2024年10月4日金曜日

【第5話】補足:「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
これは、養老孟司が自然とは真っ暗闇のことだと喝破したことに触発されて、
過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。
のカント、ゲーテに続いての、補足です。

柄谷行人の最初のデビュー作が「意識と自然」、夏目漱石論です。
この表題からして養老孟司的です。「意識(が作り出した脳化社会)と自然」と読み替えられるからです。

数年前に、これについて、柄谷行人はこう言ってます。

--「意識と自然」での柄谷さんは、漱石の『行人』にある「頭の恐ろしさ」と「心臓の恐ろしさ」という言い回しに注目しています。

/柄谷/ 僕が言っているのは、「頭の恐ろしさ」というのは頭で考えるような倫理的な問題で、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる存在論的な問題だということですね。言い換えれば、漱石の小説は、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の二重構造になっている。そして、倫理的な問題を存在論的に、存在論的な問題を倫理的に解こうとして混乱しているのです。〈私〉というものは、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の両方を含んでいて、その二つは完全に一致することはない。そのズレにこそ、人間の存在の不思議を解く鍵があるし、漱石はそこに注目したと僕は思った。

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ここでいう「頭の恐ろしさ」というのは人間対人間の関係(=脳化社会)の問題、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる自然対人間の関係(=自然)の問題です。自然対人間の関係の問題は身体に関わる問題だから、身体の声に耳を傾けなければ解けないことなのに、人はそれを間違って、人間対人間の問題として解こうとする。その間違いは個々人の間違いではなくて、この「脳化社会」そのものが抱えている間違いなんだ、と。
https://book.asahi.com/jinbun/article/15010455
     ↑

この意味で、初期柄谷行人は、養老孟司ととても近い位置にいたんだと思い直しました。
しかし、その後、彼は、この問題から離れていき、「脳化社会」そのものの中で自爆するような徹底して論理的、数学的な突き詰めをやりました。その結果、頭がおかしくなって、そこから転回するのです。でも、その転回の時点で、彼の中では「意識と自然」という問題意識は殆どなく、自然が抜け落ちていったように思えました。
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しかし、にもかかわらず、ふとした拍子に、彼から「自然」についての洞察が示されるのです。その1つがマルクスです。2010年の「世界史の構造」の中で、マルクスが「若い時期から一貫して、人間を根本的に自然との関係の中において見る視点を持っていた」(27頁)と指摘し、そこからのちのマルクス主義者では抜け落ちた、マルクスに特有の世界認識が導かれたことを示します。

このあたりのちゃらんぽらんが、柄谷行人の可能性のひとつです。

まとまりがありませんが、補足でした。 




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