2025年6月11日水曜日

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

はじめに
311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含めすべての人々がそれを黙認したのであり、(程度の差はあれ)我々全員に責任がある。だから、この問題を解決するのも機能不全の国家にすがるのではなく、我々市民主導でやるしかない。

本題
この法律問題は大別して2つある。
1つは日本の法体系が原発事故の救済に関して全面的な「法の欠缺」状態にあることを「正しく認識」すること。
もう1つは、この法の欠缺を「正しく補充」すること。
   ↑
ところで、これらは単にやればいいというものではなくて、ともに「正しくやる」必要があるところ、前者は法体系の「認識作用」であり、法哲学者の田中成明が言うように、「法の完全性(専門用語に言い直すと「「法秩序の論理的完足性」)」などという信仰・幻想・偏見を持たずに、法のありのままの現実を素直に直視すれば、ごく素直に法の欠缺の事態を承認することができる(「現代法理論」246頁)。

これに対し、後者はそうはいかない。それは単なる「認識作用」にとどまらず、法の穴を埋める「法の創造作用」という実践が求められるからである。シンプルなモーツアルトのピアノソナタに感動することは誰にでも出来るが、シンプルなピアノソナタを、それもモーツアルトのような曲を作曲することは誰にとっても至難の業である。それと比べられるだろうか。
何を言いたいかというと、この世にシンプルなピアノソナタはごまんとある。しかし、そのなかにあっても、モーツアルトのような研ぎ澄まされたピアノソナタは彼にしか作れない。これと同様で、原発事故の救済ひとつととっても、法の穴を埋めるやり方はおそらくごまんとあるのだ。しかし、そのなかにあって、実際に原発事故に直面して命懸けで避難した被災者にとって最もピッタリ来る法の穴を埋めるやり方というのが必ずあるはずで、その最適な解を発見するのがここで求められている。それがモーツアルトの作曲に比すべく「法の創造行為」である。

そして、私は避難者の住宅追出しの裁判の中で、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態を補充する際の指導原理として、以下の序列論をずっと主張してきた。
法の欠缺が発生している当該法律の上位規範に着目して、「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」(上位規範適合解釈)という法の基本原理を応用し、「当該法律は上位規範に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法で補充を実行することである。》(住まいの権利裁判原告準備書面(17)5頁)
        ↑
この序列論に従って本件の補充を具体的に検討すると、避難者は「国内避難民」となった瞬間から、「国内避難民」の地位に基づき国際人権法が保障する居住権が認められる、というふうに国際人権法の上位規範に適合するように災害救助法等の「欠缺」が補充されるべきである、という結論が導かれた。そう考えた。
        ↑
しかし、これがなお不完全、不十分であることは、今回、原発事故の救済に関する「損害の欠缺」をどう補充するのかという問題に直面した時に明らかになった。なぜなら、「損害の欠缺」の補充については、仮に指導原理として「序列論」=上位規範適合解釈を採用したとしても、そこから具体的な補充の結論を導くことは困難だから。なぜ困難かというと、「損害の欠缺」では避難者の居住権を裏付ける「国内避難に関する指導原則」のような具体的な上位規範がうまい具合に見つからなかったからである。
ズカッと言えば、避難者の居住権に関しては、先に「国内避難に関する指導原則」が見つかっていたから、直感的に、これでもって避難者の居住権問題は解決できると確信し、そのため、なぜ「国内避難に関する指導原則」がここで補充されるべき具体的な規範となる資格を有するのかについて、突き詰めることをしないままサボってしまった。その結果、今回、新たに「損害の欠缺」の補充という問題に直面したとき、初めて、
一般論として、たとえ「序列論」=上位規範適合解釈を採用したとしても、候補となる上位規範は星の数ほどある。その無数の上位規範の中からなぜ、或る規範をもって補充すべきであると特定できるのか、その具体化を正当化する根拠とはいったい何なのかという本質的な課題が目の前に迫ってきたのである。

つまり、このとき、私は欠缺の補充という、法律家が普段は殆ど経験することのない、しかし、社会が変動し、「新しい酒は新しい革袋に」盛ることが求められるとき、法律家として最も創造的な具体的作業--つまり、単に序列論といった一般論・抽象論ではダメで、生きた現実の紛争を解決するに足るだけの具体的な規範の発見--が求められる「法の創造行為」という制作現場にほおり込まれた。

以下、「法の創造行為」という制作現場に投げ込まれた中で、だらだらと考えたこと。

昔から、或る事が分かるとは、それをうまく別のものに置き換えることが出来た時だと思って来た。とはいえ、やみくもに置き換えればいいのではなく、つぼを得た置き換えでなければダメなのだが。
今回の「欠缺の補充」もこれと似ていないか。欠缺という穴をうまく別のものに置き換えられないか、という意味で。

そこで、これを以下の4つのことで置き換えられないかと思った。

1つ目は、丸山真男の「被ばく体験」
彼は言う、「従来の災害の概念では、広島・長崎の原爆投下の現実を理解できない。なぜなら、戦後24年の今日でもまだ新たな原爆症の患者が生まれ、長期の患者或いは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるのが現実だからだ。この現実を直視すれば、まさに毎日々々原爆は落っこちている。」
          ↑
これを聞いたとき、それは福島原発事故にも当てはまる、こう言うことが出来ると思った。
「従来の災害の概念では、福島原発事故の現実を理解できない。従来の災害のようなタイムスパンで原発事故の災害を考えることは出来ない。その意味で、まさに毎日々々原発が事故を起こしているようなものだ。」
          ↑ 
さらに、今、これは、次のように置き換えられることに気づいた。
原爆投下により、その後も「毎日々々原爆は落っこちている。」としたら、それはまさに「毎日々々権利侵害が発生し、そして損害が発生している」ことを意味する。
つまり、丸山は、従来の災害の時間概念を覆し、未曾有のタイムスパンで考えざるを得ないという原爆特有の「損害」概念を発見した。
同様に、
福島原発事故により、その後も「毎日々々原発が事故を起こしている」としたら、それはまさに「毎日々々権利侵害が発生し、損害が発生している」ことを意味する。     
つまり、我々は、従来の災害の時間概念を覆した、未曾有のタイムスパンで考えざるを得ない原発事故特有の「損害」概念の発見した。
          ↑
それは、まさに従来の権利侵害(違法)論や損害論の枠組みでは福島原発事故により発生した権利侵害(違法)や損害は捉え切れないことを意味する。
第一、そもそも日本政府も日本の法律関係者も誰一人、福島原発事故級の事故を想定しておらず、福島原発事故級の事故を踏まえた権利侵害(違法)論、損害論も誰一人、正面からまともに吟味検討した者はいなかったのだから。これがまさに「法の欠缺」であり、「居住権」に関する「法の欠缺」を追出し裁判、住まいの権利裁判で主張してきた。
しかし、「法の欠缺」は「権利侵害(違法)論」のレベルにとどまるものではなく、「損害論」のレベルでも問われるべきテーマだった。今回、Hさんの指摘で初めて、丸山真男の「被ばく体験」の言葉を以上のような「損害」に変換できることに気がついた。

2つ目は、「求償」論に対する違和感(このうち前半を省略)。
……
この問題の解決策は単純で、2つの場合に分けて論じるしかない。つまり、
第一が、国は福島原発事故の加害責任を負っている。だから、東電と並んで、被害者が被った「損害」の賠償を連帯で負う責任がある。そこには「求償」という問題は生じない。
第二に、仮に第一の主張が認められないとき(国の加害責任が否定されたとき)、その場合には被害者が被った「損害」を国が負担した場合には、その負担分はのちに東電に「求償」することになる。除染作業により発生した費用はそのように扱われている。
         ↑
この2つの場合に整理して初めてすっきりした気分で、3つの「損害」論に入ることができる。それは、例えば、この間発生した全ての除染作業により発生した費用(以下、除染費用という)は全て東電に「求償」できるのか?それとも或る時期を区切って、その時期以降の除染については、東電に「求償」できないことになるおそれがあるのではないか。逆に言えば、その時期を区切らないと、東電は際限なく、ずうっと除染費用を負担させられることになり、それはたまらない、と反論してくる。もしそうだとしたら、どこまでの除染費用が「求償」の対象となるのか。それはすなわち、どの時点までの除染費用が「損害」に含まれるのかという「損害」の時間的、空間的範囲の問題。
さらにそれは、そもそも「損害」の中身は誰が決定できるのか、行政?国会?裁判所?それ以外の誰か?という基本問題に至る。それが次の3つ目の論点。

3つ目は「損害」の範囲は誰が決めるのかという主体の問題。
例えば2017年3月末で無償提供を打ち切った内堀知事が「仮設住宅」の使用に関する「損害」の範囲を決定できるのか。できるとしたら、どこにその根拠があるのか。
思うに、ここも2つのレベルに分けて考える必要がある。
第一が「損害」の範囲とは通常は損害賠償に関する法律の解釈のこと。
従って、「損害」の範囲は誰が決めるかとは、「損害」の解釈を最終的に決定する者は誰かという問題に置き換えられる。
これについて、最も有力な見解が、憲法81条で最高裁判所が「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を有すると規定されていることを根拠にして、最高裁判所だとされている。ただし、これはあくまでも「最終」の決定権者であって、最終に至るプロセスで、現実の過程の中では、立法府だったり、行政府だったりすることが日常茶飯事。その意味で、裁判所もまた地裁、高裁レベルでも「法の解釈」をする権限が与えられているから、裁判所も「損害」の範囲を自ら決めることができる。内堀が2017年3月末で無償提供を打 ち切る決定を出したからといって、裁判所はそれに服従して「損害」の範囲を従う義務はなく、裁判所自らの判断を示せる。
しかし、本件では、さらに新たな問題がある。それが「法の欠缺」。原発事故による「損害」は従来の「損害」論が想定範囲外であり、まさに「法の欠缺」状態にある。従って、このような穴である「損害」について「解釈」の余地はない。なぜなら、解釈とは法が穴ではなく、存在することを前提にして、その文言をどう読み解くかという行為だから。
そこで、「法の欠缺」状態にある本件の「損害」については、
第二に、「損害」の範囲とは欠缺状態にある「損害」の穴を補充すること。
従って、この場合の「損害」の範囲は誰が決めるかとは、「損害」の穴の補充を最終的に決定する者は誰かという問題に置き換えられる。
これについて、憲法にも法律にも、おそらく国際法にも規定はない。
そこで、条理に照らして、この難問を考えるほかないが、試行錯誤の中で辿り着いた私の結論は「欠缺の補充」の作用もまた、その1つである「類推解釈」が「解釈」という名称が使われていることから示唆される通り、規範的な創造行為という意味で、解釈作用と共通する側面を有する。この意味で、法解釈の最終決定権者と同様に考えてよい。
つまり、最高裁が「欠缺の補充」の最終決定権者であること、
最終に至るプロセスの現実の過程の中では、立法府も行政府も裁判所もめいめいに付与された権限の範囲内で、「欠缺の補充」を決定することが出来るものと解すべき。
つまり、裁判の中で、損害の範囲に関する「欠缺の補充」を決定する際に、「行政府の決定(例えば内堀決定)に従う義務はなく、あくまでも自らの判断で「欠缺の補充」を行えばよい。例えば、強制避難の避難者ばかりか自主避難者の住宅確保にかかった「損害」について、条理に照らして、2017年4月以降の分も「損害」に含まれるという「欠缺の補充」を行なうことは法的に全く何の問題もない。
その場合には、2017年4月以降の分については、県の2倍部分はむろんのこと、1倍部分の請求もまた「損害」である以上、これを被害者に請求することは許されず、端的に加害者の東電に「求償」すべきことになる。

これに対し、国も県も上記の主張を認めないわけですが、にもかかわらず、「住宅確保に要した費用」について、強制避難と自主避難を問わず、国と県はどこまでが「損害」で、どこからが「損害」ではないと主張するのか、その整理は殆ど不可能なはず。とはいえ、彼らとても、「住宅確保に要した費用」について「損害」はゼロであるとはさすがに言えないはずで、もしそうなら、じゃあ、どこまでが「損害」の範囲かを決定せざるを得なくなる。そこがつらいところで、損害の内と外の境界線を引くことが彼らの手に余るように思える。
そこで、ひとまず、内堀決定の中身に従って損害と非損害の境界線を引くことにしようと見えて、しかし、それでも2017年3月までの分は「損害」でないんなら、国はその分も避難者に請求しないとおかしいことになる。だが、そんなことはとても出来ない。他方、2017年3月までの分は「損害」だとしたら、今度は東電に「求償」しなくてはならなくなる。それもまたややこしいので、国はやらない。全てをゴチャゴチャにしたまま、グルグルポンで闇の中に葬るようにして、この「損害」論を終わらせようとしている。

最後の4つ目が、福島県の反論『国に対して2倍家賃を支払うという義務を負担する(現に支払っている)から、セーフティネット契約に2倍家賃条項を設けたこと、これを原告らに請求することは違法、無効ではない』というロジックのおかしさ。

このロジックは、次の思考実験「タイタニック号が大型タンカーにぶつけられて衝突したときに、国が乗客の救助が行う」、その時にたまたま国の救助船が間に合わなくて、民間の救助船に頼んで救助してもらったケースに置き換えると、そこで、民間の救助船から、非常事態に対応して大変だっというので国が通常の2倍料金を請求されてそれを支払った。そういう理由で、国が救助にかかった2倍料金の費用を負担したんだから、救助された乗客に請求することは別に違法でも無効でもない、と主張するのと共通している。
この思考実験では、災害救助に要した費用が「損害」である以上、費用を「肩代わり」した公的な組織は、被害者に請求するのではなく、最終負担者の加害者に「求償」すべき。それと同様に、本件も、勝負はセーフティネット契約終了後の2019年4月以降の「住宅確保に要した費用」が「損害」かどうかにある。もしこれが「損害」なら、県は県が「肩代わり」した費用を被害者の避難者に請求するのではなく、最終負担者の加害者=東電に「求償」すべきだからです。
ここでも勝負は3つ目の論点「損害」の範囲はどこまで及ぶか、であり、そして、この論点を判断する決め手は1つ目の、丸山真男の喝破した原爆・原発事故特有の「損害」概念の発見に行き着く。 

この従来の災害・事故では捉え切れない、原爆・原発事故特有の途方もない「時間的」スパンの中で「被災者」「人権(権利)」「損害」といった概念を再構成する必要があることを自覚・発見したとき、この発見に最もふさわしい「欠缺の補充」の指導原理を具体化したものが、「国内避難民」という規範であることの意味が分かった気がした。なぜなら、過去の経験からも(例えば、クルド人の迫害問題)、「国内避難民」は迫害の危険が伴う不安定な地位にいつ終わりが来るのか、その結論は簡単に引き出せず、長期にわたり「国内避難民」の地位が継続する可能性が高い。この意味で、原発事故特有の途方もない「時間的」スパンの中で原発事故避難者の地位を再構成する必要があるときに国内避難民」の概念はこの原発事故避難者の上記状態を最も的確に置き換えたものであるからである。
この意味で、国内避難民」という概念による補充は、単に法律の上位規範である国際人権法の1つとして登場したものにとどまらず、その「適合性」の点においても、原発
事故避難者の地位の本質的特徴を「時間的」スパンにおいて最も的確に言い表わした、その意味で最適な補充だったのだ。
4年前、2021年5月の追出し裁判第1回期日で、
国内避難民」に基づく居住権の保障を主張したが、その時は無我夢中で、それ以上のことまで考える余裕がなかった。いま初めて、国内避難民」という概念による補充が「法の創造行為」のお手本なのだという意味が分かった気がした。

おわりに
だらだらと取りとめもなく、書いてしまった。
この雑文の中核にある教えは次のものである。

「法の欠缺」の補充を正しく行え。
そのためには、やみくもに上位規範を探し出してきても無駄。
法の穴になっている部分の背景となっている事実関係(憲法なら「立法事実」)の本質的特徴を捉え、
その特徴と出来る限りピッタリ対応する上位規範を探索すること。
その実例が、原発事故避難者の地位にピッタリ対応したのが国内避難民」の指導原則という上位規範。
この経験は永遠に記憶される価値のある、「欠缺の補充」のお手本の最初の第一歩となるだろう。

 

 

 

2025年6月10日火曜日

【第107話】2025年の気づき9:住まいの権利裁判、もうひとつの「法の欠缺」が見つかった。それが「損害の欠缺」。そのおかげで今までの「法の欠缺」との関係も明瞭になった(25.6.10)

 政府の迷走。それは、原発事故による除染作業で発生した費用について、国が負担した分は東電に請求している一方で、原発事故による避難者が避難先で住宅確保に要した費用について、国が負担した分も東電に請求していると思うだろうが、実際にはしていない。なぜしないのか。その理由を説明しうる唯一のものは前者の除染費用は東電が負担すべき、原発事故により発生した「損害」であるのに対し、後者の住宅確保に要した費用はこの「損害」に該当しないから。

だが、果して、本当にそうだろうか。原発事故で大気中に大量に放出された放射性物質による被ばくを逃れるために、原発周辺の住民が住いから避難して、避難先で住宅確保のために費用が発生したら、それは通常、加害者が賠償すべき「損害」ではないのか。

この理は国も先刻承知している。だから、ざっくり言えば、原発事故直後に原発周辺の住民が避難先で住宅確保に要した費用が「損害」に該当することは認める。だが、本当の問題(アポリア)はその先にある。つまり、住宅確保に要した費用について、空間的に、そして時間的に「損害」の範囲はどこまで及ぶのか、それが分からない。言い換えると、避難先で住宅確保に要した費用は、原発からどの程度の範囲に住む住民が(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのか分からず、頭を抱えている。

それはその通りだろう。なぜなら、このような、従来の災害と比べ、桁違いの空間的な広がり(東日本壊滅の危機)と時間的な広がり(百年単位)をもった「損害」論は311原発事故まで日本は経験したことがない出来事だから、日本の過去の「損害」論に手がかりを求めても見つからないのは当然だ。この意味で、日本の法体系は311まで、桁違いの空間的及び時間的な広がりを有する原発事故による「損害」論は「法の欠缺」状態にあり、国に限らず、誰もがみんな、「損害」論に関する「法の欠缺」に頭を抱えることになるのは必至だ。

 それをさも分かったような顔をして処理しようとするからドツボにはまる。法哲学者の田中成明が言うように、我々はもっと素直になって、法の欠缺の事態を素直に承認し(「現代法理論」246頁)、そこから慎重に「欠缺の補充」作業を吟味検討すればいいし、そうするほかない。
以下、この「欠缺の補充」作業の吟味検討の中で明らかになったことをメモ風に書き出す。 

1、「損害」として自明と思われている除染費用も、実は住宅確保に要した費用と同様の困難な問題を孕んでいる(住宅費用ほど顕在化しないだけのことで)。ここでもまた、除染費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、それをどう考えたらいいのかと問い始めると、途端に訳が分からなくなり、同様に頭を抱えてしまうからである。

2、この難問を解く鍵は、普段誰も問おうとしない次の問い《なぜ除染費用は「損害」なのか》、その理由を問うことの中にある。
除染費用が「損害」であるのは、
ひとつは、原発事故で大量の放射性物質が大気中に拡散して、住民の住いに降り注いだ結果、住民の生命、身体、健康に対する危険をもたらした、つまり人格権が侵害されたから。。
もうひとつは、住民の住いに降り注いだ結果、住民の土地、建物の所有権が侵害されたから。
その結果、こうした侵害を除去するために必要な除染作業に要した費用(=除染費用)は「損害」だと。つまり、いずれも「権利」侵害が認められるからだと。
       ↑
ここで重要なことは「損害」論と「権利」論が表裏一体、コインの表と裏の関係にあるということ。
そして、この関係は、除染費用に限らず、住宅確保に要した費用でも妥当する。否、実はすべての「損害」論に妥当する。なぜなら、そもそも「損害」の発生というのは「権利」(厳密には権利に限定されないが)侵害に対する事後的な救済として登場するもので、その本質上、両者を別々に考えるわけにはいかない。
以下、この観点から住宅確保に要した費用の問題を考える。

3、つまり、 住宅確保に要した費用は原発からどの程度の範囲に住む住民に(空間的に)、どの程度の期間まで(時間的に)認められるのか、という「損害」の問題は、「権利(居住権)」論と表裏一体の関係にある。従って、
いつまで住宅費用が「損害」として認められるかは、いつまで避難者に「権利(居住権)」が認められるかという問題と同一である。そこで、この「損害」の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着する。
       ↑
ただし、ここで、事態が少々錯綜、複雑化する。というのは、除染費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は基本的に東電とされているのに対し、
住宅確保に要した費用の場合、そこで問われる「権利」侵害の主体は東電だけに限定されず、国もまた「権利」侵害の主体とされるからである。なぜなら、避難者が「国内避難民」として認定された場合、国(及び自治体。以下、国らという)は、その「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負い、国らがその義務を果たさない場合、それは国らによる「居住権」の侵害とみなされるからだ。
       ↑
その意味で、たとえば次のロジックはまちがいである。
住宅確保に要した費用が「損害」に該当する場合、県はこの「損害」をダイレクトに東電に請求すべきであって、被害者である避難者に請求し、さらに避難者が最終的な責任を負う東電に請求するという迂路を取るのは信義則上、許されない。

なぜなら、上記の通り、もともと国も自治体も、避難者の「国内避難民」の居住権を保障する法的義務を負う以上、その義務者が避難者に対し住宅確保に要した費用を請求すること自体が、上記法的義務に違反する行為であり、居住権の侵害と言わざるを得ないから。

4、そこで、「損害」論の問題は避難者はいつまで「国内避難民」として居住権が認められるか、という問題に帰着するから、これについて吟味検討する。
 国際人権法が「国内避難民」について、人々がいつ「国内避難民」になるかという始期について規定しているのに対し、いつ「国内避難民」でなくなるのかという終期について規定していないのは、それなりの訳があり、思うに、「国内避難民」の終わりが簡単に訪れるものではない現実を反映していて、個別の事案ごとに慎重に検討して判断しているものと思われる(確認中)。
ただし、厳密には、「国内避難民」の終期と住宅確保に要した費用の「損害」の終期とは必ずしも連動する論理必然性はなく、たとえ国内亡命状態が継続中であっても、もし万が一、避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供された場合(いわゆる生活再建権の保障)には、或る一定の時点以降は自力で生活再建が果たせると判断して、住宅確保に要した費用の「損害」の終わりが到来したものと解する余地も可能だと思う。

仮にこのような立場に立ったとしても、それは「避難者に必要十分な生活再建のサポートが提供されたか」どうかを慎重に検討して判断を下すべき事柄であって、県知事が国と協議して一方的に「損害」の終わりを決定できるようなものではない。

5、小括
 いずれにせよ、住宅確保に要した費用の「損害」の問題は避難者の「国内避難民」の居住権の問題と一体に考えて、その中で解決すべきである。それが上記の4。これが現時点で私の引き出した結論である。

 


 

2025年5月20日火曜日

【第106話】「311から13年」経って初めて気づいた、ふくしま集団疎開裁判&子ども人権裁判とは何か(24.11.2)

 これは昨年11月の新宿デモで話した内容。

311から13年経ってようやく、ふくしま集団疎開裁判&子ども人権裁判(2つの子ども脱被ばく裁判の1つ目)の意味が分かった。

この2つの裁判で子どもたちが訴えたことは、詰まるところ次のこと。
私たちは今のこんな非人間的な学校環境の中では生きていけない、
私たちを人間として扱え、私たちを人間として尊重しろ、

だから、私たちをバラバラではなくて、友だちと一緒に、今の学校から放射能から安全な場所に避難させて教育をしろ

この意味で、この2つの裁判は今の学校に対する「不登校裁判」だ った。 
それは、その2日前にデカデカと発表されたニュース(>NHK)、
小中の不登校が過去最高の34万人
の子どもたちの訴えと重なるもの。

この夏、養老孟司の「脳化社会」論に接し、今の社会が子どもたちの不登校を解決できない根本の原因は我々が「脳化社会」にどっぷり漬かっているからだと合点した。それは同時に、なぜ今の社会が福島の子どもたちの集団避難問題を解決できないかも明らかにすることだった。つまり、それは根本的には政治家ばかりか、我々市民自身もが「脳化社会」にどっぷり漬かっていて、それが「バカの壁」になっていて、「集団疎開問題」「不登校問題」を解決できないからだと合点した。
311から13年目の夏にしてようやく、自分の課題が「311後の日本社会、それは見えない人権侵害のゴミ屋敷を脳化社会から検証し、ここから人権回復への道を模索・実行することにある」ことを合点した(>そのつぶやき)。

そのことについてスピーチしたのが、2024年11月2日の第20回新宿デモ前スピーチ。

2025年5月18日日曜日

【第105話】「311から14年」ついに約束は果たされなかった(25.5.18 )

 311直後、東京電力の社長清水正孝氏が、出張先から東京本社に戻るため自衛隊機に搭乗しようとして拒否されたのに対し、山下俊一氏は、国賓扱い並みに、長崎から自衛隊機に乗り、3月18日、福島入りした。その彼が放った言葉は、
「正しく恐れよ」
という正しい一般論と、次のでたらめな具体論だった。
科学的に言うと、環境の汚染の濃度、マイクロシーベルトが、100マイクロシーベルト/hを超さなければ、全く健康に影響及ぼしません。ですから、もう、5とか、10とか、20とかいうレベルで外に出ていいかどうかということは明確です。昨日もいわき市で答えられました。『いま、いわき市で外で遊んでいいですか『どんどん遊んでいいと答えました。福島も同じです。心配することはありません。是非、そのようにお伝えください。」(2011年3月21日福島市講演>動画
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています。」(同上)

その山下氏が、5月3日に二本松市の二本松北小学校で行った講演会(その動画>前半後半)で、後半の最初の質問に立った地元の寺の住職は次の質問を彼に問うた。

私は命と向き合う仕事をしております。うちのお寺では幼稚園も経営してまして、小さい子どもたちが通っております。僕も色々調べましたが、先ほど先生も言いましたが「正しく理解する」、でも基本的に正しく理解することは不可能だと思うんです。これから福島原発で被ばくされた方のデータが20年後に正しく理解されていくのは分かりますが、現時点で正しく放射の理解することは不可能だと僕は思います.それで僕の義理のおじさんは河田昌東といい、チェルノブイリにずっと行ってる方です。
1つだけ。情報が混乱してる中で何が正しい情報なのかやっぱり個人個人が理解するしかないと思うんですが、情報が混乱しすぎてて何が正しいのか僕は分かりません。
先生の話を聞いた上で先生に1つだけ質問したいのは、ここ二本松が健康に影響がない地域なんであれば、僕らはやっぱりここに住みますし、ここで生活しております、子どももおります、幼稚園の生徒も通ってきます。ですからいろんな覚悟を持って僕は生活してるんですが、先生の話が真実なんであれば、先生にもやっぱり覚悟を持っていただきたい。本当に(講演会場の二本松)北小学校が健康に影響がないんであれば、先生がお孫さんを連れて砂場で遊んでいただきたい[拍手]。できますか。お孫さん連れて北小の校庭で遊べますか
(←その動画は>こちら

それに対する山下氏の答えは次の通りだった。

もしそれを私がしたら皆さん 信じていただけますか。私は基本的に被ばく二世で、親戚郎党みんな原爆で亡くなりました。・・・もちろん、今、住職さんの言われた私への期待というのは痛いほどよくわかります。私がそれに応えて、孫を連れてきて砂場で遊ばせたら、みんなが信じてくれるんだったら、お安い御用だと思います。はい、私は是非住職さんとのお約束を守りたいと思います[拍手]

それから14年が経った2025年の5月。この住職さんに、山下氏は講演会で公言した約束を実行しましたかと聞いたところ、「していない。彼は来なかった」という。

14年前の5月3日、山下氏は福島県の放射線管理アドバイザーとして公人として原発事故のさなか不安におびえる住民たちの前で話をし、質問者の問いに「もしそれを私がしたら皆さん 信じていただけますか 」と前置きをして、「私は是非住職さんとのお約束を守りたいと思います」と約束した。だが、この公人としての約束はついに果たされなかった。一事が万事とはこのようなことを言う。 そして、これは単に14年前の過去の話ではない。未来の原発事故の話を語ったものだ。

2025年5月3日土曜日

【第104話】「311から14年」に思うこと(25.5.3 )

 以下は、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のニュースレターに書いた今年の抱負の文。
その抱負を具体的に述べたのが
【第100話】311後の日本人は今どこにいるのか?これからどこに向かうのか?

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「311から14年」に思うこと

 今年の311日、兵庫県市川町で日本版の話をする機会を得た。以下、その中で考えたことを記す。

311から14年が経った。もう14年経ったのか、だが百年付き合わざるを得ない原発事故からみたらまだ14年しか経っていないのか、この2つの思いに引き裂かれている。けれど311を経験したから余計なのだろう、自分自身74年生きてみて初めて分かることがいっぱいあった。それは私にとって世界も未来も一寸先は依然真っ暗闇だからである。だから、これから自分が学ぶことがまだまだ山のようにある。そして、それを自分なりに掴んだとき、今まで知らなかった新しい世界と未来が目のまえに開けてくることを確信している。

1年前出版したブックレットで、日本版市民運動の新しいスタイルとして政治・政策から人権にシフトする必要性を提案した(>こちら)。この時、それは自分にとって画期的なものに思えた。だが、数ヵ月後、養老孟司の「脳化社会」論に震撼させられ、上記の提案も「脳化社会」というコップの中の嵐にすぎないと思い知らされ、吹き飛んでしまった(>こちら)。その結果、「脳化社会」そのものとの対決という私にとっての最終目標が目の前に現れた。なぜなら、今日の社会にあって、私たちの命、健康、自由を損ない、最も苦しめているのは一握りの権力者というよりも、私たちを有無を言わせず管理し服従させる「脳化社会」のシステムそのものにあるからだ。福島原発事故がもたらした大きな傷、それは日本社会を人権侵害のゴミ屋敷にしてしまったことだが、それをもたらした最大の張本人は一握りの原子力ムラや権力者ではなく、「脳化社会」そのものにある。私たちは「脳化社会」と対決する中で、日々の生活の中で奪われてきた「自分の人生は自分で決定する」という自己決定の力を回復させなければならない。私の今年の課題もそこにある。


2025年5月2日金曜日

【第103話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(6)」対症療法が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.2)

 私事で恐縮だが、1週間前、ノートパソコンのメール保存用のドライブが満杯寸前となり、赤信号がともったので、容量を増やすために、ほかのドライブで容量が余っている部分をこちらに移動しようと、久々にパーティション用のソフトを使って操作したところ、再起動したらCドライブ以外のドライブ(文書関係もチェルノブイリ法日本版の関係のデータも)がすべて消えてしまった。モノグサな性格のため、パーティション用のソフトの使用方法をしっかり再読せず、うろ覚えで操作したため、どこかでエラーをおかしたらしい。思ってもみない異常事態に愕然とし、それから丸2日間、ベトナムで暮らす息子の同級生にアドバイスをもらいながら復旧作業に追われた。3日目の朝、半ばヤケクソ・神頼みの積りでやった「ドライブの再割り当て」で、消えたドライブが復活(PC上で認識)した。
解決の途端、それまでの緊張が一気に緩み、腰痛になり、心身にえらくこたえたことが自覚された。
そのとき、つい先日の高速道路のETCのトラブル(4日後の時点で原因不明)、
埼玉県八潮市で発生した下水道管破損のトラブルが思い出された(「本格的な復旧までは、急いでも3年程度かかる」)。さらには、タービン発電機の発電試験というたった1分未満のありふれた実験中に、原子炉の出力が暴走し、あわや欧州全土で人が住めなくなる大惨事寸前までいったチェルノブイリ原発事故が思い出された。

それまで自分のパソコンのトラブルをこのように大規模トラブル・事故とつなげて考えたことがなかったのに、このときばかりはつなげて考えないではおれなかった。その訳は昨夏、養老孟司の「脳化社会」論を知ったためである。徹底的に効率を追求し、高度の情報管理システムで回っている今の情報化社会が「脳化社会」の行き着いた先であり、この点では規模はちがってもパソコンのシステムも変わらない。それは一方で高速の情報処理を実現して我々に恩恵をもたらしてくれると同時に、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには、ときとしてシステムは暴走し、それまで被ってきた恩恵をチャラにするほどの桁違いの障害、トラブルを引き起こす。 

その意味で、「脳化社会」が行き着いた先である私たちの情報化社会とは、一見、快適に見える日常生活の足元で、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには想定外の異常事態に至るリスクをはらんでいる「板子一枚下は地獄」の世界である。

そして、私はこれまで、この
「板子一枚下は地獄」を自覚しないまま、パソコンの不具合・トラブルが発生したら、そのつど、泥縄式に復旧に励んで、あとは温泉でもつかってストレスを回復してきた。しかし、養老孟司の「脳化社会」論を知った以上、これが対症療法でしかなく、根本的には「脳化社会」の構造的な問題の解決には指一本、関わっていないということは明らかだった。そして、その場しのぎのお茶を濁す自分の態度に耐えられなくなった。
なぜなら、
私の態度は今の社会の態度と変わらないからーー今の社会は「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、そこから発生する途方もないカタストロフィーや災害、事故(原発事故、コロナ、ピーファスなど)に対症療法でお茶を濁して済まそうとしているからだ。とりあえず当座のトラブルは収めたかもしれないが、構造的な問題には指一本対策を取らない。その結果、同様のトラブルを対症療法でだましだましし、先送りしているにすぎない。

第100話】で書いた通り、私たちは「脳化社会」号という巨大船舶の乗客であり、この船舶は先端科学技術を備えれば備えるほど難破したときの被害の甚大さは測り知れない。
これに対し、これまで対症療法でも何とかやってこれたんだから、これからも対症療法でいけばいいし、それしかないと考える人がいる。とくに科学技術による経済的繁栄に打ち込んできた人たちはーー自身を否定しないためにもーーそう考える傾向がある。
しかし、その対症療法が結局、「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、先端科学技術の暴走を抜本的に止めることにならず、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めてきたのではないか。
福島原発事故への対策と救済も同様だ。原発事故直後の事故対策が対症療法であったのはやむを得ないとしても、その後14年経った今日まで、原発事故の構造的な問題にまでメスを入れて抜本的な対策を講じる話は聞いたことがない。みんなその場しのぎでお茶を濁して一件落着としている、つまりずっと対症療法を続けている。
その態度は原発事故の救済でも同様だ。原発事故の救済を、この間の対症療法的なやり方を振り返り、原発事故の構造的な問題を踏まえて、抜本的な救済のシステムを構築するという話も聞いたことがない。子ども被災者支援法は生きているらしいが、その関係省庁の役人が抜本的な救済のシステムの構築に向けて検討を進めているという話も聞いたことがない。ここでも過去の対症療法的な救済で一丁上がりとしている。

どこもかしこも対症療法が蔓延している。
そして、この態度こそ原発事故の構造的な問題に目をつぶり、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めるのではないか。
人類の破滅的な事態が発生してから、やっぱり対症療法ではダメだったと悔い改めるような真似は断じてしたくない。


2025年5月1日木曜日

【第102話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(5)」新・学問のすすめと偽善のすすめ(25.5.1)

 【第101話】で、習慣がいかに人々を破滅の淵に引きづり込むかについて述べた。次の問題は、出現した「新しい現実の危険」に対し、習慣に依存せず、どうやって「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を実行したらよいか。

その答えは、「新しい認識」は新・学問のすすめによって、「新しい態度」は偽善のすすめによって実行することである。

1、新・封建時代における新たな学び=新・学問のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得するためには、結局のところ、私たち自身がみずから自分の頭を使って学ぶしかない。
その手引きとして思いついたのが、150年以上前の明治5年に出版され、当時の全国民の10人に1人が買った計算になる300万部以上売れたといわれる福沢諭吉の「学問のすすめ」。それは「権威への服従」を中心的な価値観とする封建社会を否定し、個人の自由、独立、平等を基本理念とする近代民主主義国家が始まったことを説き、理念として掲げられた個人の自由、独立、平等が絵に描いた餅にならないために、学問を通じた個人の見識により、個人の自由、独立、平等を確保しようとしたもの。
それは、権力者、専門家の「権威への服従」がはびこる150年後の今日(それは再び身分が幅を利かせる新・封建時代)において、再び、市民が個人の自由、独立、平等を回復するために何が必要であるかを考える上で大いに示唆されるもの。

2、「ホンネの時代」における偽善のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得したとして、それで終わりなのではなく、獲得した「新しい認識」に従って、社会を「新しく作り直す」必要がある。
そのために何が必要か。とりわけ日本では「偽善」が必要である。だから「偽善のすすめ」である。

今では誰も思いださないかもしれないが、20世紀末から21世紀初頭にかけて、21世紀を「変革の世紀」にするためのビジョン、構想、アイデアをめぐって熱い議論が戦わされた(例えば、2002年放送NHKスペ「変革の世紀」)。
そのひとつが柄谷行人と浅田彰の対話「ホンネ」の共同体を超えて(「歴史の終わりと世紀末の世界」所収)だった。
最近、四半世紀ぶりにこれを再読し、こう思い直すようになった。
現代はトランプ政権に象徴されるように「混迷の世紀」と言われるが、なぜ今、ここまで暗黒の「混迷の世紀」の現実が存在するのか。それはこの暗黒の現実をひっくり返すためである。そのためのビジョン、構想、アイデアが四半世紀前に「変革の世紀」として準備されてきた。
「変革の世紀」のビジョン等は、これまで倉庫に眠っていた。しかし今、これを現実化するために「混迷の世紀」が用意されたのだと。

以下は、柄谷行人の対話を「偽善のすすめ」として構成したもの。

日本には昔から、理想・理念を言うと偽善になってしまうから、偽善になるよりは(トランプみたいに)正直に悪=現実の力関係でいたほうがいいという風潮がある。確かに、人権なんて言っている連中の実際にやっていることを見れば偽善に決まっている。
しかし、それでもなお、偽善は必要だ。なぜなら、その偽善を徹底すれば、少なくとも善をめざしている限り、そこには「向上心」があるから。向上心がある限り、現実をみて「これではいかん」という否定的な契機がいつか出てくる。そこから現実を変革する突破口が生まれるから。
これに対し、それは偽善でしかないとあきらめてしまったら、そこには「向上心」は生まれない。向上心がないから、現実をみても「どうせこんなものだ」としか思わず、「これではいかん」という否定的な契機が生まれない。結局、今あることの全面的な肯定にしかならない。
それよりは、どんなに馬鹿にされ嫌われようが、偽善でいたほうがいい。

この意味で、チェルノブイリ法日本版のメンバーは全員、偽善者。
偽善者と言われることを恐れない人たち。
彼らは「向上心」を持ち続けたいと思っている。現実をみて「どうせこんなものだ」なんて思えない。「これではいかん」という否定的な契機を持ち続けようとしている。そこから現実を変革する突破口を見つけ出そうと「新・学問のすすめ」をしながら日夜思案している。

「混迷の世紀」の今こそ、四半世紀前に議論された「変革の世紀」の実践が求められている。その最も大事なひとつが、「向上心」を持ち続ける「偽善のすすめ」だ。

 

 

【第101話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(4)」習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.1)

 【第97話】で、習慣が人々の命をいとも簡単に奪った事実についてこう述べた。

(塹壕戦の中で)塹壕を突破するために新たな兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
ところが、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、従来の
習慣に従って兵士中心の戦法を漫然と取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。

習慣が出現した「新たな現実」を認識できず、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。その悲惨な現実を次の映像が捉えている(映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」47分~)。

 


 



しかし、これは何も百年前の出来事に限らない。現在も進行中だ。
なぜなら、311福島原発事故を経験した私たちもまた、大気中に大量に放出された放射能の健康影響がどんなものか、その破壊力を理解し切れず、専門家がまことしやかにのたまう「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった発言にホッとして、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線のように考えてしまっているからだ。
第一次世界大戦がそれまでの兵士による限定戦争が国家あげての総力戦に一変し、兵士のみならず女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が無差別大量殺戮兵器の危険にさらされたとき、人類は絶滅危惧種の仲間入りをした。だとすれば、百年後に、福島原発事故により大量の放射能が大気中に放出され、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、日本人もやはり絶滅危惧種の仲間入りをしたのだ。

第一次世界大戦が悲惨だったのは、「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を取ることが出来ず、習慣に従って旧態依然の態度を取り続けたことだった。習慣が兵士や市民を途方もない破滅に導いた。

だが、当時の兵士や市民の破滅は対岸の火事ではない。私たちが、日本史で過去に経験したことのない過酷事故を311で経験し、国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、私たちはこの「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を果たして取っただろうか。「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった専門家の発言にホッとして、原発事故に対して、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として「旧態依然の態度」を取り続けたのではないか。人々が最終的に頼ったのは習慣ではなかったか。

「新しい酒は新しい革袋に盛れ」
第一次世界大戦も原発事故も、それまでの戦争、それまでの事故、災害の概念を覆す、新しい酒だった。
この新しい酒(現実)に対しては、新しい革袋(対策)に盛る必要があるのだ。
それをしない限り、漫然と習慣に従って古い革袋に盛り続ける限り、その習慣は人々を破滅の淵に引きづり込む。
人類は、第一次世界大戦で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む悲惨な経験をした。
人類が、再び原発事故で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む経験をするのは愚劣である。

2025年4月29日火曜日

【第100話】311後の日本人は今どこにいるのか?これからどこに向かうのか?「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~」(25.4.30)

今年で311から14年。これを戦前の歴史に当てはめると、満州事変勃発から終戦までに相当する。終戦で日本は天皇主権から国民主権に歴史が大転換したけれど、311から14年経った今年、そのような歴史の大転換は来るのだろうか。たとえ、来ないとしても、いつ、歴史の転換のようなものが訪れるのだろうか。
そういう気持ちから、311直後のことを振り返り、あの疾風怒濤の時間に匹敵する過去の歴史があるだろうか?と思ったとき、チェルノブイリ事故は当然として、それ以外にもあることに気がついた。それが第一次大戦。そこで、これと比較してみようと思った。すると、思いもよらない共通点が見つかった。それは311に対する私の認識を変えた。
雑文だが、今まで明確に出来なかった私の今後の行動を決定する、私にとって今までで一番重要な文。

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「311後の日本人」の起源は百年前の第一次大戦後の人類にある。

1、その理由は、
百年前の第一次大戦のとき、人類は先端科学技術を総動員して一般市民を無差別大量攻撃にさらすという前代未聞の危険な時代に突入した。311福島原発事故もまたその延長線上にある。

2、その帰結は、
その当時、第一次大戦の悲劇(危険性)を認識しなかった人類はその後もこの悲劇をくり返した。この意味で「世界の百年の悲劇はこの世界大戦から始まった」(新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~」)。
これと同じく、福島原発事故の悲劇を認識しない日本人は今後もこの悲劇をくり返す。日本の百年の悲劇は311から始まった。
具体的にそれは、日本人が絶滅危惧種の仲間入りをしたこと。
にもかかわらず、日本は、ウクライナが憲法を改正して、ウクライナ市民を絶滅危惧種から守ることを国家の義務と宣言した(ウクライナ憲法16条)のと正反対の態度を取り、その厳粛な現実から目を背け続けて、正真正銘の絶滅危惧種への途を突き進んでいる。

3、そこからの課題は、
この絶滅危惧種から抜け出すこと。
具体的には、放射能の危険から命、健康を守る社会システムを作り上げること。
それは市民が主導して実現するしかないこと。
私たちは、この厳粛な現実から目を背けない。

4、具体論
【第97話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(1)」311後の日本人は絶滅危惧種の仲間入りを果した
【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた
【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある
【第101話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(4)」習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む
【第102話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(5)」新・学問のすすめと偽善のすすめ
【第103話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(6)」対症療法が人々を破滅の淵に引きづり込む

5、参考映像
新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~
映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~
NHKスペシャル終わりなき被爆との闘い~被爆者と医師の68年~

6、2つの現実、日常生活と非日常生活について
確かに、第一次世界大戦も第二次世界大戦も福島原発事故も現実の出来事だった。けれど、それは非日常の出来事であって、私たちの日常生活とは無縁の出来事。可哀相だけれど、それに遭遇した人たちは運が悪い、バッドタイミングだとしかいいようがないーー311から時間が過ぎるにつれ、このように思っている人がますます増えているように思う。

しかし、そこには根本的な思い違いがある。 私たちの日々の日常生活と目を覆いたくなる残虐な非日常の出来事(第一次・第二次世界大戦、福島原発事故)とは無関係どころか、実はコインの表と裏の関係にある。両者をつないでいるのが「脳化社会」。私たちの日常生活は朝目がさめてから夜眠りにつくまで100%「脳化社会」のインフラに依存している。そして、ひとたびこの「脳化社会」に不具合、暴走が起きると、コロナ禍や埼玉県八潮市の下水管破損事故のように、私たちを一気に非日常の異常事態の世界に引きずり込む。今、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、「脳化社会」号という巨大船舶の乗客であり、この船舶は先端科学技術を備えれば備えるほど難破したときの被害の甚大さは測り知れない。私たちは「脳化社会」に生きている限り、一寸先は闇=非日常の異常事態という現実を受け入れざるを得ない。

ウクライナ憲法16条(1996年)
ウクライナの環境を保全し、未曽有の災害であるチェルノブイリ事故への対策に取り組むこと、ウクライナ民族の子孫を守ること、これらは国家の義務である。

【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある(25.4.29)

それは少なくとも次の3つ。
1、ひとつは脱被ばくのアクション。
福島原発事故直後に原発で何が起きたのかを再認識し、
事故直後に政府、福島県、アメリカらは何をしたのかを再認識し、
それに対し、事故直後に市民はどう対処したのかを再認識し、
そこから市民は「何をなすべきだったのか」をつかむこと。
それは単に過去の振り返りにとどまらない。なぜなら、政府らは福島原発事故から学んで未来の原発事故に対処するから、市民もそれ以上に福島原発事故から学んで二度と後悔をしないように、来るべき原発事故への行動の指針を立てる必要がある。
そのために、この取り組みをおこなう。

2、2つ目は被ばくによる健康影響。
福島原発事故直後に、市民の健康影響(急性障害など)に何が起きたのかを再認識し、
のみならず、事故から中長期的な視野で、市民の健康影響に何が起きているのかを注意深く把握に努め、
それらに対し、世界の古今東西文明を問わず、可能なる対策として何があるのかすべての扉を叩いて探求に努めること(あたかも誰よりも熱心に内部被ばくの危険性に目を向けた肥田舜太郎さんが同時に、免疫力の増強に努める療法を熱心に推進したように)。

3、3つ目は脱被ばくによる生活再建のビジョン作りとネットワーク作り。
福島原発事故直後に、被ばくを避けるために避難したいと思ったにもかかわらず、避難出来なかった多くの人たち、或いはいったん避難したけれど、まもなく帰還を余儀なくされた多くの人たち。その人たちの避難を困難にさせた最大の要因は避難先で生活再建を実行する見通しだった。なぜなら、国も福島県も避難者が帰還するのなら協力するが、避難先で生活再建を果すことには徹底的に非協力的だったため、人々はもっぱら自力で生活再建を果すしかなく、ハードルが極めて高かったから。
チェルノブイリ法日本版は避難者が避難先で生活再建を果すことが可能になるように、国や自治体に必要なサポートをする法的な義務を負わせるもの(つまり生活再建権の保障)。
ただし、チェルノブイリ法日本版が避難者に血の通った生きた生活再建権を実現するためには、事前に、市民自身の手で、原発事故という国難に対して、市民型公共事業として避難者の生活再建を果すためのインフラ作り、ネットワーク作りを準備しておく必要がある。
そのために、どんなインフラ、どんなネットワーク作りが必要かについて、人類がこれまで、市民型公共事業の取組みとして実践してきた市民の相互扶助組織=協同組合を手がかりに、その設計図を作り、実際のネットワーク作りに着手することが来るべき未来の原発事故への備えとして求められる。

【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた(25.4.29)

 世界史の一大転換点となった第一次世界大戦。目を見張るのは、わずか4年の間に、戦争に投入された兵器が激変したこと。巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥かつて想像できなかったような新しい兵器が次々と矢継ぎ早に開発、投入され、戦争の概念が一変、兵士同士の戦いは兵器同士の戦いに変貌した。その急激な変貌に追いつかなかった現地の指揮官は習慣に縛られて旧来の人間中心の戦法に頼り、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。これは明らかな人災、犯罪だった。

思うに、第一次世界大戦が始まったとき、時間の概念も一変した。大戦前の平時の時間に対し、大戦の異常事態のもとで猛烈なスピードの時間が出現した。 戦争の性格が軍人による限定戦から、国家総動員の総力戦に変貌したとき、戦争は国家の命運=生死を左右する決戦となったため、国家総動員として戦争に参加した全国民は文字通り死に物狂いの運命に巻き込まれた。なかでも、兵器開発こそ国家の命運=生死を左右する事業として最も熾烈な使命が与えられ、開発者はしのぎを削ったと思われる。それが短期間の間に、巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥と次々と新たな兵器が誕生した所以であった。

思うに、この時、人類は、死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げることができることを証明してみせた(もっとも、それらはいずれも人類を無差別大量に殺戮する道具だったが)。
これに対し、【第97話】で述べたように、第一次世界大戦に匹敵する福島原発事故のあと、人類は、原発事故の救済が必死に求められたにもかかわらず、はたして、それに応えるような発明、開発(それが途方もない発明とまではいわなくていいが)が成し遂げられただろうか。
そのような話は事故から4年どころか14年たった今もひとつとして聞かない。聞こえてくるのは福島原発事故の前に巨額をつぎ込んで開発したSPEEDIを事故後には活用が削除されたといったマイナスの話だけ。

そこから引き出す教訓の第1は、原発事故の救済に必要な発明、開発が求められているにもかかわらず何ひとつ実行出来ないのは、我々が原発事故後の世界に生きていけないこと=絶滅危惧種の仲間入りをしたことを証明したものである。
第2は、 原発事故の救済に必要な装置、システムの発明、開発を政府に依存・期待しても永遠に不可能であり、それを可能にする唯一の道は市民が自らが取り組む市民型公共事業の中にしかないということ。人類が死に物狂いになって取り組むとき、それは途方もない力を発揮し、求めに応じた発明、開発をやってのける。
かつて、それは(使われ方はネガティブなものだったが)第一次世界大戦で証明された。
現代において、それは(死に物狂いではなかったかもしれないが)市民の創造力が結集されたリナックスの体験からも明らかだ。この意味で市民型公共事業は原発事故後の世界を照らす希望の星だ。

【第97話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(1)」311後の日本人は絶滅危惧種の仲間入りを果した(25.4.29)

【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた
【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある

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311後の日本社会とはなにか。
それは、311後の日本人が絶滅危惧種の仲間入りをしたことである。
それは「原発事故は見えない未知の世界戦争である」ことから引き出せる。

311福島原発事故から14年。福島原発事故が何であったのか、その結果、日本社会はどうなったのか。その正体が分かるまで百年かかるかもしれない。以下は、現時点で突き止められる範囲で福島原発事故の正体を突き止めようとしたメモ。

かつて、もし第三次世界大戦になったら人類は絶滅するだろうと言われた。
そのとき、人々は第三次世界大戦を第一次、第二次世界大戦の延長のようにイメージしていたと思う。
だが、第三次世界大戦とはどのようなものであるのか、実は誰もその正体を知らなかった。
原爆という最終兵器が「核の平和的利用」という美名のもとに生まれ変わるように、第三次世界大戦も変貌を遂げるのだ。
それが原発事故。
たった1分足らずの実験でヨーロッパ全土が人が住めなくなる寸前までいったチェルノブイリ原発事故。
2号機に水が注入できず、あわやメルトダウンして東日本壊滅の危機に瀕した福島原発事故。
それは放射能による人体への無差別大量攻撃という、もうひとつの世界大戦=第三次世界大戦として出現した。しかも、今度は終戦という終わりがなく、放射能という目に見えない長期間にわたる廃墟をもたらす未知の戦争として。

何よりも恐ろしいのは、
私たちがこの「目に見えない長期間にわたる廃墟をもたらす未知の戦争」の正体を殆ど知らないことだ。
そのために、この廃墟のせいで、私たちがどれくらい深刻な健康被害を被るのか、その予測も殆ど「真っ暗闇」の中だ。
そこで、つい考え込んでしまうーー311直後に流布した「健康に直ちに影響はありません」という言葉に再びすがって、根無し草のように行き当たりばったりで当座の生活をしのいでいくしかないのかと。
しかし、そう思う前にまだやれることがある。
そのひとつが、原発事故を百年ちょっと前の第一次世界大戦と比較し、そこから原発事故の正体について手がかりを掴むこと。

第一次世界大戦とは何か。
それは世界史の巨大な一大転換点。ここで人類は経験したことのない悲鳴をあげた。このとき、人類の歴史は決定的に変わった。
疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)とはこの戦争のために発明された言葉のように思える。この時、世界は以下のように一変した。
それまでの限定戦から国家あげての総力戦が出現し、戦争の性格が一変した。
その結果、敵は「相手国のすべての国民」となり、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民に対する無差別大量殺戮戦争が出現した。
機関銃の出現により、戦法もそれまでの騎兵と歩兵による短期決戦(会戦)ではなく、機関銃攻撃から身を守る塹壕戦へ、その結果、前線の膠着により前例のない長期にわたる消耗戦が出現した。
その塹壕を突破するために新兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
しかし、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、漫然と従来の習慣に従って兵士中心の戦法を取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。
参考動画:映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」(47分からの場面)

この映像に映る、無差別大量殺戮の砲弾の中をチョロチョロ走り回っては虫けらのように吹き飛ばされていく兵士(人間)たち。彼らの惨憺たる姿から私は、このとき、人類が絶滅危惧種の仲間入りしたことを知らされた。
そう思ったのは私だけではない。大戦直後に欧州を訪問した若き昭和天皇も次のような文を残した(新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~」(39分から))。
破壊せられたる諸都市、
荒廃したる諸森林、
蹂躙せられたる田野の景は、
戦争を讃美し、暴力を謳歌する者の眼には如何に映ずべきか。


同時にこれは、まさに百年後の311福島原発事故を経験した私たちが大気中に大量に放出された放射能の健康影響の深刻さを理解し切れず、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として済まそうとする姿とそっくりそのままだ。
このとき、311後の私たちも百年前の第一次世界大戦と同様、絶滅危惧種の仲間入りしたのではないか。
それがどれだけ危険で、無謀な態度であるか、それは百年たった時に明らかにされるだろう。しかし、今でもそれを予知することは可能なのだ。
それが、広島、長崎の原爆投下。そこで被爆した人たちの80年間の経験。
例えば、以下のドキュメンタリーは、放射能が時限爆弾として長い時間をかけて被爆者の健康被害をもたらす実相を伝えている。

NHKスペシャル終わりなき被爆との闘い~被爆者と医師の68年~

他方、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故も、私たちの普段の日常生活とは隔絶した、特別な出来事であると考える人がいて、その人にとってはこう思えるかもしれないーー311後の日本社会、少なくともここ10年は日常生活が続く毎日であって、もはや非日常の「戦争」状態ではない、だから日常生活を送っている者に非日常の原発事故のことを考えろというのは無理難題だと。

私もずっとそのように考えてきた。しかし、つい先日、その考えは根本的に間違えているのではないかと気がついた。なぜなら、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故もある日、突然、ポッと出現した訳ではなく、それまでの日々の政治、経済の積み重ねを踏まえて出現したもので、それらが途方もない破壊的な暴力を秘めていたとしても、それは偶然ではなく、あくまでもそれまでの日々の先端科学技術の積み重ねの末に出現したからだ。
つまり、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故も、日常的な政治、経済、先端科学技術の積み重ねの中から出現した非日常的な出来事なのだ。言い換えれば、現代の私たちの日常生活は知らずして高度に組織化、管理化されたいわば「脳化社会」のシステムをインフラにして営まれている。それが平穏に推移するときには日常生活を送れるが、ひとたび「脳化社会」のシステムに不具合が発生したり、暴走した時(コロナ禍のように)には私たちの日常生活は吹き飛び、一気に非日常の事態に陥る。それが高度に組織化、管理化された「脳化社会」の宿命であり、本質だ。
くり返すと、現代の私たちの日常生活もひと皮むけば、いつでも非日常生活を招くリスクを秘めている「脳化社会」というインフラに依存している。自分たちのなにげない日常生活も足元を見たら「板子一枚下は地獄」という非日常の原発事故などのリスクの中で営まれている。それが私たちの日常生活のリアルな正体である。
311後の日本社会は「板子一枚下は地獄」を顕在化した。311で、私たちはボーとしていると、それこそ放射能に根こそぎ命も健康も家族も奪われてしまう世界に突入したのだ。その意味で、311後の日本人は人類絶滅危惧種の仲間入りをしたと思う。

このシビアな認識を共有するかしないか、それはあなた自身が自己決定する問題である。





2025年3月18日火曜日

【第96話】5.10(土)第21回新宿デモのお知らせ(25.3.18)

恒例の脱被ばく実現ネット主催の新宿デモが、5月10日(土)行なわれる。

今回のテーマは2つ、福島原発事故が発生したあと、
放射能による健康被害をなかったことにさせない、
他方で放射能回避のために避難を選択した避難者の住宅問題をなかったことにさせない。
それに正面から取り組んだ
311甲状腺がん裁判、
避難者住まいの権利裁判・追い出し裁判
この裁判支援を呼びかけるもの。

以下がそのチラシ。詳細はこのあと発表の予定。
311後の日本社会の見えない最奥の闇に光を当てるアクションに参加を!





2025年3月4日火曜日

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある(25.3.4)

一方で、 「法(法律)の解釈」とは何か。これについて法学者はあれこれ書いている。
他方で、「法律行為(契約)の解釈」とは何か。これについても法学者はあれこれ書いている。
しかし、この2つの解説はちぐはぐで整合性が取れていない。にもかかわらず、このことに言及した法学者の議論を知らない。

なぜ、両者はちぐはぐなのか。
それは、「解釈」といいながら、或る場面では表示された文言の内容を把握することという「認識」の意味で使っていながら、或る場面では規範的な意味を把握することという「価値判断」の意味で使っている(※1)。つまり、「解釈」といいながら、或る時には真(認識)の次元の問題だと捉えているのに対し、他の時には善(価値判断)の次元の問題だと捉えている(※2)。

「解釈」という概念には真(認識)と善(価値判断)が同棲している。

そこで、両者のちぐはぐを解明するカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある。
 

*****************
※1)我妻栄は、法律行為の解釈とは、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だという(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)。つまり、法律行為とは、当事者の「求めよ、さらば与えられん」の実現に助力する制度であるが、しかし、法律は当事者のすべての法律行為を助力する訳ではなく、あくまでも法の理想をもってこれに臨み、その妥当とするものについてだけ助力する。
そこで、そのような法律行為の制度を実現するために次の手続を踏む(上記〔283〕)、
1、まず、その法律行為の目的(=対象)を確定しなければならない。これが法律行為の解釈。
2.法律行為の対象が確定して初めてその対象が法の助力に値するかどうかを決定することができる。つまり当事者が欲する目的(対象)に法的助力を与えることを可能にするベース(基礎)を確定すること、これが法律行為解釈のミッション(任務)。
このベースが確定したら、次に進む。それが次の審査。
3、法律は、その確定された対象が(1)果して可能であるか、(2)現代の法律理想からみて許されるか、(3)現代の法律理想からみて社会的妥当性を欠かないかを審査して、助力するかどうかの態度を決することになる。
        ↑
3の(2)や(3)は許す許されない、妥当性を欠くか欠かないか、という法的価値判断の次元の問題。
これに対し、1は対象の確定という意味で、対象の認識の次元の問題。
つまり、我妻は「法律行為の解釈」は認識の次元の問題と捉え、認識の仕事が終わったあとに、次に3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と取り組むと捉えている。
        ↑
しかし、これは「法律の解釈」とはちがう。我妻は法の解釈とは、法源の意味をはっきりさせることだと言う(民法案内Ⅰ119頁)。ただし、法の解釈は法律独自の立場から決定されるものだと言う。その結果、或る時には文言を縮小して解釈したり、また或る時には法律の論理体系との整合性を考慮して解釈することになるという。それはもはや条文の文言の正確な「認識」ではなく、法的な価値判断の中で引き出される「価値判断」である。
この意味で、
法律行為の場合、まず法的評価のベースを確定する作業として解釈という「認識」の仕事がある。それが済んだら、次に、適法性や社会的妥当性を審査する「法的価値判断」の仕事が続く。
しかし、法律の場合、最初からいきなり法律独自の立場から、法律の意味内容が決定される。それは単なる「認識」の仕事ではなく、「法的価値判断」の仕事である。そこから見えてくることは、普段は自覚されていないが、実は「法律の解釈」にあたっては、その暗黙の前提として、法律の存在を「認識」するという作業を済ませていることである。なぜ普段は自覚されないか。それは普段は紛争の対象となる事実に対応する法律が制定されているからで、制定法である以上、その法源の内容は条文を見れば明らかだからである(これに対し、制定法ではない慣習法は同様にはいかず、その「認識」をめぐって困難な仕事が待っている)。
その結果、普段の生活にはない、異常事態、新たな事態の発生によって発生した紛争については、その紛争に対応した制定法がないため、法律の存在を「認識」するという作業を自覚せざるを得なくなる。その時、出現するのが「法の欠缺」という問題。

※2)我妻は、実は「法律行為の解釈」を基本的に認識の次元の問題と捉えているようにみえながら、同時に、法的価値判断の次元の問題として捉えていて、両者の関係がどういう関係に立つのか、明らかにしないまま、お茶を濁している。
つまり、我妻は、「法律行為の解釈」を、
一方で、「表示行為の有する意味を明らかにすること」だと言いながら(「民法講義Ⅰ民法総則」〔285〕)、
他方で、「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」だと言い替える(「民法講義Ⅰ民法総則」〔292〕)。
これは単なる語句の言い換えではない。事実の「認識」の次元から法規範の「価値判断」の次元に跳躍した決定的瞬間だ。 この跳躍した瞬間から、「法律行為の解釈」が単なる事実認識のレベルの話ではなくなって、いかなる法的な効力を与えるのが妥当であるかという、もともと法律行為の3の(2)や(3)の法的価値判断の次元の問題と変わらない問題がここで登場する。
つまり、我妻はひとくちに「法律行為の解釈」と言いながら、或る時には「表示行為の有する意味を明らかにすること」と認識の問題を語りながら、或る時には「表示行為の有すべき客観的な意義を決定すること」と法的価値判断の問題を語る。
            ↑
なぜ、事実認識の問題と法的価値判断の問題の区別をやかましく言うのか。それは法的価値判断の問題は価値観の問題だから、思想信条の自由、価値観の多様性を前提とする以上、法的価値判断で見解の違いが生じることは認めざるを得ない。しかし、事実認識の問題は価値観の問題ではないからうやむやにせず、見解の違いは科学上の見解の対立と同様、事実問題として証拠を通じて基本的に決着が付けられる。このちがいはとても大きいからだ。
            ↓
だから、我妻は、もし「法律行為の解釈」を事実問題と法的価値判断の問題の両方で使いたかったら、使っても構わないから、両者が混同されないように、例えば、
事実問題として使うときには「法律行為の解釈A」といい、
法的価値判断の問題として使うときには、「法律行為の解釈B」という風に混同されないように使い分けるべきだった。

同様に、川島武宜も「民法総則」で、「法律行為の解釈」が事実問題しての側面を有するときと法的価値判断の問題としての側面を有するときがあることを述べ、この「二つの側面は論理的には明確に区別され得るしまたされるべきである」と述べている(188~191頁)が、だったら、たとえ現実に両者の区別が不明確で流動的だとしても、理論上はやはり両者が混同されないように、それぞれの場合に命名をすべきだった。

【第94話】2025年の気づき8:住まいの権利裁判、「契約の欠缺」の補充を国際人権法で穴埋めする日本で最初の書面の提出(25.3.4)

         アマミノクロウサギ(mae shin / PIXTA) 弁護士ドットコムより

30年前、奄美大島のゴルフ場開発許可を取り消す訴訟の原告にアマミノクロウサギ、アオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケスが登場した時、この訴状は日本の裁判史上、一大エポックとなる画期的な書面だった。
それは裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという、人間社会(脳化社会)のあり方に根底から問題を突きつけるものだった。

本日、住まいの権利裁判で、内堀福島県知事の無償提供打ち切り決定のあと、福島県が追い出し訴訟の原告となって避難者を仮設住宅から体よく追い出すために交わした「セイフティネット契約」の違法性を明らかにするための、この間の避難者と福島県双方の主張を踏まえて集大成した書面を作成し、提出した(原告準備書面(20)全文PDF)。

これまで、内堀知事の打ち切り決定の違法性を明らかにするために、災害救助法等が、原発事故の救済について「法の欠缺」状態にあり、その欠缺の補充を上位規範である国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定によって実行したとき、「国内避難民」である避難者には仮設住宅に「居住する権利」が保障され、たとえ例外的に仮設住宅から退去を強制する場合であっても、仮設住宅に代わる「代替住居の誠実な提供」が必須とされていることが導かれる。このような法規範に照らし、2017年3月末をもって問答無用に退去を決めた内堀知事決定は違法というほかないというのが、これまでの住まいの権利裁判のメインの主張だった。
ところで、住まいの権利裁判は先行して県が提訴した追い出し裁判とちがい、避難者が「セイフティネット」契約を締結していたので、この欺瞞的な「セイフティネット」契約の有効・無効がさらに裁判の争点となり、これについても、国際人権法が「国内避難民」に保障する人権規定の観点から主張を集大成したのが本日提出した書面。


近代市民社会において契約は法律と並んで、市民社会を規律する二大規範だ。しかるに、法学者たちの法律の研究に比べ、契約の研究は表面をなぞったばかりの不完全、お粗末なものが多く、その中で、住まいの権利裁判の「セイフティネット」契約の有効・無効を明確に論じることは至難の業だった。

その上、これまで法律家をやってきて一番分からない問題は
「法(法律)の解釈」とは何か。
自然科学と比べたとき、「自然的事実の解釈」は事実を認識することだが、「法(法律)の解釈」はこれと違う。認識した法(法律の文言)をどのようなものとして確定したらよいか、法律の文言を文字どおり理解するのか(文理解釈という)、それともふくらますのか(拡張解釈という)、それとも限定するのか(縮小解釈という)……とあれこれひねくり回す。こんなひねくりテクニカルなことは自然科学では考えられない。つまり、法律ではここで既に、認識の次元ではなく、価値判断の次元の議論をしている。

私自身が今回の検討の中で気づいたことは、
法律を解釈するためには、その暗黙の前提として
現実の紛争において適用すべき法律が何であるのか、それを認識する必要があるのだが、通常その答えは自明だ(つまり、法体系と現実の紛争とはいちおう対応関係がつけられている)。
しかし、311まで安全神話の中に眠っていた原発事故の救済に関する法律はちがう。そんな法律は制定されていなかった。
だから、原発事故の救済に関する現実の紛争において適用すべき法律が何であるのかと問われたら、そんな法律は制定されていない、つまり「法の穴(欠缺)」状態にあると答えるのが正しい。つまり、
現実に存在する災害救助法等は原発事故の救済に関する法律ではない。ぽっかり穴があいている。そこで、その穴を補充して、原発事故の救済に関する法律の規範を創造する必要がある。この創造行為を法律の上位規範である憲法、国際人権法らを参照しながらやったのが、住まいの権利裁判の原告避難者の主張書面(例えば1年前の以下)。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/03/24318.html

しかし、ひるがえって思うに、もし現実の法律が現実の紛争に対応するように制定されていない場合に、これを「法の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいとすれば、
もし現実に締結された契約が現実の紛争に対応するような内容でない場合にも、「原発事故の救済に関する契約」という規範から眺めた場合、現実に締結された契約を「契約の欠缺」として認識し、その穴(欠缺)を埋める補充を国際人権法等で実行するのが正しいのではないか。
本日の書面のうち国際人権法の部分は、殆ど直感的ともいうべきこの気づきに背中を押されて書かれたもの。
過去に「法の欠缺」という理論的問題を扱った文献はあったが、「契約の欠缺」という問題を扱った文献は寡聞にして知らない。
しかし、法律と契約という両輪の輪で市民社会の秩序が形成されているとき、欠缺の問題を法律だけに限定する理由はない。両輪のもう一方の輪である契約においても、同様に欠缺の問題が発生し、これを欠缺の補充として解決すべきであるというのは十分な理由がある。

この問題提起はちょうど、裁判の原告とは人間だけの独占物、専有物なのかという問題提起をしたアマミノクロウサギ裁判と同じようなもの。

民法に登場する「解釈」には「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つがあるが、この2つの「解釈」の意味をめぐって、同じ「解釈」という言葉を使いながら、2つの解釈について明確で、統一的な説明を知らない。民法の神様と言われた我妻栄の「民法総則」の議論も、法社会学の大家と言われた川島武宜の「民法総則」の議論も、刑法の大家で元最高裁判事の団藤重光の「法学入門」の議論もどれもゴッチャゴッチャーー一方で、解釈とは外部に表示された法律や契約の内容を把握することであると「認識」の問題だとしながら、他方で、解釈とはその法律や契約の規範的な意味内容を把握することであると「価値判断」の問題だとするーー。「解釈」というひとつの言葉の中に真(認識)と善(価値判断)の次元が同居している。この同棲関係をどう理解したらいいのか、明快な統一的な説明ができていない。
しかし、もし、今回の書面を通して、「法の欠缺」と「契約の欠缺」の問題を解明していったら、「法(法律)の解釈」と「法律行為(契約)の解釈」の2つの関係--それは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係--が初めて明確に整理できるのではないかと、ひそかに展望を感じている(→その試行錯誤の第1歩が以下)。

【第95話】2025年のつぶやき9:「法の解釈」と「法律行為の解釈」の2つの関係の解明のカギは真(認識)と善(価値判断)の同棲関係の解明にある

「事実(現実)は小説(理論)より奇なり」という真理を、どんなに頭で考えても思いつかない真理として、この福島原発事故は我々に突きつけていると改めて思う。

2025年3月3日月曜日

【第93話】2025年のつぶやき8:自然と放任のちがいを追及し抜いた福岡正信(25.3.3)

今回、2月後半の田舎暮らしで、出会った最大の生き物は福岡正信。
例えば、彼の「わら一本の革命」に書かれていた「自然と放任はちがう」、そのちがいについて。
この本質的問題でここまで格闘した人に出会ったのは初めてだった。
敬して、考え続けるために、その一節を引用しておこうと思う。

 ******************

たとえば、教育というものは、

価値のあることだと思っている。

 

ところが、それはその前に、価値があるような条件を、

人間が作っているんだということがまず問題にある。

 

教育なんて、本来は無用なものだけれど、

教育しなければいけないような条件を、

人間が、社会全体がつくっているから、

教育しなければならなくなる。

 

教育すれば価値があるように

見えるだけにすぎないということです。

(中略)

私ははじめ、「放任」ということと、

「自然」ということを、ごっちゃにしてたんですね。

 

枝は混乱する、病虫害にはやられるで、

7反ばかりのミカン山を全部枯らしてしまった。

 

私はそのときから自然型とは何ぞや、ということが

常に問題として頭にあって、

これだということを確信するまでに、

さらに400本の木を枯らしてしまうことをした。

 

そして、やっと自然型とはこれだな、と

確信をもてるようになった。

 

自然型というものを作るようになってくると、

病虫害の防除も必要なくなって、

農薬がいらなくなった、

剪定というような技術も必要なくなった。

 

自然ということがわかれば、

人間の知恵なんて必要ないんです。


子どもの教育にしたってことです。

私も初めそれで失敗したが、

放任ということと、自然ということが混同されていて、

放任が自然であるかのように

錯覚している場合が多いんです。

2025年3月1日土曜日

【第92話】第91話の続き雑誌「政経東北」掲載「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」(2025.3.1)

 【第91話】で紹介した「いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー」が雑誌「政経東北」3月号(3月5日発売)に掲載されることになった(>全文PDF)。


2025年2月16日日曜日

【第91話】いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー(2025.2.16)

1、法律家にとっての311
 法律家として311福島原発事故で何に一番驚いたか。それは文科省が
学校の安全基準を福島県の子どもたちだけ年20ミリシーベルトに引き上げたことだ。それは前代未聞の出来事だった。なぜなら、このとき見えない法的クーデタが敢行されたからだ。それについて解説しよう。

2、
法治国家から放置国家への転落
 311まで決められていた年1ミリシーベルトの防護基準は原発が通常運転している時の基準で、それまで安全神話の惰眠をむさぼっていたわが国は原発が事故を起こした時の安全基準を法律で何も定めていなかった。この法の穴を法律用語で「法の欠缺」と言う。
社会生活が変化すれば法律も当然、その変化に対応できない穴が生まれる。コンピュータやインターネットが出現し新しい事態が発生したとき、それまでの法律がこれらの事態を解決する基準を用意してないことは当然だ。法律の使命は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」で、新しい事態に対して関係当事者の人権、利益が適正に守られるように新たな法秩序を産み出して名実ともに 正義・公平に適った法律にバージョンアップすることだ。

 そして、原発の世界は1986年に史上最悪の原発事故であるチェルノブイリ事故を経験し、原発を保有する国々はこの事態に対応するよう備えをする覚悟を迫られた。しかし、このとき日本政府は「わが国の原発はソ連の原発と技術も構造もちがう、チェルノブイリのような事故は絶対起きない」と豪語し、その備えをしない途を選択した。そして 311を迎えた。それはチェルノブイリ事故の経験から学ばず、己の科学技術水準に自惚れた日本政府と原発管理者の奢りに脳天から鉄槌を下した決定的な出来事だった。このときもし、日本政府と原発管理者が己の奢りを猛省し、自然界の猛威を謙虚に受け止める姿勢を示したなら、半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対して、抜本的な対策を取った「公害国会」のようなアクションを取っただろう。つまり原発事故の救済に対して、日本の法律が全面的な「法の欠缺」状態にあることを素直に承認し、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を埋める新たな法律が作られたはずだ。これが「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の通り、たえずバージョンアップする法律の本来の姿だ。
しかし、311で
法律のこの使命は正常に作動せず、「美しい言葉」で語られた子ども被災者支援法の掛け声以外に、現実には、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を具体的に埋める、チェルノブイリ法に匹敵するような新たな法律は何一つ作られなかった。つまり、311で日本の法律の使命は異常事態に陥って、原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態が発生し、なおかつその誠実な「欠缺の補充」も見事にひとつも実行されなかった。その前代未聞の異常事態ぶりを端的に示した出来事が次の3つだ。 

3、文科省20ミリシーベルト通知
 一番目が文科省の20ミリシーベルト通知。このとき、日本の法律は原発事故の時の安全基準を何も定めていなかったという「法の欠缺」状態にあった。そのとき、原発事故の時の安全基準について行政庁がなんらかの措置に出る場合には、この「法の欠缺の穴埋め(専門用語で補充)」をする必要があり、その補充した法律規範に従って行政行為をすることが求められた。この「欠缺の補充」にあたっては、まず第1に、我が国において、憲法と条約(国際人権法)は法律の上位規範であり、従って、法律は上位規範である憲法と条約(国際人権法)に適合するように「欠缺の補充」をされる必要がある。ところが、この時、文科省が参照したのは国外の一民間団体でしかないICRPが表明したお見舞い勧告だった。文科省がこの重大な通知を出すにあたって参照したのは、国内の法律でも憲法でも条約(国際人権法)でもなくて、ICRPという私的団体の私文書。国内の法規範に従わず、ただの私文書に従って、これに適合するように、福島県の子どもたちの運命を左右するような通知を出した。これを法秩序の崩壊=見えないメルトダウンと呼ばすして何と呼んだらよいのだろうか。これに比べれば、いま対岸で吹き荒れている、当初あくまでも諮問委員会でしかなく、公式の政府機関ではなかった政府効率化省のトップに就任したマスク氏が、法律に基づかずにトランプ大統領の支持を根拠に、米国際開発局(USAID)の職員に休職措置の通知を出すなど米連邦政府職員の大量解雇を開始した振る舞いが、まだずっとマシに思えるほどだ。

4、
学校環境衛生基準
 二番目が、法の欠缺を補充する義務を日本政府がボイコットした学校環境衛生基準。半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対処するため、この時世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの。ところで、311後に環境基本法を改正し、それまで適用を除外していた放射性物質を同法の規制対象に組み込んだ。その結果、放射性物質も他の有害物質と同様、生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生が環境衛生基準となった。これを日本政府は学校環境衛生基準として書き込む義務を負うに至った。ところが、これをストレートに表わすと、年0.00286ミリシーベルト、つまり年20ミリシーベルトの7千分の1の値。半世紀前に導入し確立された学校の環境衛生基準の根拠に従ったこの数値を、しかし、日本政府は放射性物質の学校環境衛生基準として制定しようとしない。つまり環境基本法の改正によって自分に課せられた義務、その履行を日本政府は白昼堂々とサボっている。これではもはや法が支配する法治国家ではなくて、無法が支配する放置国家だ。

5、災害救助法 
 三番目が、原発事故で避難した被災者(これが国際人権法上の「国内避難民」であることは日本政府も認める)の救済に適用された災害救助法。
災害救助法は実は、311まで原発事故を想定していなかったため、当然その救助も想定しておらず、その結果、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態にあった。しかし、他の法律と同様、災害救助法もまた311後に率直な自己反省の中から、「国内避難民」の人権保障を実現するための誠実な「欠缺の補充」を行う法改正をひとつも実行しなかった。福島原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態のまま、福島県トップの内堀知事は無償提供の打切りという決定を下し、「国内避難民」である区域外避難者を避難先としてあてがわれた仮設住宅から追い出した。これに比べれば、政府効率化省トップのマスク氏の振る舞いがまだマシに思えるのは私だけだろうか。

6、法律があぶないとき、どこに向かうべきか
 以上の通り、いま、法律は、未だかつてないほどあぶない。だが、その解決は法律の解決だけでは済まない。その時、法律を支えている(というより、正確には法律が奉仕している)私たちの社会生活そのものが未だかつてなくあぶないからだ。だから、法律の危機とは社会生活に対する差し迫った危機のイエローカードのこと。いま、法律の使命が異常までに機能不全に陥っているのは、法律の根底にある私たちの社会生活が原発事故で破綻しただけでなく、実はいま、至る所で破綻をきたしているからだ。昨年11月、文科省から発表された「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」は不登校・いじめを引き起こす現代社会の構造にメスを入れない限り、いくら法律の改正に励んでも何も変わらないことを示している。
昨年来、日本中を騒がせている水道水のピーファス問題も、ピーファスという4700種類以上の有害化学物質を産み出した現代の先端化学技術のあり方にメスを入れない限り、いくら法律の整備をしたところで絵に描いた餅で終わることを示している。それと同様、原発事故の救済問題も、例えば「国内避難民」である区域外避難者の住宅問題の解決ひとつとっても、災害救助法や福島県知事決定の根底にある、従来の自然災害とは根本的に異質な放射能災害の特質・桁違いの長期戦を余儀なくされる構造的な課題に正面から目を向けてメスを入れない限り、たとえどんな立派な法律論でいくら災害救助法の改正に励んでも「カエルの面にションベン」である。

 半世紀前、公害問題で苦しんだ日本社会は、無数の無名の市民と宇井純、原田正純、田尻宗昭、戒能通孝、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に、先端科学技術の枠組みの中で問題の解決を勝ち取った。しかし今、日本社会は放射能災害、ピーファス問題などこれら先人の努力の賜物が無に帰すような新たな問題の試練にさらされている。今度の試練はもはや先端科学技術の枠組みの中では問題の解決が出来ない様相を帯びているからだ。いま、私たちは先端科学技術の枠組みの外に出て、それと一線を画す新たな視点で問題解決の探求が求められている。私はその手がかりを養老孟司の脱「脳化社会」論とチェルノブイリ法の日本版に見出している。
 しかし、紙面が尽きたので、
この手がかりについてはまた別の機会に書こうと思う。

(2025.2.16)

 

 


2025年2月14日金曜日

【第90話】【第73話】の「僕の森は戦場だった」の本人の音声ファイルの追加(25.2.14)

本日、1月27日の住まいの権利裁判で意見陳述した原告本人から音声ファイルが送られてきたので、ネットに公開(当日の裁判の報告>【第73話】)。
この音声は、後日、彼が意見陳述原稿(全文>こちら)を読み上げたもの。けれど、その朴訥な語り口は裁判当日と変わらない。
自分から意見陳述しますと志願した彼が、どんな心境で、311後に激変した自身の苦難の14年間を振り返って、裁判所に語ろうと思ったのか。また、311まで彼がどのように自然の中で「木こり」として生きてきたのか。そうしたことについて、彼の朴訥な語り口から思いをめぐらす。

    以下の写真は、原告らが国と東京都から避難先として提供された東雲の国家公務員宿舎



【第73話】「僕の森は戦場だった」:福島の木こりだった避難者が住まいの権利裁判で意見陳述(25.1.31)

               意見陳述原稿1頁目(全文>こちら


2025年2月12日水曜日

【第89話】2025年のつぶやき7:ジソブがとうとう結婚した(25.2.13)

韓国ドラマ「カインとアベル」(2009年)主演のソ・ジソブ

昨日、あのソ・ジソブがついに結婚したことを知った。
311のあと、頭の中がグジャグジャになり、原発事故という未曾有の異常事態とどう向き合うのか逡巡する中、目の前に現れたのが古代イスラエルの旧約聖書の預言者たちだった。
人権も憲法もない古代イスラエル国家の圧制のもとで、思い切り逡巡しながらも、圧制に抵抗して避難(出エジプト)を説き、実行に移したモーセ。「暗い見通しの中で希望を語り続けた」預言者エレミヤたち。 
その中で、日本の映画・ドラマは観ることができなくなり、唯一、惹きつけられたのは韓国のドラマ「エデンの東」「カインとアベル」。


「エデンの東」第2回「父の死」
そこには、お前が死んでも墓を暴いてでも復讐するといった不退転の執念が描かれていた。
そこに登場したのがソ・ジソブ。
彼の演技を超えたリアリティに一も二もなく惹きつけられた。
そのあとの彼が出演するドラマにも惹きつけられた(「ゴメン愛してる」「バリの出来事」)。
それは市民の手で独裁制を退場させた1987年の民主化後の韓国が舞台だったが、彼が演じる登場人物はみんな民主化された韓国の中での悲劇・苦悩を象徴的に示していた。

それは、昨夏気づいた「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」の塀の中に生きる悲劇・苦悩だった。
だが、その悲劇・苦悩を演じるジソブ自身の次第にその殺伐としていく風貌を見ていて、彼は実生活の中で、その悲劇・苦悩に耐えられず、押しつぶされてしまうのではないかと思った。

……しかし、とうとう彼は同伴者を見出した。
四半世紀前の盟友パク・ヨンハの自死を乗り越えて、新しい絆を作っていこうと一歩前に出た彼に心から祝福したいと思った。
そして、ジソブ、もう一歩前にーー君がドラマで散々演じてきた舞台、現在の韓国=「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」、その塀の外に出ることをめざそう、今度は同伴者もいるし。

2025年2月11日火曜日

【第88話】2025年の気づき7:10年ぶりにノーム・チョムスキーの可能性の中心が見つかった気がした(25.2.11)

これまで、頭の中がグジャグジャになり、「幕末の黒船のごとく、能天気に眠りこける私の脳天を一挙に打ち砕いた」衝撃的な体験が3回あった。1つめは1989年6月、中国国家が市民を虐殺した「天安門事件」。2つめは、2003年3月、アメリカ国家がイラクを侵略した事件。3つめが2011年3月に発生した福島原発事故。

1つめの「天安門事件」のあと、柄谷行人しか読むに値するものはなかった>駄文(そして30年後、「天安門事件」の意味を丸山眞男から教わった>こちら)。
2つめの米国のイラク侵略のあと、「アメリカこそ世界最悪のテロ国家」(リトルモア)と喝破したアメリカ人のチョムスキーしか読むに値するものはなかった。マスコミはマスゴミとして読まず、彼のアーカイブ(>HP)もしくはデモクラシーナウ(>HP)にアクセスするしかないと思った。

3つめの福島原発事故のあと申し立てたふくしま集団疎開裁判の支援のために、チョムスキーに連絡を取ろうと思い、2012年1月、彼からメッセージが届いた。それは2千数百年前の古代イスラエルの旧約聖書に登場する預言者のような次の言葉だった。

社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはなく、許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。日本にとって、そして世界中の私たち全員にとって、この裁判は失敗が許されないテスト(試練)なのです。」(2012年1月12日>原文

その後も、集団疎開裁判の節目節目に、彼はこのような明快なメッセージを寄せてくれた。


福島のような大惨事を防ぐために解決しなくてはいけない、化石燃料、原子力、代替エネルギーや組織にまつわる問題が山済みであることは事実ですが、一部の問題はとても緊急を要するもので、他のいかなることよりも最優先されなくてはいけないことの第一は、 被ばくの深刻な脅威にさらされている数十万の子どもたちを救うことです。
 
この緊急の課題に対して解決策を見つけ、政府にそれをさせるためのプレッシャーを日本の市民の力でかけなくてはいけません。そして、その非常に重要な取組みに、私も支援できることを望んでいます。

そして、第二次疎開裁判の原告探しが困難な状況の中にあったとき、2014年3月、来日したチョムスキーの激励を受け(以下の面会)、決意を新たにして原告探しに励み、同年8月、第二次疎開裁判=子ども脱被ばく裁判の提訴に漕ぎ着けた。


しかし、子ども脱被ばく裁判の審理が開始されたあと、チョムスキーへの依頼がパタッと途絶えた。最大の理由は、緊急の仮処分を求めた最初の疎開裁判と異なり、今度の裁判が科学裁判として問題の解明にかなりの時間を要する長期戦となったため、彼に緊急アピールを求める局面がなくなったことによる(ただし、チェルノブイリ法日本版の会の節目にはその都度、彼から暖かい激励のメッセージが寄せられた>2018.3結成集会。2019.8直接請求アクション

そうこうしているうちに10年が経った。
ここしばらく、子ども脱被ばく裁判の振り返りをする中で、自分がいかにチョムスキーに支えられてきたか、改めて思い知り、今、再び、彼の存在が何であったのか、とりわけ昨夏遭遇した「脳化社会」論からみて彼は何であったのか、これを自問自答のように考えてきた。

実は、チョムスキーが明らかにするアメリカ国家の欺瞞性、悪辣さぶりは、それがアメリカ国家の正体を暴くものとして文句なしに重要だと思う反面、次第に、それだけでは何か足りない、この悪を克服するためには、さらに何かが付け加わらないとダメではないかと物足りなく思うようになった。しかし、私自身がその足りないものが何か分からず、ボーとしたまま時間が経過した。昨夏、「脳化社会」論に出会ったとき、これがチョムスキーに対して私が物足りないと思っていたこと(の1つ)ではないかと思った。
そこで、私はひとまずチョムスキーから離れて、自分で「
脳化社会」論から311後の日本社会を認識してみようと思った。
そして、たまたま今日、デモクラシーナウの以下の動画(ハワード・ジンと出演)を観た。
In Rare Joint Interview, Noam Chomsky and Howard Zinn on Iraq, Vietnam, Activism and History(2007年4月16日)


それは例によって、アメリカ国家ら権力者たちの欺瞞を暴くものだったが、チョムスキーの姿勢が改めてとても印象に残った。それが、まるで狼が獲物を嗅ぎつけるように、権力者たちの欺瞞をこれでもかこれでもかとくんくん嗅ぎつける彼の執念だった。その執念は「脳化社会」の塀の中の人間の振る舞いというより、「脳化社会」の塀の外の自然界に住む生き物の振る舞いのように思えた。

思い起こせば、彼の生い立ちがそもそも「脳化社会」の塀の中の人間の振る舞いではなかった。小さい頃から自分のしたいこと、欲することしか関心がなくて、大学も教室の正規の授業なぞ全く無視して、気に入った教師の家に入り浸って、興味の向くままに学びをしてきた。殆ど野良犬みたいな学生だった。

彼が理想とするアナーキズムも、普通のそれとはかなり異質だ。インタビューで、こう答えている。
生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」 

つまり、彼が理想とすることは、抑圧、人権侵害に反抗、抵抗すること、その実行にのみ自由、人権保障の意味があると考えていること。最初から自由、人権があるのではなく、抑圧、人権侵害への反抗・抵抗を通じてのみ初めて自由、人権が見出せる、と。
人権のエッセンスは抵抗権にある(宮沢俊義)、彼のアナーキズムのエッセンスもこれと同じだ。昨年出版したブックレット「わたしたちは見ている」のエッセンス=人権侵害と抗うことを通じて人権保障を実現する、これと彼のアナーキズムのエッセンスも同じだ。


確かに、チョムスキーは「脳化社会」批判を口にしない(私が知る限り)。しかし、そうだとしても、彼自身の生き方そのものが「脳化社会」の塀の外の自然界に住む生き物の振る舞いであって、この意味で「脳化社会」批判なんだ。

彼が権力者たちの欺瞞を、狼が獲物を嗅ぎつけるように飽くなく嗅ぎつけたように、私も「脳化社会」の破綻をくんくん嗅ぎつける努力をすることーーそれが今、彼から授かった最大の宝物という気がする。

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

◆ はじめに 311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含...