穴(専門用語だと欠缺)をどうするか」について、その答えは自明で1分で証明できる(注)。けれど、その説明を聞いたところで人は何も変わらず、行動を起こさないと思う。
 ちょうどそれは、先日の「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」という文科省の発表で、その解決として「子どもらに優しく寄り添い、居場所づくりが重要」という専門家の説明を聞いて誰も反対しない代わりに、それで問題が解決するとは誰も思わない、これと似ている。そこでいったい何が問題なのか、誰にもその壁は見えず、その光景はさながら盲人が盲人の手を引いて破滅に向かって歩いていくブリューゲルの絵のようだ。

それは決して寓話ではなく現実の出来事である。何が問題なのかそれが分からないまま、「解き方」を間違えてどうしても解けなかった現実として、数学史の有名な出来事が五次方程式の解法。 

+2x+3x+4x+5x+6=0

このような五次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けるという信念を抱いた者たちによって空しい努力が積み重ねられてきた。
 この数学の迷妄の歴史はいつまで経っても解けない不登校、いじめ問題の鏡であり、「解き方を間違えているのではないか」という自問自答は何度でもくり返す価値のある訓えである。

「法の穴をどうするか」という問題も同様で、どうやら私たちはこの問題の「解き方」を間違えているのではないか。それがこの間、この問題を考えてきてようやく見えてきたことである。そこに、不登校やいじめと同様、見えない壁があることに今、ようやく気づいたのである。その気づきを以下、子どもたちを語り部にコトバにしてみる。

「いま法律があぶない」の意味

12年前、ふくしま集団疎開裁判のブックレットを緊急出版した。それが「いま子どもがあぶない」。信じられないくらい恐ろしいことに、その事態は放置されたまま、この間何一つ変わっていない。12年後の今年、その子どもたちが「わたしたちは見ている」という題で、もう1つのブックレットを緊急出版した。子どもたちがそこで訴えたのは――「いま法律があぶない」。あぶないのは、日本に原発事故であぶない目に遭っている僕たち子どもたちを救済する法律がないこと。だが、それだけじゃない。もっとあぶないことがある。それは、この法律がないという異常事態を異常だと気づいていない大人たちのことだ。バカは死ななきゃ治らない。それで大人が勝手にくたばるのはしょうがないとしても、僕たち子どもまでその巻き添えにするなよ、それって冤罪だろ‥‥

「いま法律があぶない」。これを訴える子どもは裸の王様を笑う少年と似ている。なぜなら、法律も裸の王様の服と同じで、誰にも見えないし、臭わない、手でさわれない存在だから。その子どもに笑われている王様は法律の専門家と言われている人たち(あんたもその端くれだ)。

 福島原発事故のあと、「いま子どもがあぶない」と本気で思い、放射能から子どもを守ろうと言う人たちはたくさんいた。それに対し、「いま法律があぶない」と本気で思い、原発事故から被災者を救済する法律が存在しないことがどんなに異常かと言う人は、法律家ですら誰もいないんじゃないか。真面目に放射能問題と取り組んでいる法律家の中ですら「いま法律があぶない」と声をあげるのを聞いたことがない。福島原発事故は原子力ムラの頭に「安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだように、実は、福島原発事故は法律家ムラの頭にも「法律の安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだんだ。それにもかかわらず、殆どの法律家は再び「法律の安全神話」の中に眠りこけていき、半世紀前の公害国会の時のような大改正が必要だと思う力もなく、日本の法律は311後も安泰だと考えた、どこにも何の根拠もないのに。

いったい、この「法律の安全神話」現象をどう理解したらよいのだろうか。
僕たち子どもたちの目には、法律家たちはゆで蛙のように、いつの間にか「一億総白痴」になってしまったかのように見える。その証拠に、法律家たちには、きっと、僕たち子どもたちの不登校、いじめが「環境問題」だということが分かっていない、大人たちが作り出した「脳化社会」という環境のヘドロだということが分かっていない。それは殆どの法律家が無意識のうちに「脳化社会」を受け入れ、良心的な法律家もその中で「脳化社会」の行き過ぎを是正しようとしているだけで、「脳化社会」そのものと全面的に対決しようとは思っていない。その結果、いつの間にか「脳化社会」のゆで蛙となってしまう。それがこの半世紀間で、公害国会の時のように「法の穴には大改正が必要だ」と確信する力をじわじわと法律家が喪失してしまった理由じゃないのか。

 「脳化社会」のゆで蛙となった法律家は、無意識のうちに、法律がこの世界をカバーしていると信じている。「脳化社会」は人間の意識が自然界も人間世界も支配・制御できるという信念に支えられているものだからである。その結果、今まで経験したことのない未知の事件、紛争もすべて既存の法律の中にその答えが用意されていると信じ、その答えを論理的な操作を使って引き出すこと、それが職業的専門家の法律家の任務であると信じている。無意識のうちに、こうした信念・信仰に取りつかれている、それが今の法律家。このような信仰に立つ者に「いま法律があぶない」という認識を期待するのは不可能である。

「法の穴」の克服は「脳化社会」の外に一歩出ること

 だとしたら、お先真っ暗だろうか。そう思うのも依然「脳化社会」の塀の中で考えているからだ。塀の外には未知の世界が広がっていて、「いま法律があぶない」と、素直にその認識に立てる人たちがいる。
その一方が、まだ「脳化社会」に順応しない、自分のことを自然の一部と感じる感性を失わない僕たち子どもたち。
他方が、もう「脳化社会」に順応する義理も義務もなく、もっぱら己の信ずる道をきっぱり行くだけの大老人たち。他に先駆けて、水戸喜世子さんが「法の穴」を認識し、その対策を訴えたのは彼女が脱「脳化社会」の、自然児のような大老人だったから。

そして、これら脱「脳化社会」の野生児、自然児、大老人たちによる「法の穴」の克服の道も、言うまでもなく、世界を支配・制御する人間の意識の産物(法律専門家による制定法)なんかではなく、意識の世界の外にある、生身の自然と人間がひしめいて作り上げている社会の中でおのずと生まれ、発展し、形成されていく規範、つまり生成法=「生きた法」である。それが「脳化社会」の外にある世界で生成される「生きた法」の探求に一生を捧げたオイゲン・エールリッヒの「法社会学」の考え方。この「生きた法」の生きた現場、「生きた法」が今も活き活きと生成し続ける場、それが私にとって「日本の中の外国」である関西の汲めど尽きない可能性である。

(24.11.4)

(注)以下は、私が初めて「法の欠缺」を裁判(避難者追い出し裁判)で正面から主張した内容である(2021年5月14日の弁論期日の報告こちら)。

(3)、本件の特筆すべき事情

①のみならず、本件における災害救助法等の解釈においてはさらに重大な問題が存在する。それは本件には他の事案に見ることのできない特筆すべき事情が存在するからである。それが、2011年3月の福島原発事故発生に伴い判明し‥‥

④そこで、この立法的解決の怠慢に代わって登場したのが、人権の最後の砦とされる裁判所による司法的解決である。それが、「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対して、法律の解釈作業を通じてその穴埋め(補充)をすることである。そこで、本件において、災害救助法等の「法の欠缺」の穴埋め(補充)の解釈において、重要な法規範として主導的な役割を果すのが上位規範である条約、とりわけ従前より国内避難民の居住権問題と積極的に取り組んできた国際人権法である。

⑤以上、本件において特筆すべき事情として「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態であるという点においても、災害救助法が「国内避難民の居住権」を保障する国際人権法に適合するように解釈されなければならないことの必要性・重要性を強調しておく(被告準備書面()。全文pdfこちら)。

参考

ふくしま集団疎開裁判のブックレット


チェルノブイリ法日本版のブックレット



2024年12月16日月曜日

【第24話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある(1)(24.12.16)

とうとう見つかった。

何がさ? 

法律の終焉が。

海に沈む太陽のように。


そして、また見つかった。

何がさ? 

生成法の準備が。

大地から昇る太陽のように。

(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」ヴァリエーション)

以下は、11月30日の大阪・高槻市でやったチェルノブイリ法日本版のお話会で配布したレジメに加筆したもの。

1、なぜ、チェルノブイリ法日本版の制定のために、まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要があるのか。

それは、これまでの私たちの法律つまり 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたから。

2、なぜ、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたのか。

それは、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」がみずから破綻したことを宣言したから。

3、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」はどのように、みずから破綻したことを宣言したのか。

それは311のカタストロフィーに遭遇して、以下のようにみずから破綻を宣言した。

前置き
「脳化社会に安住する塀の中の法律」の未来はその起源にある。
そこで、①.起源についての問い「法はいかにして法律になったか」、そしてそこから、②.未来についての問い「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」を明らかにする。

①.法律の起源「法はいかにして法律になったか」

 それは例えば音楽の起源「音はいかにして音楽になったか」と共通する。

 もともと音は自然世界の雑多な音から構成されていた。

 その中から、西洋音楽は音をドレミファのきれいな音に純粋化、知的に再構成していき、そこからはずれる音はノイズとして排除、消されていった(音楽の脳化現象)。
     ↑
太古に、法は氏族共同体の倫理と連続し、雑多な規範として構成されていた。

その後、国家が出現し、例えば秦の始皇帝の時代に法家(法治主義)が採用され、国家統治の柱として、法律は倫理と切り離され、言語として明文化され、専門家により知的に再構成された(法律の脳化現象)。

 この法律の脳化現象は19世紀に頂点に至る。生物が今や「計算生物学」と呼ばれるように、法律もサヴィニーによって「概念による計算」と呼ばれた。法律はその時代の専門家が叡智を絞って作った「計算する方程式」であり、紛争の中から方程式が求める事実(データ)を代入すれば自動的に結論が出力される。その結果、紛争において方程式に乗らない事実はノイズとして排除され、紛争解決から消されていった。これが脳化社会の行き着く先であった。次は、
      ↓
②.法律の未来:それは終焉「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」

 それは法律がみずから破綻することを通じて終焉を迎える。

 その自己破綻が「法の欠缺」。しかもそれは個別のちっちゃな「法の欠缺」ではなくて、全面的で大規模で、なおかつ欠缺状態が放置され打ち捨てられた壮大なゴミ屋敷としての「法の欠缺」のこと。

 これに該当するのが311後の原発事故の救済に関する「全面的な法の欠缺状態の放置」。

つまり、311福島原発事故を起こしていながら、その救済が必要なのは重々分かっていながら、その救済法を制定しない。原発事故の救済に関して全面的な法の欠缺状態にあるのだから、本来なら、速やかに具体的、現実的に必要かつ十分な救済法を立法すべきである。にもかかわらず、実際には何一つ制定しないまま、ゴミ屋敷のように放置(ネグレクト)している。この法律のゴミ屋敷は何を意味するか。それは、法律が自ら破綻したことを宣言したにひとしい。つまり、311後の日本社会の法律は原発事故の救済という最も重要な法律において自ら破綻した。そして、この破綻を通じて、法律は終焉を迎えたのだ。

だが、それは「法規範」の終焉ではない。「法規範」は法律より広く、深い。終わりを迎えたのは上記で述べた法律の起源「法はいかにして法律になったか」で誕生した法律のこと。それは「概念による計算」(概念法学)を本質とする法律だった。311で迎えたのは単にこの法律が終焉を迎えただけのこと。
実は、法律にはもうちょっと複雑な変遷がある。それは、当初の「概念による計算」という法律は、革命と戦争の世紀と言われる激動の20世紀に破綻し、「自由法論」に代わってしまったからだ。しかし、「自由法論」もまた、法の目的は「社会生活への奉仕」を旗印に、その目的達成のために法律を臨機応変に解釈・運用することを掲げたけれど、そこに言う「社会生活への奉仕」とは「脳化社会への奉仕」のことであり、脳化社会がもたらす病理現象の解決という根本的な問題意識は見出せなかった。つまり、概念法学と自由法論の論争もしょせん、脳化社会というコップの中の嵐でしかなかったのだ。

 だから、脳化社会の浸潤の進行により、やがて自然世界との均衡が崩れ、深刻な環境問題が出現したとき、「自由法論」もまた破綻、機能不全を露呈する。そればかりか、自殺・いじめ・引きこもり・不登校・ハラスメントなどの増加に対しても「自由法論」は無力である。もともと脳化社会で制御可能なのはデータと計算式で対応できる部分だけ。そんなものは無限の情報が詰まった自然世界からみたら氷山の一角にすぎない。自然世界の大部分は依然「真っ暗闇」。だから、「自由法論」が「社会生活への奉仕」を旗汁にどんなに精度をあげても、しょせんそれは「脳化社会に奉仕」する法律であり、そうである限り、無限の情報が詰まった現実の紛争の豊饒さに比べたら屁の河童、手も足も出ない。その典型が放射能問題の極限形態である原発事故である。

自然世界からリベンジを受けた原発事故の救済について、「脳化社会に奉仕」する自由法論が破綻するのは必至である。その破綻の姿が原発事故の救済について、あたり一面のノールール(全面的な法の欠缺)の放置(セルフネグレクト)である。この破綻を通じて、概念法学と自由法論の法律はともに終焉を迎えた。今、我々に必要なのは、終焉を迎えた法律に代わる新たな法規範である。

もはやそれは、従前の概念法学や自由法論の法律のような「脳化社会の塀の中の法律」ではあり得ない。ジュネーブの城壁から外に出て「社会契約論」を書いたルソーのように、わたし達も脳化社会の塀の外に出て、その中で「脳化社会の塀の外に出た法律」を構想するしかその可能性はない。以下、このメガネをかけて考える(続く)。

2024年12月13日金曜日

【第23話】 つぶやき(4):脳化社会と自然世界との対立・葛藤を描いた日本の歌「木綿のハンカチーフ」(1975年。作詞松本隆 作曲筒美京平)

【椎名林檎】木綿のハンカチーフ【MotoMV】

半世紀前の、
  
  恋人よ ぼくは旅立つ

  東へと向かう 列車で
  はなやいだ街で 君への贈りもの
  探す 探すつもりだ

  いいえ あなた 私は
  欲しいものは ないのよ
  ただ都会の絵の具に
  染まらないで 帰って
  染まらないで 帰って

から始まる歌「木綿のハンカチーフ」。
このあと、都会へ移り住み、善意に溢れるが足元のふらついている彼と、田舎に残って、善意に溢れ、彼が都市の脳化社会に染まらないことだけを願っている彼女との間で脳化社会と自然世界の対立ーー彼は都会の脳化社会のステイタスを宝物として彼女に差し出すが、彼女はこれをきっぱりと拒絶し、田舎の自然世界の宝物を示すーーそれがくり返し語られる。

    都会で流行(ハヤリ)の 指輪を送るよ
  君に 君に似合うはずだ

      いいえ 星のダイヤも‥‥  
  きっと あなたのキスほど
  きらめくはずないもの

      見間違うような スーツ着たぼくの
  写真 写真を見てくれ

    いいえ 草にねころぶ
  あなたが好きだったの

しかし、とうとう、優しいが足元のふらつく彼は、都会の快適な脳化社会の奴婢から逃れられないと彼女に告白する。

  恋人よ 君を忘れて
  変わってく ぼくを許して
  毎日愉快に 過ごす街角
  ぼくは ぼくは帰れない

これに対し、彼女はどういう態度をとったか。

    あなた 最後のわがまま
  贈りものをねだるわ
  ねえ 涙拭く木綿(モメン)の
  ハンカチーフください
  ハンカチーフください

バッカじゃねえの、この娘は。
せっかく、
脳化社会と自然世界との対立・葛藤をこれほどあざやかにみごとに語ってきたのに、そのラストでなんで、「水に流す」という日本流の決着で台無しにするんだ。
彼女は彼を心から愛していた。だったら、最後までそれを貫け。
そのとき、彼女は、彼を張り倒すべきだった、あんたは何、寝ぼけてるんだ!と。快適な脳化社会の罠から目を覚ましなと。
それが彼にとって、一生忘れられない、目の覚めるような一撃になったはずだ。

例えば、こんな風に。

 あなた、最後のひとこと
 私の好きな映画を贈るわ
 ねえ、涙流す「道」の
 ラストシーンをみてください
 ラストシーンをみてください

             「道」ラストシーン(1954年)

これが残酷だろうか。いや、これこそ脳化社会の罠から目を覚まない限り、足を地につけた堅実な生き方はできない、そのことを愛する人に伝える最もストレートなコトバだ。
もしもこんなラストだったら、この歌は、歌詞の最初から最後まで、日本最高の歌のひとつになれた‥‥

 

 

 

2024年12月11日水曜日

【第22話】 つぶやき(3):人類は原発でいずれ絶滅するかもしれないが、しかしその前に、人類は既に絶滅危惧種だ、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて(24.12.11)

 小出裕章さんは、どうすれば原発は止められるのか、という問いに対し、「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えるしかないと答えている(雑誌「季節2024年夏・秋」)。

では、どうすれば「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えられるのか。

それは生物多様性のように様々な答えが可能だろう。

しかし、次の2つの道ははずせない。

「人間と人間の関係」において、人類普遍の原理である人権に立ち帰り、人類同士の共存の実現に向けて人類同士が連帯すること。それがブックレット「わたしたちは見ている」が掲げたテーマ。

しかし、それだけでは足りない。さらに、

「人間と自然の関係」において、生命の普遍の原理に立ち帰り、人類と自然の共存の実現に向けて自然と連帯すること。 これが不可欠だ。ブックレット「わたしたちは見ている」を書いてみて初めてそれに気づくことができた。

なぜなら、原発を止められる人類、そして原発事故の救済を実現できる人類、しかし、その人類は今、絶滅危惧種に仲間入りしている、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて。脱「ゆでガエル」を実行しない限り、人類は「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えることはできない。それが、上の2つの道。

私にとって、これが市民立法チェルノブイリ法日本版でめざすこと、そしてNPO「まつもと子ども留学」が衣替えして新たに再スタートを切る一般社団法人「 信州 無何有の里」のめざすこと。

         Grieg: Lyric Pieces Book IV, Op. 47: No. 3 Melodie

 

【椎名林檎】木綿のハンカチーフ【MotoMV】

いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー

1、法律家にとっての311  法律家として311福島原発事故で何に一番驚いたか。それは文科省が 学校の安全基準を 福島県の子どもたちだけ年20ミリシーベルトに引き上げたことだ。それは前代未聞の出来事だった。なぜなら、このとき見えない法的クーデタが敢行されたからだ。それについて解説...