2025年2月5日水曜日

【第79話】2025年の振り返り:子ども脱被ばく裁判その可能性の中心その6「子ども脱被ばく裁判が日本を変えた」(25.2.5)

           2025年2月7日、ベランダにやってきたヒヨドリ(川越)


アンコール(追伸)その1
子ども脱被ばく裁判最高裁判決が「理由をボイコット」した理由

それは最高裁が私たちを敵視していたからではない。私たちが示した理由をくつがえすだけの理由が示せなかったからだ。

 最高裁とて、司法の本来の姿が「理由を示してなんぼ」の世界であることは百も承知している。だから、国の原発事故の責任を否定した6.17判決も理由を示した。しかし、この裁判ではそうはいかなかった。
私は、上告理由書の作成に参加したとき、これがもし将棋の世界だったら、藤井七冠のように完全に詰んだと確信した。最高裁がもし将棋の世界のように理詰めで、私たちが示した理由をくつがえそうとしたら、自分たちは詰んだと悟っただろう。だから、6.17判決のように正面から理由を示すことはあきらめて、裏から尻尾を巻いて逃げ出す道を選択したのだ。それが理由を示さない三行半の判決の正体である。
この意味で、最高裁判決こそ私たちの上告理由書に敗北した。


アンコール
(追伸)その2
子ども脱被ばく裁判の成果:子ども脱被ばく裁判が日本を変えた

 しかし、そんな楽屋裏を知らない人たち、とくに子ども脱被ばく裁判のことを知っても共感しない人からこんな目で見られていた――そんな裁判やって日本の社会を変えられるのか。ほろみろ、最高裁の判決で変えられなかったじゃないか。

 しかし、私はこう答える。次の理由から、子ども脱被ばく裁判をやって日本の社会を確実に変えることができたと。

①.福島原発事故は日本史上最悪の未曾有の過酷事故であり、事故の被ばくにより多くの子ども・市民の命、健康が前代未聞の危機に陥った時、この事故発生の張本人の1人である日本政府は事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、その結果、多くの子ども・市民に無用な被ばくをさせ、未曾有の危機を招いた。すなわち
・子どもの命・人権を守るはずの文科省が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は放置し、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害された。
この国家の犯罪の法的責任を真正面から問い、「異常が正常とされ、正常が風評被害や異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとしたのが子ども脱被ばく裁判です。

 子ども脱被ばく裁判を起こし、国や自治体の責任を追及することによって、日本の社会は、過酷事故により人権侵害が発生したとき、人々は泣き寝入りせず、このような裁判を起こして国や自治体の責任を追及する社会に確実に一歩、変わったのです。


②.子ども脱被ばく裁判の審理の中で、これまで明らかにされなかった数々の新事実、新法律問題が明らかにされた。私の担当したものだけでも次のことが明らかにされた。

第1に、未曾有の過酷人災である福島原発事故がもたらした衝撃は日本の政治経済にとどまらず、日本の法体系にも及んだ。2011年3月11日まで日本政府は安全神話のもとで原発事故の発生を想定しておらず、備えが全くなかった。これに対応して、日本の法体系もまた原発事故の救済に関する備えが全くなく、文字通りノールール状態つまり全面的な「法の欠缺」状態であった。
のみならず、この全面的な「法の欠缺」状態は原発事故後においてもなお立法的解決が図られず、放置されたままだった。このような時、裁判所に求められることは、深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対し、その穴埋め(補充)作業である。その欠缺の補充作業において主導的な役割を果すのが法律の上位規範である憲法及び条約とりわけ避難民の人権救済と積極的に取り組んできた国際人権法である。
第2に、原発事故の救済に関して、行政庁の裁量の適法性を判断するためには、従来の「裁量権の逸脱・濫用」の法理はそのまま使えない。なぜなら、ここで行政庁が従うべき法律が全面的な「法の欠缺」状態=深刻な陥没状態にあるからである。その結果、この判断のために、まず、全面的な「法の欠缺」状態を正しく補充する必要がある。それが第1に掲げた国際人権法による補充の必要性・重要性である。
第3に、福島原発事故の被災者は311の前にだけ、この国の主権者であり、人権の主体であった訳ではなく、福島原発事故発生後も途切れることなく主権者であり、人権の主体であった。ところが、現実には、ひとたび事故が発生すると、被災者は20キロ圏内の避難指示など国が出す指示命令等に従うだけの、あくまでも保護や救助の対象としてだけの、専ら受身の存在としてしか扱われるだけで、この国の主権者、人権の主体として扱われたことは一度もなく、権利者の地位が認められたことは一度もなかった。しかし、これは明らかにおかしい。被災者は原発事故発生後も、どこにいようとも、一瞬たりとも、この国の主権者、人権の主体であることをやめたことはない。日本国憲法はこのことを当然の大前提として承認している。この裁判でもこの大原則を肝に銘ずる必要がある。
このように、子ども脱被ばく裁判を起こし、審理する中で、日本の社会は、このように今まで明らかにされてこなかった問題が明らかにされる社会に確実に一歩、変わったのです。


③.裁判を受ける権利は主権者である国民が人権侵害を受けたとき、侵害から救済されるための必須の人権です。裁判が起こせないなら、国民は主権者でないにひとしい。子ども脱被ばく裁判は被災者が人権侵害を受けたとき、裁判を起こすことによって、日本の社会は、国民主権を実現する社会に確実に一歩、変わったのです。

結論
とはいえ、子ども脱被ばく裁判が掲げた目標は、裁判を起こし、審理するだけでは実現されません。そのためには、真実の力と正義の力だけでは足りず、さらに市民の力つまり、この裁判の意義を共有する市民の巨大なネットワークが必要です。なぜなら、この裁判は、福島原発事故後の日本社会をどう建て直すのかという再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判だからです。だから、それはこの裁判が最高裁で幕引きされたあとも続きます。福島原発事故の救済はなにひとつ果たされておらず、深刻な陥没状態のまま、完全な未解決状態にあるからです。従って、この課題は、この裁判が明らかにした真実と正義の力を活用しながら、原発事故の完全救済をめざす市民の巨大なネットワークの形成と取り組む市民運動の中で実現される。
私にとってそれは、市民立法「チェルノブイリ法日本版」の運動です(詳細は>こちら)。

この前は>第78話  一番はじめは>第74話
番外編その1>第80話 
番外編その2>第81話

1 件のコメント:

  1. 全文、感慨深く拝読させていただきました。過去の歴史、私が知り得ないことも含め、改めて読み直しながら、その時の光景、自分自身の感情の浮き沈み、流れを確認していました。また、「さあ、これから、どうするか・・・」との自問自答の貴重な材料となりました。10年間、大変お世話になりました。今後ともよろしくお願い致します。 長谷川

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