2024年10月3日木曜日

【第4話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。

実は、この夏、養老孟司の「脳化社会」論を読んだ時に衝撃を受けたのは「脳化社会」よりも、これと対立する「自然」そのものの見方でした。
それは、よく言われる「自然と文明」「自然と人工」といったようなありふれた対立のことではなくて、
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、という養老孟司の認識でした。
       ↑
そうだ、自然とは目的もなければ、意味も無意味もない、「真っ暗闇」の世界のことなんだ、この事実に対する感受性が、いつのまにすっかり忘れ去られていたことに、そして、そのことの意味の重大性(自然が不可知なものに満ちているという)に、今さらながら、衝撃を受けたのです。

この感受性がいかに鈍磨していたかを示す一例として養老孟司があげていたのが、
この入れ物に水が入っているとして、科学はこれを水素原子と酸素原子の結合で出来ていると説明する。しかし、本当にそうなのか。この水がすべて均一の「水素原子と酸素原子の結合」だという証明はどこでどうやってやったのか。水素原子や酸素原子がどれでも均一だというのは、あくまでもこれまでの科学的知識のもとでそう考えられるとしただけで、まったく同質だということはどこにも検証していない。また、2つの原子の結合方法もどれも同じだというのも、その検証はなされておらず、とりあえずそう考えて不都合がなかろうと人間が仮定しているにすぎない。

これが放射能になると、もっとその「真っ暗闇」の性格が露骨、如実に現れます。それについては先日の浦和の集会のプレゼン資料125頁以下の「認識の壁」に書きました。
放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界だとしたら、被ばく線量や統計データをいじくるだけで、安全、安心なんかの結論を引き出すなんてとってもできたもんじゃない、と直感的に分かるはずですが、しかし、原子力ムラのみならず、マスコミ、多くの人たちは、被ばく線量や統計データを頼りに安全性を評価していいんだと考えています。それを支える最大の論拠は何か。「脳化社会」の論理です。世界は人間が合理的に考えて作り出した世界でもって構成されていて、それに従っていれば、まず安全、安心なんだと。魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界なんて無視して構わない、と。そういう「脳化社会」の論理にすっかりマインドコントロール(洗脳)されています。それと闘う必要があるのですが、そのためには、単に「原子力ムラ」の陰謀とだけ闘っても不十分です。私たちを、自然に対する全うな認識から遠ざけている「脳化社会」の論理そのものと対決する必要がある。この夏に、そう実感しました。
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同時にそれは、これまで、被ばく線量や統計データといった科学的知見を頼りに放射能の危険性を考えていって基本的にいいんだ、問題はこれを正しく考えるか否かの点にあると。それしか考えてなくて、それ以上、上に述べた放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界であることへの感受性も認識もなくしていました。

と同時に、ここ20年くらい読んできたカントのコトバの中で、ピンと来なかった「物自体」という言葉に、これがカントの言わんとしたことではないかと初めて合点がいく気がしました。
また、ゲーテがずっと西洋の近代科学に異論を唱えて、彼の人生の半分を費やして、彼なりの自然科学を探求してきた、その不思議さが初めて分かったような気がしました。
・・・そういう意味での過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。

そのことを思い起こしてくれた養老孟司にはまずは感謝のコトバもありません(その後、いろいろと注文が出ましたが)。
      
その3は以上。
続いて、別便でその4を。


 

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