これは、私が市民運動の旧人類から新人類に変化を遂げたーーそれも、サナギがチョウに変化したら元に戻らないように、後戻りすることのない変化を遂げた瞬間を振り返ったもの。
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疎開裁判の申立から1年経った2012年6月24日、今まで一番長いブログ記事を投稿した。
「6.24」提訴から一周年の思い――なぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/07/blog-post_06.html
なぜ、こんな長い文を書いたのか。その理由は単純で、1年やってきて、裁判の取組みが膠着状態となり、このままではジリ貧だという追い詰められた気分に陥り、そこから何とか打開策を求めてもがいていたからだ。それは社会的裁判にとっての3本柱のうち、真実の力(事実問題)でも、正義の力(法律問題)でもなくて、最後の市民の力だった。マスコミの完全黙殺により、市民の力の結集が圧倒的に不利になっていて、そこを打開するために、今までのやり方、市民運動の経験者による集会開催、記者会見、署名といった伝統的なやり方では足りないことが明白だった。
ならば、それに代わる新たなやり方はどこにあるのか。「新しい酒は新しい革袋に盛れ」をどうやって実行したらよいのか。せっかく世界市民法廷で高揚した市民運動を、このあと、どうやって維持、発展させていったらよいのか、その展望が見つからず、悶々とする日々が4,5,6月と続いた。
その中で出会ったのが若者園良太さんだった。彼は言った
「外に出ましょう」
!?
それまで、裁判の訴えをするのは法廷か屋内の集会か記者会見場と決まっていて、どれもみんな建物の中だった。しかし、彼はそんなまだろっこしいことはやめて、ズバリ路上で、それもあたり構わず、どこでも訴えることを勧めた。
こうして、2012年7月の金曜日、教師に引率されて生まれて初めて遠足に出かける小学1年生のガキみたいに、トラメガを持つ園さんに引率されて、官邸前に出かけた。そこは反原連主催の金曜アクションが行なわれていて、たくさん人が集まっていた。だが、私たちの出番はなかなか来なかった。すると、園さん曰く
「行きましょう」
!? どこへ
と尋ねる間もなく彼はスタコラ移動して、官邸脇の路上で、少しスペースのある場所を探しては、そこに立って、トラメガを使ってガンガン、アピールし始めた。そのあと、私にマイクを渡しながら言った。
「柳原さんの番です」
!?
生まれてこの方で、路上で大声をあげてアピールする経験なぞ一度もなかった私はどぎまぎした。しかし、園さんの決然とした姿に「出来ない」とも言えず、迷った末に、えい、今さら失うものは何もないと、とは言っても恐る恐る、清水寺の舞台から飛び降りるような気分で夢中でなにか喋った。
これが生まれて初めての路上スピーチデビューだった。その瞬間、自分がサナギからチョウに羽化したような、否、これは水中動物が長らく棲んでいた水中とオサラバして、陸にあがって陸上動物に進化した瞬間のように、全身が生まれ変わったような気がした。八百年前の鎌倉仏教の逵説法も、こんな風にしてやったのかと一瞬、感慨がよぎった。が、そんな感慨に浸る間もなく、園さん曰く
「次、行きましょう」
そこから別のスピーチの出来る場所を求めて移動した。そして、新しい場所でまたガンガン、アピールした。この彼のテキパキした行動力に、半ば驚驚嘆し、半ばちょっと待ってと付いて行くのがやっとだった。
この瞬間、疎開裁判の運動のスタイルが一変し、新たなスタイルが確立した。
折りしも、路上には、政府の原発事故救済政策に不信、不満を抱く市民が大勢駆けつけていた。こんなチャンスはあるものかと、路上で訴える確かな手ごたえを確信した。
それまで閉塞状態にあった私は、わらをも掴む思いで、7月27日から「建物から外に出て、路上で訴える」路上アクションのスタートに打開の道を賭けました。
子どもたちを核戦争から守れ! 7.27ふくしま集団疎開裁判官邸前抗議行動、スタート&第3回世界市民法廷(官邸前広場)の開催
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/07/blog-post_23.html
それは、それまで屋内で開催して成功した世界市民法廷で高揚した市民運動を、今度は路上で、官邸前広場で世界市民法廷を開くというやり方で、この運動を発展させるというものでした。
その成果は直ちに現れて、官邸前に来た山本太郎さんが、人々にこの裁判の重要性を熱く訴えて、人々に届けた(以下の動画)。
そして、人々のアドバイスもあり、園さんの「いつでもどこでもアピール」というスタンスで、路上アクションの場所を官邸前に限定せず、広く長時間使える場所として文科省前と財務省坂上に陣取って、毎週金曜日、この裁判の最新情報を、人形劇形式、遠方にいる小出裕章さんらとの電話中継、武藤類子さん指導のかんしょ踊りなどなど、様々な出し物を交えて、疎開裁判を市民が裁く「路上世界市民法廷」をやり続けました。
その中で、毎回、大勢、共感した市民が「私も何か」と手を上げると、園さんがテキパキと、「はい、あなた、来週からこれやって下さい」と差配をしてくれて、見る見るうちに何十人もの集団に膨れ上がった。2012年10月に国連ジュネーブに福島の現実を訴えに行くプロジェクトを立てたのも、金曜アクションに来たスイスとイギリス在住の人たち(彼らが国連で通訳を担当してくれた)との交流がきっかけだった。様々なアクションがみんな、この時の路上アクションから始まった。
それがふくしま集団疎開裁判の運動を支える市民の強力なネットワークの核になった人たち(当時はふくしま集団疎開裁判の会、今の脱被ばく実現ネット)だった。
2012年10月5日 ふくしま集団疎開裁判 財務省坂上アクション
まとめ。
このとき、市民の強力なネットワーク形成の種をまいたのは、
「外に出ましょう」
と声掛けしてくれた園良太さんです。彼はあたかも雪の結晶を作るチリのような存在でした。もし彼がいなかったら、この時の市民の強力なネットワークの結晶は出来なかった。
なぜなら、311後の市民運動は、過去に経験したことのない未曾有の過酷事故=福島原発事故に相応しい、その未曾有さに匹敵するだけの新しいスタイルが求められていたのですが、この時、路上アクションという原発事故に匹敵する新しいスタイルが誕生した。その新しさを誰よりも早く、的確に、直感で掴んでいたのが新人類の園さんで、その新しさを分かっていなかった旧人類の私は彼の後押しナシには、この新しいスタイルの運動にとうてい入っていけなかった。
あれから13年が経過、今また、この時の経験を、現時点の状況の中で活かすための振り返り、創造的な取組みが求められている。それに立ち向かうためにも、市民の強力なネットワークの形成の種となった2012年夏の経験の意味を振り返る必要があると痛切に感じている。
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