2024年10月4日金曜日

【第8話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(6) まとめ(24.10.4)

 Xさん


柳原です。
昨日、グダグタとメールしたのは、ひとつにはあなたからの次の質問を検討するためです。

「自然と人間」、「人間と人間」の関係はピラミッドの階層のようなものでしょうか。すなわち、現代社会では「自然と人間」の関係がピラミッドの下部に土台として位置し、その上部に「人間と人間」の関係が位置しており、最上位が脳化の究極状態、核の科学技術などでしょうか。
この言い方は以下の経済決定論(史的唯物論)を思い出させる言い方ですが、
人間社会は土台である経済の仕組みにより、それ以外の社会的側面(法律的・政治的上部構造及び社会的諸意識形態)が基本的に規定されるものと考えた(土台は上部構造を規定する

他方、経済システム自体が「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係の両方を含んでいます。後者が基本的に資本が労働者を搾取する関係だとすると、前者は資本がいわば自然を搾取(=開発)する関係だからです。ただし、(情報は別として)何かを生産するとき、それは人間が自然界のものを加工変形するという意味で「自然と人間」の関係ですが、同時にその生産には基本的に資本が労働者を搾取する関係が伴うという意味で人間と人間」の関係が存在します。
これについて、この2つの関係をどう捉えたらよいのか、という問題があります。
この点について、あなたが書いたように、「自然と人間」の関係がピラミッドの土台であり、土台の上に「人間と人間」の関係が位置する、という見方もあります。さらに、そのように考える理由は何かという問題があり、ひとつには経済決定論の「土台は上部構造を規定する」のように、「自然と人間」の関係が「人間と人間」の関係を規定すると考えてよい、という見方があります。
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この問題はすでに、経済決定論(唯物論)に対する批判として、ウェーバーから始まって歴史的に繰り返されてきたことですが、その議論がここでまた反復されることになります。
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私が、この問題にこだわるのは、過去に柄谷行人の次の指摘によって、原発事故に対して、「人間と人間の関係」つまり権力者たちの犯罪を告発することの重要性を確信してきたのに、この夏に至って、養老孟司から、自然の見方について目からウロコの教えを受け、そこから再び「自然と人間」の関係の重要性つまり放射能の魑魅魍魎とした本性を自覚することの重要性を思い知らされたからです。

科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html
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この2つの経験を通じて、改めて、「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係をどう捉えたらよいのかについて再考を迫られ、そこで、この間、グダグダと考えていた次第です。
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以下は、現時点での自分なりの整理です(一応、まとまっていますが、何かが欠けているというのが正直な感想で、それが不満です)
1、「科学技術及びその失敗(災害)の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という柄谷行人の指摘はあたっている。
2、しかし、だからといって、科学技術及びその失敗(災害)の問題を、人間と人間の関係だけを強調する発想もまた、今度は自然と人間の関係の問題が抜けるという意味で、間違っている。
3、この2つの反省・批判を踏まえて、科学技術及びその失敗(災害)の問題は、自然と人間の関係も人間と人間の関係も、いずれにおいてもその中で発生する固有の問題に十分な吟味検討がなされる必要がある。
4、この3の態度は、実は、カントが真善美について述べた次の問題と共通するのではないか。

リスク評価を、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つという構造の中に置くべきである(2018.1.4)
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その冒頭に、カントの考えが示されているので、そこだけ再掲します。

(1)、我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

その6は以上。
別便であとちょっとだけ続きを書きます。
ご容赦下さい。

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