以下は、若者Xに宛てて書いた次の命題に関するコメント。全部で10通(第11話まで)。
原発事故は二度発生する、一度目は「自然と人間」の関係の中で、二度目は「人間と人間」の関係の中で。
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X さん
柳原です。
頂いた以下のメールで論じていた、「自然と人間」「人間と人間」の関係については、311以来、ずっと私の懸案事項の1つでした。
少し整理したいこともあり、あれこれ書きます(長文失礼)。
311まで、私の中で大きな問題だったことは、柄谷行人が「世界史の構造」の中で、はっきり、
社会の捉え方を「生産様式」から「交換様式」に転換する、
という重大な問題提起でした(これが彼がのちに哲学のノーベル賞と言われるバーグルエン賞の受賞理由です)。それは150年続いた「経済の生産関係が社会変化の原動力である」とする経済決定論(史的唯物論)を根底から覆す画期的な視点だったからです(とはいえ、彼に先行する人たちが、そのことを指摘してきましたが、ここまで全面的に指摘したのは彼が初めてだった)。
そこで提起した交換関係の中身については、以下で彼自身が分かりやすく概説しています。
「 交換様式論入門」
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しかし、この画期的な指摘は私の中ですぐさま壁にぶつかりました。それが311原発事故です。
福島原発事故に対して、彼の交換様式論はどういう意味を持つのか、
それが全く分からなかった、見えなかったからです。しかも、当時はそんな理論的問題を考えている時間的余裕もなく、東日本壊滅といった危機的状況の中をどうやって生き延びるのか、そのような差し迫った破局の問題に頭がいっぱいだったからです。
しかし、それから13年経過し、差し迫った破局は何とか免れたと思える状況になったとき、改めて、福島原発事故がもたらした大きな傷=日本社会のゴミ屋敷に対して、柄谷行人の交換様式論はいかなる意味を持つのか、それとも殆ど意味を持たないものか、
それについて、考えておく必要があると思うようになったのです。
その直接のキッカケはこの夏に、養老孟司の「脳化社会」論を読んだからです。
補足
柄谷行人の「世界史の構造」で、
社会の捉え方を「生産様式」から「交換様式」に転換する、
という指摘が出版当時、私にどのようなインパクトを与えたか、それを端的に述べたのが以下です。
今読み返してみて、確かにそうだった、と思い出しました。しかし、その納得は2ヵ月後の311で吹き飛んでしまいました、そんなことをしている場合ではないと。
私の研究:予防原則と動的平衡から世界史を眺める(2011.1.6)
少し長くなったので、その1は以上で。
続いて、別便でその2を。
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