2025年1月31日金曜日

【第73話】「僕の森は戦場だった」:福島の木こりだった避難者が住まいの権利裁判で意見陳述(25.1.31)

今週1月27日に、東京地裁で、避難者が福島県を訴えた「住まいの権利裁判」(>2022年の提訴時の報告)の第12回目の弁論があり、その公開法廷で、郡山で木こりをしていた原告が意見陳述をした(全文>こちら)。裁判前のスピーチと裁判後の報告集会の動画(UPLAN提供)と裁判の提出資料は末尾。


6年前、東京の東雲国家公務員宿舎のそばで、この原告の人と初めて会ったときのことはよく覚えている。彼は私の「311まで何をしていたのですか?」の問いに、
「木こりです」
と答えた。百年前の宮沢賢治の童話(グスコーブドリの伝記やなめとこ山の熊)の世界からやってきたような彼の風貌と彼の職業がぴったり一致した。

しかし、これは現代の話だった。森の中で生計を立ててきた彼の人生は311で破壊される。放射能に汚染された森の中で生きていくことは不可能だったから。とりあえず落ち着いた避難先はそれまでの森の生活とは縁もゆかりもない都会の真っ只中。生活が一変し、心身ともに狂い出すのは必然。人に言えないその苦しみの中で、この裁判の原告になることは彼にとって生きる誇りを支える大切なものに思えた。
避難後ずっと体調がよくない中を、今回、初めて公開の法廷の場で意見陳述をするという機会を前に、原稿を作成し、27日の期日に裁判官の前で読み上げるために自分なりに万全の準備を心がけてきたことが、当日の、彼の全身から闘志みなぎる雰囲気から伝わってきた。

原発事故さえなければ、郡山で、ずっと自然豊かな山の暮らしを続けていた、こんな都会のど真ん中の裁判所の法廷で喋るなんてことはあり得なかった、「なんで、オレはここにいなければいけないんだ!」という理不尽さ、悔しさが陳述の随所に、全身からにじみ出るのが伝わってきた。

2年前、チリの詩人パブロ・ネルーダの
チリの森を知らないものは、この惑星がわからない
という言葉はこの人にピッタリ当てはまるのではないかと思い、
福島の森を知らないものは、この惑星がわからない

それで、ネルーダの詩を読んでいると、次の詩集があることを知った。
木こりよ めざめよ

それで、この一節をコピーして、あなたのことをうたった詩ですとこの人に渡した。 

私は、昨夏以降、「脳化社会」に安住して生きる生き方に心底嫌気が差し、脱「脳化社会」をめざす生き方にシフトしてきた。
それは現代社会の不登校児・異端児みたいなものだ。
しかし、その結果、他方で、宮沢賢治の世界にいるような「木こり」がまるで自分の本当に大切な親友に思えるようになった。

いま、私はこの原告が「木こり」であったことが誇らしい、
311の思いもよらない福島原発事故で都会の真っ只中にほおり込まれて、大変な苦しみの中にいながら、自身の矜持を失わずに、この日、法廷で自身の思いを堂々と陳述したことが本当に素晴らしいと思う。

この日の彼の証言は脳化社会に抵抗する日本の市民にとって、永久に胸に刻む価値のある、かけがいのない宝物だ。

       裁判前のスピーチ(東京地裁前)

       裁判後の報告集会(参議院議員会館)


提出書面
原告(避難者)準備書面(19)--真の争点形成に向けて一歩前に出る--
 被告県の争点整理案に対する応答が種々の点でおざなり、表面的なので、より充実した内容になるように再度の応答を求めて再質問したもの (全文>こちら)。

 
被告福島県 第11準備書面 

 前回期日に裁判所より被告に、原告準備書面(14)に対する認否とくに争う所を明らかにするように指示したのに対し、応答したもの。
 しかし、その内容は文字通り、内容のないもの(全文>こちら)。

2025年1月30日木曜日

【第72話】2025年の気づき4:永久保存版のコトバ「それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき」 (25.1.31)

 10年間かかった子ども脱被ばく裁判が昨年暮れの最高裁の棄却決定で幕を閉じた。いま、その振り返りをしていて、この裁判の出発点となった「ふくしま集団疎開裁判の2013年4月24日の仙台高裁決定」の前夜のアクション、疎開裁判のブログを振り返っていて、次の投稿に出くわした。

それでも、伝えたい福島の親の声:まえがきーー福島の人々はなぜ黙っているのかーー

福島の人々は好き好んで黙っている訳ではない。言葉に出来ないほどの苦しみ、つらさの中にいる。その苦しみ、つらさを乗り越えて語り出すのは並大抵の壁を乗り越えない限り不可能。

そして、それは福島に限らない。広島、長崎、沖縄で、筆舌を尽くしがたい体験をさせられた人々はいずれも、同様の思いを抱いている。

本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。」(「はだしのゲン」の作者中沢啓治の自伝)
私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。」(「原爆の子」より)
真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。」(阿波根昌鴻「米軍と農民」)

その上で、中沢啓治さんは、母の死で、焼き場で骨ひとつ残らなかったなきがらを見て「原爆はお袋の骨の髄まで奪った」 ことを知り、それから語り始めるようになり、「はだしのゲン」を描き始めた。

阿波根昌鴻さんも、こう書いて、米軍の人権侵害に抵抗する運動を続けた(詳細は>こちら)。

伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません-- その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。

この投稿は、過去についての出来事を語っているではない、今(2025年)から未来についての出来事を語っている。未来について考えない者は、過去の悲劇をもう一度くり返す。だから、それは永久に胸に刻むべきコトバだ。これを再掲する。

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     それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき

2013年1月13日 

まえがき

福島の人々はなぜ黙っているのか、なぜ被ばくについて喋らないのか、なぜもっと声をあげないのか--3.11以来ずっとこの問いがありました。
思うに、それは、福島の人たちが広島、長崎、沖縄の人たちと同じ経験をしてきたからです。

先ごろ亡くなった「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんは、「自伝」で、青春時代、原爆から逃げて逃げ回った自分について、こう語っています。

毎年、夏がくると「原爆!原爆!」とマスコミ等が騒ぎたて、私の気持ちは落ち込んで暗くなった。嫌でも広島の体験がよみがえり、やりきれない気持ちにさせられた。そして、自分が被ばくしたことで、なんか悪事を働いたような錯覚を覚えた。世の中の迷惑人間のように見る東京人の目の嫌らしさには、本当に腹が立った。‥‥
広島にいたとき原爆という言葉が嫌いで逃げていたが、東京に住んでからは、ますます原爆という言葉が嫌いになって逃げ回った。酒場や会合などで同県人だと聞かされると、原爆の話題が出ないことを祈るように願った。‥‥
私はもう二度と原爆という言葉を口にすまいと 決心した。本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。(185~186頁)
広島で原爆を体験した子供たちの作文を収録した 「原爆の子」(編者長田 新)で、兄を亡くした当時5歳の女の子は5年後にこう書いています。

私は、 戦争のことを考えたり、原子爆弾の落ちた日のことを思い出すのは、ほんとうにきらいです。ご本を読んでも、戦争のところはぬかして読んでいます。戦争のニュースで、朝鮮の戦争の場面が出てくると、ぞっとします。学校の宿題が出ましたので、いやいやながら、こわごわ思い出して書きます。‥‥
今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当をしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんだからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません。私の家に、そんなことがおきたらどうしよう。私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。‥‥
広島に八月六日にいた人は、だれでも戦争がきらいだと思います。附ぞく小学校も、まだ戦争でいたんだところが、そのままで、なおっていません。私の家がびんぼうになったのも、たくさんの借家がたおれたり、やけたりしたからです。
この八月六日は、お兄ちゃんの七周きです。その日が近づくとみんなが思い出すので、私はくるしく思います。(88~95頁)
沖縄戦を体験し、戦後、米軍に農地を強制的に取り上げられたの伊江島(いえしま)の西北端の真謝(まじゃ)の阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんは、1973年の「米軍と農民」で、沈黙する沖縄の人たちについて、こう書いています。

 真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっています。 真謝(まじゃ)農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。
だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません。(18頁)
 それから20年後に書いた「命こそ宝」でも、阿波根さんはなぜこの本を書いたのか、こう述べています。
かつてわしは、『米軍と農民』のはじめにこう書きました--伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません--
その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。(14頁)
 福島の人たちも変わらない。原発事故のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでした。それと同様に、事故後の「事故と被害を小さく見せる」ために襲いかかってきた数々の政策のことも話したがりません。みな、だまっています。 福島の人々は抵抗しました(福島県の健康管理調査に対して、23%しか回答しませんでした。国連人権理事会から日本に派遣された特別報告者も「大変低い数値」と指摘するほどです)。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのです。
だがその苦痛をふくめて、やはり福島の人たちは話さなければなりません。でなければ、福島でまた再び、広島、長崎、沖縄、伊江島、チェルノブイリの悲劇をくり返すことになるからです。

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2025年1月29日水曜日

【第71話】2025年の気づき3:このスピーチは過去の出来事を訴えているのではなく、未来の出来事について訴えている(25.1.29)

はっきり言って、福島原発事故のことは誰もが忘れたがっている。
それを責めることはできない。
だから、311からこの間語られてきた福島原発事故のことを封印するのは理解できる。
しかし
12年前の、2013年5月18日、ふくしま集団疎開裁判の第2回新宿デモ。
そのデモに北海道から参加した「チェルノブイリへのかけはし」の野呂美香さん。
彼女のデモ前スピーチを今、聞き直して、彼女は、2年前の過去の出来事を訴えているのではなく、私たちがこれから経験する未来の出来事について訴えているのだと気がついた()。
そう気がついたら、これは忘れるわけにはいかない。
封印したからといって、その出来事が起きなくなるわけではない。
どんなにいまわしいかもしれないが、日本中の市民が一度は耳を傾けて聴く価値があるスピーチだ。
そして、そのいまわしさをもたらす根本の原因と向き合う覚悟を持つ必要がある。
それを私は、「脳化社会」との対決に見出している。
それはもはや原発事故の被災者の問題ではなく、私たちひとりひとりが当事者として日々直面する問題である。


)それは、ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんと「モモ」の作家ミヒャエル・エンデの以下のコトバに触発されたもの。
人々はチェルノブイリのことは誰もが忘れたがっています。最初は、チェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだと分かると、今度は口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることは難しい。チェルノブイリは、私たちを、それまでの時代から別の時代へ連れていってしまったのです。その結果、私たちの目の前にあるのは、誰にとっても新しい現実です。‥‥
--ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私たちの避難場所です。信仰です。私たちは苦悩の催眠術にかかっている。‥‥
--何度もこんな気がしました。これは未来のことを書き記している‥‥》(「チェルノブイリの祈り」見落とされた歴史について--自分自身へのインタビュー 岩波現代文庫版32~33頁

この物語(注:モモ)を私は人から聞いたのを、そのまま記憶どおりに書いたものだからです。‥‥ある夜、私は汽車でひとりの奇妙な乗客と同じ車室に乗り合わせました。‥‥その夜の長い汽車旅の間に、私にこの物語を話してくれたのです。
話が終わったあと、私たちはふたりともしばらく黙っていました。するとこの謎めいた旅行者は、もう一言つけ加えたのです‥‥
「わたしは今の話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ」
》(「モモ」作者の短いあとがき より) 

【第70話】2025年の気づき2:「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」を紛争(住まいの権利裁判)に応用できるのではないか(25.1.29)

             ミネルヴァの梟(ルーヴル美術館蔵)

一昨日、避難者が福島県(以下では県)を訴えた住まいの権利裁判の第12回目の期日だった(2022年3月11日の提訴の報告>こちら)。
前回10月の期日で、県は原告避難者側で作成した争点整理案(>こちら)に対して、自分たちの主張を書き込んできた。しかし、その書きっぷりは一言でお粗末。いやいや、しぶしぶ、最低限の主張しか書かなかった。こんな上っ面のペラペラの争点整理では整理の意味がない。
逃げる福島県に対し、これでは真の争点整理にならないことを理由を示して詳細に説明し、真っ当な争点整理に向けて一歩前に出るために、県の不十分な主張に対して再回答を求める以下の書面(準備書面(19))を前回期日のあとすぐ提出した(その全文は>こちら


この書面を読んだ裁判所が、県に対し、次回までに、原告のリクエストに応答するように指示を出すことをひそかに期待して待った。しかし、指示はとうとう出なかった。一昨日の期日の時にも、法廷でこの書面の趣旨を説明し、改めて、裁判所に、この指示を出すことを求めた。しかし、裁判所はついぞ指示しなかった。

裁判所のこの対応については、優柔不断であるという評価から、無理もないのではないかといった評価まで複数の評価があり得るが、私自身に一番欠けていたのが「争点整理を充実したものに仕上げることがなぜ必要なのか」について、「マニュアルにそう書いてあるから」といった紋切り型の理由しか持ち合わせておらず、そのため、自分自身のコトバで裁判所を説得できなかった。この日、その点の至らなさを痛感し、そのあと、つらつらとその理由を考えた。

その中で、ひとつの理由に思い当たった。それが、丸山真男がヘーゲルの「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」という言葉に着目して、そこから次のような見解を展開していたことである。これを思い出したとき、この読み方は歴史のみならず紛争(ここでは裁判の争点整理)にも応用できるのではないかと思ったこと。

丸山真男集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-223

私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。‥‥哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10pp.222-223浅井基文のHPより)

そうだとしたら、紛争の構造の全的な解剖に成功すれば、それはその紛争が終焉に近づいたこと、つまり紛争の真の解決の証(あかし)を示すことができることを意味する。
この「紛争の構造の全的な解剖」とは争点整理、それも形式的、外形的な整理ではなく、当該紛争の構造を全的に解剖したと言えるほどに充実した、真の争点形成を実行した整理のことである。だから、県がやったようなおざなりのスカスカの争点整理では到底「紛争の構造の全的な解剖」足りえず、そこから、その紛争の終焉(=真の解決)の証を示すことは不可能である。

つまり、もし裁判所が当該紛争の真の解決を誠実に願うのであれば、必然的に、その争点整理を実りある充実したものに仕上げる必要があり、そのために精一杯努力を積み重ねるしかない。

紛争解決の場もまた「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」場なのだーーこれを裁判所に気づいてもらうことの大切さを、今日、痛感した。

ちなみに、丸山真男のポピュラーな著作「日本の思想」でも、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」について、以下の通り記述し、マルクスがあれほどまでに「資本論」に心血を注いだ動機を解明している。確かにこれならなるほどと合点できる。

一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開し終わったときに哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという(ヘーゲル主義の)立場を継承しながら、同時にこれを逆転させたところに(マルクス主義は)成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証となるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。」(39頁)。

 

2025年1月28日火曜日

【第69話】2025年の気づき1(ふくしま集団疎開裁判の振り返り):311後の日本社会=ゴミ屋敷の再建に必要でかつ十分なアクションとは何か(25.1.29)

判決直後アクション(2013.5.18新宿デモ。司会山本太郎>スピーチ全部
 

ケーテ・コルヴィッツ「種を粉に挽いてはならない」(1941年) 
「未来をつくる子どもたちを死に追いやってはならない」   

   

十数年ぶりに、ふくしま集団疎開裁判(ブログ>こちら)を振り返って、2013年4月24日の仙台高裁の決定が出た直後の「判決直後アクション」のひとつ5.18新宿デモの動画(>こちら)を観た。そしたらものすごく新鮮だった。そのとき、かつて経験したことのない気づきに襲われた。
それは、ここでスピーチする人たちのコトバは過去の出来事について語っているのではなくて、未来の出来事に向けて語っているのだという気づき。そのコトバは今を生きる私にとって、単に過去のなつかしい思い出ではなく、未来の実現に向けて、永久に記憶されるべき宝物だという気づき。

そのような宝物をもたらしたふくしま集団疎開裁判(そして、その続きの裁判である子ども脱被ばく裁判)とは何だったのか。
それは、単なる「避難」「脱被ばく」を訴える裁判ではなく、住まいを放射能汚染された人々があきらめの中で最後の拠り所にしていた「苦悩という避難場所」(スベトラーナ・アレクシェービッチ)から抜け出し、「現実の避難場所」に向かうアクションを呼びかけることを意味した(その詳細は>新老年【第32話】)。

それは311後の日本社会の再建にとって必要なアクションだった。けれど、今思うことは、それで十分ではなかった。では、何が足りなかったのか。

思うに、それは単に「集団疎開」=脱「被ばく」を訴えるだけでは足りなかった。汚染地に住む人々が「苦悩という避難場所」から抜け出し、「現実の避難場所」に向かうアクションを呼びかけるのでもまだ足りなかった。何が足りなかったのか。

ひとたび原発事故が起きたらその修復には百年かかると言われる(菅谷昭「これから100年放射能と付き合うために)このような気が遠くなるような長期にわたる被害は人類誕生後の自然災害で経験したことがない。原発事故は人類が推し進めてきた科学技術の栄華の最先端で登場した、最先端の科学技術がもたらした最先端のカタストロフィーだった。つまり、原発事故は私たちの科学技術の栄華の成れの果ての姿であった。そのことを肝に銘じる必要がある。

私たちは、311で科学技術を極限まで推し進めた「脳化社会」の成れの果てと出会ったのだ。こんな激烈な出会いは過去になかった。だから、「脳化社会」の成れの果てを経験した私たちは新人類である。新人類であることを痛切に自覚する必要がある。それを自覚した者にとって、311後の「脳化社会」の成れの果てから立ち直るためには、「脳化社会」そのものと対決する必要があることは疑いようがない。「脳化社会」こそ原発事故をもたらした根本的な原因なのだから。

「脳化社会」そのものとの対決の必要性、重要性を認識、自覚することで、311後の日本社会の再建をめざしたふくしま集団疎開裁判にとって何が必要でかつ十分なアクションなのかが明確になる。

そのことを指摘したのがケーテ・コルヴィッツの次のコトバ。
平和主義を単なる反戦と考えてはならない。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです」 

彼女の言葉はこう言い換えることができる。

原発事故の救済問題を単なる反原発と考えてはならない。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです

311後で放射能対策はガタガタになり、そのゴミ屋敷を放置する日本社会を再建するという課題を考える中で、私はコルヴィッツの「一つの新しい理想・思想」を脱「脳化社会」という思想(それは政治でも政策でもない)に見出した。それは単なる「避難」「脱被ばく」の訴えにとどまるものでなく、私たちが新しい理想に基づいて生きる姿勢そのもののことだ。
原発事故という「脳化社会」の成れの果てのゴミ屋敷を経験した者にとって、311後に、原発事故はなかったかのようにされて、引き続き「脳化社会」というゴミ屋敷の中で息をひそめて生きていくのは殆ど狂気の沙汰、耐え難い苦痛である。だから、私は改めて、人々の苦痛に対し「苦悩という避難場所」に引きこもるのではなく、そこから抜け出して、脱「脳化社会」=脱「ゴミ屋敷」という「現実の避難場所」に向かうアクションを訴える。これこそ、311後の日本社会の再建にとって必要でかつ十分な思想でありアクションである。

私にとって、この脱「脳化社会」=脱「ゴミ屋敷」とは、市民立法によってゴミ屋敷を人権屋敷に再建する「チェルノブイリ法日本版」の実現である(詳細は>こちら)。


2025年1月22日水曜日

【第68話】パンセ:「小沢征爾の中国の弟子たちの追悼コンサート」番組の衝撃(25.1.22)

 昨年末(12月30日)放送の、NHK「小澤征爾が遺したもの〜教え子たちの追悼コンサート〜」を観た。それで、それまでの小澤征爾の見方が変わってしまった。

これまでずっと、小澤征爾にどこかいかがわしいものを感じて来た。彼が指揮する演奏を聞いても「美しい。でも、それだけだろ」としか思わなかった。そのため、彼を胡散臭いものとしてずっと遠ざけて来た。
しかし、この番組を観て、90年近い彼の全生涯をみて、中国の若い音楽家たちの小沢に対する姿勢に触れ、自分は間違っていたと思った。彼はただの正義感のヒーローとして行動してきたのではなかった、自分の身体を投げ打ってでも、打ち込んできたものがあったことに今初めて気がついた。
それは、かつて中国の友人が私に教えてくれた人間像、「義の人」の振る舞いだった(第31話)。
それはまた、戦前、本気で五族協和の実行を考えていた「義の人」だった彼の父親の教えを受け継ぐものように思えた。

彼が喋るコトバ、それは私に消化不良を引き起こし、舌足らずな、ざっくりした印象を与えた。しかし、彼の真骨頂はもともとコトバにはない。演奏にある。コトバに翻訳できない音楽の世界にある。だから、彼のコトバを鵜呑みにして、彼を評価、判断することは本来間違っている。彼を評価、判断するなら、彼が演奏してきた音楽に向かってやるべきだ。今にして初めてそのことに気が付いた。

とはいえ、彼に対して信頼、憧れを抱くに至っていない。けれども、彼が音楽を通じて示そうとしたもの、単なるコトバ、認識を超えて、体験、実行を通じて、私たちが人々と一緒に作り上げることができるものが何であり、それがどのようにして可能なのかについて、大いなる示唆を与えてくれる気がする。
その示唆を十二分に受け取ってから、初めて彼に対する自分の態度を決めればいい。

アクティビストとしての小沢征爾の可能性について考える(続く)。


2025年1月21日火曜日

【第67話】パンセ:「シークレット・ミッション」のマドンナ「雑貨屋のおばさん」が教えたまいし歌(25.1.22)

韓国映画「シークレット・ミッション」を観て、マドンナ=主人公が田舎町で住み込みをした雑貨屋のおばさん(>第66話)から、ひとつのことを知った。

大嫌いだった井上陽水、
その中で、ひとつだけ別格の、好きな歌があった。
それが「小春おばさん」(1973年「氷の世界」所収)
これがこの映画にぴったりのマドンナ讃歌の歌だと。
この当時の陽水の風貌、田舎町の雑貨屋に住み込んだアホのドングみたいだ。


【第136話】つぶやき(その12)「悪夢を吉夢に転換させる」という秋山豊寛さんの夢に応答した昨日の最高裁三浦意見という死亡再生診断書(26.9.15)

       本年1月9日の避難者追出し裁判最高裁判決三浦意見 を表明した三浦守判事 昨日、1つの最高裁判決が言渡された。それは311で気仙沼から東京に避難して国内避難民となった避難者の仮設住宅からの立退きを求める裁判の上告審判決。結果は避難者の負け。だが、追出しは違法であると1...