弁護団 柳原敏夫
以下と【第75話】【第76話】【第77話】【第78話】【第79話】【第80話】【第81話】は、2月4日にやった子ども脱被ばく裁判の総括集会で喋った内容。10年間の子ども脱被ばく裁判の振り返りを通じて、この裁判の可能性の中心を探り、そこから「次のアクションは何か?」を具体的に示そうとしたもの。以下、その動画(ただし、時間の都合で前半しか話できなかった)
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はじめに
今日は子ども脱被ばく裁判の締め括りということで、今日ここにおられない原告の皆さん、支援者の皆さんにもお話する滅多にないチャンスと考えて、儀礼的な話ではなく、これだけは伝えたいという話をしたいと思います。
それはおもに311から数年間の話です。これまで、311当時の話はただの昔話、ノスタルジアに浸っているだけに思えて思い出しませんでした。しかし、最近、変わりました。当時の動画を観て、これは決して過ぎ去った過去の出来事ではない、これから起きるであろう未来の出来事について語っているのだと気がついたからです。だから、これから私が話すことは未来の出来事について語っているのだと思って聞いて下さい。
311の衝撃
私は311で人間関係ががらりと変わりました。今付き合いのある人の百人中99人は311後に知り合った人たちです。言い換えれば、311でそれまで100人中99人の人とは付き合えなくなりました。311のあと、私は、自分がたとえ鶴や亀のように何百年も生き長らえたとしても経験できない、頭の中がグジャグジャになるものすごい体験をしたのだと思いました。しかし、周りには原発事故は一過性の事故だと考えて済まそうという人が沢山いました。私にとって最大のハードルは原子力ムラではなく、現代文明の終わりを暗示する原発事故と向き合おうとしない人々、現代文明の管理社会が敷いたレールの上をこれまでずっと走ってきて、今も走ることを止められない人々でした。
しかし、原発事故と向き合おうとしないのは素人の一般市民ばかりではなく、その上がいたのです。私の腰が抜けるほど驚きだったのは、2011年4月19日の文科省の20mSv通知でした(>原文)。あの通知を知った瞬間、私は教育と放射能のプロのはずの文部科学省は気が狂ったと思いました。過去最大の児童虐待を自らおこなったからです。ただ、さらにショックだったことは、このキ○ガイ沙汰の通知は今すぐ撤回させるべきなのに、原発や原爆の裁判の関係者に打診しても誰もその裁判をやろうというリアクションがなかったことです。うちひしがれる中で、だったらあきらめるのか。そんな訳にはいかないと自問自答の末、放射能のど素人の無謀な取組みであることは百も承知で、30歳そこそこの長野県松本市の弁護士と2人で、裁判の原告探しに、2011年5月22日、郡山市に出かけ、子ども福島の準備集会(>その動画)で訴えて14人の子どもたちと出会いました(>その訴えの動画)。それが6月24日に福島地裁の郡山支部に仮処分の申立をしたふくしま集団疎開裁判の始まりでした。
2011年5月22日 子ども福島の準備集会(郡山)
そのとき、弁護団が放射能のど素人だけではさすがに信用がなさ過ぎるというので、志賀原発の差止判決を書いた、311直前に退官して彦根で疲れを癒していた井戸謙一さんに、彼は学生時代、セツルメントというサークルの後輩だったので、この時ばかりは先輩風を吹かせて、無理やり拝み倒して弁護団に参加してもらいました。
疎開裁判、6月24日の仮処分の申立(>Ourplanetの動画)
この続きは>第75話
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