2025年1月29日水曜日

【第71話】2025年の気づき3:このスピーチは過去の出来事を訴えているのではなく、未来の出来事について訴えている(25.1.29)

はっきり言って、福島原発事故のことは誰もが忘れたがっている。
それを責めることはできない。
だから、311からこの間語られてきた福島原発事故のことを封印するのは理解できる。
しかし
12年前の、2013年5月18日、ふくしま集団疎開裁判の第2回新宿デモ。
そのデモに北海道から参加した「チェルノブイリへのかけはし」の野呂美香さん。
彼女のデモ前スピーチを今、聞き直して、彼女は、2年前の過去の出来事を訴えているのではなく、私たちがこれから経験する未来の出来事について訴えているのだと気がついた()。
そう気がついたら、これは忘れるわけにはいかない。
封印したからといって、その出来事が起きなくなるわけではない。
どんなにいまわしいかもしれないが、日本中の市民が一度は耳を傾けて聴く価値があるスピーチだ。
そして、そのいまわしさをもたらす根本の原因と向き合う覚悟を持つ必要がある。
それを私は、「脳化社会」との対決に見出している。
それはもはや原発事故の被災者の問題ではなく、私たちひとりひとりが当事者として日々直面する問題である。


)それは、ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんと「モモ」の作家ミヒャエル・エンデの以下のコトバに触発されたもの。
人々はチェルノブイリのことは誰もが忘れたがっています。最初は、チェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだと分かると、今度は口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることは難しい。チェルノブイリは、私たちを、それまでの時代から別の時代へ連れていってしまったのです。その結果、私たちの目の前にあるのは、誰にとっても新しい現実です。‥‥
--ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私たちの避難場所です。信仰です。私たちは苦悩の催眠術にかかっている。‥‥
--何度もこんな気がしました。これは未来のことを書き記している‥‥》(「チェルノブイリの祈り」見落とされた歴史について--自分自身へのインタビュー 岩波現代文庫版32~33頁

この物語(注:モモ)を私は人から聞いたのを、そのまま記憶どおりに書いたものだからです。‥‥ある夜、私は汽車でひとりの奇妙な乗客と同じ車室に乗り合わせました。‥‥その夜の長い汽車旅の間に、私にこの物語を話してくれたのです。
話が終わったあと、私たちはふたりともしばらく黙っていました。するとこの謎めいた旅行者は、もう一言つけ加えたのです‥‥
「わたしは今の話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ」
》(「モモ」作者の短いあとがき より) 

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