日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。
その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
かつて、これを読んだ時、そうだろうなと思った。
しかし、いま、それは少し違うのではないかと思い直すようになった。では、どう違うのか。
人が放射能を見続けることが出来ないとしたら、その原因は単に、太陽がまぶしいといった物理的なことが原因と片付ける訳にはいかないと思うから。つまり、人々を放射能から遠ざける最大の原因は、我々が放射能を無条件に忌み嫌い、排除しようとするゴキブリのような存在だからではないか。
言い換えると、人が人工的に作り上げた脳化社会では、安全・安心が確保されるように管理されている一方、管理の及ばない脳化社会の外側にいる自然界の存在は忌み嫌われ、ゴミのように排除される。その典型として、ゴキブリは我々が住んでいる脳化社会の管理が及ばない自然界の存在として忌み嫌われて排除の対象にされている。そして、放射能、原爆や原発事故で社会に放出された放射能もまた、脳化社会の管理が及ばない自然界の存在である。そのように管理の手に余る放射能が脳化社会に安住する人々から、ゴキブリのように忌み嫌われ、排除されたとしてもあやしむに足りない。
他方、太陽は、別に、人々が無条件に忌み嫌い、排除しようとする存在ではない。夏場に、灼熱の猛暑をもたらす存在として敬遠されることはあったとしても。
人々が放射能に向き合うことを避け、これを排除しようとするのは、何よりも、核兵器・原発を生み出した我々の脳化社会が、脳化社会の管理の手が及ばない自然界の存在(放出された放射性物質)を遠ざけ、排除しようとするという「脳化社会」の基本原理・哲学に由来するものである。こう考えたほうがリアリティがある。
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