【第101話】で、習慣がいかに人々を破滅の淵に引きづり込むかについて述べた。次の問題は、出現した「新しい現実の危険」に対し、習慣に依存せず、どうやって「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を実行したらよいか。
その答えは、「新しい認識」は新・学問のすすめによって、「新しい態度」は偽善のすすめによって実行することである。
1、新・封建時代における新たな学び=新・学問のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得するためには、結局のところ、私たち自身がみずから自分の頭を使って学ぶしかない。
その手引きとして思いついたのが、150年以上前の明治5年に出版され、当時の全国民の10人に1人が買った計算になる300万部以上売れたといわれる福沢諭吉の「学問のすすめ」。それは「権威への服従」を中心的な価値観とする封建社会を否定し、個人の自由、独立、平等を基本理念とする近代民主主義国家が始まったことを説き、理念として掲げられた個人の自由、独立、平等が絵に描いた餅にならないために、学問を通じた個人の見識により、個人の自由、独立、平等を確保しようとしたもの。
それは、権力者、専門家の「権威への服従」がはびこる150年後の今日(それは再び身分が幅を利かせる新・封建時代)において、再び、市民が個人の自由、独立、平等を回復するために何が必要であるかを考える上で大いに示唆されるもの。
2、「ホンネの時代」における偽善のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得したとして、それで終わりなのではなく、獲得した「新しい認識」に従って、社会を「新しく作り直す」必要がある。
そのために何が必要か。とりわけ日本では「偽善」が必要である。だから「偽善のすすめ」である。
今では誰も思いださないかもしれないが、20世紀末から21世紀初頭にかけて、21世紀を「変革の世紀」にするためのビジョン、構想、アイデアをめぐって熱い議論が戦わされた(例えば、2002年放送NHKスペ「変革の世紀」)。
そのひとつが柄谷行人と浅田彰の対話「ホンネ」の共同体を超えて(「歴史の終わりと世紀末の世界」所収)だった。
最近、四半世紀ぶりにこれを再読し、こう思い直すようになった。
現代はトランプ政権に象徴されるように「混迷の世紀」と言われるが、なぜ今、ここまで暗黒の「混迷の世紀」の現実が存在するのか。それはこの暗黒の現実をひっくり返すためである。そのためのビジョン、構想、アイデアが四半世紀前に「変革の世紀」として準備されてきた。
「変革の世紀」のビジョン等は、これまで倉庫に眠っていた。しかし今、これを現実化するために「混迷の世紀」が用意されたのだと。
以下は、柄谷行人の対話を「偽善のすすめ」として構成したもの。
日本には昔から、理想・理念を言うと偽善になってしまうから、偽善になるよりは(トランプみたいに)正直に悪=現実の力関係でいたほうがいいという風潮がある。確かに、人権なんて言っている連中の実際にやっていることを見れば偽善に決まっている。
しかし、それでもなお、偽善は必要だ。なぜなら、その偽善を徹底すれば、少なくとも善をめざしている限り、そこには「向上心」があるから。向上心がある限り、現実をみて「これではいかん」という否定的な契機がいつか出てくる。そこから現実を変革する突破口が生まれるから。
これに対し、それは偽善でしかないとあきらめてしまったら、そこには「向上心」は生まれない。向上心がないから、現実をみても「どうせこんなものだ」としか思わず、「これではいかん」という否定的な契機が生まれない。結局、今あることの全面的な肯定にしかならない。
それよりは、どんなに馬鹿にされ嫌われようが、偽善でいたほうがいい。
この意味で、チェルノブイリ法日本版のメンバーは全員、偽善者。
偽善者と言われることを恐れない人たち。
彼らは「向上心」を持ち続けたいと思っている。現実をみて「どうせこんなものだ」なんて思えない。「これではいかん」という否定的な契機を持ち続けようとしている。そこから現実を変革する突破口を見つけ出そうと「新・学問のすすめ」をしながら日夜思案している。
「混迷の世紀」の今こそ、四半世紀前に議論された「変革の世紀」の実践が求められている。その最も大事なひとつが、「向上心」を持ち続ける「偽善のすすめ」だ。
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