2025年5月2日金曜日

【第103話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(6)」対症療法が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.2)

 私事で恐縮だが、1週間前、ノートパソコンのメール保存用のドライブが満杯寸前となり、赤信号がともったので、容量を増やすために、ほかのドライブで容量が余っている部分をこちらに移動しようと、久々にパーティション用のソフトを使って操作したところ、再起動したらCドライブ以外のドライブ(文書関係もチェルノブイリ法日本版の関係のデータも)がすべて消えてしまった。モノグサな性格のため、パーティション用のソフトの使用方法をしっかり再読せず、うろ覚えで操作したため、どこかでエラーをおかしたらしい。思ってもみない異常事態に愕然とし、それから丸2日間、ベトナムで暮らす息子の同級生にアドバイスをもらいながら復旧作業に追われた。3日目の朝、半ばヤケクソ・神頼みの積りでやった「ドライブの再割り当て」で、消えたドライブが復活(PC上で認識)した。
解決の途端、それまでの緊張が一気に緩み、腰痛になり、心身にえらくこたえたことが自覚された。
そのとき、つい先日の高速道路のETCのトラブル(4日後の時点で原因不明)、
埼玉県八潮市で発生した下水道管破損のトラブルが思い出された(「本格的な復旧までは、急いでも3年程度かかる」)。さらには、タービン発電機の発電試験というたった1分未満のありふれた実験中に、原子炉の出力が暴走し、あわや欧州全土で人が住めなくなる大惨事寸前までいったチェルノブイリ原発事故が思い出された。

それまで自分のパソコンのトラブルをこのように大規模トラブル・事故とつなげて考えたことがなかったのに、このときばかりはつなげて考えないではおれなかった。その訳は昨夏、養老孟司の「脳化社会」論を知ったためである。徹底的に効率を追求し、高度の情報管理システムで回っている今の情報化社会が「脳化社会」の行き着いた先であり、この点では規模はちがってもパソコンのシステムも変わらない。それは一方で高速の情報処理を実現して我々に恩恵をもたらしてくれると同時に、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには、ときとしてシステムは暴走し、それまで被ってきた恩恵をチャラにするほどの桁違いの障害、トラブルを引き起こす。 

その意味で、「脳化社会」が行き着いた先である私たちの情報化社会とは、一見、快適に見える日常生活の足元で、ひとたび不具合・トラブルが発生したあかつきには想定外の異常事態に至るリスクをはらんでいる「板子一枚下は地獄」の世界である。

そして、私はこれまで、この
「板子一枚下は地獄」を自覚しないまま、パソコンの不具合・トラブルが発生したら、そのつど、泥縄式に復旧に励んで、あとは温泉でもつかってストレスを回復してきた。しかし、養老孟司の「脳化社会」論を知った以上、これが対症療法でしかなく、根本的には「脳化社会」の構造的な問題の解決には指一本、関わっていないということは明らかだった。そして、その場しのぎのお茶を濁す自分の態度に耐えられなくなった。
なぜなら、
私の態度は今の社会の態度と変わらないからーー今の社会は「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、そこから発生する途方もないカタストロフィーや災害、事故(原発事故、コロナ、ピーファスなど)に対症療法でお茶を濁して済まそうとしているからだ。とりあえず当座のトラブルは収めたかもしれないが、構造的な問題には指一本対策を取らない。その結果、同様のトラブルを対症療法でだましだましし、先送りしているにすぎない。

第100話】で書いた通り、私たちは「脳化社会」号という巨大船舶の乗客であり、この船舶は先端科学技術を備えれば備えるほど難破したときの被害の甚大さは測り知れない。
これに対し、これまで対症療法でも何とかやってこれたんだから、これからも対症療法でいけばいいし、それしかないと考える人がいる。とくに科学技術による経済的繁栄に打ち込んできた人たちはーー自身を否定しないためにもーーそう考える傾向がある。
しかし、その対症療法が結局、「脳化社会」の構造的な問題に目をつぶり、先端科学技術の暴走を抜本的に止めることにならず、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めてきたのではないか。
福島原発事故への対策と救済も同様だ。原発事故直後の事故対策が対症療法であったのはやむを得ないとしても、その後14年経った今日まで、原発事故の構造的な問題にまでメスを入れて抜本的な対策を講じる話は聞いたことがない。みんなその場しのぎでお茶を濁して一件落着としている、つまりずっと対症療法を続けている。
その態度は原発事故の救済でも同様だ。原発事故の救済を、この間の対症療法的なやり方を振り返り、原発事故の構造的な問題を踏まえて、抜本的な救済のシステムを構築するという話も聞いたことがない。子ども被災者支援法は生きているらしいが、その関係省庁の役人が抜本的な救済のシステムの構築に向けて検討を進めているという話も聞いたことがない。ここでも過去の対症療法的な救済で一丁上がりとしている。

どこもかしこも対症療法が蔓延している。
そして、この態度こそ原発事故の構造的な問題に目をつぶり、人類を絶滅危惧種にまで追い詰めるのではないか。
人類の破滅的な事態が発生してから、やっぱり対症療法ではダメだったと悔い改めるような真似は断じてしたくない。


2025年5月1日木曜日

【第102話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(5)」新・学問のすすめと偽善のすすめ(25.5.1)

 【第101話】で、習慣がいかに人々を破滅の淵に引きづり込むかについて述べた。次の問題は、出現した「新しい現実の危険」に対し、習慣に依存せず、どうやって「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を実行したらよいか。

その答えは、「新しい認識」は新・学問のすすめによって、「新しい態度」は偽善のすすめによって実行することである。

1、新・封建時代における新たな学び=新・学問のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得するためには、結局のところ、私たち自身がみずから自分の頭を使って学ぶしかない。
その手引きとして思いついたのが、150年以上前の明治5年に出版され、当時の全国民の10人に1人が買った計算になる300万部以上売れたといわれる福沢諭吉の「学問のすすめ」。それは「権威への服従」を中心的な価値観とする封建社会を否定し、個人の自由、独立、平等を基本理念とする近代民主主義国家が始まったことを説き、理念として掲げられた個人の自由、独立、平等が絵に描いた餅にならないために、学問を通じた個人の見識により、個人の自由、独立、平等を確保しようとしたもの。
それは、権力者、専門家の「権威への服従」がはびこる150年後の今日(それは再び身分が幅を利かせる新・封建時代)において、再び、市民が個人の自由、独立、平等を回復するために何が必要であるかを考える上で大いに示唆されるもの。

2、「ホンネの時代」における偽善のすすめ
「新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」を獲得したとして、それで終わりなのではなく、獲得した「新しい認識」に従って、社会を「新しく作り直す」必要がある。
そのために何が必要か。とりわけ日本では「偽善」が必要である。だから「偽善のすすめ」である。

今では誰も思いださないかもしれないが、20世紀末から21世紀初頭にかけて、21世紀を「変革の世紀」にするためのビジョン、構想、アイデアをめぐって熱い議論が戦わされた(例えば、2002年放送NHKスペ「変革の世紀」)。
そのひとつが柄谷行人と浅田彰の対話「ホンネ」の共同体を超えて(「歴史の終わりと世紀末の世界」所収)だった。
最近、四半世紀ぶりにこれを再読し、こう思い直すようになった。
現代はトランプ政権に象徴されるように「混迷の世紀」と言われるが、なぜ今、ここまで暗黒の「混迷の世紀」の現実が存在するのか。それはこの暗黒の現実をひっくり返すためである。そのためのビジョン、構想、アイデアが四半世紀前に「変革の世紀」として準備されてきた。
「変革の世紀」のビジョン等は、これまで倉庫に眠っていた。しかし今、これを現実化するために「混迷の世紀」が用意されたのだと。

以下は、柄谷行人の対話を「偽善のすすめ」として構成したもの。

日本には昔から、理想・理念を言うと偽善になってしまうから、偽善になるよりは(トランプみたいに)正直に悪=現実の力関係でいたほうがいいという風潮がある。確かに、人権なんて言っている連中の実際にやっていることを見れば偽善に決まっている。
しかし、それでもなお、偽善は必要だ。なぜなら、その偽善を徹底すれば、少なくとも善をめざしている限り、そこには「向上心」があるから。向上心がある限り、現実をみて「これではいかん」という否定的な契機がいつか出てくる。そこから現実を変革する突破口が生まれるから。
これに対し、それは偽善でしかないとあきらめてしまったら、そこには「向上心」は生まれない。向上心がないから、現実をみても「どうせこんなものだ」としか思わず、「これではいかん」という否定的な契機が生まれない。結局、今あることの全面的な肯定にしかならない。
それよりは、どんなに馬鹿にされ嫌われようが、偽善でいたほうがいい。

この意味で、チェルノブイリ法日本版のメンバーは全員、偽善者。
偽善者と言われることを恐れない人たち。
彼らは「向上心」を持ち続けたいと思っている。現実をみて「どうせこんなものだ」なんて思えない。「これではいかん」という否定的な契機を持ち続けようとしている。そこから現実を変革する突破口を見つけ出そうと「新・学問のすすめ」をしながら日夜思案している。

「混迷の世紀」の今こそ、四半世紀前に議論された「変革の世紀」の実践が求められている。その最も大事なひとつが、「向上心」を持ち続ける「偽善のすすめ」だ。

 

 

【第101話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(4)」習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む(25.5.1)

 【第97話】で、習慣が人々の命をいとも簡単に奪った事実についてこう述べた。

(塹壕戦の中で)塹壕を突破するために新たな兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
ところが、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、従来の
習慣に従って兵士中心の戦法を漫然と取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。

習慣が出現した「新たな現実」を認識できず、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。その悲惨な現実を次の映像が捉えている(映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」47分~)。

 


 



しかし、これは何も百年前の出来事に限らない。現在も進行中だ。
なぜなら、311福島原発事故を経験した私たちもまた、大気中に大量に放出された放射能の健康影響がどんなものか、その破壊力を理解し切れず、専門家がまことしやかにのたまう「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった発言にホッとして、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線のように考えてしまっているからだ。
第一次世界大戦がそれまでの兵士による限定戦争が国家あげての総力戦に一変し、兵士のみならず女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が無差別大量殺戮兵器の危険にさらされたとき、人類は絶滅危惧種の仲間入りをした。だとすれば、百年後に、福島原発事故により大量の放射能が大気中に放出され、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、日本人もやはり絶滅危惧種の仲間入りをしたのだ。

第一次世界大戦が悲惨だったのは、「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を取ることが出来ず、習慣に従って旧態依然の態度を取り続けたことだった。習慣が兵士や市民を途方もない破滅に導いた。

だが、当時の兵士や市民の破滅は対岸の火事ではない。私たちが、日本史で過去に経験したことのない過酷事故を311で経験し、国民が放射能による無差別大量攻撃の危険にさらされたとき、私たちはこの「出現した新しい現実の危険」に相応しい「新しい認識」そして「新しい態度」を果たして取っただろうか。「ニコニコ笑っている人には放射能の影響は来ません」といった専門家の発言にホッとして、原発事故に対して、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として「旧態依然の態度」を取り続けたのではないか。人々が最終的に頼ったのは習慣ではなかったか。

「新しい酒は新しい革袋に盛れ」
第一次世界大戦も原発事故も、それまでの戦争、それまでの事故、災害の概念を覆す、新しい酒だった。
この新しい酒(現実)に対しては、新しい革袋(対策)に盛る必要があるのだ。
それをしない限り、漫然と習慣に従って古い革袋に盛り続ける限り、その習慣は人々を破滅の淵に引きづり込む。
人類は、第一次世界大戦で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む悲惨な経験をした。
人類が、再び原発事故で習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む経験をするのは愚劣である。

2025年4月29日火曜日

【第100話】311後の日本人は今どこにいるのか?これからどこに向かうのか?「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~」(25.4.30)

今年で311から14年。これを戦前の歴史に当てはめると、満州事変勃発から終戦までに相当する。終戦で日本は天皇主権から国民主権に歴史が大転換したけれど、311から14年経った今年、そのような歴史の大転換は来るのだろうか。たとえ、来ないとしても、いつ、歴史の転換のようなものが訪れるのだろうか。
そういう気持ちから、311直後のことを振り返り、あの疾風怒濤の時間に匹敵する過去の歴史があるだろうか?と思ったとき、チェルノブイリ事故は当然として、それ以外にもあることに気がついた。それが第一次大戦。そこで、これと比較してみようと思った。すると、思いもよらない共通点が見つかった。それは311に対する私の認識を変えた。
雑文だが、今まで明確に出来なかった私の今後の行動を決定する、私にとって今までで一番重要な文。

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「311後の日本人」の起源は百年前の第一次大戦後の人類にある。

1、その理由は、
百年前の第一次大戦のとき、人類は先端科学技術を総動員して一般市民を無差別大量攻撃にさらすという前代未聞の危険な時代に突入した。311福島原発事故もまたその延長線上にある。

2、その帰結は、
その当時、第一次大戦の悲劇(危険性)を認識しなかった人類はその後もこの悲劇をくり返した。この意味で「世界の百年の悲劇はこの世界大戦から始まった」(新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~」)。
これと同じく、福島原発事故の悲劇を認識しない日本人は今後もこの悲劇をくり返す。日本の百年の悲劇は311から始まった。
具体的にそれは、日本人が絶滅危惧種の仲間入りをしたこと。
にもかかわらず、日本は、ウクライナが憲法を改正して、ウクライナ市民を絶滅危惧種から守ることを国家の義務と宣言した(ウクライナ憲法16条)のと正反対の態度を取り、その厳粛な現実から目を背け続けて、正真正銘の絶滅危惧種への途を突き進んでいる。

3、そこからの課題は、
この絶滅危惧種から抜け出すこと。
具体的には、放射能の危険から命、健康を守る社会システムを作り上げること。
それは市民が主導して実現するしかないこと。
私たちは、この厳粛な現実から目を背けない。

4、具体論
【第97話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(1)」311後の日本人は絶滅危惧種の仲間入りを果した
【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた
【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある
【第101話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(4)」習慣が人々を破滅の淵に引きづり込む
【第102話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(5)」新・学問のすすめと偽善のすすめ
【第103話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(6)」対症療法が人々を破滅の淵に引きづり込む

5、参考映像
新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~
映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~
NHKスペシャル終わりなき被爆との闘い~被爆者と医師の68年~

6、2つの現実、日常生活と非日常生活について
確かに、第一次世界大戦も第二次世界大戦も福島原発事故も現実の出来事だった。けれど、それは非日常の出来事であって、私たちの日常生活とは無縁の出来事。可哀相だけれど、それに遭遇した人たちは運が悪い、バッドタイミングだとしかいいようがないーー311から時間が過ぎるにつれ、このように思っている人がますます増えているように思う。

しかし、そこには根本的な思い違いがある。 私たちの日々の日常生活と目を覆いたくなる残虐な非日常の出来事(第一次・第二次世界大戦、福島原発事故)とは無関係どころか、実はコインの表と裏の関係にある。両者をつないでいるのが「脳化社会」。私たちの日常生活は朝目がさめてから夜眠りにつくまで100%「脳化社会」のインフラに依存している。そして、ひとたびこの「脳化社会」に不具合、暴走が起きると、コロナ禍や埼玉県八潮市の下水管破損事故のように、私たちを一気に非日常の異常事態の世界に引きずり込む。今、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、「脳化社会」号という巨大船舶の乗客であり、この船舶は先端科学技術を備えれば備えるほど難破したときの被害の甚大さは測り知れない。私たちは「脳化社会」に生きている限り、一寸先は闇=非日常の異常事態という現実を受け入れざるを得ない。

ウクライナ憲法16条(1996年)
ウクライナの環境を保全し、未曽有の災害であるチェルノブイリ事故への対策に取り組むこと、ウクライナ民族の子孫を守ること、これらは国家の義務である。

【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある(25.4.29)

それは少なくとも次の3つ。
1、ひとつは脱被ばくのアクション。
福島原発事故直後に原発で何が起きたのかを再認識し、
事故直後に政府、福島県、アメリカらは何をしたのかを再認識し、
それに対し、事故直後に市民はどう対処したのかを再認識し、
そこから市民は「何をなすべきだったのか」をつかむこと。
それは単に過去の振り返りにとどまらない。なぜなら、政府らは福島原発事故から学んで未来の原発事故に対処するから、市民もそれ以上に福島原発事故から学んで二度と後悔をしないように、来るべき原発事故への行動の指針を立てる必要がある。
そのために、この取り組みをおこなう。

2、2つ目は被ばくによる健康影響。
福島原発事故直後に、市民の健康影響(急性障害など)に何が起きたのかを再認識し、
のみならず、事故から中長期的な視野で、市民の健康影響に何が起きているのかを注意深く把握に努め、
それらに対し、世界の古今東西文明を問わず、可能なる対策として何があるのかすべての扉を叩いて探求に努めること(あたかも誰よりも熱心に内部被ばくの危険性に目を向けた肥田舜太郎さんが同時に、免疫力の増強に努める療法を熱心に推進したように)。

3、3つ目は脱被ばくによる生活再建のビジョン作りとネットワーク作り。
福島原発事故直後に、被ばくを避けるために避難したいと思ったにもかかわらず、避難出来なかった多くの人たち、或いはいったん避難したけれど、まもなく帰還を余儀なくされた多くの人たち。その人たちの避難を困難にさせた最大の要因は避難先で生活再建を実行する見通しだった。なぜなら、国も福島県も避難者が帰還するのなら協力するが、避難先で生活再建を果すことには徹底的に非協力的だったため、人々はもっぱら自力で生活再建を果すしかなく、ハードルが極めて高かったから。
チェルノブイリ法日本版は避難者が避難先で生活再建を果すことが可能になるように、国や自治体に必要なサポートをする法的な義務を負わせるもの(つまり生活再建権の保障)。
ただし、チェルノブイリ法日本版が避難者に血の通った生きた生活再建権を実現するためには、事前に、市民自身の手で、原発事故という国難に対して、市民型公共事業として避難者の生活再建を果すためのインフラ作り、ネットワーク作りを準備しておく必要がある。
そのために、どんなインフラ、どんなネットワーク作りが必要かについて、人類がこれまで、市民型公共事業の取組みとして実践してきた市民の相互扶助組織=協同組合を手がかりに、その設計図を作り、実際のネットワーク作りに着手することが来るべき未来の原発事故への備えとして求められる。

【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた(25.4.29)

 世界史の一大転換点となった第一次世界大戦。目を見張るのは、わずか4年の間に、戦争に投入された兵器が激変したこと。巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥かつて想像できなかったような新しい兵器が次々と矢継ぎ早に開発、投入され、戦争の概念が一変、兵士同士の戦いは兵器同士の戦いに変貌した。その急激な変貌に追いつかなかった現地の指揮官は習慣に縛られて旧来の人間中心の戦法に頼り、ために、莫大な数の兵士が命を落とした。これは明らかな人災、犯罪だった。

思うに、第一次世界大戦が始まったとき、時間の概念も一変した。大戦前の平時の時間に対し、大戦の異常事態のもとで猛烈なスピードの時間が出現した。 戦争の性格が軍人による限定戦から、国家総動員の総力戦に変貌したとき、戦争は国家の命運=生死を左右する決戦となったため、国家総動員として戦争に参加した全国民は文字通り死に物狂いの運命に巻き込まれた。なかでも、兵器開発こそ国家の命運=生死を左右する事業として最も熾烈な使命が与えられ、開発者はしのぎを削ったと思われる。それが短期間の間に、巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥と次々と新たな兵器が誕生した所以であった。

思うに、この時、人類は、死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げることができることを証明してみせた(もっとも、それらはいずれも人類を無差別大量に殺戮する道具だったが)。
これに対し、【第97話】で述べたように、第一次世界大戦に匹敵する福島原発事故のあと、人類は、原発事故の救済が必死に求められたにもかかわらず、はたして、それに応えるような発明、開発(それが途方もない発明とまではいわなくていいが)が成し遂げられただろうか。
そのような話は事故から4年どころか14年たった今もひとつとして聞かない。聞こえてくるのは福島原発事故の前に巨額をつぎ込んで開発したSPEEDIを事故後には活用が削除されたといったマイナスの話だけ。

そこから引き出す教訓の第1は、原発事故の救済に必要な発明、開発が求められているにもかかわらず何ひとつ実行出来ないのは、我々が原発事故後の世界に生きていけないこと=絶滅危惧種の仲間入りをしたことを証明したものである。
第2は、 原発事故の救済に必要な装置、システムの発明、開発を政府に依存・期待しても永遠に不可能であり、それを可能にする唯一の道は市民が自らが取り組む市民型公共事業の中にしかないということ。人類が死に物狂いになって取り組むとき、それは途方もない力を発揮し、求めに応じた発明、開発をやってのける。
かつて、それは(使われ方はネガティブなものだったが)第一次世界大戦で証明された。
現代において、それは(死に物狂いではなかったかもしれないが)市民の創造力が結集されたリナックスの体験からも明らかだ。この意味で市民型公共事業は原発事故後の世界を照らす希望の星だ。

【第97話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(1)」311後の日本人は絶滅危惧種の仲間入りを果した(25.4.29)

【第98話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(2)」人類は死に物狂いのときには途方もない発明・開発を成し遂げた
【第99話】「百年の悲劇はここから始まった~福島原発事故~(3)」311後の日本人にやれることがまだある

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311後の日本社会とはなにか。
それは、311後の日本人が絶滅危惧種の仲間入りをしたことである。
それは「原発事故は見えない未知の世界戦争である」ことから引き出せる。

311福島原発事故から14年。福島原発事故が何であったのか、その結果、日本社会はどうなったのか。その正体が分かるまで百年かかるかもしれない。以下は、現時点で突き止められる範囲で福島原発事故の正体を突き止めようとしたメモ。

かつて、もし第三次世界大戦になったら人類は絶滅するだろうと言われた。
そのとき、人々は第三次世界大戦を第一次、第二次世界大戦の延長のようにイメージしていたと思う。
だが、第三次世界大戦とはどのようなものであるのか、実は誰もその正体を知らなかった。
原爆という最終兵器が「核の平和的利用」という美名のもとに生まれ変わるように、第三次世界大戦も変貌を遂げるのだ。
それが原発事故。
たった1分足らずの実験でヨーロッパ全土が人が住めなくなる寸前までいったチェルノブイリ原発事故。
2号機に水が注入できず、あわやメルトダウンして東日本壊滅の危機に瀕した福島原発事故。
それは放射能による人体への無差別大量攻撃という、もうひとつの世界大戦=第三次世界大戦として出現した。しかも、今度は終戦という終わりがなく、放射能という目に見えない長期間にわたる廃墟をもたらす未知の戦争として。

何よりも恐ろしいのは、
私たちがこの「目に見えない長期間にわたる廃墟をもたらす未知の戦争」の正体を殆ど知らないことだ。
そのために、この廃墟のせいで、私たちがどれくらい深刻な健康被害を被るのか、その予測も殆ど「真っ暗闇」の中だ。
そこで、つい考え込んでしまうーー311直後に流布した「健康に直ちに影響はありません」という言葉に再びすがって、根無し草のように行き当たりばったりで当座の生活をしのいでいくしかないのかと。
しかし、そう思う前にまだやれることがある。
そのひとつが、原発事故を百年ちょっと前の第一次世界大戦と比較し、そこから原発事故の正体について手がかりを掴むこと。

第一次世界大戦とは何か。
それは世界史の巨大な一大転換点。ここで人類は経験したことのない悲鳴をあげた。このとき、人類の歴史は決定的に変わった。
疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)とはこの戦争のために発明された言葉のように思える。この時、世界は以下のように一変した。
それまでの限定戦から国家あげての総力戦が出現し、戦争の性格が一変した。
その結果、敵は「相手国のすべての国民」となり、女・子ども・年寄りも含めたすべての国民に対する無差別大量殺戮戦争が出現した。
機関銃の出現により、戦法もそれまでの騎兵と歩兵による短期決戦(会戦)ではなく、機関銃攻撃から身を守る塹壕戦へ、その結果、前線の膠着により前例のない長期にわたる消耗戦が出現した。
その塹壕を突破するために新兵器が次々と開発された。それが巨砲、毒ガス、戦車、飛行機‥‥。
その結果、戦争はそれまでの兵士(歩兵・騎兵)同士の戦いではなく、兵器同士の戦いに変貌した。
しかし、指揮官は次々と投入される新兵器の持つ破壊力を理解し切れず、漫然と従来の習慣に従って兵士中心の戦法を取り続けた。その結果、兵士は無差別大量殺戮の新兵器の前にバタバタと命を落し、経験したことのないような傷を負った。
参考動画:映像の世紀2「大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器の出現を見た~」(47分からの場面)

この映像に映る、無差別大量殺戮の砲弾の中をチョロチョロ走り回っては虫けらのように吹き飛ばされていく兵士(人間)たち。彼らの惨憺たる姿から私は、このとき、人類が絶滅危惧種の仲間入りしたことを知らされた。
そう思ったのは私だけではない。大戦直後に欧州を訪問した若き昭和天皇も次のような文を残した(新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~」(39分から))。
破壊せられたる諸都市、
荒廃したる諸森林、
蹂躙せられたる田野の景は、
戦争を讃美し、暴力を謳歌する者の眼には如何に映ずべきか。


同時にこれは、まさに百年後の311福島原発事故を経験した私たちが大気中に大量に放出された放射能の健康影響の深刻さを理解し切れず、漫然と従来の習慣に従って、それまでの自然災害、人災の延長線として済まそうとする姿とそっくりそのままだ。
このとき、311後の私たちも百年前の第一次世界大戦と同様、絶滅危惧種の仲間入りしたのではないか。
それがどれだけ危険で、無謀な態度であるか、それは百年たった時に明らかにされるだろう。しかし、今でもそれを予知することは可能なのだ。
それが、広島、長崎の原爆投下。そこで被爆した人たちの80年間の経験。
例えば、以下のドキュメンタリーは、放射能が時限爆弾として長い時間をかけて被爆者の健康被害をもたらす実相を伝えている。

NHKスペシャル終わりなき被爆との闘い~被爆者と医師の68年~

他方、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故も、私たちの普段の日常生活とは隔絶した、特別な出来事であると考える人がいて、その人にとってはこう思えるかもしれないーー311後の日本社会、少なくともここ10年は日常生活が続く毎日であって、もはや非日常の「戦争」状態ではない、だから日常生活を送っている者に非日常の原発事故のことを考えろというのは無理難題だと。

私もずっとそのように考えてきた。しかし、つい先日、その考えは根本的に間違えているのではないかと気がついた。なぜなら、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故もある日、突然、ポッと出現した訳ではなく、それまでの日々の政治、経済の積み重ねを踏まえて出現したもので、それらが途方もない破壊的な暴力を秘めていたとしても、それは偶然ではなく、あくまでもそれまでの日々の先端科学技術の積み重ねの末に出現したからだ。
つまり、第一次世界大戦も第二次世界大戦も原発事故も、日常的な政治、経済、先端科学技術の積み重ねの中から出現した非日常的な出来事なのだ。言い換えれば、現代の私たちの日常生活は知らずして高度に組織化、管理化されたいわば「脳化社会」のシステムをインフラにして営まれている。それが平穏に推移するときには日常生活を送れるが、ひとたび「脳化社会」のシステムに不具合が発生したり、暴走した時(コロナ禍のように)には私たちの日常生活は吹き飛び、一気に非日常の事態に陥る。それが高度に組織化、管理化された「脳化社会」の宿命であり、本質だ。
くり返すと、現代の私たちの日常生活もひと皮むけば、いつでも非日常生活を招くリスクを秘めている「脳化社会」というインフラに依存している。自分たちのなにげない日常生活も足元を見たら「板子一枚下は地獄」という非日常の原発事故などのリスクの中で営まれている。それが私たちの日常生活のリアルな正体である。
311後の日本社会は「板子一枚下は地獄」を顕在化した。311で、私たちはボーとしていると、それこそ放射能に根こそぎ命も健康も家族も奪われてしまう世界に突入したのだ。その意味で、311後の日本人は人類絶滅危惧種の仲間入りをしたと思う。

このシビアな認識を共有するかしないか、それはあなた自身が自己決定する問題である。





【第130話】つぶやき(その6):世界感覚の重要性その続き(2026.5.30)

【第124話】 つぶやき(その5) で記した、パスカルの、1654年11月23日のメモについての以下のコメント。 同感。 世界への感覚、これを日々、どこにいようとも、どう持つのかーーそれが根本的であり決定的なのだ。 私も肌身離さず持とう。 それを思い知る。 その後、この世界感覚に...