2025年1月30日木曜日

【第72話】2025年の気づき4:永久保存版のコトバ「それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき」 (25.1.31)

 10年間かかった子ども脱被ばく裁判が昨年暮れの最高裁の棄却決定で幕を閉じた。いま、その振り返りをしていて、この裁判の出発点となった「ふくしま集団疎開裁判の2013年4月24日の仙台高裁決定」の前夜のアクション、疎開裁判のブログを振り返っていて、次の投稿に出くわした。

それでも、伝えたい福島の親の声:まえがきーー福島の人々はなぜ黙っているのかーー

福島の人々は好き好んで黙っている訳ではない。言葉に出来ないほどの苦しみ、つらさの中にいる。その苦しみ、つらさを乗り越えて語り出すのは並大抵の壁を乗り越えない限り不可能。

そして、それは福島に限らない。広島、長崎、沖縄で、筆舌を尽くしがたい体験をさせられた人々はいずれも、同様の思いを抱いている。

本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。」(「はだしのゲン」の作者中沢啓治の自伝)
私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。」(「原爆の子」より)
真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。」(阿波根昌鴻「米軍と農民」)

その上で、中沢啓治さんは、母の死で、焼き場で骨ひとつ残らなかったなきがらを見て「原爆はお袋の骨の髄まで奪った」 ことを知り、それから語り始めるようになり、「はだしのゲン」を描き始めた。

阿波根昌鴻さんも、こう書いて、米軍の人権侵害に抵抗する運動を続けた(詳細は>こちら)。

伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません-- その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。

この投稿は、過去についての出来事を語っているではない、今(2025年)から未来についての出来事を語っている。未来について考えない者は、過去の悲劇をもう一度くり返す。だから、それは永久に胸に刻むべきコトバだ。これを再掲する。

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     それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき

2013年1月13日 

まえがき

福島の人々はなぜ黙っているのか、なぜ被ばくについて喋らないのか、なぜもっと声をあげないのか--3.11以来ずっとこの問いがありました。
思うに、それは、福島の人たちが広島、長崎、沖縄の人たちと同じ経験をしてきたからです。

先ごろ亡くなった「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんは、「自伝」で、青春時代、原爆から逃げて逃げ回った自分について、こう語っています。

毎年、夏がくると「原爆!原爆!」とマスコミ等が騒ぎたて、私の気持ちは落ち込んで暗くなった。嫌でも広島の体験がよみがえり、やりきれない気持ちにさせられた。そして、自分が被ばくしたことで、なんか悪事を働いたような錯覚を覚えた。世の中の迷惑人間のように見る東京人の目の嫌らしさには、本当に腹が立った。‥‥
広島にいたとき原爆という言葉が嫌いで逃げていたが、東京に住んでからは、ますます原爆という言葉が嫌いになって逃げ回った。酒場や会合などで同県人だと聞かされると、原爆の話題が出ないことを祈るように願った。‥‥
私はもう二度と原爆という言葉を口にすまいと 決心した。本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。(185~186頁)
広島で原爆を体験した子供たちの作文を収録した 「原爆の子」(編者長田 新)で、兄を亡くした当時5歳の女の子は5年後にこう書いています。

私は、 戦争のことを考えたり、原子爆弾の落ちた日のことを思い出すのは、ほんとうにきらいです。ご本を読んでも、戦争のところはぬかして読んでいます。戦争のニュースで、朝鮮の戦争の場面が出てくると、ぞっとします。学校の宿題が出ましたので、いやいやながら、こわごわ思い出して書きます。‥‥
今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当をしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんだからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません。私の家に、そんなことがおきたらどうしよう。私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。‥‥
広島に八月六日にいた人は、だれでも戦争がきらいだと思います。附ぞく小学校も、まだ戦争でいたんだところが、そのままで、なおっていません。私の家がびんぼうになったのも、たくさんの借家がたおれたり、やけたりしたからです。
この八月六日は、お兄ちゃんの七周きです。その日が近づくとみんなが思い出すので、私はくるしく思います。(88~95頁)
沖縄戦を体験し、戦後、米軍に農地を強制的に取り上げられたの伊江島(いえしま)の西北端の真謝(まじゃ)の阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんは、1973年の「米軍と農民」で、沈黙する沖縄の人たちについて、こう書いています。

 真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっています。 真謝(まじゃ)農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。
だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません。(18頁)
 それから20年後に書いた「命こそ宝」でも、阿波根さんはなぜこの本を書いたのか、こう述べています。
かつてわしは、『米軍と農民』のはじめにこう書きました--伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません--
その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。(14頁)
 福島の人たちも変わらない。原発事故のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでした。それと同様に、事故後の「事故と被害を小さく見せる」ために襲いかかってきた数々の政策のことも話したがりません。みな、だまっています。 福島の人々は抵抗しました(福島県の健康管理調査に対して、23%しか回答しませんでした。国連人権理事会から日本に派遣された特別報告者も「大変低い数値」と指摘するほどです)。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのです。
だがその苦痛をふくめて、やはり福島の人たちは話さなければなりません。でなければ、福島でまた再び、広島、長崎、沖縄、伊江島、チェルノブイリの悲劇をくり返すことになるからです。

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