2025年5月20日火曜日

【第106話】「311から13年」経って初めて気づいた、ふくしま集団疎開裁判&子ども人権裁判とは何か(24.11.2)

 これは昨年11月の新宿デモで話した内容。

311から13年経ってようやく、ふくしま集団疎開裁判&子ども人権裁判(2つの子ども脱被ばく裁判の1つ目)の意味が分かった。

この2つの裁判で子どもたちが訴えたことは、詰まるところ次のこと。
私たちは今のこんな非人間的な学校環境の中では生きていけない、
私たちを人間として扱え、私たちを人間として尊重しろ、

だから、私たちをバラバラではなくて、友だちと一緒に、今の学校から放射能から安全な場所に避難させて教育をしろ

この意味で、この2つの裁判は今の学校に対する「不登校裁判」だ った。 
それは、その2日前にデカデカと発表されたニュース(>NHK)、
小中の不登校が過去最高の34万人
の子どもたちの訴えと重なるもの。

この夏、養老孟司の「脳化社会」論に接し、今の社会が子どもたちの不登校を解決できない根本の原因は我々が「脳化社会」にどっぷり漬かっているからだと合点した。それは同時に、なぜ今の社会が福島の子どもたちの集団避難問題を解決できないかも明らかにすることだった。つまり、それは根本的には政治家ばかりか、我々市民自身もが「脳化社会」にどっぷり漬かっていて、それが「バカの壁」になっていて、「集団疎開問題」「不登校問題」を解決できないからだと合点した。
311から13年目の夏にしてようやく、自分の課題が「311後の日本社会、それは見えない人権侵害のゴミ屋敷を脳化社会から検証し、ここから人権回復への道を模索・実行することにある」ことを合点した(>そのつぶやき)。

そのことについてスピーチしたのが、2024年11月2日の第20回新宿デモ前スピーチ。

2025年5月18日日曜日

【第105話】「311から14年」ついに約束は果たされなかった(25.5.18 )

 311直後、東京電力の社長清水正孝氏が、出張先から東京本社に戻るため自衛隊機に搭乗しようとして拒否されたのに対し、山下俊一氏は、国賓扱い並みに、長崎から自衛隊機に乗り、3月18日、福島入りした。その彼が放った言葉は、
「正しく恐れよ」
という正しい一般論と、次のでたらめな具体論だった。
科学的に言うと、環境の汚染の濃度、マイクロシーベルトが、100マイクロシーベルト/hを超さなければ、全く健康に影響及ぼしません。ですから、もう、5とか、10とか、20とかいうレベルで外に出ていいかどうかということは明確です。昨日もいわき市で答えられました。『いま、いわき市で外で遊んでいいですか『どんどん遊んでいいと答えました。福島も同じです。心配することはありません。是非、そのようにお伝えください。」(2011年3月21日福島市講演>動画
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています。」(同上)

その山下氏が、5月3日に二本松市の二本松北小学校で行った講演会(その動画>前半後半)で、後半の最初の質問に立った地元の寺の住職は次の質問を彼に問うた。

私は命と向き合う仕事をしております。うちのお寺では幼稚園も経営してまして、小さい子どもたちが通っております。僕も色々調べましたが、先ほど先生も言いましたが「正しく理解する」、でも基本的に正しく理解することは不可能だと思うんです。これから福島原発で被ばくされた方のデータが20年後に正しく理解されていくのは分かりますが、現時点で正しく放射の理解することは不可能だと僕は思います.それで僕の義理のおじさんは河田昌東といい、チェルノブイリにずっと行ってる方です。
1つだけ。情報が混乱してる中で何が正しい情報なのかやっぱり個人個人が理解するしかないと思うんですが、情報が混乱しすぎてて何が正しいのか僕は分かりません。
先生の話を聞いた上で先生に1つだけ質問したいのは、ここ二本松が健康に影響がない地域なんであれば、僕らはやっぱりここに住みますし、ここで生活しております、子どももおります、幼稚園の生徒も通ってきます。ですからいろんな覚悟を持って僕は生活してるんですが、先生の話が真実なんであれば、先生にもやっぱり覚悟を持っていただきたい。本当に(講演会場の二本松)北小学校が健康に影響がないんであれば、先生がお孫さんを連れて砂場で遊んでいただきたい[拍手]。できますか。お孫さん連れて北小の校庭で遊べますか
(←その動画は>こちら

それに対する山下氏の答えは次の通りだった。

もしそれを私がしたら皆さん 信じていただけますか。私は基本的に被ばく二世で、親戚郎党みんな原爆で亡くなりました。・・・もちろん、今、住職さんの言われた私への期待というのは痛いほどよくわかります。私がそれに応えて、孫を連れてきて砂場で遊ばせたら、みんなが信じてくれるんだったら、お安い御用だと思います。はい、私は是非住職さんとのお約束を守りたいと思います[拍手]

それから14年が経った2025年の5月。この住職さんに、山下氏は講演会で公言した約束を実行しましたかと聞いたところ、「していない。彼は来なかった」という。

14年前の5月3日、山下氏は福島県の放射線管理アドバイザーとして公人として原発事故のさなか不安におびえる住民たちの前で話をし、質問者の問いに「もしそれを私がしたら皆さん 信じていただけますか 」と前置きをして、「私は是非住職さんとのお約束を守りたいと思います」と約束した。だが、この公人としての約束はついに果たされなかった。一事が万事とはこのようなことを言う。 そして、これは単に14年前の過去の話ではない。未来の原発事故の話を語ったものだ。

2025年5月3日土曜日

【第104話】「311から14年」に思うこと(25.5.3 )

 以下は、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のニュースレターに書いた今年の抱負の文。
その抱負を具体的に述べたのが
【第100話】311後の日本人は今どこにいるのか?これからどこに向かうのか?

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「311から14年」に思うこと

 今年の311日、兵庫県市川町で日本版の話をする機会を得た。以下、その中で考えたことを記す。

311から14年が経った。もう14年経ったのか、だが百年付き合わざるを得ない原発事故からみたらまだ14年しか経っていないのか、この2つの思いに引き裂かれている。けれど311を経験したから余計なのだろう、自分自身74年生きてみて初めて分かることがいっぱいあった。それは私にとって世界も未来も一寸先は依然真っ暗闇だからである。だから、これから自分が学ぶことがまだまだ山のようにある。そして、それを自分なりに掴んだとき、今まで知らなかった新しい世界と未来が目のまえに開けてくることを確信している。

1年前出版したブックレットで、日本版市民運動の新しいスタイルとして政治・政策から人権にシフトする必要性を提案した(>こちら)。この時、それは自分にとって画期的なものに思えた。だが、数ヵ月後、養老孟司の「脳化社会」論に震撼させられ、上記の提案も「脳化社会」というコップの中の嵐にすぎないと思い知らされ、吹き飛んでしまった(>こちら)。その結果、「脳化社会」そのものとの対決という私にとっての最終目標が目の前に現れた。なぜなら、今日の社会にあって、私たちの命、健康、自由を損ない、最も苦しめているのは一握りの権力者というよりも、私たちを有無を言わせず管理し服従させる「脳化社会」のシステムそのものにあるからだ。福島原発事故がもたらした大きな傷、それは日本社会を人権侵害のゴミ屋敷にしてしまったことだが、それをもたらした最大の張本人は一握りの原子力ムラや権力者ではなく、「脳化社会」そのものにある。私たちは「脳化社会」と対決する中で、日々の生活の中で奪われてきた「自分の人生は自分で決定する」という自己決定の力を回復させなければならない。私の今年の課題もそこにある。


2025年5月2日金曜日

【第103話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(6)」対症療法が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.2)

 私事で恐縮だが、1週間前、ノートパソコンのメール保存用のドライブが満杯寸前となり、赤信号がともったので、容量を増やすために、ほかのドライブで容量が余っている部分をこちらに移動しようと、久々にパーティション用のソフトを使って操作したところ、再起動したらCドライブ以外のドライブ(文書関係もチェルノブイリ法日本版の関係のデータも)がすべて消えてしまった。モノグサな性格のため、パーティション用のソフトの使用方法をしっかり再読せず、うろ覚えで操作したため、どこかでエラーをおかしたらしい。思ってもみない異常事態に愕然とし、それから丸2日間、ベトナムで暮らす息子の同級生にアドバイスをもらいながら復旧作業に追われた。3日目の朝、半ばヤケクソ・神頼みの積りでやった「ドライブの再割り当て」で、消えたドライブが復活(PC上で認識)した。
解決の途端、それまでの緊張が一気に緩み、腰痛になり、心身にえらくこたえたことが自覚された。
そのとき、つい先日の高速道路のETCのトラブル(4日後の時点で原因不明)、
埼玉県八潮市で発生した下水道管破損のトラブルが思い出された(「本格的な復旧までは、急いでも3年程度かかる」)。さらには、タービン発電機の発電試験というたった1分未満のありふれた実験中に、原子炉の出力が暴走し、あわや欧州全土で人が住めなくなる大惨事寸前までいったチェルノブイリ原発事故が思い出された。

それまで自分のパソコンのトラブルをこのように大規模トラブル・事故とつなげて考えたことがなかったのに、このときばかりはつなげて考えないではおれなかった。その訳は昨夏、養老孟司の「脳化社会」論を知ったためである。徹底的に効率を追求し、高度の情報管理システムで回っている今の情報化社会が「脳化社会」の行き着いた先であり、この点では規模はちがってもパソコンのシステムも変わらない。それは一方で高速の情報処理を実現して我々に恩恵をもたらしてくれると同時に、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには、ときとしてシステムは暴走し、それまで被ってきた恩恵をチャラにするほどの桁違いの障害、トラブルを引き起こす。 

その意味で、「脳化社会」が行き着いた先である私たちの情報化社会とは、一見、快適に見える日常生活の足元で、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには想定外の異常事態に至るリスクをはらんでいる「板子一枚下は地獄」の世界である。

そして、私はこれまで、この
「板子一枚下は地獄」を自覚しないまま、パソコンの不具合・トラブルが発生したら、そのつど、泥縄式に復旧に励んで、あとは温泉でもつかってストレスを回復してきた。しかし、養老孟司の「脳化社会」論を知った以上、これが対症療法でしかなく、根本的には「脳化社会」の構造的な問題の解決には指一本、関わっていないということは明らかだった。そして、その場しのぎのお茶を濁す自分の態度に耐えられなくなった。
なぜなら、
私の態度は今の社会の態度と変わらないからーー今の社会は「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、そこから発生する途方もないカタストロフィーや災害、事故(原発事故、コロナ、ピーファスなど)に対症療法でお茶を濁して済まそうとしているからだ。とりあえず当座のトラブルは収めたかもしれないが、構造的な問題には指一本対策を取らない。その結果、同様のトラブルを対症療法でだましだましし、先送りしているにすぎない。

第100話】で書いた通り、私たちは「脳化社会」号という巨大船舶の乗客であり、この船舶は先端科学技術を備えれば備えるほど難破したときの被害の甚大さは測り知れない。
これに対し、これまで対症療法でも何とかやってこれたんだから、これからも対症療法でいけばいいし、それしかないと考える人がいる。とくに科学技術による経済的繁栄に打ち込んできた人たちはーー自身を否定しないためにもーーそう考える傾向がある。
しかし、その対症療法が結局、「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、先端科学技術の暴走を抜本的に止めることにならず、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めてきたのではないか。
福島原発事故への対策と救済も同様だ。原発事故直後の事故対策が対症療法であったのはやむを得ないとしても、その後14年経った今日まで、原発事故の構造的な問題にまでメスを入れて抜本的な対策を講じる話は聞いたことがない。みんなその場しのぎでお茶を濁して一件落着としている、つまりずっと対症療法を続けている。
その態度は原発事故の救済でも同様だ。原発事故の救済を、この間の対症療法的なやり方を振り返り、原発事故の構造的な問題を踏まえて、抜本的な救済のシステムを構築するという話も聞いたことがない。子ども被災者支援法は生きているらしいが、その関係省庁の役人が抜本的な救済のシステムの構築に向けて検討を進めているという話も聞いたことがない。ここでも過去の対症療法的な救済で一丁上がりとしている。

どこもかしこも対症療法が蔓延している。
そして、この態度こそ原発事故の構造的な問題に目をつぶり、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めるのではないか。
人類の破滅的な事態が発生してから、やっぱり対症療法ではダメだったと悔い改めるような真似は断じてしたくない。


2025年5月1日木曜日

【第102話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(5)」新・学問のすすめと偽善のすすめ(25.5.1)

 【第101話】で、習慣がいかに人々を破滅の淵に引きづり込むかについて述べた。次の問題は、出現した「新しい現実の危険」に対し、習慣に依存せず、どうやって「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を実行したらよいか。

その答えは、「新しい認識」は新・学問のすすめによって、「新しい態度」は偽善のすすめによって実行することである。

1、新・封建時代における新たな学び=新・学問のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得するためには、結局のところ、私たち自身がみずから自分の頭を使って学ぶしかない。
その手引きとして思いついたのが、150年以上前の明治5年に出版され、当時の全国民の10人に1人が買った計算になる300万部以上売れたといわれる福沢諭吉の「学問のすすめ」。それは「権威への服従」を中心的な価値観とする封建社会を否定し、個人の自由、独立、平等を基本理念とする近代民主主義国家が始まったことを説き、理念として掲げられた個人の自由、独立、平等が絵に描いた餅にならないために、学問を通じた個人の見識により、個人の自由、独立、平等を確保しようとしたもの。
それは、権力者、専門家の「権威への服従」がはびこる150年後の今日(それは再び身分が幅を利かせる新・封建時代)において、再び、市民が個人の自由、独立、平等を回復するために何が必要であるかを考える上で大いに示唆されるもの。

2、「ホンネの時代」における偽善のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得したとして、それで終わりなのではなく、獲得した「新しい認識」に従って、社会を「新しく作り直す」必要がある。
そのために何が必要か。とりわけ日本では「偽善」が必要である。だから「偽善のすすめ」である。

今では誰も思いださないかもしれないが、20世紀末から21世紀初頭にかけて、21世紀を「変革の世紀」にするためのビジョン、構想、アイデアをめぐって熱い議論が戦わされた(例えば、2002年放送NHKスペ「変革の世紀」)。
そのひとつが柄谷行人と浅田彰の対話「ホンネ」の共同体を超えて(「歴史の終わりと世紀末の世界」所収)だった。
最近、四半世紀ぶりにこれを再読し、こう思い直すようになった。
現代はトランプ政権に象徴されるように「混迷の世紀」と言われるが、なぜ今、ここまで暗黒の「混迷の世紀」の現実が存在するのか。それはこの暗黒の現実をひっくり返すためである。そのためのビジョン、構想、アイデアが四半世紀前に「変革の世紀」として準備されてきた。
「変革の世紀」のビジョン等は、これまで倉庫に眠っていた。しかし今、これを現実化するために「混迷の世紀」が用意されたのだと。

以下は、柄谷行人の対話を「偽善のすすめ」として構成したもの。

日本には昔から、理想・理念を言うと偽善になってしまうから、偽善になるよりは(トランプみたいに)正直に悪=現実の力関係でいたほうがいいという風潮がある。確かに、人権なんて言っている連中の実際にやっていることを見れば偽善に決まっている。
しかし、それでもなお、偽善は必要だ。なぜなら、その偽善を徹底すれば、少なくとも善をめざしている限り、そこには「向上心」があるから。向上心がある限り、現実をみて「これではいかん」という否定的な契機がいつか出てくる。そこから現実を変革する突破口が生まれるから。
これに対し、それは偽善でしかないとあきらめてしまったら、そこには「向上心」は生まれない。向上心がないから、現実をみても「どうせこんなものだ」としか思わず、「これではいかん」という否定的な契機が生まれない。結局、今あることの全面的な肯定にしかならない。
それよりは、どんなに馬鹿にされ嫌われようが、偽善でいたほうがいい。

この意味で、チェルノブイリ法日本版のメンバーは全員、偽善者。
偽善者と言われることを恐れない人たち。
彼らは「向上心」を持ち続けたいと思っている。現実をみて「どうせこんなものだ」なんて思えない。「これではいかん」という否定的な契機を持ち続けようとしている。そこから現実を変革する突破口を見つけ出そうと「新・学問のすすめ」をしながら日夜思案している。

「混迷の世紀」の今こそ、四半世紀前に議論された「変革の世紀」の実践が求められている。その最も大事なひとつが、「向上心」を持ち続ける「偽善のすすめ」だ。

 

 

【第101話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(4)」習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.1)

 【第97話】で、習慣が人々の命をいとも簡単に奪った事実についてこう述べた。

(塹壕戦の中で)塹壕を突破するために新たな兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
ところが、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、従来の
習慣に従って兵士中心の戦法を漫然と取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。

習慣が出現した「新たな現実」を認識できず、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。その悲惨な現実を次の映像が捉えている(映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」47分~)。

 


 



しかし、これは何も百年前の出来事に限らない。現在も進行中だ。
なぜなら、311福島原発事故を経験した私たちもまた、大気中に大量に放出された放射能の健康影響がどんなものか、その破壊力を理解し切れず、専門家がまことしやかにのたまう「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった発言にホッとして、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線のように考えてしまっているからだ。
第一次世界大戦がそれまでの兵士による限定戦争が国家あげての総力戦に一変し、兵士のみならず女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が無差別大量殺戮兵器の危険にさらされたとき、人類は絶滅危惧種の仲間入りをした。だとすれば、百年後に、福島原発事故により大量の放射能が大気中に放出され、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、日本人もやはり絶滅危惧種の仲間入りをしたのだ。

第一次世界大戦が悲惨だったのは、「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を取ることが出来ず、習慣に従って旧態依然の態度を取り続けたことだった。習慣が兵士や市民を途方もない破滅に導いた。

だが、当時の兵士や市民の破滅は対岸の火事ではない。私たちが、日本史で過去に経験したことのない過酷事故を311で経験し、国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、私たちはこの「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を果たして取っただろうか。「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった専門家の発言にホッとして、原発事故に対して、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として「旧態依然の態度」を取り続けたのではないか。人々が最終的に頼ったのは習慣ではなかったか。

「新しい酒は新しい革袋に盛れ」
第一次世界大戦も原発事故も、それまでの戦争、それまでの事故、災害の概念を覆す、新しい酒だった。
この新しい酒(現実)に対しては、新しい革袋(対策)に盛る必要があるのだ。
それをしない限り、漫然と習慣に従って古い革袋に盛り続ける限り、その習慣は人々を破滅の淵に引きづり込む。
人類は、第一次世界大戦で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む悲惨な経験をした。
人類が、再び原発事故で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む経験をするのは愚劣である。

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

◆ はじめに 311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含...