2025年2月5日水曜日

【第80話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心番外編「園良太さんが私を変え、新人類の仲間入りをさせてくれた」(25.2.6)

これは、私が市民運動の旧人類から新人類に変化を遂げたーーそれも、サナギがチョウに変化したら元に戻らないように、後戻りすることのない変化を遂げた瞬間を振り返ったもの。

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疎開裁判の申立から1年経った2012年6月24日、今まで一番長いブログ記事を投稿した。

「6.24」提訴から一周年の思い――なぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/07/blog-post_06.html

なぜ、こんな長い文を書いたのか。その理由は単純で、1年やってきて、裁判の取組みが膠着状態となり、このままではジリ貧だという追い詰められた気分に陥り、そこから何とか打開策を求めてもがいていたからだ。それは社会的裁判にとっての3本柱のうち、真実の力(事実問題)でも、正義の力(法律問題)でもなくて、最後の市民の力だった。マスコミの完全黙殺により、市民の力の結集が圧倒的に不利になっていて、そこを打開するために、今までのやり方、市民運動の経験者による集会開催、記者会見、署名といった伝統的なやり方では足りないことが明白だった。

ならば、それに代わる新たなやり方はどこにあるのか。「新しい酒は新しい革袋に盛れ」をどうやって実行したらよいのか。せっかく世界市民法廷で高揚した市民運動を、このあと、どうやって維持、発展させていったらよいのか、その展望が見つからず、悶々とする日々が4,5,6月と続いた。

その中で出会ったのが若者園良太さんだった。彼は言った
「外に出ましょう」
!?
それまで、裁判の訴えをするのは法廷か屋内の集会か記者会見場と決まっていて、どれもみんな建物の中だった。しかし、彼はそんなまだろっこしいことはやめて、ズバリ路上で、それもあたり構わず、どこでも訴えることを勧めた。

こうして、2012年7月の金曜日、教師に引率されて生まれて初めて遠足に出かける小学1年生のガキみたいに、トラメガを持つ園さんに引率されて、官邸前に出かけた。そこは反原連主催の金曜アクションが行なわれていて、たくさん人が集まっていた。だが、私たちの出番はなかなか来なかった。すると、園さん曰く
「行きましょう」
!? どこへ
と尋ねる間もなく彼はスタコラ移動して、官邸脇の路上で、少しスペースのある場所を探しては、そこに立って、トラメガを使ってガンガン、アピールし始めた。そのあと、私にマイクを渡しながら言った。
「柳原さんの番です」
!?

生まれてこの方で、路上で大声をあげてアピールする経験なぞ一度もなかった私はどぎまぎした。しかし、園さんの決然とした姿に「出来ない」とも言えず、迷った末に、えい、今さら失うものは何もないと、とは言っても恐る恐る、清水寺の舞台から飛び降りるような気分で夢中でなにか喋った。
これが生まれて初めての路上スピーチデビューだった。その瞬間、自分がサナギからチョウに羽化したような、否、これは水中動物が長らく棲んでいた水中とオサラバして、陸にあがって陸上動物に進化した瞬間のように、全身が生まれ変わったような気がした。八百年前の鎌倉仏教の逵説法も、こんな風にしてやったのかと一瞬、感慨がよぎった。が、そんな感慨に浸る間もなく、園さん曰く
「次、行きましょう」
そこから別のスピーチの出来る場所を求めて移動した。そして、新しい場所でまたガンガン、アピールした。この彼のテキパキした行動力に、半ば驚驚嘆し、半ばちょっと待ってと付いて行くのがやっとだった。

この瞬間、疎開裁判の運動のスタイルが一変し、新たなスタイルが確立した。
折りしも、路上には、政府の原発事故救済政策に不信、不満を抱く市民が大勢駆けつけていた。こんなチャンスはあるものかと、路上で訴える確かな手ごたえを確信した。

それまで閉塞状態にあった私は、わらをも掴む思いで、7月27日から「建物から外に出て、路上で訴える」路上アクションのスタートに打開の道を賭けました。
子どもたちを核戦争から守れ! 7.27ふくしま集団疎開裁判官邸前抗議行動、スタート&第3回世界市民法廷(官邸前広場)の開催
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/07/blog-post_23.html

それは、それまで屋内で開催して成功した世界市民法廷で高揚した市民運動を、今度は路上で、官邸前広場で世界市民法廷を開くというやり方で、この運動を発展させるというものでした。

その成果は直ちに現れて、官邸前に来た山本太郎さんが、人々にこの裁判の重要性を熱く訴えて、人々に届けた(以下の動画)。


そして、人々のアドバイスもあり、園さんの「いつでもどこでもアピール」というスタンスで、路上アクションの場所を官邸前に限定せず、広く長時間使える場所として文科省前と財務省坂上に陣取って、毎週金曜日、この裁判の最新情報を、人形劇形式、遠方にいる小出裕章さんらとの電話中継、武藤類子さん指導のかんしょ踊りなどなど、様々な出し物を交えて、疎開裁判を市民が裁く「路上世界市民法廷」をやり続けました。

その中で、毎回、大勢、共感した市民が「私も何か」と手を上げると、園さんがテキパキと、「はい、あなた、来週からこれやって下さい」と差配をしてくれて、見る見るうちに何十人もの集団に膨れ上がった。2012年10月に国連ジュネーブに福島の現実を訴えに行くプロジェクトを立てたのも、金曜アクションに来たスイスとイギリス在住の人たち(彼らが国連で通訳を担当してくれた)との交流がきっかけだった。様々なアクションがみんな、この時の路上アクションから始まった。
それがふくしま集団疎開裁判の運動を支える市民の強力なネットワークの核になった人たち(当時はふくしま集団疎開裁判の会、今の脱被ばく実現ネット)だった。


 2012年10月5日  ふくしま集団疎開裁判 財務省坂上アクション

まとめ。
このとき、市民の強力なネットワーク形成の種をまいたのは、
「外に出ましょう」
と声掛けしてくれた園良太さんです。彼はあたかも雪の結晶を作るチリのような存在でした。もし彼がいなかったら、この時の市民の強力なネットワークの結晶は出来なかった。
なぜなら、311後の市民運動は、過去に経験したことのない未曾有の過酷事故=福島原発事故に相応しい、その未曾有さに匹敵するだけの新しいスタイルが求められていたのですが、この時、路上アクションという原発事故に匹敵する新しいスタイルが誕生した。その新しさを誰よりも早く、的確に、直感で掴んでいたのが新人類の園さんで、その新しさを分かっていなかった旧人類の私は彼の後押しナシには、この新しいスタイルの運動にとうてい入っていけなかった。

あれから13年が経過、今また、この時の経験を、現時点の状況の中で活かすための振り返り、創造的な取組みが求められている。それに立ち向かうためにも、市民の強力なネットワークの形成の種となった2012年夏の経験の意味を振り返る必要があると痛切に感じている。


【第79話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その6「子ども脱被ばく裁判が日本を変えた」(25.2.5)

           2025年2月7日、ベランダにやってきたヒヨドリ(川越)

下の原稿のスピーチ(あとで喋り直した完全版)



アンコール(追伸)その1
子ども脱被ばく裁判最高裁判決が「理由をボイコット」した理由

それは最高裁が私たちを敵視していたからではない。私たちが示した理由をくつがえすだけの理由が示せなかったからだ。

 最高裁とて、司法の本来の姿が「理由を示してなんぼ」の世界であることは百も承知している。だから、国の原発事故の責任を否定した6.17判決も理由を示した。しかし、この裁判ではそうはいかなかった。
私は、上告理由書の作成に参加したとき、これがもし将棋の世界だったら、藤井七冠のように完全に詰んだと確信した。最高裁がもし将棋の世界のように理詰めで、私たちが示した理由をくつがえそうとしたら、自分たちは詰んだと悟っただろう。だから、6.17判決のように正面から理由を示すことはあきらめて、裏から尻尾を巻いて逃げ出す道を選択したのだ。それが理由を示さない三行半の判決の正体である。
この意味で、最高裁判決こそ私たちの上告理由書に敗北した。


アンコール
(追伸)その2
子ども脱被ばく裁判の成果:子ども脱被ばく裁判が日本を変えた

 しかし、そんな楽屋裏を知らない人たち、とくに子ども脱被ばく裁判のことを知っても共感しない人からこんな目で見られていた――そんな裁判やって日本の社会を変えられるのか。ほろみろ、最高裁の判決で変えられなかったじゃないか。

 しかし、私はこう答える。次の理由から、子ども脱被ばく裁判をやって日本の社会を確実に変えることができたと。

①.福島原発事故は日本史上最悪の未曾有の過酷事故であり、事故の被ばくにより多くの子ども・市民の命、健康が前代未聞の危機に陥った時、この事故発生の張本人の1人である日本政府は事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、その結果、多くの子ども・市民に無用な被ばくをさせ、未曾有の危機を招いた。すなわち
・子どもの命・人権を守るはずの文科省が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は放置し、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害された。
この国家の犯罪の法的責任を真正面から問い、「異常が正常とされ、正常が風評被害や異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとしたのが子ども脱被ばく裁判です。

 子ども脱被ばく裁判を起こし、国や自治体の責任を追及することによって、日本の社会は、過酷事故により人権侵害が発生したとき、人々は泣き寝入りせず、このような裁判を起こして国や自治体の責任を追及する社会に確実に一歩、変わったのです。


②.子ども脱被ばく裁判の審理の中で、これまで明らかにされなかった数々の新事実、新法律問題が明らかにされた。私の担当したものだけでも次のことが明らかにされた。

第1に、未曾有の過酷人災である福島原発事故がもたらした衝撃は日本の政治経済にとどまらず、日本の法体系にも及んだ。2011年3月11日まで日本政府は安全神話のもとで原発事故の発生を想定しておらず、備えが全くなかった。これに対応して、日本の法体系もまた原発事故の救済に関する備えが全くなく、文字通りノールール状態つまり全面的な「法の欠缺」状態であった。
のみならず、この全面的な「法の欠缺」状態は原発事故後においてもなお立法的解決が図られず、放置されたままだった。このような時、裁判所に求められることは、深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対し、その穴埋め(補充)作業である。その欠缺の補充作業において主導的な役割を果すのが法律の上位規範である憲法及び条約とりわけ避難民の人権救済と積極的に取り組んできた国際人権法である。
第2に、原発事故の救済に関して、行政庁の裁量の適法性を判断するためには、従来の「裁量権の逸脱・濫用」の法理はそのまま使えない。なぜなら、ここで行政庁が従うべき法律が全面的な「法の欠缺」状態=深刻な陥没状態にあるからである。その結果、この判断のために、まず、全面的な「法の欠缺」状態を正しく補充する必要がある。それが第1に掲げた国際人権法による補充の必要性・重要性である。
第3に、福島原発事故の被災者は311の前にだけ、この国の主権者であり、人権の主体であった訳ではなく、福島原発事故発生後も途切れることなく主権者であり、人権の主体であった。ところが、現実には、ひとたび事故が発生すると、被災者は20キロ圏内の避難指示など国が出す指示命令等に従うだけの、あくまでも保護や救助の対象としてだけの、専ら受身の存在としてしか扱われるだけで、この国の主権者、人権の主体として扱われたことは一度もなく、権利者の地位が認められたことは一度もなかった。しかし、これは明らかにおかしい。被災者は原発事故発生後も、どこにいようとも、一瞬たりとも、この国の主権者、人権の主体であることをやめたことはない。日本国憲法はこのことを当然の大前提として承認している。この裁判でもこの大原則を肝に銘ずる必要がある。
このように、子ども脱被ばく裁判を起こし、審理する中で、日本の社会は、このように今まで明らかにされてこなかった問題が明らかにされる社会に確実に一歩、変わったのです。


③.裁判を受ける権利は主権者である国民が人権侵害を受けたとき、侵害から救済されるための必須の人権です。裁判が起こせないなら、国民は主権者でないにひとしい。子ども脱被ばく裁判は被災者が人権侵害を受けたとき、裁判を起こすことによって、日本の社会は、国民主権を実現する社会に確実に一歩、変わったのです。

結論
とはいえ、子ども脱被ばく裁判が掲げた目標は、裁判を起こし、審理するだけでは実現されません。そのためには、真実の力と正義の力だけでは足りず、さらに市民の力つまり、この裁判の意義を共有する市民の巨大なネットワークが必要です。なぜなら、この裁判は、福島原発事故後の日本社会をどう建て直すのかという再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判だからです。だから、それはこの裁判が最高裁で幕引きされたあとも続きます。福島原発事故の救済はなにひとつ果たされておらず、深刻な陥没状態のまま、完全な未解決状態にあるからです。従って、この課題は、この裁判が明らかにした真実と正義の力を活用しながら、原発事故の完全救済をめざす市民の巨大なネットワークの形成と取り組む市民運動の中で実現される。
私にとってそれは、市民立法「チェルノブイリ法日本版」の運動です(詳細は>こちら)。

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番外編その1>第80話 
番外編その2>第81話

【第78話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その5「法治国家の滅亡」(25.2.5)

           2016年10月3日、雨、風呂場の網戸にやってきたカエル


下の原稿のスピーチ(あとで喋り直した完全版)

 

子ども脱被ばく裁判の最高裁判決が示したものその2「法治国家の滅亡」

今振り返って思うことは、この疎開裁判、その後続の子ども脱被ばく裁判の闘い方には大きな欠陥があったのではないかということです。それは、私自身、半世紀前の公害裁判の延長で、被害者の原告の救済を考えて来たことです。確かに、半世紀前、公害裁判の一審判決はすべて被害者救済の判決を出しました。勿論それは公害の市民運動の成果なのですが、他方で、当時の裁判所には、国家や自治体や企業には人災により窮状の中にいる市民を救済すべき責任があるという倫理がありました。しかし、それから半世紀後の日本では、裁判所は今述べたような倫理を捨て、国家や自治体には原発事故による惨状の中にいる市民を救済すべき責任は負わないという立場にシフト(転換)したんだと思いました。とはいえ、それを正面から口にすることはさすがにしない。けれど、裁判所の判決の書きっぷりを眺めていると、福島地裁も仙台高裁も最高裁も、彼らの本音は、人災にもかかわらず、原発事故という未曾有のカタストロフィーについては国家や自治体にできることは限られている、市民の救済なんてとても無理な話だという投げやりの気持ちが行間から漏れてくるのを感じないではおれない。それが、原発事故の救済という問題と正面から向き合う議論(例えば低線量被ばくや内部被ばくの危険性や予防原則の必要性)を決してしようとせず、そこからこそこそ逃げ出す彼らの姿勢からひしひし伝わってくるから(その点、唯一の例外が疎開裁判の高裁決定)。そこから逃げ出した彼らが辿り着いた先は、一審判決が示した、原発事故の救済について陥没している法の穴を穴埋めしないまま、つまり法律の規定がないガタガタのまま、行政庁の自由裁量で処理すればいいんだというロジックだった。

 我が国は「法に基づく統治」という統治原理に立つ法治国家。しかし、福島原発事故を通じて、原発事故の救済の場面で、「法に基づく救済」という法治国家は崩壊し、滅亡した。そして、この法治国家の滅亡にお墨付きを与えたのが子ども脱被ばく裁判の3つの判決だった。かつて「国破れて山河あり」という詩があったが、この3つの判決は「法治国家破れて自由裁量あり」をうたって、法治国家の崩壊と行政庁の自由裁量を全面的に肯定した。

「法治国家破れて自由裁量あり」に対する自戒

 いま私が反省するのは、原発事故の救済について、法の穴が全面的に陥没しているにもかかわらず、国会は子ども被災者支援法でお茶を濁しているだけで、学校環境衛生基準ひとつ取っても明らかなように、その穴埋めをしようとしない、この意味で311後の日本は法治国家が滅亡したことをもっともっと声を大にして主張すべきだった。その上で、「法治国家が滅亡したとき、そこで私たちは何をなすべきか」という311後の本質的な課題を裁判所にではなく、市民全員に向けて正面から提起すべきだった。

しかし、私はしなかった。それが出来なかった理由は、私の中で、どこかに、誠実に訴えれば受け止めてくれるという裁判所に対する期待があったから。しかし、昨年末の最高裁の決定でそれが幻想であったこと、法治国家は滅亡したことがハッキリした。

  そのとき、法治国家が滅亡したあとに残されたことは、今回の八潮市の道路陥没のように、原発事故の救済についてざっくり陥没した穴を穴埋めすることです。だが肝に銘じることは、陥没した穴埋めするのはもはや滅亡した国家ではなく、われわれ市民自身だということです。それを言ったのが百年前のオーストリアの法学者エールリッヒです。彼に言わせれば、法律とはそもそも普通の市民が毎日の生活の中から自ら形成する法規範のことだ。つまり、市民が実際の生活現場の中で直面した諸問題を解決するためにみずから編み出したルールを「生ける法」として法規範にするのが法律だと。この「生ける法」を市民の手で生成することこそ、子ども脱被ばく裁判の裁判所が何一つ解決をせずに幕引きをしたことを通じて、裁判所が私たちに示した唯一の貴重な教訓です。

子ども脱被ばく裁判の次は、市民自身が「生ける法」を生成する2つのアクション

この教訓を受け取った私は、「生ける法」の生成を次の2つの取組みの中で実行しようと考えています。

ひとつは、昨年出版したブックレット「わたしたちは見ている」に書かれている、1999年に市民の手で立法を実現した情報公開法の、日本各地の自治体で条例制定を積み上げていって法律制定を勝ち取ったその制定の仕方をモデルにして、原発事故の救済についてゴミ屋敷となった日本社会を市民の手で人権屋敷に再建する市民立法「チェルノブイリ法日本版」の実現です。

             ブックレット「私たちは見ている」

 もうひとつは、2013年から福島県の子どもたちを留学させるために長野県松本市で実施して来た松本子ども留学が、このたび、チェルノブイリの保養をモデルにした「自然体験」「養生」「芸術体験」の3つの柱を組み合わせた新たな保養事業の団体(一般社団法人信州無何有の里〔むかうのさと〕)として再スタートします。さらに、保養を被ばくしない権利のひとつである保養の権利の行使として位置づけて、3本柱の保養事業を日本の通常の保養団体のように保養を民間の責任で行なうものではなく、ヨーロッパ並みの公共事業、つまり国家が果すべき社会福祉事業として認知されるように取り組んでいこうと、3日前の2月1日、福島から松本に避難した子ども脱被ばく裁判の原告とYMOの4人目のメンバーといわれるミュージシャンと私の3人の理事が松本の保養施設に集まって誓いを立てたところです。

かつて黒人差別と闘った作家ボールドウィンは「次は火だ」という有名な本を書きました。私にとって、子ども脱被ばく裁判の「次は市民立法だ」です。

   スタートする一般社団法人信州無何有の里の保養施設「奏奏(sousou)」

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【第77話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その4「最高裁判決は理由をボイコット」(25.2.5)

            2016年10月7日、晴れ、庭の切り倒した木の中に座るカエル

下の原稿のスピーチ(あとで喋り直した完全版)



第二次疎開裁判=子ども脱被ばく裁判のスタート
 首の皮一枚で繋がっていたのがこれで気を取り直して、そこから再び、新たな原告の輪をひとりずつ増やしていって、何とか2014年8月の25家族の提訴に漕ぎ着けました。当時、この提訴が信じられず、夢を見ているような気持ちでした。
すると審理が始まると、疎開裁判では経験したことのなかった新たなハードルに遭遇。それは、金沢という裁判長が子ども人権裁判は請求が特定されていないんじゃないかとケチをつけ門前払いの可能性を持ち出して来たこと。裁判長はこの問題に執着し、このまま行くと、折角1年以上かけて提訴に漕ぎ着けたのに、今度の裁判はあっさり門前払いで蹴散らされてしまうのかと頭を抱えてしまった。そのため、提訴後最初の1年間はこの難問をクリアするためにが費やされるという想定しなかった苦労を味わうことになる。
しかし、2016年5月、裁判長は私たちの必死の応答に、門前払いをあきらめ、審理に入ることを宣言。このとき、私はこれで勝てると思った。

 

子ども脱被ばく裁判の一審判決
 しかし、これは甘かった。2人目の遠藤裁判長はそうはしなかったから。彼は2021年3月1日の判決で、一方では、1人目の裁判長が門前払いしなかった子ども人権裁判を再び殆ど門前払いで蹴散らし、他方では、この裁判が科学裁判であるにも関わらず、科学的事実の問題は慎重に認定を避け、すべてを法律問題の中で処理する、それも予防原則という観点はカケラもなく、市民の要求を拒絶する際に使われるお馴染みの行政庁の自由裁量論というテクニックを使って、私たちの主張をことごとく拒絶し蹴散らした(詳細>こちら)。その後の二審も最高裁の判決も基本的にはこの一審判決をこれでよしとしたものだった。

しかし、一審判決は疎開裁判の仙台高裁の決定と比べると違いが歴然としている。
第1に事実問題に対する態度が全くちがう。疎開裁判の仙台高裁は事実問題に果敢に取り組んだ。これに対し、一審判決は科学裁判にも関わらず事実問題から完全に逃げた。一審判決は逃げた上で、
第2に、法律の規定がないんだからその穴は行政庁の自由裁量で埋めればよいという前代未聞の恐ろしいロジックを持ち出した。もともと法治国家である以上、自由裁量といっても法律の規定があることを前提にして、当該法律が政策について行政庁の自由裁量に任せる趣旨であるかどうかが問われるのであって、そのためには法律の規定がなくてはいけない。もし法律の規定がない場合には、まずなすべきことは陥没している法の穴を穴埋め(法の欠缺の補充)して法律の規定を回復することが先決であって、法律がないままをで、当該法律が行政庁の自由裁量に任せる趣旨であるかどうかなんてどうして判断できるでしょうか。判断しようがありません。
だから、一審判決のように、陥没している法の穴を穴埋めしないまま、つまり法律の規定を回復しないまま、行政庁の自由裁量で処理すればいいんだというロジックは結局、法律に従った統治つまり法治国家の否定であり、法律に縛られない行政の独裁権力にお墨付きを与えるものです。同時にこれは「法による裁判」という司法の根本原理を自ら否定するもので、司法の自死です。

 

子ども脱被ばく裁判の最高裁判決が示したものその1「理由をボイコット」
 私たちが2024年1月4日、上告した親子裁判、それはこの裁判こそ福島原発事故後の日本社会をどう建て直すのかという再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判である。これに対し、最高裁は、私たちが上告理由書を提出してからわずか8ヶ月という、中国の政治的裁判の超高速処理にも劣らない異例のスピードで却下の決定を下した。

 この最高裁の判断はほかの福島関連の裁判と比べて次の際立った特徴がある。

 この裁判は、被ばくとりわけ内部被ばくの危険性を正面から問うた重要な科学裁判である。どんなに科学技術が進歩したとはいえ、しかも人類が放射能を発見してから140年経ったにもかかわらず、小児甲状腺がんひとつとっても明らかなように、放射能による健康影響のメカニズムは今なお殆ど分からず、ブラックボックスの状態にある。このような現状のもとで放射能被ばくとどう向き合うのか。過去に過酷な経験をしたチェルノブイリ事故から学ぶしかない、そう言ったのは元松本市長の菅谷昭さん(菅谷昭「原発事故と甲状腺がん」)。
 私たちは10年間、チェルノブイリ事故の教訓とその後の知見に基づき、国と福島県の責任を明らかにしてきた。これに対し、私たちを蹴散らした一審判決も二審判決もなぜ私たちの主張が採用されないのか、そのきちんとした理由付けが何もなかった。そこで、最高裁に高裁判決と私たちがこの10年間取り組んできた主張と証拠を詳細に主張した上告理由書の一体どちらの理由が正当であるのか、その判断を最高裁に仰いだ。
 しかし、最高裁もまた、一審判決、二審判決と同様、どちらの理由が正当であるのか、その理由は全く、ひとつも示さないまま、ただ4行と2行の判決文でおまえたちの主張はダメだと言って蹴散らした。
 一般事件なら、最高裁が理由を示さず、結論だけで判断を示すことはよくある。しかし、重要な人権裁判については、最高裁はこれまでも結論が市民の主張を退ける時でも、最低限、その退ける理由は自ら具体的に示して来た。有名な1967年の朝日訴訟最高裁判決。これは原告の朝日茂さんの死亡により訴訟は終了したと訴えを退けたが、しかし、それに続いて、「念のため」と断って、25頁にもわたって最高裁の考えを示した。2022年、福島原発事故に対する国の責任を否定した最高裁6.17判決すらその理由を明らかにした。

 なぜか。それは「理由を示す」こと、それが司法が他の立法や行政と根本的にちがうところだから。今の国家に、なぜ立法や行政のほかにわざわざ司法があるのか。それは国が結論を下すときに単に結論を示せば足りるのではなく、「なぜその結論が導けるのか理由を示して、結論の証明をすること」が求められるからです。司法というのは、理由を示してなんぼの世界。その司法が理由を示さなかったらどうなるのか。司法の自殺です。司法自身が人権侵害を放置するゴミ屋敷です。

これを子どもが聞いたらどう思うだろうか。子ども脱被ばく裁判の主役は子どもだからです。もともと、最高裁は子どもにも分かる言葉で、自分が下した判決の理由を示す必要があった。しかし、たった4行や2行の言葉で、原告の子どもたちが数万行を使って求めていた問題に対する応答が出来るだろうか。できるはずがない。最高裁は、このことだけでも、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちに謝るべきである。そればかりか、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちは福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちを代表して提訴した人たちです。だから、最高裁は、自分の三行半の判決に対し、福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちに向かって謝るべきである。それをしない限り、みずから司法の自殺行為に出た最高裁は永遠に立ち直れない。

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【第76話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その3「(ふくしま集団疎開裁判)狐につままれた二審決定」(25.2.5)

2025年2月4日にやった、子ども脱被ばく裁判の総括集会で、私も原稿を用意したが、時間の都合で前半しか喋れなかった。そこで、その後半について喋ったのが以下の動画と解説。まずは、ふくしま集団疎開裁判の「狐につままれt二審仙台高裁決定」について。

        2019年11月24日、家に迷い込んだカマキリを外に出した


          下の原稿のスピーチ(時間切れで途中を端折った不完全版)


下の原稿のスピーチ(あとで喋り直した完全修復版)


集団疎開裁判の結末と次のアクションに向けて新たな困難

2013年1月21日の第3回の審尋が終わってからさんざん待たせた挙句、同年4月24日に出た決定は却下。しかし、事実認定はすべて我々の主張を認めた()。だったら、そこからどうして却下になるのか、この狐につままれた決定はAP通信を通じて全世界に報道。

                ワシントンポスト

)事実認定の理由づけ
(1)
、郡山市の子どもは低線量被ばくにより生命・健康に由々しい事態の進行が懸念される、
(2)
、除染技術の未開発、仮置場問題の未解決等により除染は十分な成果が得られていない
(3)
、被ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するしか手段がない
(4)
、「集団疎開」が子どもたちの被ばくの危険を回避する1つの抜本的方策として教育行政上考慮すべき選択肢である 


この報道で世界中の市民が日本の司法の矛盾を知った、ひとり日本国民を除いて。この決定で私たちは頂上の一歩手前の9合目まで登った。あとはすぐさま第二次疎開裁判を提訴して、この矛盾だらけの法律論を論破して頂上に攻め上ろう、それがこの決定から引き出された結論でした。この決定の翌月の5.18新宿デモは山本太郎司会のもとで次のアクションに向けて、参加者から次々と熱いアピールが表明された。

               20135.18新宿デモ

 ところが、ここで思いがけないハードルに遭遇。原告になる子どもたちが見つからなかったのです。子ども福島の中がゴタゴタしており、あちこち原告探しに行ったのですが、誰も手を上げない。その間、ずっと水中に潜っているような閉塞感に襲われ、もうダメなんじゃないかとすら思った。砂をかむような空白の7ヶ月が過ぎて、2013年暮れ、一通のショートメールが「行政を頼りにしてきたけれど今日、当てにできないと分かりました。裁判をします」と。それをキッカケに一気に6家族ほどが原告に。 しかしホッとしたのも束の間、その地元で市長選が始まると、裁判は市長との関係を悪くするので辞退したいという連絡が。それで再び振り出しに。その結果、別の自治体に住む1家族だけになってしまった。その惨状を救ったのがその直後来日したチョムスキー。彼は福島の人たちと話したいと、過密スケジュールの中をこの家族に会って激励してくれた。


チョムスキーと福島の人たちの面談(Ourplant-TV「ふくしまの声を聴く」)

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【第75話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その2「外圧の力」(25.2.5)

           2019年11月24日、家に迷い込んだカマキリ


     
           以下の原稿のスピーチ



集団疎開裁判の争点と経過

 この裁判は最初から世界レベルの闘いでした。というのは、裁判のテーマが文科省の20mSv通知(>原文)を撤回させ、福島の子どもたちを集団疎開させることだったので、文科省がこの通知を国内法ではなく、海外のICRPの勧告(>原文)を根拠にしていた点に焦点を合わせ、我々もICRP勧告のいかがわしさを明らかにするために、ICRPに対抗して放射線防護を提唱していたECRR(欧州放射線リスク委員会。2010年勧告「放射線に安全な線量はない」)の科学事務局長のクリス・バズビーさんに来日して、被ばくとりわけ内部被ばくの危険性を福島県で講演して欲しいと依頼しました。国際原子力ムラとの闘いが最初からのテーマでした。幸いバズビーさんは快諾し来日が実現しました。ところが、彼は福島県での講演を拒否したのです。チェルノブイリ事故でECRRの仲間が亡くなった経験から、原発事故から100キロ圏内には入らない方針だと言うのです。そこで、100キロ圏内には入らないよう車で栃木県の山奥を迂回するからと彼に拝み倒して、福一から100キロスレスレの会津若松で講演してもらいました(彼の記者会見映像。東京早稲田奉仕園での講演会)。

           2011719日 バズビーさん(会津若松)

 バズビーさんにはテレビ出演もしてもらったのですが、マスコミは彼を黙殺し、彼の声は一部の人にしか届きませんでした。
 他方、国内で、この疎開裁判に最も尽力した市民のひとりが山本太郎さんだった。彼はこの裁判を文字通り命がけで応援し、10月15日の郡山デモに駆けつけ陣頭指揮をとってアピールし(>その動画)、誰もが知っている福島出身の有名人に拝み倒して、福島の子どもたちの集団疎開を求めるメッセージ映像を制作し証拠として提出し(>彼のメッセージ動画)、12月16日の突然の却下決定の時にも急きょ東京から郡山に駆けつけて記者会見に立ち会ったのです(>会見動画)。その後も仙台高裁の決定が出るまで(>その動画の一つ)、出たあとに惜しみなく尽力を注いだ(>2013年5月18日判決直後アクションの新宿デモ

7月5日に第1回期日があり、この時、子ども脱被ばく裁判とちがって、一審の郡山支部の偉かったところは「疎開の終わりはいつまでか」と尋ねて門前払いしなかったことです(>報告の動画)。しかし、その後態度が二転三転し、半年後の2012年12月16日、野田首相の収束宣言と同じ日のほぼ同時刻に合わせて「100mSv以下なら問題ない」と却下の決定を出し、私たちは蹴散らされました(>直後の会見動画)。仮処分事件なので、通常は一審でほぼ決着がつく。二審の結果はペラ一枚の紙切れが届いてあっという間に幕切れのはずで、絶体絶命だった。ところがここで異変が起き、二審は1年4ヶ月の異例の展開。そこには世界からの力があった。

まず、12月16日の却下決定を黙殺した日本のマスコミを尻目に、韓国の公共放送KBSがこの裁判について詳しく取り上げた番組「世界は今」を制作・放送して韓国で話題となり、私たちはその映像を逆輸入して日本で拡散しました(>こちら)。

KBS「世界は今」2012年1月)


ついで、2012年正月、知識人で真っ先に声をあげたのは日本ではなく、 世界の良心と言われるチョムスキーだった。それは普遍的な意味を持つ次のメッセージだった。

社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはなく、許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。日本にとって、そして世界中の私たち全員にとって、この裁判は失敗が許されないテスト(試練)なのです。

このメッセージに引きづられて大江健三郎らが応援エールを寄せたアクション、それが東京と郡山で、アイリーンさんたちの同時通訳で世界にリアルタイムで発信した世界市民法廷の開催(>Ourplanet動画 東京前半 後半)。
ここまでの経過を映像でまとめたのが
映像ドキュメント世界市民法廷への道(1) 同(2)

その市民法廷で被告郡山市の「不知」という認否が無責任だと大いに注目を浴びもの笑いにされ、その夏からの官邸前アクションに毎金曜日参加し、毎回、裁判支援者が二桁のペースで増えるような盛り上がりをみせ( >7/25の動画 9/14の動画 9/28の動画 10/5の動画)、ところが、裁判が長引いて冬場に入った時、金曜アクションは真冬の中でも続けられ(>12月21日の動画)、その間に201210月、国連人権理事会で日本の人権侵害状況を審査するUPRに合わせて、双葉町長の井戸川さんを誘ってジュネーブに行き、サイドイベントで福島の現実をアピールし(>動画)、UPRではオーストリア政府が日本政府に対し「福島の住民の健康の権利守れ」という勧告を表明(>記事)。これは福島の人権問題が国連の文書に初めて登場した画期的な瞬間だった(>詳細)。さらに、ジュネーブ市長(>動画)やオーストリア首相(>文書)などから世界中からの応援メッセージが裁判所と被告郡山市を脅かし、その中で、裁判所が異例の「審尋」を開くと通告してきました(>報告)。

この続きは>第76話   この前は>第75話

【第74話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その1「未来について語る」(25.2.5)

           2019年7月2日、家の不意の来客カミキリムシ君

弁護団 柳原敏夫

以下と【第75話】【第76話】【第77話】【第78話】【第79話】【第80話】【第81話第84話は、2月4日にやった子ども脱被ばく裁判の総括集会で喋った内容。10年間の子ども脱被ばく裁判の振り返りを通じて、この裁判の可能性の中心を探り、そこから「次のアクションは何か?」を具体的に示そうとしたもの。以下、その動画(ただし、時間の都合で前半しか話できなかった←その後、後半を喋った動画を第76話】【第77話】【第78話】【第79話で公開)


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はじめに

今日は子ども脱被ばく裁判の締め括りということで、今日ここにおられない原告の皆さん、支援者の皆さんにもお話する滅多にないチャンスと考えて、儀礼的な話ではなく、これだけは伝えたいという話をしたいと思います。

それはおもに311から数年間の話です。これまで、311当時の話はただの昔話、ノスタルジアに浸っているだけに思えて思い出しませんでした。しかし、最近、変わりました。当時の動画を観て、これは決して過ぎ去った過去の出来事ではない、これから起きるであろう未来の出来事について語っているのだと気がついたからです。だから、これから私が話すことは未来の出来事について語っているのだと思って聞いて下さい。


311の衝撃

私は311で人間関係ががらりと変わりました。今付き合いのある人の百人中99人は311後に知り合った人たちです。言い換えれば、311でそれまで100人中99人の人とは付き合えなくなりました。311のあと、私は、自分がたとえ鶴や亀のように何百年も生き長らえたとしても経験できない、頭の中がグジャグジャになるものすごい体験をしたのだと思いました。しかし、周りには原発事故は一過性の事故だと考えて済まそうという人が沢山いました。私にとって最大のハードルは原子力ムラではなく、現代文明の終わりを暗示する原発事故と向き合おうとしない人々、現代文明の管理社会が敷いたレールの上をこれまでずっと走ってきて、今も走ることを止められない人々でした。

しかし、原発事故と向き合おうとしないのは素人の一般市民ばかりではなく、その上がいたのです。私の腰が抜けるほど驚きだったのは、2011年4月19日の文科省の20mSv通知でした(>原文)。あの通知を知った瞬間、私は教育と放射能のプロのはずの文部科学省は気が狂ったと思いました。過去最大の児童虐待を自らおこなったからです。ただ、さらにショックだったことは、このキ○ガイ沙汰の通知は今すぐ撤回させるべきなのに、原発や原爆の裁判の関係者に打診しても誰もその裁判をやろうというリアクションがなかったことです。うちひしがれる中で、だったらあきらめるのか。そんな訳にはいかないと自問自答の末、放射能のど素人の無謀な取組みであることは百も承知で、30歳そこそこの長野県松本市の弁護士と2人で、裁判の原告探しに、2011年5月22日、郡山市に出かけ、子ども福島の準備集会(>その動画)で訴えて14人の子どもたちと出会いました(>その訴えの動画)。それが624日に福島地裁の郡山支部に仮処分の申立をしたふくしま集団疎開裁判の始まりでした。


2011年5月22子ども福島の準備集会(郡山)

そのとき、弁護団が放射能のど素人だけではさすがに信用がなさ過ぎるというので、志賀原発の差止判決を書いた、311直前に退官して彦根で疲れを癒していた井戸謙一さんに、彼は学生時代、セツルメントというサークルの後輩だったので、この時ばかりは先輩風を吹かせて、無理やり拝み倒して弁護団に参加してもらいました。

疎開裁判、624日の仮処分の申立>Ourplanet動画

この続きは>第75話

【第136話】つぶやき(その12)「悪夢を吉夢に転換させる」という秋山豊寛さんの夢に応答した昨日の最高裁三浦意見という死亡再生診断書(26.9.15)

       本年1月9日の避難者追出し裁判最高裁判決三浦意見 を表明した三浦守判事 昨日、1つの最高裁判決が言渡された。それは311で気仙沼から東京に避難して国内避難民となった避難者の仮設住宅からの立退きを求める裁判の上告審判決。結果は避難者の負け。だが、追出しは違法であると1...