2025年2月5日水曜日

【第77話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その4「最高裁判決は理由をボイコット」(25.2.5)

            2016年10月7日、晴れ、庭の切り倒した木の中に座るカエル


第二次疎開裁判=子ども脱被ばく裁判のスタート
 首の皮一枚で繋がっていたのがこれで気を取り直して、そこから再び、新たな原告の輪をひとりずつ増やしていって、何とか2014年8月の25家族の提訴に漕ぎ着けました。当時、この提訴が信じられず、夢を見ているような気持ちでした。
すると審理が始まると、疎開裁判では経験したことのなかった新たなハードルに遭遇。それは、金沢という裁判長が子ども人権裁判は請求が特定されていないんじゃないかとケチをつけ門前払いの可能性を持ち出して来たこと。裁判長はこの問題に執着し、このまま行くと、折角1年以上かけて提訴に漕ぎ着けたのに、今度の裁判はあっさり門前払いで蹴散らされてしまうのかと頭を抱えてしまった。そのため、提訴後最初の1年間はこの難問をクリアするためにが費やされるという想定しなかった苦労を味わうことになる。
しかし、2016年5月、裁判長は私たちの必死の応答に、門前払いをあきらめ、審理に入ることを宣言。このとき、私はこれで勝てると思った。

 

子ども脱被ばく裁判の一審判決
 しかし、これは甘かった。2人目の遠藤裁判長はそうはしなかったから。彼は2021年3月1日の判決で、一方では、1人目の裁判長が門前払いしなかった子ども人権裁判を再び殆ど門前払いで蹴散らし、他方では、この裁判が科学裁判であるにも関わらず、科学的事実の問題は慎重に認定を避け、すべてを法律問題の中で処理する、それも予防原則という観点はカケラもなく、市民の要求を拒絶する際に使われるお馴染みの行政庁の自由裁量論というテクニックを使って、私たちの主張をことごとく拒絶し蹴散らした(詳細>こちら)。その後の二審も最高裁の判決も基本的にはこの一審判決をこれでよしとしたものだった。

しかし、一審判決は疎開裁判の仙台高裁の決定と比べると違いが歴然としている。
第1に事実問題に対する態度が全くちがう。疎開裁判の仙台高裁は事実問題に果敢に取り組んだ。これに対し、一審判決は科学裁判にも関わらず事実問題から完全に逃げた。一審判決は逃げた上で、
第2に、法律の規定がないんだからその穴は行政庁の自由裁量で埋めればよいという前代未聞の恐ろしいロジックを持ち出した。もともと法治国家である以上、自由裁量といっても法律の規定があることを前提にして、当該法律が政策について行政庁の自由裁量に任せる趣旨であるかどうかが問われるのであって、そのためには法律の規定がなくてはいけない。もし法律の規定がない場合には、まずなすべきことは陥没している法の穴を穴埋め(法の欠缺の補充)して法律の規定を回復することが先決であって、法律がないままをで、当該法律が行政庁の自由裁量に任せる趣旨であるかどうかなんてどうして判断できるでしょうか。判断しようがありません。
だから、一審判決のように、陥没している法の穴を穴埋めしないまま、つまり法律の規定を回復しないまま、行政庁の自由裁量で処理すればいいんだというロジックは結局、法律に従った統治つまり法治国家の否定であり、法律に縛られない行政の独裁権力にお墨付きを与えるものです。同時にこれは「法による裁判」という司法の根本原理を自ら否定するもので、司法の自死です。

 

子ども脱被ばく裁判の最高裁判決が示したものその1「理由をボイコット」
 私たちが2024年1月4日、上告した親子裁判、それはこの裁判こそ福島原発事故後の日本社会をどう建て直すのかという再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判である。これに対し、最高裁は、私たちが上告理由書を提出してからわずか8ヶ月という、中国の政治的裁判の超高速処理にも劣らない異例のスピードで却下の決定を下した。

 この最高裁の判断はほかの福島関連の裁判と比べて次の際立った特徴がある。

 この裁判は、被ばくとりわけ内部被ばくの危険性を正面から問うた重要な科学裁判である。どんなに科学技術が進歩したとはいえ、しかも人類が放射能を発見してから140年経ったにもかかわらず、小児甲状腺がんひとつとっても明らかなように、放射能による健康影響のメカニズムは今なお殆ど分からず、ブラックボックスの状態にある。このような現状のもとで放射能被ばくとどう向き合うのか。過去に過酷な経験をしたチェルノブイリ事故から学ぶしかない、そう言ったのは元松本市長の菅谷昭さん(菅谷昭「原発事故と甲状腺がん」)。
 私たちは10年間、チェルノブイリ事故の教訓とその後の知見に基づき、国と福島県の責任を明らかにしてきた。これに対し、私たちを蹴散らした一審判決も二審判決もなぜ私たちの主張が採用されないのか、そのきちんとした理由付けが何もなかった。そこで、最高裁に高裁判決と私たちがこの10年間取り組んできた主張と証拠を詳細に主張した上告理由書の一体どちらの理由が正当であるのか、その判断を最高裁に仰いだ。
 しかし、最高裁もまた、一審判決、二審判決と同様、どちらの理由が正当であるのか、その理由は全く、ひとつも示さないまま、ただ4行と2行の判決文でおまえたちの主張はダメだと言って蹴散らした。
 一般事件なら、最高裁が理由を示さず、結論だけで判断を示すことはよくある。しかし、重要な人権裁判については、最高裁はこれまでも結論が市民の主張を退ける時でも、最低限、その退ける理由は自ら具体的に示して来た。有名な1967年の朝日訴訟最高裁判決。これは原告の朝日茂さんの死亡により訴訟は終了したと訴えを退けたが、しかし、それに続いて、「念のため」と断って、25頁にもわたって最高裁の考えを示した。2022年、福島原発事故に対する国の責任を否定した最高裁6.17判決すらその理由を明らかにした。

 なぜか。それは「理由を示す」こと、それが司法が他の立法や行政と根本的にちがうところだから。今の国家に、なぜ立法や行政のほかにわざわざ司法があるのか。それは国が結論を下すときに単に結論を示せば足りるのではなく、「なぜその結論が導けるのか理由を示して、結論の証明をすること」が求められるからです。司法というのは、理由を示してなんぼの世界。その司法が理由を示さなかったらどうなるのか。司法の自殺です。司法自身が人権侵害を放置するゴミ屋敷です。

これを子どもが聞いたらどう思うだろうか。子ども脱被ばく裁判の主役は子どもだからです。もともと、最高裁は子どもにも分かる言葉で、自分が下した判決の理由を示す必要があった。しかし、たった4行や2行の言葉で、原告の子どもたちが数万行を使って求めていた問題に対する応答が出来るだろうか。できるはずがない。最高裁は、このことだけでも、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちに謝るべきである。そればかりか、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちは福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちを代表して提訴した人たちです。だから、最高裁は、自分の三行半の判決に対し、福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちに向かって謝るべきである。それをしない限り、みずから司法の自殺行為に出た最高裁は永遠に立ち直れない。

この続きは>第78話   この前は>第77話

 

 

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