2024年10月4日金曜日

【第7話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(5)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の「正義」批判から
自分が日本版市民運動の新しいスタイルとして、政治・政策から人権にシフト
というやり方もまた、所詮、「脳化社会」の中の小さな嵐(差異)でしかない、
に帰結するのではないか、という私にとってはショッキングな話を書きました。
      ↑
この問題に深入りする前に、少し前に戻って、これまで、
「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係
について、私がどのように考えてきたか、ざっと振り返ります。

1、最初の出会い
それは2010年の柄谷行人「世界史の構造」で、このことを知ったときです(以下が、そのさわり)。
科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html

「科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という彼の指摘、もっともだと思いました。実際に、市民寄りの科学者などの議論はそういう傾向がありました。それに対し、柄谷行人が「人間と人間の関係」に正当な光を当てたのには全面的に賛成で、そこから私は、科学技術の失敗の問題も同様である、つまり原発事故は二度発生する、一度目は「人間と自然との関係」の中で、二度目は「人間と人間との関係」の中で、という認識を確信しました。

そして、2つの関係についても、柄谷行人が、
科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
と指摘していたのにも合点して、原発事故を、
一度目は惨劇として、
二度目は犯罪として発生する
と書き、後者の人間どもが行う犯罪の告発の必要性を強調してきました。
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この点は今も間違っていない、と考えていますが、
他方で、犯罪としての原発事故を強調するがあまり、惨劇としての原発事故の本質に目を向けることがおろそかになっていたのではないかと、この夏の養老孟司の「脳化社会」論で、自然の本性=真っ暗闇の世界に対する再認識をさせられる中で、そのことに気がつきました。
つまり、私自身、
放射能の持つ、ほかの自然に比べても群を抜いて、奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界であることに、もっとリアルな認識を持つべきだ、そこが抜けると、いくら「犯罪としての原発事故」を強調しても、その強調の理由が納得してもらえない、つまりこの2つは
「原発事故の一度目の人間対自然の関係が過酷を極めるとき、それに対応して二度目の人間対人間の関係も過酷を極める」
という関係にあり、出発点は人間対自然の関係だからです。
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さらに、この2つの関係の認識つまり「出発点は人間対自然の関係だ」は環境問題への接近の仕方としてものすごく重要なものでして、この点、柄谷行人の「環境問題を論じる人たちは、人間対人間の関係の問題が抜けていて、そのため、環境問題の本質的な解決が出来ない」と批判はそれ自体、正しい。
にもかかわらず、そこから「環境問題の本質的な解決」をするために何をすべきか、という課題があるはずだから、その課題に立ち向かうべきなのに、彼はポジティブな吟味検討をしないまま通り過ぎてしまった。その意味で、彼もまた「環境問題の本質的な解決が出来ない」という点で同列です。マルクスに対しやったような情熱的、ポジティブな批判を環境問題に対してやらなかったのが彼の限界です。そして、そのためには、出発点である人間対自然の関係から取り組む必要があります。それが奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界である「放射能」の世界に対する接近です。
それなくして、いくら二度目の犯罪としての原発事故を強調しても、どこか空虚、足が地に着いていない、いわば「脳化社会」のコトバだけの議論になってしまう。
尤も、この点は何よりもまず、自分自身に向けられた猛省です。
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ただし、この点で自己弁解を許してもらうと、「放射能に対する科学的認識」と称する議論に対して、前からずっと違和感を抱いていたのですが、この夏の養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、「科学的認識」と称するものって、要するに、世界を人間が了解可能な形で再構成しただけの「脳化社会」の世界にすぎないんでしょう。放射能も同様。数値と統計的解析で放射能の正体がつかめると思っている。その実態は内部被ばくを測定する単位すらいまだ見つけられないざまなのに。
つまり、人類がこれまで取り組んできた「脳化社会」の道具立てを使って、放射能に立ち向かったとき、そこで足をすくわれ、立ち往生することが続出しているのはなにも原発を管理運営する電力会社だけではなく、放射能科学を研究している研究者たちも同様ではないかということです。そのような立ち往生している研究者たちが書いた教科書を読み、放射能に対する科学的認識を身に付けようとしても、コケルのが当然ではないか。科学者たちは自分たちの「脳化社会」の道具立てが放射能には通用せず、放射能からいわば逆襲を受けているのだから。
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こうした認識が私の中にあるので、放射能の被ばくによる健康影響の問題も、現時点の科学技術のレベルが解明にはほど遠いのが現状であるとしても、その解明はおそらく永遠にないんじゃないか、と。もしあるんだったら、原爆投下から80年近く経過しているんだからいろんな進展があってしかるべきなのに、その解明の進展が殆ど見られないから。この科学的停滞ぶりはちょっと異常すぎ、おかしすぎる。

その5は以上。
別便で続きを。

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