一昨日、避難者が福島県(以下では県)を訴えた住まいの権利裁判の第12回目の期日だった(2022年3月11日の提訴の報告>こちら)。
前回10月の期日で、県は原告避難者側で作成した争点整理案(>こちら)に対して、自分たちの主張を書き込んできた。しかし、その書きっぷりは一言でお粗末。いやいや、しぶしぶ、最低限の主張しか書かなかった。こんな上っ面のペラペラの争点整理では整理の意味がない。
逃げる福島県に対し、これでは真の争点整理にならないことを理由を示して詳細に説明し、真っ当な争点整理に向けて一歩前に出るために、県の不十分な主張に対して再回答を求める以下の書面(準備書面(19))を前回期日のあとすぐ提出した(その全文は>こちら)
裁判所のこの対応については、優柔不断であるという評価から、無理もないのではないかといった評価まで複数の評価があり得るが、私自身に一番欠けていたのが「争点整理を充実したものに仕上げることがなぜ必要なのか」について、「マニュアルにそう書いてあるから」といった紋切り型の理由しか持ち合わせておらず、そのため、自分自身のコトバで裁判所を説得できなかった。この日、その点の至らなさを痛感し、そのあと、つらつらとその理由を考えた。
その中で、ひとつの理由に思い当たった。それが、丸山真男がヘーゲルの「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」という言葉に着目して、そこから次のような見解を展開していたことである。これを思い出したとき、この読み方は歴史のみならず紛争(ここでは裁判の争点整理)にも応用できるのではないかと思ったこと。
丸山真男集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-223
「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。‥‥哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-223>浅井基文のHPより)
そうだとしたら、紛争の構造の全的な解剖に成功すれば、それはその紛争が終焉に近づいたこと、つまり紛争の真の解決の証(あかし)を示すことができることを意味する。
この「紛争の構造の全的な解剖」とは争点整理、それも形式的、外形的な整理ではなく、当該紛争の構造を全的に解剖したと言えるほどに充実した、真の争点形成を実行した整理のことである。だから、県がやったようなおざなりのスカスカの争点整理では到底「紛争の構造の全的な解剖」足りえず、そこから、その紛争の終焉(=真の解決)の証を示すことは不可能である。
つまり、もし裁判所が当該紛争の真の解決を誠実に願うのであれば、必然的に、その争点整理を実りある充実したものに仕上げる必要があり、そのために精一杯努力を積み重ねるしかない。
紛争解決の場もまた「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」場なのだーーこれを裁判所に気づいてもらうことの大切さを、今日、痛感した。
ちなみに、丸山真男のポピュラーな著作「日本の思想」でも、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」について、以下の通り記述し、マルクスがあれほどまでに「資本論」に心血を注いだ動機を解明している。確かにこれならなるほどと合点できる。
「一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開し終わったときに哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという(ヘーゲル主義の)立場を継承しながら、同時にこれを逆転させたところに(マルクス主義は)成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証となるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。」(39頁)。
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