2025年2月16日日曜日

【第91話】いま、法律があぶないーー法の欠缺をめぐってーー(2025.2.16)

1、法律家にとっての311
 法律家として311福島原発事故で何に一番驚いたか。それは文科省が
学校の安全基準を福島県の子どもたちだけ年20ミリシーベルトに引き上げたことだ。それは前代未聞の出来事だった。なぜなら、このとき見えない法的クーデタが敢行されたからだ。それについて解説しよう。

2、
法治国家から放置国家への転落
 311まで決められていた年1ミリシーベルトの防護基準は原発が通常運転している時の基準で、それまで安全神話の惰眠をむさぼっていたわが国は原発が事故を起こした時の安全基準を法律で何も定めていなかった。この法の穴を法律用語で「法の欠缺」と言う。
社会生活が変化すれば法律も当然、その変化に対応できない穴が生まれる。コンピュータやインターネットが出現し新しい事態が発生したとき、それまでの法律がこれらの事態を解決する基準を用意してないことは当然だ。法律の使命は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」で、新しい事態に対して関係当事者の人権、利益が適正に守られるように新たな法秩序を産み出して名実ともに 正義・公平に適った法律にバージョンアップすることだ。

 そして、原発の世界は1986年に史上最悪の原発事故であるチェルノブイリ事故を経験し、原発を保有する国々はこの事態に対応するよう備えをする覚悟を迫られた。しかし、このとき日本政府は「わが国の原発はソ連の原発と技術も構造もちがう、チェルノブイリのような事故は絶対起きない」と豪語し、その備えをしない途を選択した。そして 311を迎えた。それはチェルノブイリ事故の経験から学ばず、己の科学技術水準に自惚れた日本政府と原発管理者の奢りに脳天から鉄槌を下した決定的な出来事だった。このときもし、日本政府と原発管理者が己の奢りを猛省し、自然界の猛威を謙虚に受け止める姿勢を示したなら、半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対して、抜本的な対策を取った「公害国会」のようなアクションを取っただろう。つまり原発事故の救済に対して、日本の法律が全面的な「法の欠缺」状態にあることを素直に承認し、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を埋める新たな法律が作られたはずだ。これが「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の通り、たえずバージョンアップする法律の本来の姿だ。
しかし、311で
法律のこの使命は正常に作動せず、「美しい言葉」で語られた子ども被災者支援法の掛け声以外に、現実には、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を具体的に埋める、チェルノブイリ法に匹敵するような新たな法律は何一つ作られなかった。つまり、311で日本の法律の使命は異常事態に陥って、原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態が発生し、なおかつその誠実な「欠缺の補充」も見事にひとつも実行されなかった。その前代未聞の異常事態ぶりを端的に示した出来事が次の3つだ。 

3、文科省20ミリシーベルト通知
 一番目が文科省の20ミリシーベルト通知。このとき、日本の法律は原発事故の時の安全基準を何も定めていなかったという「法の欠缺」状態にあった。そのとき、原発事故の時の安全基準について行政庁がなんらかの措置に出る場合には、この「法の欠缺の穴埋め(専門用語で補充)」をする必要があり、その補充した法律規範に従って行政行為をすることが求められた。この「欠缺の補充」にあたっては、まず第1に、我が国において、憲法と条約(国際人権法)は法律の上位規範であり、従って、法律は上位規範である憲法と条約(国際人権法)に適合するように「欠缺の補充」をされる必要がある。ところが、この時、文科省が参照したのは国外の一民間団体でしかないICRPが表明したお見舞い勧告だった。文科省がこの重大な通知を出すにあたって参照したのは、国内の法律でも憲法でも条約(国際人権法)でもなくて、ICRPという私的団体の私文書。国内の法規範に従わず、ただの私文書に従って、これに適合するように、福島県の子どもたちの運命を左右するような通知を出した。これを法秩序の崩壊=見えないメルトダウンと呼ばすして何と呼んだらよいのだろうか。これに比べれば、いま対岸で吹き荒れている、当初あくまでも諮問委員会でしかなく、公式の政府機関ではなかった政府効率化省のトップに就任したマスク氏が、法律に基づかずにトランプ大統領の支持を根拠に、米国際開発局(USAID)の職員に休職措置の通知を出すなど米連邦政府職員の大量解雇を開始した振る舞いが、まだずっとマシに思えるほどだ。

4、
学校環境衛生基準
 二番目が、法の欠缺を補充する義務を日本政府がボイコットした学校環境衛生基準。半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対処するため、この時世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの。ところで、311後に環境基本法を改正し、それまで適用を除外していた放射性物質を同法の規制対象に組み込んだ。その結果、放射性物質も他の有害物質と同様、生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生が環境衛生基準となった。これを日本政府は学校環境衛生基準として書き込む義務を負うに至った。ところが、これをストレートに表わすと、年0.00286ミリシーベルト、つまり年20ミリシーベルトの7千分の1の値。半世紀前に導入し確立された学校の環境衛生基準の根拠に従ったこの数値を、しかし、日本政府は放射性物質の学校環境衛生基準として制定しようとしない。つまり環境基本法の改正によって自分に課せられた義務、その履行を日本政府は白昼堂々とサボっている。これではもはや法が支配する法治国家ではなくて、無法が支配する放置国家だ。

5、災害救助法 
 三番目が、原発事故で避難した被災者(これが国際人権法上の「国内避難民」であることは日本政府も認める)の救済に適用された災害救助法。
災害救助法は実は、311まで原発事故を想定していなかったため、当然その救助も想定しておらず、その結果、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態にあった。しかし、他の法律と同様、災害救助法もまた311後に率直な自己反省の中から、「国内避難民」の人権保障を実現するための誠実な「欠缺の補充」を行う法改正をひとつも実行しなかった。福島原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態のまま、福島県トップの内堀知事は無償提供の打切りという決定を下し、「国内避難民」である区域外避難者を避難先としてあてがわれた仮設住宅から追い出した。これに比べれば、政府効率化省トップのマスク氏の振る舞いがまだマシに思えるのは私だけだろうか。

6、法律があぶないとき、どこに向かうべきか
 以上の通り、いま、法律は、未だかつてないほどあぶない。だが、その解決は法律の解決だけでは済まない。その時、法律を支えている(というより、正確には法律が奉仕している)私たちの社会生活そのものが未だかつてなくあぶないからだ。だから、法律の危機とは社会生活に対する差し迫った危機のイエローカードのこと。いま、法律の使命が異常までに機能不全に陥っているのは、法律の根底にある私たちの社会生活が原発事故で破綻しただけでなく、実はいま、至る所で破綻をきたしているからだ。昨年11月、文科省から発表された「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」は不登校・いじめを引き起こす現代社会の構造にメスを入れない限り、いくら法律の改正に励んでも何も変わらないことを示している。
昨年来、日本中を騒がせている水道水のピーファス問題も、ピーファスという4700種類以上の有害化学物質を産み出した現代の先端化学技術のあり方にメスを入れない限り、いくら法律の整備をしたところで絵に描いた餅で終わることを示している。それと同様、原発事故の救済問題も、例えば「国内避難民」である区域外避難者の住宅問題の解決ひとつとっても、災害救助法や福島県知事決定の根底にある、従来の自然災害とは根本的に異質な放射能災害の特質・桁違いの長期戦を余儀なくされる構造的な課題に正面から目を向けてメスを入れない限り、たとえどんな立派な法律論でいくら災害救助法の改正に励んでも「カエルの面にションベン」である。

 半世紀前、公害問題で苦しんだ日本社会は、無数の無名の市民と宇井純、原田正純、田尻宗昭、戒能通孝、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に、先端科学技術の枠組みの中で問題の解決を勝ち取った。しかし今、日本社会は放射能災害、ピーファス問題などこれら先人の努力の賜物が無に帰すような新たな問題の試練にさらされている。今度の試練はもはや先端科学技術の枠組みの中では問題の解決が出来ない様相を帯びているからだ。いま、私たちは先端科学技術の枠組みの外に出て、それと一線を画す新たな視点で問題解決の探求が求められている。私はその手がかりを養老孟司の脱「脳化社会」論とチェルノブイリ法の日本版に見出している。
 しかし、紙面が尽きたので、
この手がかりについてはまた別の機会に書こうと思う。

(2025.2.16)

 

 


2025年2月14日金曜日

【第90話】【第73話】の「僕の森は戦場だった」の本人の音声ファイルの追加(25.2.14)

本日、1月27日の住まいの権利裁判で意見陳述した原告本人から音声ファイルが送られてきたので、ネットに公開(当日の裁判の報告>【第73話】)。
この音声は、後日、彼が意見陳述原稿(全文>こちら)を読み上げたもの。けれど、その朴訥な語り口は裁判当日と変わらない。
自分から意見陳述しますと志願した彼が、どんな心境で、311後に激変した自身の苦難の14年間を振り返って、裁判所に語ろうと思ったのか。また、311まで彼がどのように自然の中で「木こり」として生きてきたのか。そうしたことについて、彼の朴訥な語り口から思いをめぐらす。

    以下の写真は、原告らが国と東京都から避難先として提供された東雲の国家公務員宿舎



【第73話】「僕の森は戦場だった」:福島の木こりだった避難者が住まいの権利裁判で意見陳述(25.1.31)

               意見陳述原稿1頁目(全文>こちら


2025年2月12日水曜日

【第89話】2025年のつぶやき7:ジソブがとうとう結婚した(25.2.13)

韓国ドラマ「カインとアベル」(2009年)主演のソ・ジソブ

昨日、あのソ・ジソブがついに結婚したことを知った。
311のあと、頭の中がグジャグジャになり、原発事故という未曾有の異常事態とどう向き合うのか逡巡する中、目の前に現れたのが古代イスラエルの旧約聖書の預言者たちだった。
人権も憲法もない古代イスラエル国家の圧制のもとで、思い切り逡巡しながらも、圧制に抵抗して避難(出エジプト)を説き、実行に移したモーセ。「暗い見通しの中で希望を語り続けた」預言者エレミヤたち。 
その中で、日本の映画・ドラマは観ることができなくなり、唯一、惹きつけられたのは韓国のドラマ「エデンの東」「カインとアベル」。


「エデンの東」第2回「父の死」
そこには、お前が死んでも墓を暴いてでも復讐するといった不退転の執念が描かれていた。
そこに登場したのがソ・ジソブ。
彼の演技を超えたリアリティに一も二もなく惹きつけられた。
そのあとの彼が出演するドラマにも惹きつけられた(「ゴメン愛してる」「バリの出来事」)。
それは市民の手で独裁制を退場させた1987年の民主化後の韓国が舞台だったが、彼が演じる登場人物はみんな民主化された韓国の中での悲劇・苦悩を象徴的に示していた。

それは、昨夏気づいた「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」の塀の中に生きる悲劇・苦悩だった。
だが、その悲劇・苦悩を演じるジソブ自身の次第にその殺伐としていく風貌を見ていて、彼は実生活の中で、その悲劇・苦悩に耐えられず、押しつぶされてしまうのではないかと思った。

……しかし、とうとう彼は同伴者を見出した。
四半世紀前の盟友パク・ヨンハの自死を乗り越えて、新しい絆を作っていこうと一歩前に出た彼に心から祝福したいと思った。
そして、ジソブ、もう一歩前にーー君がドラマで散々演じてきた舞台、現在の韓国=「もうひとつの独裁制」である「脳化社会」、その塀の外に出ることをめざそう、今度は同伴者もいるし。

2025年2月11日火曜日

【第88話】2025年の気づき7:10年ぶりにノーム・チョムスキーの可能性の中心が見つかった気がした(25.2.11)

これまで、頭の中がグジャグジャになり、「幕末の黒船のごとく、能天気に眠りこける私の脳天を一挙に打ち砕いた」衝撃的な体験が3回あった。1つめは1989年6月、中国国家が市民を虐殺した「天安門事件」。2つめは、2003年3月、アメリカ国家がイラクを侵略した事件。3つめが2011年3月に発生した福島原発事故。

1つめの「天安門事件」のあと、柄谷行人しか読むに値するものはなかった>駄文(そして30年後、「天安門事件」の意味を丸山眞男から教わった>こちら)。
2つめの米国のイラク侵略のあと、「アメリカこそ世界最悪のテロ国家」(リトルモア)と喝破したアメリカ人のチョムスキーしか読むに値するものはなかった。マスコミはマスゴミとして読まず、彼のアーカイブ(>HP)もしくはデモクラシーナウ(>HP)にアクセスするしかないと思った。

3つめの福島原発事故のあと申し立てたふくしま集団疎開裁判の支援のために、チョムスキーに連絡を取ろうと思い、2012年1月、彼からメッセージが届いた。それは2千数百年前の古代イスラエルの旧約聖書に登場する預言者のような次の言葉だった。

社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはなく、許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。日本にとって、そして世界中の私たち全員にとって、この裁判は失敗が許されないテスト(試練)なのです。」(2012年1月12日>原文

その後も、集団疎開裁判の節目節目に、彼はこのような明快なメッセージを寄せてくれた。


福島のような大惨事を防ぐために解決しなくてはいけない、化石燃料、原子力、代替エネルギーや組織にまつわる問題が山済みであることは事実ですが、一部の問題はとても緊急を要するもので、他のいかなることよりも最優先されなくてはいけないことの第一は、 被ばくの深刻な脅威にさらされている数十万の子どもたちを救うことです。
 
この緊急の課題に対して解決策を見つけ、政府にそれをさせるためのプレッシャーを日本の市民の力でかけなくてはいけません。そして、その非常に重要な取組みに、私も支援できることを望んでいます。

そして、第二次疎開裁判の原告探しが困難な状況の中にあったとき、2014年3月、来日したチョムスキーの激励を受け(以下の面会)、決意を新たにして原告探しに励み、同年8月、第二次疎開裁判=子ども脱被ばく裁判の提訴に漕ぎ着けた。


しかし、子ども脱被ばく裁判の審理が開始されたあと、チョムスキーへの依頼がパタッと途絶えた。最大の理由は、緊急の仮処分を求めた最初の疎開裁判と異なり、今度の裁判が科学裁判として問題の解明にかなりの時間を要する長期戦となったため、彼に緊急アピールを求める局面がなくなったことによる(ただし、チェルノブイリ法日本版の会の節目にはその都度、彼から暖かい激励のメッセージが寄せられた>2018.3結成集会。2019.8直接請求アクション

そうこうしているうちに10年が経った。
ここしばらく、子ども脱被ばく裁判の振り返りをする中で、自分がいかにチョムスキーに支えられてきたか、改めて思い知り、今、再び、彼の存在が何であったのか、とりわけ昨夏遭遇した「脳化社会」論からみて彼は何であったのか、これを自問自答のように考えてきた。

実は、チョムスキーが明らかにするアメリカ国家の欺瞞性、悪辣さぶりは、それがアメリカ国家の正体を暴くものとして文句なしに重要だと思う反面、次第に、それだけでは何か足りない、この悪を克服するためには、さらに何かが付け加わらないとダメではないかと物足りなく思うようになった。しかし、私自身がその足りないものが何か分からず、ボーとしたまま時間が経過した。昨夏、「脳化社会」論に出会ったとき、これがチョムスキーに対して私が物足りないと思っていたこと(の1つ)ではないかと思った。
そこで、私はひとまずチョムスキーから離れて、自分で「
脳化社会」論から311後の日本社会を認識してみようと思った。
そして、たまたま今日、デモクラシーナウの以下の動画(ハワード・ジンと出演)を観た。
In Rare Joint Interview, Noam Chomsky and Howard Zinn on Iraq, Vietnam, Activism and History(2007年4月16日)


それは例によって、アメリカ国家ら権力者たちの欺瞞を暴くものだったが、チョムスキーの姿勢が改めてとても印象に残った。それが、まるで狼が獲物を嗅ぎつけるように、権力者たちの欺瞞をこれでもかこれでもかとくんくん嗅ぎつける彼の執念だった。その執念は「脳化社会」の塀の中の人間の振る舞いというより、「脳化社会」の塀の外の自然界に住む生き物の振る舞いのように思えた。

思い起こせば、彼の生い立ちがそもそも「脳化社会」の塀の中の人間の振る舞いではなかった。小さい頃から自分のしたいこと、欲することしか関心がなくて、大学も教室の正規の授業なぞ全く無視して、気に入った教師の家に入り浸って、興味の向くままに学びをしてきた。殆ど野良犬みたいな学生だった。

彼が理想とするアナーキズムも、普通のそれとはかなり異質だ。インタビューで、こう答えている。
生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」 

つまり、彼が理想とすることは、抑圧、人権侵害に反抗、抵抗すること、その実行にのみ自由、人権保障の意味があると考えていること。最初から自由、人権があるのではなく、抑圧、人権侵害への反抗・抵抗を通じてのみ初めて自由、人権が見出せる、と。
人権のエッセンスは抵抗権にある(宮沢俊義)、彼のアナーキズムのエッセンスもこれと同じだ。昨年出版したブックレット「わたしたちは見ている」のエッセンス=人権侵害と抗うことを通じて人権保障を実現する、これと彼のアナーキズムのエッセンスも同じだ。


確かに、チョムスキーは「脳化社会」批判を口にしない(私が知る限り)。しかし、そうだとしても、彼自身の生き方そのものが「脳化社会」の塀の外の自然界に住む生き物の振る舞いであって、この意味で「脳化社会」批判なんだ。

彼が権力者たちの欺瞞を、狼が獲物を嗅ぎつけるように飽くなく嗅ぎつけたように、私も「脳化社会」の破綻をくんくん嗅ぎつける努力をすることーーそれが今、彼から授かった最大の宝物という気がする。

2025年2月10日月曜日

【第87話】2025年の気づき6:昨年出版したブックレット「わたしたちは見ている」のエッセンスを12年前の官邸前アクションで語っていた(25.2.11)

昨年出版したブックレット「わたしたちは見ている」のエッセンスは、
原発事故の救済は政策論争のレベルのことではなく、人権問題のレベルのことだ。
だから、原理的に賛成・反対はあり得ず、誰も反対しない、できない問題だ。
しかし、現実には、この問題は国政に大きな影響をもたらす、という理由で、様々な思惑、政争に絡め取られて、結果的には、救済がボイコットされ、途方もない人権侵害が放置されている。
いま改めて、
原発事故の救済を正しく、人権侵害の救済の問題として解決すべきだ。

ところが、これと同じことを既に、12年前の2012年のふくしま集団疎開裁判の二審の官邸前アクション(2012年9月28日)の中で語っていたことを発見(以下の動画)。
本来、人権問題であるのを、政策問題にすり替えて、子どもたちの命、健康が脅かされている。この由々しい事態は断じて許されないと。 

本来なら、このエッセンスをその後も我々の根本の主張して、一貫して強調、主張すべきだった(なぜ、それが出来なかったのか。ひとつは人権の認識が弱かった、表面的だった)。


    2012年9月28日 ふくしま集団疎開〜明日、仙台高裁で審尋(Ourplanet-TV)

【第86話】パンセ:311後の日本社会からAIを評価する「AIは人類の希望の星なのか、それとも絶滅の道具なのか」(25.2.11)


ベランダにやってきた沈思黙考中のカエル
 
今朝、ベランダにやってきた朝飯中のヒヨドリ

AIをボロ糞に言う人がいる。
しかし、AIが無条件にボロ糞なわけではない。でなかったら、ここまでAIが人々に使われるはずがないから。
AIに使用価値があるとしたら、それはコンピュータやインターネットという脳化世界の中で、膨大な情報から必要なものを取り出してくる検索機能にある。原理的にそれ以上でもそれ以下でもない。

世のAI学者は一生懸命、検索機能に学習機能を付け足して、検索機能の精度をあげようとする。確かに精度はあがるかもしれない。けれど、それだけ。所詮、脳化社会の中での精度の向上でしかない。

ひとたび、脳化世界の塀の外の自然世界に出たなら、この自然世界に対しては、そんな検索機能も学習機能もーー全く無力だとは言わないがーー脳化世界の中で発揮するような精度は全く保障されない。そんな論理一辺倒で割り切れるほど、自然世界は単純ではないから(それは福島原発事故の収拾の陣頭指揮に立って亡くなった吉田所長の証言に赤裸々に示されている)。

この訓えを忘れて、脳化世界の中でAIが発揮する成果がそのままその塀の外の自然界でも通用すると思い込むとき、それが「安全神話に眠り込む」ということだ。それが破綻したことは2011年3月11日の福島原発事故の発生で証明された。

にもかかわらず、そのあとすぐに、この安全神話が復活した。今度は原発事故の健康への影響をめぐって健康被害のデータがないからという恐ろしく貧しい理由で。 脳化世界で重宝されるデータが脳化世界の塀の中でひとつの約束事としてそれなりに通用するのを一概に否定はしない。けれど、それが脳化世界の塀の外の自然世界にそのまま通用するほど、自然世界は単純ではない。

しかし、脳化世界に生きる人たちは、絶えず、この「安全神話に眠り込む」ようにコントロールされている。この刷り込み(マインドコントール)は、これまでやられてきた宗教(オウム真理教、統一教会など)や政治(ヒットラー、スターリンなど)のどんなマインドコントロールよりもずっと精巧で、陰湿で、強力だ。だから、人々はいとも簡単に、自分が住んでいる脳化世界がこの世の世界だと信じ込んでしまう。しかし、これは地球誕生以来、厳然と存在し続けてきた自然世界をじわじわと浸潤してきた人工世界のことなのだ。

この脳化世界と自然世界の厳然たるちがいを忘れて、 人がAIやデータに依存し、これらに支配された脳化世界に安住し続けるとき、そのとき、養老孟司が警鐘を鳴らしたように、「AI支配でヒトは死ぬ」。

それは誇張でもハッタリでも何でもない。

311を経験し、原発事故の救済を何一つ出来ないでいる私たちはいま、脳化世界の成れの果てに立っている。

           

【第86話】2025年の気づき5:「市民立法」のエッセンスを司法で実現していたのが2012年の「世界市民法廷」(25.2.10)

 以下は、2012年のふくしま集団疎開裁判の「世界市民法廷」その可能性の中心を探る試み。

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「市民立法」のエッセンスは「市民の自己統治」。自分たちの暮らしは自分たちで考え、他人に決定されるのではなく、自分自身で決定する(自己決定)。

それは現代の代表民主制、分業社会では容易なことではない。しかし、社会の大変動のとき、カタストロフィー(大災害)のとき、代表民主制・分業社会の機能不全が露わになったら、「生きる」ことを放棄しない限り、その時には「市民の自己統治」に戻るしかない。
その「市民の自己統治」を立法(法律を作る)場面で実行するのが「市民立法」。
これを、政府が機能不全に陥っている原発事故の救済で具体化しようとしてするのが市民立法「チェルノブイリ法日本版」の運動。

だったら、「市民の自己統治」を司法(法律を適用する)場面で実行するのは「市民法廷」。
だったら、2012年2月・3月に東京と郡山でやった「世界市民法廷」は、裁判所が機能不全に陥っている原発事故の救済で「市民の自己統治」を具体化したものだ。

つまり2012年に、私たちは、「市民立法」の司法版を知らないうちに実行していた。

道理で、「世界市民法廷」を開催したあと、今まで経験したことのないほどの充実感、ものすごい手ごたえを感じた。その手ごたえは、市民がみずから自己統治を実行していたからなんだと今、気 がついた。

だとしたら、市民立法の新しいビジョンも先行した「(世界)市民法廷」から与えられる気がした。それが、市民が自分たちで法律を制定するプロセスを「(世界)市民法廷」のように、演劇のカタチで市民の前に発表するというもの。そして、その市民立法の演劇を観た市民が、一種の陪審員(主権者)として、私たちが発表した市民立法に是か非かの評決を下す(もちろん理由も述べて)。
採決は「世界市民法廷」の評決のように公表され、公表された一覧表を世界中の市民が眺めて、そこで理解を深め、自らも評決を投じる。

こうした方式は「世界市民法廷」でやってきたことだが(>こちら)、これがひとつひとつ「市民の自己統治」を具体化するものであるなら、これらは「市民立法」にも応用できるのではないか。その気づきの前に戦慄が……(続く) 

【第130話】つぶやき(その6):世界感覚の重要性その続き(2026.5.30)

【第124話】 つぶやき(その5) で記した、パスカルの、1654年11月23日のメモについての以下のコメント。 同感。 世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。 私も肌身離さず持とう。 それを思い知る。 その後、この世界感覚に...