下の原稿のスピーチ
2013年1月21日の第3回の審尋が終わってからさんざん待たせた挙句、同年4月24日に出た決定は却下。しかし、事実認定はすべて我々の主張を認めた(※)。だったら、そこからどうして却下になるのか、この狐につままれた決定はAP通信を通じて全世界に報道。
ワシントンポスト(※)事実認定の理由づけ
(1)、郡山市の子どもは低線量被ばくにより生命・健康に由々しい事態の進行が懸念される、
(2)、除染技術の未開発、仮置場問題の未解決等により除染は十分な成果が得られていない
(3)、被ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するしか手段がない
(4)、「集団疎開」が子どもたちの被ばくの危険を回避する1つの抜本的方策として教育行政上考慮すべき選択肢である
この報道で世界中の市民が日本の司法の矛盾を知った、ひとり日本国民を除いて。この決定で私たちは頂上の一歩手前の9合目まで登った。あとはすぐさま第二次疎開裁判を提訴して、この矛盾だらけの法律論を論破して頂上に攻め上ろう、それがこの決定から引き出された結論でした。この決定の翌月の5.18新宿デモは山本太郎司会のもとで次のアクションに向けて、参加者から次々と熱いアピールが表明された。
ところが、ここで思いがけないハードルに遭遇。原告になる子どもたちが見つからなかったのです。子ども福島の中がゴタゴタしており、あちこち原告探しに行ったのですが、誰も手を上げない。その間、ずっと水中に潜っているような閉塞感に襲われ、もうダメなんじゃないかとすら思った。砂をかむような空白の7ヶ月が過ぎて、2013年暮れ、一通のショートメールが「行政を頼りにしてきたけれど今日、当てにできないと分かりました。裁判をします」と。それをキッカケに一気に6家族ほどが原告に。 しかしホッとしたのも束の間、その地元で市長選が始まると、裁判は市長との関係を悪くするので辞退したいという連絡が。それで再び振り出しに。その結果、別の自治体に住む1家族だけになってしまった。その惨状を救ったのがその直後来日したチョムスキー。彼は福島の人たちと話したいと、過密スケジュールの中をこの家族に会って激励してくれた。
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チョムスキーと福島の人たちの面談(Ourplant-TV「ふくしまの声を聴く」)
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