2022年、中国の作家閻連科(第16話)の「人民に奉仕する」を原作にした映画が韓国で作られた(「愛に奉仕せよ」)。その監督チャン・チョルスが2013年に監督した映画「シークレット・ミッション」を今日、観た。
スパイ・アクション映画だと思ってちょっとだけ観る積りが、気がついたら全部観てしまった、完全にはめられた。観客をはめたその罠は主人公のスパイに課せられた任務にあった。それはこの世で最も深謀の任務「バカのふりをすること=ノンセンス(※)に徹しろ」。
(※)「ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」ことについては>【第57話】
その深謀の結果は日常生活の中では姿を表さないが、政治の究極の論理「やつは敵だ。敵は殺せ」(埴谷雄高「幻視の中の政治」)が実行に移され、主人公たちに「自決せよ」という命令が下るという極限状況に追い詰められる中で、上司の権力者たちに
「何がお前らを 変えたのか」
「何がお前らを 変えたのか」
と嘆かせるほど、そしてそれはスパイ本人にも全く思ってもみなかった形で正体をあらわしたーー「祖国にとって大事なものとは?」に対する主人公たちの答え「母への愛に対する強烈な憧れとそこから流れ出した「ノンセンス」の中で生きている人たちとともに生きたいという強烈な渇望」として。
だが、主人公たちの正体が想定外に見えるとしたら、それは現実を政治の論理というメガネでしか見ていないからだ。潜伏先で主人公が「バカのふりをすること=ノンセンス」の任務に徹した時、彼の周りにいた人たちは彼の「ノンセンス」を否定も排除もせず、それぞれ流に全身で受け止めてくれた。それは彼ら自身が「ノンセンス」の中で生きていたからだ。その過程で、主人公の中で何かが変わった。自分に課せられた、秘密におおわれていた本当のミッションが何であるかを悟ることになった。
本当のシークレット・ミッションとは母への愛であり、「ノンセンス」の中で生きている人たちへの共感の目覚めだった。このとき、彼は悟った、祖国にとって何が真に大事なものか、何が真に「人民に奉仕すること」か、何が「愛に奉仕せよ」なのかーーそれは一方で、潜伏先で住み込むことになった食料雑貨屋のおばさん、その店にやって来る地域の人たち自身の「ノンセンス」の生き方を通じて教えてくれたものであり、他方で、「やつは敵だ。敵は殺せ」の政治の論理でしか生きられないガチガチの権力者たちの過酷な生きざまを通じて、むごいまでに、反面教師的に彼に教えてくれたものだった。
本当のシークレット・ミッションとは母への愛であり、「ノンセンス」の中で生きている人たちへの共感の目覚めだった。このとき、彼は悟った、祖国にとって何が真に大事なものか、何が真に「人民に奉仕すること」か、何が「愛に奉仕せよ」なのかーーそれは一方で、潜伏先で住み込むことになった食料雑貨屋のおばさん、その店にやって来る地域の人たち自身の「ノンセンス」の生き方を通じて教えてくれたものであり、他方で、「やつは敵だ。敵は殺せ」の政治の論理でしか生きられないガチガチの権力者たちの過酷な生きざまを通じて、むごいまでに、反面教師的に彼に教えてくれたものだった。
映画のラスト、主人公とその仲間が「やつは敵だ。敵は殺せ」という論理で崖っぷちに追いつめられる中で、主人公は
戻りたい
戻りたい
彼女が彼のために毎月ひそかに積み立てた預金と名義が最初「ドングの給料」だったのがやがて「うちのドングの給料」、「うちの次男坊の給料」「息子の結婚資金」と変わって行くのを見て、彼は嗚咽し、もう一度、腹の底から叫ぶ。
戻りたい!
こんなふうに生きたい!
こんなふうに生きたい!
彼が心から「戻りたい」「こんなふうに生きたい」と願ったこの世で最も崇高な世界。
それは政治の論理ではなく、
潜伏先で彼が「バカのふりをする」中でつかんだ、
真に生きるに値すると悟った世界、
「ノンセンス」の中で人々がともに生きていける世界。
それは政治の論理ではなく、
潜伏先で彼が「バカのふりをする」中でつかんだ、
真に生きるに値すると悟った世界、
「ノンセンス」の中で人々がともに生きていける世界。
私にとって、この映画は、政治の論理で動かされる「脳化社会」の塀の外に出て、人々が生き物と変わらない自然世界の中で生きる生き方のビジョンをあざやかに示してくれた、ものすごい貴重な作品だと思った。それは韓国社会と韓国映画の奥深さを感じさせてくれた。
予告編
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