1、法律家にとっての311
法律家として311福島原発事故で何に一番驚いたか。それは文科省が学校の安全基準を福島県の子どもたちだけ年20ミリシーベルトに引き上げたことだ。それは前代未聞の出来事だった。なぜなら、このとき見えない法的クーデタが敢行されたからだ。それについて解説しよう。
2、法治国家から放置国家への転落
311まで決められていた年1ミリシーベルトの防護基準は原発が通常運転している時の基準で、それまで安全神話の惰眠をむさぼっていたわが国は原発が事故を起こした時の安全基準を法律で何も定めていなかった。この法の穴を法律用語で「法の欠缺」と言う。
社会生活が変化すれば法律も当然、その変化に対応できない穴が生まれる。コンピュータやインターネットが出現し新しい事態が発生したとき、それまでの法律がこれらの事態を解決する基準を用意してないことは当然だ。法律の使命は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」で、新しい事態に対して関係当事者の人権、利益が適正に守られるように新たな法秩序を産み出して名実ともに 正義・公平に適った法律にバージョンアップすることだ。
そして、原発の世界は1986年に史上最悪の原発事故であるチェルノブイリ事故を経験し、原発を保有する国々はこの事態に対応するよう備えをする覚悟を迫られた。しかし、このとき日本政府は「わが国の原発はソ連の原発と技術も構造もちがう、チェルノブイリのような事故は絶対起きない」と豪語し、その備えをしない途を選択した。そして 311を迎えた。それはチェルノブイリ事故の経験から学ばず、己の科学技術水準に自惚れた日本政府と原発管理者の奢りに脳天から鉄槌を下した決定的な出来事だった。このときもし、日本政府と原発管理者が己の奢りを猛省し、自然界の猛威を謙虚に受け止める姿勢を示したなら、半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対して、抜本的な対策を取った「公害国会」のようなアクションを取っただろう。つまり原発事故の救済に対して、日本の法律が全面的な「法の欠缺」状態にあることを素直に承認し、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を埋める新たな法律が作られたはずだ。これが「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の通り、たえずバージョンアップする法律の本来の姿だ。
しかし、311で法律のこの使命は正常に作動せず、「美しい言葉」で語られた子ども被災者支援法の掛け声以外に、現実には、放射能による健康被害を受ける関係者の命、健康、暮らしが適正に守られるようにこの穴を具体的に埋める、チェルノブイリ法に匹敵するような新たな法律は何一つ作られなかった。つまり、311で日本の法律の使命は異常事態に陥って、原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態が発生し、なおかつその誠実な「欠缺の補充」も見事にひとつも実行されなかった。その前代未聞の異常事態ぶりを端的に示した出来事が次の3つだ。
3、文科省20ミリシーベルト通知
一番目が文科省の20ミリシーベルト通知。このとき、日本の法律は原発事故の時の安全基準を何も定めていなかったという「法の欠缺」状態にあった。そのとき、原発事故の時の安全基準について行政庁がなんらかの措置に出る場合には、この「法の欠缺の穴埋め(専門用語で補充)」をする必要があり、その補充した法律規範に従って行政行為をすることが求められた。この「欠缺の補充」にあたっては、まず第1に、我が国において、憲法と条約(国際人権法)は法律の上位規範であり、従って、法律は上位規範である憲法と条約(国際人権法)に適合するように「欠缺の補充」をされる必要がある。ところが、この時、文科省が参照したのは国外の一民間団体でしかないICRPが表明したお見舞い勧告だった。文科省がこの重大な通知を出すにあたって参照したのは、国内の法律でも憲法でも条約(国際人権法)でもなくて、ICRPという私的団体の私文書。国内の法規範に従わず、ただの私文書に従って、これに適合するように、福島県の子どもたちの運命を左右するような通知を出した。これを法秩序の崩壊=見えないメルトダウンと呼ばすして何と呼んだらよいのだろうか。これに比べれば、いま対岸で吹き荒れている、当初あくまでも諮問委員会でしかなく、公式の政府機関ではなかった政府効率化省のトップに就任したマスク氏が、法律に基づかずにトランプ大統領の支持を根拠に、米国際開発局(USAID)の職員に休職措置の通知を出すなど米連邦政府職員の大量解雇を開始した振る舞いが、まだずっとマシに思えるほどだ。
4、学校環境衛生基準
二番目が、法の欠缺を補充する義務を日本政府がボイコットした学校環境衛生基準。半世紀前、深刻な公害ニッポンの危機に対処するため、この時世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの。ところで、311後に環境基本法を改正し、それまで適用を除外していた放射性物質を同法の規制対象に組み込んだ。その結果、放射性物質も他の有害物質と同様、生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生が環境衛生基準となった。これを日本政府は学校環境衛生基準として書き込む義務を負うに至った。ところが、これをストレートに表わすと、年0.00286ミリシーベルト、つまり年20ミリシーベルトの7千分の1の値。半世紀前に導入し確立された学校の環境衛生基準の根拠に従ったこの数値を、しかし、日本政府は放射性物質の学校環境衛生基準として制定しようとしない。つまり環境基本法の改正によって自分に課せられた義務、その履行を日本政府は白昼堂々とサボっている。これではもはや法が支配する法治国家ではなくて、無法が支配する放置国家だ。
5、災害救助法
三番目が、原発事故で避難した被災者(これが国際人権法上の「国内避難民」であることは日本政府も認める)の救済に適用された災害救助法。災害救助法は実は、311まで原発事故を想定していなかったため、当然その救助も想定しておらず、その結果、原発事故の救済について、全面的な「法の欠缺」状態にあった。しかし、他の法律と同様、災害救助法もまた311後に率直な自己反省の中から、「国内避難民」の人権保障を実現するための誠実な「欠缺の補充」を行う法改正をひとつも実行しなかった。福島原発事故の救済について全面的な「法の欠缺」状態のまま、福島県トップの内堀知事は無償提供の打切りという決定を下し、「国内避難民」である区域外避難者を避難先としてあてがわれた仮設住宅から追い出した。これに比べれば、政府効率化省トップのマスク氏の振る舞いがまだマシに思えるのは私だけだろうか。
6、法律があぶないとき、どこに向かうべきか
以上の通り、いま、法律は、未だかつてないほどあぶない。だが、その解決は法律の解決だけでは済まない。その時、法律を支えている(というより、正確には法律が奉仕している)私たちの社会生活そのものが未だかつてなくあぶないからだ。だから、法律の危機とは社会生活に対する差し迫った危機のイエローカードのこと。いま、法律の使命が異常までに機能不全に陥っているのは、法律の根底にある私たちの社会生活が原発事故で破綻しただけでなく、実はいま、至る所で破綻をきたしているからだ。昨年11月、文科省から発表された「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」は不登校・いじめを引き起こす現代社会の構造にメスを入れない限り、いくら法律の改正に励んでも何も変わらないことを示している。昨年来、日本中を騒がせている水道水のピーファス問題も、ピーファスという4700種類以上の有害化学物質を産み出した現代の先端化学技術のあり方にメスを入れない限り、いくら法律の整備をしたところで絵に描いた餅で終わることを示している。それと同様、原発事故の救済問題も、例えば「国内避難民」である区域外避難者の住宅問題の解決ひとつとっても、災害救助法や福島県知事決定の根底にある、従来の自然災害とは根本的に異質な放射能災害の特質・桁違いの長期戦を余儀なくされる構造的な課題に正面から目を向けてメスを入れない限り、たとえどんな立派な法律論でいくら災害救助法の改正に励んでも「カエルの面にションベン」である。
半世紀前、公害問題で苦しんだ日本社会は、無数の無名の市民と宇井純、原田正純、田尻宗昭、戒能通孝、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に、先端科学技術の枠組みの中で問題の解決を勝ち取った。しかし今、日本社会は放射能災害、ピーファス問題などこれら先人の努力の賜物が無に帰すような新たな問題の試練にさらされている。今度の試練はもはや先端科学技術の枠組みの中では問題の解決が出来ない様相を帯びているからだ。いま、私たちは先端科学技術の枠組みの外に出て、それと一線を画す新たな視点で問題解決の探求が求められている。私はその手がかりを養老孟司の脱「脳化社会」論とチェルノブイリ法の日本版に見出している。
しかし、紙面が尽きたので、この手がかりについてはまた別の機会に書こうと思う。
(2025.2.16)