昨年末(12月30日)放送の、NHK「小澤征爾が遺したもの〜教え子たちの追悼コンサート〜」を観た。それで、それまでの小澤征爾の見方が変わってしまった。
これまでずっと、小澤征爾にどこかいかがわしいものを感じて来た。彼が指揮する演奏を聞いても「美しい。でも、それだけだろ」としか思わなかった。そのため、彼を胡散臭いものとしてずっと遠ざけて来た。
しかし、この番組を観て、90年近い彼の全生涯をみて、中国の若い音楽家たちの小沢に対する姿勢に触れ、自分は間違っていたと思った。彼はただの正義感のヒーローとして行動してきたのではなかった、自分の身体を投げ打ってでも、打ち込んできたものがあったことに今初めて気がついた。
それは、かつて中国の友人が私に教えてくれた人間像、「義の人」の振る舞いだった(第31話)。
それはまた、戦前、本気で五族協和の実行を考えていた「義の人」だった彼の父親の教えを受け継ぐものように思えた。
彼が喋るコトバ、それは私に消化不良を引き起こし、舌足らずな、ざっくりした印象を与えた。しかし、彼の真骨頂はもともとコトバにはない。演奏にある。コトバに翻訳できない音楽の世界にある。だから、彼のコトバを鵜呑みにして、彼を評価、判断することは本来間違っている。彼を評価、判断するなら、彼が演奏してきた音楽に向かってやるべきだ。今にして初めてそのことに気が付いた。
とはいえ、彼に対して信頼、憧れを抱くに至っていない。けれども、彼が音楽を通じて示そうとしたもの、単なるコトバ、認識を超えて、体験、実行を通じて、私たちが人々と一緒に作り上げることができるものが何であり、それがどのようにして可能なのかについて、大いなる示唆を与えてくれる気がする。
その示唆を十二分に受け取ってから、初めて彼に対する自分の態度を決めればいい。
アクティビストとしての小沢征爾の可能性について考える(続く)。
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