【第97話】で、習慣が人々の命をいとも簡単に奪った事実についてこう述べた。
(塹壕戦の中で)塹壕を突破するために新たな兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
ところが、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、従来の習慣に従って兵士中心の戦法を漫然と取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。
習慣が出現した「新たな現実」を認識できず、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。その悲惨な現実を次の映像が捉えている(映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」47分~)。
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しかし、これは何も百年前の出来事に限らない。現在も進行中だ。
なぜなら、311福島原発事故を経験した私たちもまた、大気中に大量に放出された放射能の健康影響がどんなものか、その破壊力を理解し切れず、専門家がまことしやかにのたまう「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった発言にホッとして、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線のように考えてしまっているからだ。
第一次世界大戦がそれまでの兵士による限定戦争が国家あげての総力戦に一変し、兵士のみならず女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が無差別大量殺戮兵器の危険にさらされたとき、人類は絶滅危惧種の仲間入りをした。だとすれば、百年後に、福島原発事故により大量の放射能が大気中に放出され、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、日本人もやはり絶滅危惧種の仲間入りをしたのだ。
第一次世界大戦が悲惨だったのは、「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を取ることが出来ず、習慣に従って旧態依然の態度を取り続けたことだった。習慣が兵士や市民を途方もない破滅に導いた。
だが、当時の兵士や市民の破滅は対岸の火事ではない。私たちが、日本史で過去に経験したことのない過酷事故を311で経験し、国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、私たちはこの「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を果たして取っただろうか。「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった専門家の発言にホッとして、原発事故に対して、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として「旧態依然の態度」を取り続けたのではないか。人々が最終的に頼ったのは習慣ではなかったか。
「新しい酒は新しい革袋に盛れ」
第一次世界大戦も原発事故も、それまでの戦争、それまでの事故、災害の概念を覆す、新しい酒だった。
この新しい酒(現実)に対しては、新しい革袋(対策)に盛る必要があるのだ。
それをしない限り、漫然と習慣に従って古い革袋に盛り続ける限り、その習慣は人々を破滅の淵に引きづり込む。
人類は、第一次世界大戦で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む悲惨な経験をした。
人類が、再び原発事故で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む経験をするのは愚劣である。
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