2024年10月31日木曜日

【第15話】もともと「自然界は真っ暗闇である」、「放射能は魑魅魍魎とした世界」なのは当然(24.10.1)。

Xさん

昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。
また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。  

終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜しているから、だけではなく、養老孟司の脳化社会への容赦ない批判がみなさんたちにとって不気味で、気持ち悪いからなんだと思います。

さきほど添付したプレゼン資料のラストのほうの「認識の壁」にも書きましたが、
私自身、脳化社会と対立する自然界というのは実は私たちがほとんど認識できない不可知な実在であり、それゆえ、自然とは私たちの意識にとって不気味で、気持ち悪いものです。そして、私自身、そのことにもっと謙虚、鋭敏、自覚的にならなくてはと反省、痛感しました。
今月、彼の「年寄りは本気だ」という対談の中で、自然のことを真っ暗闇の世界だと表現しているのを読み、そうだ、その意味で、放射能とは最も自然らしい自然、人間からみたら魑魅魍魎としか思えない不気味な存在なんだということを受け入れる必要がある、そこから放射能の問題にどう向き合うかも(つまり、普通の人々がなんで放射能を忘れたがっているのか、その根本的な理由について)おのずと明らかになるのではないかと思いました。

この気づきは、かつて、カントが認識できない対象のことを「物自体」と呼んだことを、柄谷行人のカント論から知ったとき、ただし、物自体がどのようなイメージを持つものか、そのビジョンはついに分からずじまいのままずっと来ましたが、今回、養老孟司から初めて、この物自体のビジョンを教えてもらったような気がして、その意味でも、私は彼に傾倒しないではおれなかったのです。
Xさんが書いていた、

自然現象としての原発事故後と社会現象としての原発事故を分離して理解していたのですが

前者は「自然と人間」の関係のこと、後者は「人間と人間」の関係のことです。そして、この2つは、「自然と人間=人間と人間」という風につながっています。その繋がり方をどう捉えるかについて、その全貌を把握することは簡単ではないでしょうが、少なくとも、その一面として、
「自然と人間」の関係がベースになって、「人間と人間」の関係が形成される、
と言えると思います。法律の世界はそういう構造になっています、つまりまず事実があって、その事実に基づいて規範(法的評価)が加えられる、という段階構造です。刑法が事実認定の上に立って、法的判断(無罪かいかなる刑の有罪か)が加えられるもの、というのがその典型ですが。

 追伸
1つ言い忘れました。
養老孟司が、「自然界は真っ暗闇である」ことを、「年寄りは本気だ」という本で書いていると言いましたが、ネットでも以下の文にもそのことを述べていますので、備忘録を兼ねてお伝えしておきます。
    ↑
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

この間、「放射能は魑魅魍魎とした世界」だと書いてきましたが、ただし、それは放射能に限ったことではなく、そもそも「自然界は真っ暗闇」なんだから、放射能が真っ暗闇なのは或る意味で当然です。尤も、真っ暗闇の闇にも質の違いがあり、この点で放射能は群を抜いており、この意味で、私は脳化社会が行き着いたひとつの到達点が放射能を使う核の科学技術である、と理解しています。
     
とりいそぎ。

 

 

2024年10月7日月曜日

【第14話】マルクスその可能性のもう1つの中心、それが福島原発事故を解く手がかりを与えてくれる(24.10.8)

 かつて、柄谷行人は、マルクスに対して、

彼の可能性の中心は、それまで喧伝されてきたような「生産様式」にあるのではなく、資本論で追及されてきた「交換様式」の中にある、

と喝破し(「マルクスその可能性の中心」)、終始一貫その問題を追及し、これを2010年の「世界史の構造」の中で、これまでの世界史を「交換様式」から体系化してみせた。 それは賞賛に値する一方で、柄谷行人が明らかにしたいと考えた未来の「交換様式X」については、依然、霧に包まれ、謎めいていた。つまり、真っ暗闇が覆っていた。

他方、その翌年起きた福島原発事故に対して、上の成果がどう活かされるのか、少なくとも私には不明だった。しかし、その新たな問題も、次のマルクスの指摘によって解決の手がかりが与えられることを知った。それは、マルクスその可能性のもう1つの中心である。

これまで、「交換様式」はたいがい「人間と人間の関係」の中で考えられてきた。柄谷行人の「世界史の構造」もそうだ(以下の彼の図式を参照)

しかし、「交換様式」は「人間と人間の関係」に限られない、「自然と人間の関係」の中でも生じる。それを考え、指摘してきたのがマルクス。そのことを柄谷行人は「世界史の構造」の序説の「5 人間と自然の『交換』」の中で指摘した。しかし、それ以上、本論の中では殆ど取り上げないできた。それをより正面から取り上げたのが、その後に書かれた「『世界史の構造』を読む」の『震災後に読む「世界史の構造」』だった。彼もまた、福島原発事故を経験して、「自然と人間の関係」の中での「交換様式」が平時ばかりではなく、原発事故という異常事態時の中で考えなければならないことを実感した。

そこにもう1つのマルクスの可能性があるばかりか、そこにこそ、彼が明らかにしたいと願いながら、依然、霧に包まれ、真っ暗闇の謎の中にいた未来の「交換様式X」が明らかにされる鍵が秘められている。

それが大災害(カタストロフィー)時における「 自然と人間の関係」の中での「交換様式」の問題。そして、それが「人間と人間の関係」に及ぼす影響の問題も提起されている。そのことを日本史の激動期について養老孟司は考察している(平安末期、江戸末期、大正末期の大災害)。

その意味で、柄谷行人が「人間と人間の関係」の中での「交換様式」を世界史を4つに分類したが、今、この4分類ごとに大災害が「人間と人間の関係」にどのような影響を及ぼすのか、検討する価値がある。

2024年10月4日金曜日

【第13話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の感受性は完璧、最高だ(24.10.4)

 黒澤は、1954年のビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた映画を製作した。その映画について、黒澤明自身、こう書いている。

この映画は、水爆の脅威を描いている。しかし、それをセンセーショナルに描こうとは思っていない。
ある一人の老人を通して、この問題をすべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に描きたいのである。

水爆の脅威を「センセーショナル」ではなく、「すべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に」と願って描こうとしたとき、黒澤はどのような選択をしたか。

彼は、水爆の脅威に対する人間の反応を、脳化社会の中にすっぽり安住している人たちの「意識」に焦点を当てて描くのではなく、脳化社会から排除される自然、ここではヒトの中にある自然の部分、つまり「動物としての本能」に焦点を当てて描こうとした。
それがこの映画の題名「生きものの記録」だ。
この映画の題名ひとつ取っても、黒澤の哲学が明確に示されている。彼は、
脳化社会の成れの果ての産物である水爆、それによる放射能の脅威という巨大な自然的世界に立ち向かうためには、もはや脳化社会という人工世界の意識では不可能であり、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に立ち戻るしかないことを悟った。この黒澤明の感受性は完璧であり、養老孟司の「脳化社会」論を40年前に先取りしている。

黒澤がこの映画で願ったことは、
ーーこの主人公は、人間としては欠点だらけかも知れない。しかし、その一見奇矯な行動の中に、生きものの正直な叫びと聞いて貰いたいと思う。

それは70年後の今日、放射能のゴミ屋敷と化した日本社会に対して、人権屋敷の再建を考える私たちの行動とまっすぐつながっている。私たちの行動もまた、
脳化社会という人工世界の意識で取り組むのではなく、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に基づいて取り組んでいるからだ。
         「生きものの記録」映画パンフレット1955年8月。


【第12話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の理解は間違っている(24.10.4)

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
かつて、これを読んだ時、そうだろうなと思った。

しかし、いま、それは少し違うのではないかと思い直すようになった。では、どう違うのか。
人が放射能を見続けることが出来ないとしたら、その原因は単に、太陽がまぶしいといった物理的なことが原因と片付ける訳にはいかないと思うから。つまり、人々を放射能から遠ざける最大の原因は、我々が放射能を無条件に忌み嫌い、排除しようとするゴキブリのような存在だからではないか。
言い換えると、人が人工的に作り上げた脳化社会では、安全・安心が確保されるように管理されている一方、管理の及ばない脳化社会の外側にいる自然界の存在は忌み嫌われ、ゴミのように排除される。その典型として、ゴキブリは我々が住んでいる脳化社会の管理が及ばない自然界の存在として忌み嫌われて排除の対象にされている。そして、放射能、原爆や原発事故で社会に放出された放射能もまた、脳化社会の管理が及ばない自然界の存在である。そのように管理の手に余る放射能が脳化社会に安住する人々から、ゴキブリのように忌み嫌われ、排除されたとしてもあやしむに足りない。

他方、太陽は、別に、人々が無条件に忌み嫌い、排除しようとする存在ではない。夏場に、灼熱の猛暑をもたらす存在として敬遠されることはあったとしても。

人々が放射能に向き合うことを避け、これを排除しようとするのは、何よりも、核兵器・原発を生み出した我々の脳化社会が、脳化社会の管理の手が及ばない自然界の存在(放出された放射性物質)を遠ざけ、排除しようとするという「脳化社会」の基本原理・哲学に由来するものである。こう考えたほうがリアリティがある。

【第11話】参考(その2): 【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん


柳原です。
今の続きです(これで最後ですが)。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:49:32 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:   


小川さん

柳原です。
スミマセン、あと1つ、また思いついたので、備忘録として。
柄谷行人の「力と交換様式」の4番目の交換様式を、人権で置き換えた時、
今度は人権が新たなものとして見えてくるのが分かりました。
それが、力です。柄谷行人は交換様式が持っているのは力だと。資本制社会(商品交換)であれば貨幣の力。国家制社会であれば国家の力。氏族社会であれば、贈与の力。そして、4番目の交換様式Xであれば、高次元の贈与の力と柄谷行人は言ってたのですが、この「高次元」というのがずっと正体不明でした。
私は、この「高次元」を解くカギが人権にあるのではないかと気づいたのです。
そうすると、人権というのは力として捉えることができる。一見、そうとは見えないのですが、歴史上、贈与や貨幣が(或る種の霊的な)力を持ったように、人権もまた、霊的(観念的)な力を持つのです。それが18世紀からのアメリカ革命の始まる人権の歴史が証明しています。人権宣言をすることで、それがそれだけで人々を震撼させ、それに従う、受け入れるようにさせる力があるのです。
この人権の力に着目することで、ブックレットの意義を見直せるのではないかと思いました。つまり、人権宣言としてのブックレットの発行が、人々に人権の力を思い知らせる、と。

取り急ぎ備忘録でした。




【第10話】参考(その1): さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん

柳原です。
この間のメールを書く中で、今年2月に、ブックレットの編集作業の中で新しい気づきに出会った、その内容が、今のテーマと関係していることに気がつきました。
すっかり忘れていたのですが、改めて、重要な気づきだと思ったので、参考までに転送します。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:33:36 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:    

小川さん

柳原です。

今、プールで泳いでいて、ふと、また新しい気づきに出会いました。
それは、柄谷行人が2010年に出した、彼の本では世界で最も読まれている「世界史の構造」の中で全面的に展開した「社会の構造を、唯物論のような生産様式で捉えるのではなく、交換様式で捉える」問題について、彼が、そこで4つの交換様式を提起し、その最後の4番目として、私のみならず台湾のオードリ・タンも注目した「自由と平等を担保した未来社会の原理」としての交換様式Xについてです。
https://gentosha-go.com/articles/-/34442

これって、結局、「自立した個人の平等で自由なアソシエーション」により作られていく社会関係のことなんですね。
だとしたら、それはさっき書きました、協同組合の原理そのものなんです。
だったら、この交換様式Xは人権を言い換えたものにほかならない。
それが分かれば、これまで、世界史の中で、交換様式Xはどのようにして存在、発展、生成してきたかは、人権闘争の歴史を見れば分かる。
逆に言えば、世界史を人権の視点から再構成する時に見えてくるものが、協同組合の原理でもあり、交換様式Xのあらわれなんだと。

なぜ、こんなことにこだわるかというと、これまで柄谷さんは、2001年に、社会をこれまでの唯物論=生産様式ではなく、交換様式で捉え直すことが必要だという発見をし、その中で、未来社会を構成する交換様式として、交換様式Xを提起したのですが、
そのあと、じゃあ、お前が言う交換様式Xって一体何なのか?という問いを執拗に突き詰めたのですが、なかなかその具体的なビジョンを掴むことが出来ずいたのです。彼の最新作「力と交換様式」も、その苦闘の足跡ですが、やっぱり、上記の問いの答えが出ずじまいでした。
この本を読んだ時、もう柄谷行人に期待するのは難しいのかもしれない、自分で答えを見つけ出すしかないと思いました。
そして今、その答えの手がかりを、人権という中に見つけ出したと思ったからです。

そんなだいそれた発見ではありませんが、今まで、柄谷行人すら「人権」という切り口で世界史を再発見する意義に気がつかなかったことを思うと、人権が世界史の認識を大きく変える画期的な一歩になる可能性があると、密かに感じています。それを具体化する一歩が今回のブックレットです。

以下、「力と交換様式」について語った柄谷行人のインタビュー
https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689


【第9話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(7) 最後のつぶやき(24.10.4)

Xさん


柳原です。
これで最後です。
それは、自分の中の間違いについてです。
この夏に養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、彼の言い方がそうさせた面もあるのですが、てっきり、
人間対人間の関係は「脳化社会」の世界、
自然体人間の関係が自然の世界
という風に対応づけました。
その結果、「脳化社会」に対する強い嫌悪感に襲われた私は、人間対人間の関係すべてがうとましく、嫌悪しないではおれなくなりました。つまり人間嫌いが再発してしまいました。

今度は自分なりに理論的確信が伴うだけに、その人間嫌いは深刻な面があり、ちょっと社会生活が出来なくなりました。
といって、適当なところで、お茶を濁して折り合いをつけるのも嫌なので、正直、かなり参りました。
      ↓
その結果、今、考えていることは、
1、人間対人間の関係を「脳化社会」の世界と対応づけるのは誤っていること、
2、人間対人間の関係の中にも、「脳化社会」の世界が反映した場面と自然の世界が反映した場面の両方があるということ(尤も、後者は稀でしょうが)、
3、問題は、人間対人間の関係の中に、「脳化社会」の世界の病理を克服し、自然の世界の延長を実現できる世界をどうやったら広げられていけるか、(←この問題提起自体が、いまだ未熟、未完成)。極めて図式的な言い方ですが、従来の人間対人間の関係を自然の世界から再構成してみる(これまで真の芸術家たちが挑戦してきたこと)。

その7は以上。
本当はもっと詰めて考える必要があるのですが、ひとまず区切りをつけるため最後は駆け足になりました。

長々とおつきあい頂き、ありがとうございました。

【第8話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(6) まとめ(24.10.4)

 Xさん


柳原です。
昨日、グダグタとメールしたのは、ひとつにはあなたからの次の質問を検討するためです。

「自然と人間」、「人間と人間」の関係はピラミッドの階層のようなものでしょうか。すなわち、現代社会では「自然と人間」の関係がピラミッドの下部に土台として位置し、その上部に「人間と人間」の関係が位置しており、最上位が脳化の究極状態、核の科学技術などでしょうか。
この言い方は以下の経済決定論(史的唯物論)を思い出させる言い方ですが、
人間社会は土台である経済の仕組みにより、それ以外の社会的側面(法律的・政治的上部構造及び社会的諸意識形態)が基本的に規定されるものと考えた(土台は上部構造を規定する

他方、経済システム自体が「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係の両方を含んでいます。後者が基本的に資本が労働者を搾取する関係だとすると、前者は資本がいわば自然を搾取(=開発)する関係だからです。ただし、(情報は別として)何かを生産するとき、それは人間が自然界のものを加工変形するという意味で「自然と人間」の関係ですが、同時にその生産には基本的に資本が労働者を搾取する関係が伴うという意味で人間と人間」の関係が存在します。
これについて、この2つの関係をどう捉えたらよいのか、という問題があります。
この点について、あなたが書いたように、「自然と人間」の関係がピラミッドの土台であり、土台の上に「人間と人間」の関係が位置する、という見方もあります。さらに、そのように考える理由は何かという問題があり、ひとつには経済決定論の「土台は上部構造を規定する」のように、「自然と人間」の関係が「人間と人間」の関係を規定すると考えてよい、という見方があります。
          ↑
この問題はすでに、経済決定論(唯物論)に対する批判として、ウェーバーから始まって歴史的に繰り返されてきたことですが、その議論がここでまた反復されることになります。
          ↑
私が、この問題にこだわるのは、過去に柄谷行人の次の指摘によって、原発事故に対して、「人間と人間の関係」つまり権力者たちの犯罪を告発することの重要性を確信してきたのに、この夏に至って、養老孟司から、自然の見方について目からウロコの教えを受け、そこから再び「自然と人間」の関係の重要性つまり放射能の魑魅魍魎とした本性を自覚することの重要性を思い知らされたからです。

科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html
              ↑
この2つの経験を通じて、改めて、「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係をどう捉えたらよいのかについて再考を迫られ、そこで、この間、グダグダと考えていた次第です。
              ↓
以下は、現時点での自分なりの整理です(一応、まとまっていますが、何かが欠けているというのが正直な感想で、それが不満です)
1、「科学技術及びその失敗(災害)の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という柄谷行人の指摘はあたっている。
2、しかし、だからといって、科学技術及びその失敗(災害)の問題を、人間と人間の関係だけを強調する発想もまた、今度は自然と人間の関係の問題が抜けるという意味で、間違っている。
3、この2つの反省・批判を踏まえて、科学技術及びその失敗(災害)の問題は、自然と人間の関係も人間と人間の関係も、いずれにおいてもその中で発生する固有の問題に十分な吟味検討がなされる必要がある。
4、この3の態度は、実は、カントが真善美について述べた次の問題と共通するのではないか。

リスク評価を、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つという構造の中に置くべきである(2018.1.4)
          ↑
その冒頭に、カントの考えが示されているので、そこだけ再掲します。

(1)、我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

その6は以上。
別便であとちょっとだけ続きを書きます。
ご容赦下さい。

【第7話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(5)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の「正義」批判から
自分が日本版市民運動の新しいスタイルとして、政治・政策から人権にシフト
というやり方もまた、所詮、「脳化社会」の中の小さな嵐(差異)でしかない、
に帰結するのではないか、という私にとってはショッキングな話を書きました。
      ↑
この問題に深入りする前に、少し前に戻って、これまで、
「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係
について、私がどのように考えてきたか、ざっと振り返ります。

1、最初の出会い
それは2010年の柄谷行人「世界史の構造」で、このことを知ったときです(以下が、そのさわり)。
科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html

「科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という彼の指摘、もっともだと思いました。実際に、市民寄りの科学者などの議論はそういう傾向がありました。それに対し、柄谷行人が「人間と人間の関係」に正当な光を当てたのには全面的に賛成で、そこから私は、科学技術の失敗の問題も同様である、つまり原発事故は二度発生する、一度目は「人間と自然との関係」の中で、二度目は「人間と人間との関係」の中で、という認識を確信しました。

そして、2つの関係についても、柄谷行人が、
科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
と指摘していたのにも合点して、原発事故を、
一度目は惨劇として、
二度目は犯罪として発生する
と書き、後者の人間どもが行う犯罪の告発の必要性を強調してきました。
        ↑
この点は今も間違っていない、と考えていますが、
他方で、犯罪としての原発事故を強調するがあまり、惨劇としての原発事故の本質に目を向けることがおろそかになっていたのではないかと、この夏の養老孟司の「脳化社会」論で、自然の本性=真っ暗闇の世界に対する再認識をさせられる中で、そのことに気がつきました。
つまり、私自身、
放射能の持つ、ほかの自然に比べても群を抜いて、奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界であることに、もっとリアルな認識を持つべきだ、そこが抜けると、いくら「犯罪としての原発事故」を強調しても、その強調の理由が納得してもらえない、つまりこの2つは
「原発事故の一度目の人間対自然の関係が過酷を極めるとき、それに対応して二度目の人間対人間の関係も過酷を極める」
という関係にあり、出発点は人間対自然の関係だからです。
        ↑
さらに、この2つの関係の認識つまり「出発点は人間対自然の関係だ」は環境問題への接近の仕方としてものすごく重要なものでして、この点、柄谷行人の「環境問題を論じる人たちは、人間対人間の関係の問題が抜けていて、そのため、環境問題の本質的な解決が出来ない」と批判はそれ自体、正しい。
にもかかわらず、そこから「環境問題の本質的な解決」をするために何をすべきか、という課題があるはずだから、その課題に立ち向かうべきなのに、彼はポジティブな吟味検討をしないまま通り過ぎてしまった。その意味で、彼もまた「環境問題の本質的な解決が出来ない」という点で同列です。マルクスに対しやったような情熱的、ポジティブな批判を環境問題に対してやらなかったのが彼の限界です。そして、そのためには、出発点である人間対自然の関係から取り組む必要があります。それが奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界である「放射能」の世界に対する接近です。
それなくして、いくら二度目の犯罪としての原発事故を強調しても、どこか空虚、足が地に着いていない、いわば「脳化社会」のコトバだけの議論になってしまう。
尤も、この点は何よりもまず、自分自身に向けられた猛省です。
         ↑
ただし、この点で自己弁解を許してもらうと、「放射能に対する科学的認識」と称する議論に対して、前からずっと違和感を抱いていたのですが、この夏の養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、「科学的認識」と称するものって、要するに、世界を人間が了解可能な形で再構成しただけの「脳化社会」の世界にすぎないんでしょう。放射能も同様。数値と統計的解析で放射能の正体がつかめると思っている。その実態は内部被ばくを測定する単位すらいまだ見つけられないざまなのに。
つまり、人類がこれまで取り組んできた「脳化社会」の道具立てを使って、放射能に立ち向かったとき、そこで足をすくわれ、立ち往生することが続出しているのはなにも原発を管理運営する電力会社だけではなく、放射能科学を研究している研究者たちも同様ではないかということです。そのような立ち往生している研究者たちが書いた教科書を読み、放射能に対する科学的認識を身に付けようとしても、コケルのが当然ではないか。科学者たちは自分たちの「脳化社会」の道具立てが放射能には通用せず、放射能からいわば逆襲を受けているのだから。
        ↑
こうした認識が私の中にあるので、放射能の被ばくによる健康影響の問題も、現時点の科学技術のレベルが解明にはほど遠いのが現状であるとしても、その解明はおそらく永遠にないんじゃないか、と。もしあるんだったら、原爆投下から80年近く経過しているんだからいろんな進展があってしかるべきなのに、その解明の進展が殆ど見られないから。この科学的停滞ぶりはちょっと異常すぎ、おかしすぎる。

その5は以上。
別便で続きを。

【第6話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(4)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、
という認識に衝撃を受けた、と書きましたが、その意味はまだありまして、それが「正義」批判です。
「脳化社会」の病理に批判的で、自然のあり方に忠実な養老孟司の目には、
正義は、動物や植物など人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。
この意味で、正義もまた「脳化社会」の産物である、というのが養老孟司の結論であり、
従って、正義なんてものはあてにならない、適当なもの、いい加減なものだということになります。
それに従えば、人権もまた人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。だから、人権もあてにならない、と。
       ↑
それでは、ブックレットに書き込んだ、
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。
これだって、あてにならない、いい加減なものではないか、ということになります。
         ↑
それまで、私は政治・政策の観点を批判し、そこから人権にシフトすることで市民運動の壁を乗り越えることが可能になると思っていたのですが、この夏の養老孟司との出会いで、市民運動を「政治・政策」の観点で取り組もうが、「人権」の観点で取り組もうが、どちらも「脳化社会」の中のコップの中の嵐でしかない、ちっちゃな差異にすぎない、ということになった。
この帰結もまた、ショックといえばショックでした。
その結果、「市民運動の再生」という課題も一から再検討しなければとなり、で、一体、「脳化社会」から抜け出して、「自然」に回帰するような視点で市民運動を取り組むやり方がどこに見つかるのだろうか?と、途方に暮れてしまいました(現在進行形)。
       ↑
この点、柄谷行人のコトバを使えば、
これまで人類の普遍的な観念とされてきた「人権」を、もう一度、「自然」の世界の中に置いて、高次元で回復したもの、
と分かったような分からない言い方になるかと思います。
       ↑
しかし、今思いついたのですが、ここは次のように考えられるのではないか。
「人権」が勝手気ままな我執にならないためには、「自然」を基礎に置いて、「自然」から素直に導かれるものであること、
その筆頭が「生命」「身体」「健康」に関する権利ではないか。
なぜなら、
自然界において、全ての生き物は自分の命、身体、健康がいわれのない事情で傷つけられ、損なわれるのは生命保存の本能からして受け入れ難いこと。
この自然界の存在として全ての生き物に共通のあり方、これを基づいて人間界の存在のあり方についても、「生命」「身体」「健康」に対して、これを謂われなく損なわれることは許されないということを人権として承認することは、「自然」から素直に導かれるものではないか。
        ↑
ここの議論は、あなたがメールで取り上げた「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係という問題に繋がってきますね。

その4は以上。
続いて、別便でその5を。


【第5話】補足:「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
これは、養老孟司が自然とは真っ暗闇のことだと喝破したことに触発されて、
過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。
のカント、ゲーテに続いての、補足です。

柄谷行人の最初のデビュー作が「意識と自然」、夏目漱石論です。
この表題からして養老孟司的です。「意識(が作り出した脳化社会)と自然」と読み替えられるからです。

数年前に、これについて、柄谷行人はこう言ってます。

--「意識と自然」での柄谷さんは、漱石の『行人』にある「頭の恐ろしさ」と「心臓の恐ろしさ」という言い回しに注目しています。

/柄谷/ 僕が言っているのは、「頭の恐ろしさ」というのは頭で考えるような倫理的な問題で、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる存在論的な問題だということですね。言い換えれば、漱石の小説は、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の二重構造になっている。そして、倫理的な問題を存在論的に、存在論的な問題を倫理的に解こうとして混乱しているのです。〈私〉というものは、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の両方を含んでいて、その二つは完全に一致することはない。そのズレにこそ、人間の存在の不思議を解く鍵があるし、漱石はそこに注目したと僕は思った。

     ↑

ここでいう「頭の恐ろしさ」というのは人間対人間の関係(=脳化社会)の問題、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる自然対人間の関係(=自然)の問題です。自然対人間の関係の問題は身体に関わる問題だから、身体の声に耳を傾けなければ解けないことなのに、人はそれを間違って、人間対人間の問題として解こうとする。その間違いは個々人の間違いではなくて、この「脳化社会」そのものが抱えている間違いなんだ、と。
https://book.asahi.com/jinbun/article/15010455
     ↑

この意味で、初期柄谷行人は、養老孟司ととても近い位置にいたんだと思い直しました。
しかし、その後、彼は、この問題から離れていき、「脳化社会」そのものの中で自爆するような徹底して論理的、数学的な突き詰めをやりました。その結果、頭がおかしくなって、そこから転回するのです。でも、その転回の時点で、彼の中では「意識と自然」という問題意識は殆どなく、自然が抜け落ちていったように思えました。
     ↑
しかし、にもかかわらず、ふとした拍子に、彼から「自然」についての洞察が示されるのです。その1つがマルクスです。2010年の「世界史の構造」の中で、マルクスが「若い時期から一貫して、人間を根本的に自然との関係の中において見る視点を持っていた」(27頁)と指摘し、そこからのちのマルクス主義者では抜け落ちた、マルクスに特有の世界認識が導かれたことを示します。

このあたりのちゃらんぽらんが、柄谷行人の可能性のひとつです。

まとまりがありませんが、補足でした。 




2024年10月3日木曜日

【第4話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。

実は、この夏、養老孟司の「脳化社会」論を読んだ時に衝撃を受けたのは「脳化社会」よりも、これと対立する「自然」そのものの見方でした。
それは、よく言われる「自然と文明」「自然と人工」といったようなありふれた対立のことではなくて、
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、という養老孟司の認識でした。
       ↑
そうだ、自然とは目的もなければ、意味も無意味もない、「真っ暗闇」の世界のことなんだ、この事実に対する感受性が、いつのまにすっかり忘れ去られていたことに、そして、そのことの意味の重大性(自然が不可知なものに満ちているという)に、今さらながら、衝撃を受けたのです。

この感受性がいかに鈍磨していたかを示す一例として養老孟司があげていたのが、
この入れ物に水が入っているとして、科学はこれを水素原子と酸素原子の結合で出来ていると説明する。しかし、本当にそうなのか。この水がすべて均一の「水素原子と酸素原子の結合」だという証明はどこでどうやってやったのか。水素原子や酸素原子がどれでも均一だというのは、あくまでもこれまでの科学的知識のもとでそう考えられるとしただけで、まったく同質だということはどこにも検証していない。また、2つの原子の結合方法もどれも同じだというのも、その検証はなされておらず、とりあえずそう考えて不都合がなかろうと人間が仮定しているにすぎない。

これが放射能になると、もっとその「真っ暗闇」の性格が露骨、如実に現れます。それについては先日の浦和の集会のプレゼン資料125頁以下の「認識の壁」に書きました。
放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界だとしたら、被ばく線量や統計データをいじくるだけで、安全、安心なんかの結論を引き出すなんてとってもできたもんじゃない、と直感的に分かるはずですが、しかし、原子力ムラのみならず、マスコミ、多くの人たちは、被ばく線量や統計データを頼りに安全性を評価していいんだと考えています。それを支える最大の論拠は何か。「脳化社会」の論理です。世界は人間が合理的に考えて作り出した世界でもって構成されていて、それに従っていれば、まず安全、安心なんだと。魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界なんて無視して構わない、と。そういう「脳化社会」の論理にすっかりマインドコントロール(洗脳)されています。それと闘う必要があるのですが、そのためには、単に「原子力ムラ」の陰謀とだけ闘っても不十分です。私たちを、自然に対する全うな認識から遠ざけている「脳化社会」の論理そのものと対決する必要がある。この夏に、そう実感しました。
        ↑
同時にそれは、これまで、被ばく線量や統計データといった科学的知見を頼りに放射能の危険性を考えていって基本的にいいんだ、問題はこれを正しく考えるか否かの点にあると。それしか考えてなくて、それ以上、上に述べた放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界であることへの感受性も認識もなくしていました。

と同時に、ここ20年くらい読んできたカントのコトバの中で、ピンと来なかった「物自体」という言葉に、これがカントの言わんとしたことではないかと初めて合点がいく気がしました。
また、ゲーテがずっと西洋の近代科学に異論を唱えて、彼の人生の半分を費やして、彼なりの自然科学を探求してきた、その不思議さが初めて分かったような気がしました。
・・・そういう意味での過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。

そのことを思い起こしてくれた養老孟司にはまずは感謝のコトバもありません(その後、いろいろと注文が出ましたが)。
      
その3は以上。
続いて、別便でその4を。


 

【第3話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(2)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今のメールの続きです。
この夏、養老孟司の「脳化社会」論を読み、正直、頭をかなづちでぶん殴られたような衝撃を受けました。
その衝撃をなかなか正確には言い表せないのですが、一言で言ってみると、それは、
お前は、これまで資本主義社会(養老孟司のいう「脳化社会」)をその外側に立って批判、変革しようと思っていたかもしれないが、お前のスタンスはまさしく「脳化社会」そのものではないか。「脳化社会」べったりの人間が一体どうやって「脳化社会」を認識、変革できるのか、と。
例えば、このブックレットで強調している、
市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。
       ↑
この私にとっては画期的だと思えた新たな視点にしても、所詮、「脳化社会」というコップの中で論争しているだけ(コップの中の嵐でしかない)のことではないのか。
というようなことでした。

> お前のスタンスはまさしく「脳化社会」そのものではないか
          ↑
それが数学です。私は小学生の時からずっと、数学を自分自身の最大の道具として後生大事にしてきたのに対し、養老孟司から
「数学こそ人を強制的に合意させる『強制了解』だ」
と一刀両断に言われた時、
「まさしくその通り。だから、貧乏人だった私が他人に自分を認めさせる武器として数学を最大の武器として考えてきた」んだと合点しましたが、しかし、養老孟司の言わんとすることはその先にあって、それが
「だから、数学とは、自然という現実に対して、それを無視しても成り立つ人間の脳の中で組み立てられた、脳化社会の典型だ」
でした。
  ↑
この指摘には一言の反論の余地もありませんでした。数学というのは、物理・化学などの実証科学とちがい、現実との間で対応が取れているかといった実証は不要で、要は論理の整合性さえ取れていればそれで証明が完成する世界です。そして、その「論理の整合性」というのは、結局のところ、人間の脳の中で組み立てられた構造物の話です。まさに「脳化社会」の産物です。
      ↑
養老孟司が指摘する「脳化社会」の行き着く先に現れた深刻な病理現象、その病理現象を生んだ出発点に、お前が愛してやまなかった数学(もしくは数学的精神)が存在するという指摘に、正直、頭から冷水をぶっ掛けられたような衝撃を受けました。
そして、これまで無邪気に数学を自分の最大の武器だと考えてきた自分の脳化ぶりを、ここで総見直しをして、「脳化社会」の外に立つという変革をしない限り、自分は「脳化社会」というコップの中でもがいているだけで、永遠にダメなんじゃないかと思ったのです。
      ↓
とはいえ、「脳化社会」の外に立つというのは「言うは易き、行い難し」です。現に、じゃあ、養老孟司はどうやって「脳化社会」の外に立っているのか、というと、彼によると、「塀の上に立つ」つまり、「脳化社会」と(脳化社会に影響されない)自然の世界との境界にある塀の上に立つ」ということを言うくらいで、それ以上、積極的なことは何一つ言っていないように思いました。
というのは、彼を紹介する文中に、必ずといっていいほど「東大名誉教授」という肩書がつきます。「脳化社会」の最たるものをぶらさげて登場している訳で、その不徹底さぶりから、既に「塀の中(脳化社会)に落っこちてる」じゃないかと思います。
また、彼自身、「脳化社会」の行き着く先について、あれこれ論じていますが、原発事故が人々にもたらした甚大な影響については、抽象論以上のことは言いません。「脳化社会」の正体が最も割れる貴重な大事件なのに、そこに切り込んでいかない。
その腰が引けている態度、消極的な態度から、彼の総論としての「脳化社会」は注目に値するけれど、具体論、各論としての「脳化社会」は、少なくとも原発事故については失格と思うようになりました。
      ↓
そこから、
だったら、自分で、彼の総論を使って、311後の日本社会の「脳化社会」を診断するだけだ、と思うようになりました。
そこから、再び、311まで私にとって最も重要な問題意識だった「交換様式」論に立ち返って、柄谷行人の交換様式論と養老孟司の脳化社会論をつなげて、そこから311後の日本社会がどう見えてくるのか、吟味してみようと考えるようになりました。
それが9月中旬からの2週間ほどの変化です。

その2は以上。
続いて、別便でその3を。

 

 

【第2話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(1)(24.10.4)

 以下は、若者Xに宛てて書いた次の命題に関するコメント。全部で10通(第11話まで)。

原発事故は二度発生する、一度目は「自然と人間」の関係の中で、二度目は「人間と人間」の関係の中で。

  ******************

X さん

柳原です。
頂いた以下のメールで論じていた、「自然と人間」「人間と人間」の関係については、311以来、ずっと私の懸案事項の1つでした。
少し整理したいこともあり、あれこれ書きます(長文失礼)。

311まで、私の中で大きな問題だったことは、柄谷行人が「世界史の構造」の中で、はっきり、
社会の捉え方を「生産様式」から「交換様式」に転換する、
という重大な問題提起でした(これが彼がのちに哲学のノーベル賞と言われるバーグルエン賞の受賞理由です)。それは150年続いた「経済の生産関係が社会変化の原動力である」とする経済決定論(史的唯物論)を根底から覆す画期的な視点だったからです(とはいえ、彼に先行する人たちが、そのことを指摘してきましたが、ここまで全面的に指摘したのは彼が初めてだった)。
そこで提起した交換関係の中身については、以下で彼自身が分かりやすく概説しています。
交換様式論入門」 
      ↑
しかし、この画期的な指摘は私の中ですぐさま壁にぶつかりました。それが311原発事故です。
福島原発事故に対して、彼の交換様式論はどういう意味を持つのか、
それが全く分からなかった、見えなかったからです。しかも、当時はそんな理論的問題を考えている時間的余裕もなく、東日本壊滅といった危機的状況の中をどうやって生き延びるのか、そのような差し迫った破局の問題に頭がいっぱいだったからです。
しかし、それから13年経過し、差し迫った破局は何とか免れたと思える状況になったとき、改めて、福島原発事故がもたらした大きな傷=日本社会のゴミ屋敷に対して、柄谷行人の交換様式論はいかなる意味を持つのか、それとも殆ど意味を持たないものか、
それについて、考えておく必要があると思うようになったのです。
その直接のキッカケはこの夏に、養老孟司の「脳化社会」論を読んだからです。 

 補足
柄谷行人の「世界史の構造」で、
社会の捉え方を「生産様式」から「交換様式」に転換する、
という指摘が出版当時、私にどのようなインパクトを与えたか、それを端的に述べたのが以下です。
今読み返してみて、確かにそうだった、と思い出しました。しかし、その納得は2ヵ月後の311で吹き飛んでしまいました、そんなことをしている場合ではないと。

私の研究:予防原則と動的平衡から世界史を眺める(2011.1.6)


少し長くなったので、その1は以上で。
続いて、別便でその2を。

【第1話】はじめにーー養老孟司の「脳化社会」論というメガネで311後の日本社会を再構成するーー(24.10.4)

今年の夏、養老孟司の「脳化社会」論を知り、目からウロコだった。
たとえば、
これまで、1987年6月に独裁制を退場させ民主化を成し遂げた韓国社会は私にとって、民主化の輝かしい成功例のひとつとして理想のモデルとなった。
その一方で、韓国社会は、その後、民主主義社会の中で世界一の自殺率をほこる国となった()。つまり世界一生きにくい国となった。
いったいどうなってるだ、韓国は?
理想と絶望の同居という不可解な謎が私の前に現れた。
そして、この謎は「脳化社会」論というメガネで初めて解けるような気がした。

自殺にせよ何にせよ、紛争はそこにかかわる関係者全員の正体を否応なしに明るみにするリトマス試験紙である。
韓国社会の自殺問題から、「脳化社会」論というメガネで韓国社会の正体を解いたように、私は福島原発事故から、「脳化社会」論というメガネで原発事故後の日本社会の正体を解いてみる積りだ。
しかし、これは試行錯誤、自問自答、沈思黙考のパンセ()。
この作業がいわば植物が芽吹き、茎や葉が茂り、花が咲き、身がなるごとく、止まることなく「生成し続ける」作業として成就することを願う。

そして、ここから得られた認識が次の新たな行動として活かされること、それが最終目標。この作業は、ちょうど映画製作での脚本つくりにあたる。

では、出発するぞ。 

 

※1)韓国における自殺(ウィキペディア
韓国の自殺率はアジア通貨危機(1997年)直後の1998年から急増し、2003年以降は2017年以外は一貫してOECDで最高の自殺率の国となっている。

韓国における自殺は、OECD30カ諸国の中で最も高い割合であり、OECDによれば2002年以降、人口10万あたりの自殺者数で日本を超え、2003年から2021年まで、2017年にリトアニアに抜かれた以外は一貫してOECD加盟国中で最悪の自殺率であった。

 

)パスカルの「パンセ」中の覚書   

一六五四年 十一月二三日 月曜日、
・・・夜十時半頃から十二時頃まで。
   火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。  
確実、確実、感情、歓喜、平和、  
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」
「あなたの神は、わたしの神です。」  
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、
見いだすことができない。  


【第16話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

NHKニュース(24.11.13)                 昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。 閻連科 中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。 「 今の中国ではど...