2024年10月4日金曜日

【第6話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(4)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、
という認識に衝撃を受けた、と書きましたが、その意味はまだありまして、それが「正義」批判です。
「脳化社会」の病理に批判的で、自然のあり方に忠実な養老孟司の目には、
正義は、動物や植物など人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。
この意味で、正義もまた「脳化社会」の産物である、というのが養老孟司の結論であり、
従って、正義なんてものはあてにならない、適当なもの、いい加減なものだということになります。
それに従えば、人権もまた人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。だから、人権もあてにならない、と。
       ↑
それでは、ブックレットに書き込んだ、
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。
これだって、あてにならない、いい加減なものではないか、ということになります。
         ↑
それまで、私は政治・政策の観点を批判し、そこから人権にシフトすることで市民運動の壁を乗り越えることが可能になると思っていたのですが、この夏の養老孟司との出会いで、市民運動を「政治・政策」の観点で取り組もうが、「人権」の観点で取り組もうが、どちらも「脳化社会」の中のコップの中の嵐でしかない、ちっちゃな差異にすぎない、ということになった。
この帰結もまた、ショックといえばショックでした。
その結果、「市民運動の再生」という課題も一から再検討しなければとなり、で、一体、「脳化社会」から抜け出して、「自然」に回帰するような視点で市民運動を取り組むやり方がどこに見つかるのだろうか?と、途方に暮れてしまいました(現在進行形)。
       ↑
この点、柄谷行人のコトバを使えば、
これまで人類の普遍的な観念とされてきた「人権」を、もう一度、「自然」の世界の中に置いて、高次元で回復したもの、
と分かったような分からない言い方になるかと思います。
       ↑
しかし、今思いついたのですが、ここは次のように考えられるのではないか。
「人権」が勝手気ままな我執にならないためには、「自然」を基礎に置いて、「自然」から素直に導かれるものであること、
その筆頭が「生命」「身体」「健康」に関する権利ではないか。
なぜなら、
自然界において、全ての生き物は自分の命、身体、健康がいわれのない事情で傷つけられ、損なわれるのは生命保存の本能からして受け入れ難いこと。
この自然界の存在として全ての生き物に共通のあり方、これを基づいて人間界の存在のあり方についても、「生命」「身体」「健康」に対して、これを謂われなく損なわれることは許されないということを人権として承認することは、「自然」から素直に導かれるものではないか。
        ↑
ここの議論は、あなたがメールで取り上げた「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係という問題に繋がってきますね。

その4は以上。
続いて、別便でその5を。


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