2025年1月2日木曜日

【第31話】2025年初夢の続きその3:私たちの目は見えているか。その時、中国その可能性の中心を映画「變臉 この櫂に手をそえて」に見出す(25.1.2)

 1、ひとりの中国人留学生との交流

1999年6月19日、著作権裁判のため、東京代々木で今村昌平と打合せし、代々木駅に向かう帰り道、バッタリ知り合いと出会った。8年前、事務所を店じまいし数学のニセ学生を始めたとき、応用数学の甘利俊一研究室に出入りし、そこで知り合った中国人留学生のSさんだった。
それまで、広い東京を歩いていて知り合いと出会ったことがなかったので、この時のことはよく覚えている。甘利研究室に飛び入りした数学のど素人の私は若い研究者たちから怪訝な目で見られた。その中で私に親しく接してくれた奇特なひとりがSさんだった。やがて、至って飄々、すこぶる淡々とした彼もまた、私と同様、甘利研究室の若い研究者たちからどこか胡散臭い目で見られていたことを知った。

そんな彼がどうやって留学できたのかと思って聞いたら、やはり国費ではなく、私費の留学だった。両親が翻訳の仕事をしていて裕福そうでなかった彼は、いつも大学の食堂で、つつましく、コロッケ1個を食べているような食事だった。しかし、別にそれを恥じ入るわけでもなく、淡々と、むしろ私には堂々としているように見えた。

会うと、彼はいろんな近況を聞かせてくれ、その中に「今、マレーシアの人と話をしてきた」「今、インドネシアの人と話してきた」と大学構内でいろんな国の人たちと話をしている様子を話してくれたとき、私は、よくそんなにいろんな外国の人と話ができるものだと感心したが、やがて、その相手はいずれも中国系マレー人、中国系インドネシア人だと分かった。つまり、顔も自分と変わらない華僑の人たちと話していたのだ。私は華僑のネットワークに驚嘆した。

或る時、私が見たばかりの中国映画「おはよう北京」の話を彼にしたら、彼は言った「ああ、それは義の人の映画です」。

私がポカンとしていると、彼は「中国には昔から正義を貫く義の人というのがあって、あの映画のバスの運転手が義の人です」と説明してくれた。その言葉は私が当時、仕事の座右の銘にしていた司馬遷の「史記」の「刺客伝」に出てくる言葉「士は己を知る者のために死す」を思い出させ、これが現代中国の民衆の中に息づいているのを知り、感銘を覚えた。

或る時、こんな話もしてくれた。「日本では衣食住がライフスタイルの基本ですが、中国では衣食住に加えて旅、衣食住旅がライフスタイルの基本です」。それを聞き、戦乱、大災害の時代を避難、逃走した者たちが生き延びて今の中国人を形成したんだと知り、それは今の日本のお手本になるのではないかと感銘を受けた。

そうこうしているうちに、息子の英語の家庭教師として来て貰うことになった。2月、彼と家族で越生の梅を見に行った。

その鄙びた一角に建つ別荘風の建物を見ながら、彼が言った。
「中国でも、かつて、こんな建物が蒋介石の国民党の幹部の別荘でした。今は共産党が天下を取ったので、彼らの幹部の建物です」と。どんな立派なスローガンを掲げようとも、国民党でも共産党でも政権を取った権力組織という点でひとしいという政治に対する中国民衆の醒めた認識を垣間見るような気がした。

その前後にも、中国がベトナムに侵攻した1979年の中越戦争についても彼はこう言った。
「中国では国内の矛盾が激しくなると、その矛盾の矛先を外に向けるために、外国との対立が激しくなります。中越戦争も、ベトナムとの間ではなく、国内の矛盾が深刻になったので、国民の目をそらすために、ベトナムに侵攻したのです。そして、ボロ負けしました」

また、或る時、彼の日本での過酷な生活に触れた中で、ふと、彼がこんなことを口走ったことがある。
「中国は何千年も世界の覇者として君臨して来ました。日本はここ30年ほどで初めて世界の経済大国に登り詰めました。日本もこれまでいっぺんも経験したことのない世界の覇者の時代を経験してみることはいいことだと思う」

世界の覇者であることが別に特別なことでも何でもないことを味わって、一度はそこを通過して世界の覇者から転落してみることで、前より少しは利口になれるのではないかと示唆するような口ぶりだった。それは、彼の至って飄々、すこぶる淡々とした態度はただの洒脱な態度なのではなく、権力者の頂点である「世界の覇者」を通過した人間の取るべき姿勢を思わせるものがあった。
その彼が登場してもちっとも違和感がない映画、それが「變臉 この櫂に手をそえて

 2、ひとつの中国映画

今年の初夢で中国映画を観た。「變臉 この櫂に手をそえて」。

そのとき、中国その可能性の中心は、否、世界その可能性の中心はこの映画にあると思った。20年以上前、初めてこの映画を観た時、人間はどうしてこんな映画を創れるのだろうかと、その創造力の偉大さにただ脱帽するばかりだったが、いま、この老人と子どもとサルの3者による映画の偉大さを改めて痛感する。

         舟の家で、変面王の背中をかく少女狗娃

「七人の侍」と同様、この映画もまた単に世界ではなく、「脳化社会」の壁を越えた、自然世界に通用する普遍的な表現を獲得している。この意味で偉大さを再度実感した(この稿、続く)。


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